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まえがき

永田町徒然草の更新を1年半ぶりに始めるにあたり、最初のうちは、あまり肩に力を入れないものを書こうと思っていた。休眠していた1年半の間に、私の政治的な感もだいぶ鈍っているだろうし、また、政治的な発言をする力もかなり衰えてしまっていると思ったからである。それは事実だと思う。最近の永田町徒然草を読んだ方は、きっとそう感じたはずである。その最大の原因は、いま私が身をおく環境であろう。与野党が激しく激突する国会の中に身をおくときと、そこから離れているときに感じる切迫感と情報量は、残念ながらぜんぜん違う。これは、やむを得まい。

一方、そこから一歩距離をおき、報道等で政治をみる視点は、多くの国民が政治をみる目線であり、その立場からの発言は、それなりに意味のあるものだと考える。だから、やはり永田町徒然草には政治的なものが多くなることは致し方ないし、アクセスする読者の多くも、そのようなものを期待していると思う。最近のわが国の政治の動きは、実に多くの問題を含み過ぎている。昔なら国会が止まり、大臣の進退が問われるような重大な問題も、ちょっとした事件・問題として私たちの前で簡単に処理されていく。

従って、永田町徒然草のテーマは事欠かない。できるだけ、それらの問題にup to dateに言及したいと思っている私としては、こうしたこととは別に書きたいと思っていることに触れる暇(いとま)がない。そこで、永田町徒然草にぜひ書きたいと思っていたこの数ヶ月の健康生活の実践記を、別の読み物として書き綴っていくことにした。私がこれから書くことは、一義的には減量と減塩に関することになるが、これを実行する中で、私は、これまでやったことがないことをしてみた。大げさな表現だが、way of lifeのコペルニクス的転換をした。それを通じて、物をみる観点や考え方が大きく変わった。生活が変われば、物の見方や政治に対する感じ方も変わるのは当然のことである。こうしたことは、ダイエットや減塩の必要はなく、また興味のない方にも、なにがしかの参考になると思う。前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。

2006年11月17日掲載

しつっこい虫

今年(2006年)7月のお盆であった。お盆の休みだということで、いつも麻雀をやっている仲間とその日はお昼をちょっと過ぎたころから卓を囲み始めた。気のおけないメンバーだったので、ワイワイガヤガヤといろんな話をしながら楽しく遊んでいた。外は雨の降るジメジメした日であった。今夏は本当に雨が多かった。こういう日は、麻雀にかぎる。

夕方を過ぎ、もう夜といってもいいころになった。小さな虫がしきりの私の顔のあたりを飛ぶのである。ふだんはそんなことのない、こぎれいな雀荘なのである。私は何度もなんどもその虫を手で払った。私は昔から虫が苦手なのである。受験勉強をしていたころ、真夏であっても窓を閉めきって勉強をしていた。もちろんクーラーなどない部屋である。確かに暑いことは暑いが、窓を開けていると、田舎であったので虫がいっぱい入ってくる。その虫が嫌だったからである。私は小さいころ蚊に刺されるとそこが化膿して脚にグジュグジュしたおでき状のものがいっぱいできた。私の地方では、これを「クサ」と呼んでいた。その痕はいまでもある。最近では滅多に見ないようだ。私の体質と栄養不足が原因なのだろう。そんなことから、蚊だけではなく夏の夜飛んでいる虫が嫌いになったのだろう。

それにしても私の顔のあたりを飛んでいる虫はしつこかった。東京のど真ん中の部屋だったしても、夏なのであるから虫が一匹くらい迷いこんできたとしても少しもおかしくはない。しかし、虫が苦手な私は気になって仕方がない。何度もなんども手で払うのだがいっこうにいなくならない。気になるものだから、雀荘のメンバーをよんで退治してもらおうとさえ思った。でも私を刺したわけもないので、それはしなかった。私は虫を追い払うべく右の顔の辺りを全部で10回以上は手で払った。本当にしつこい虫だった。

何度もなんどもこんなことをしているうちに、ちょっと変だとも思った。その虫は、私が目を動かすと現れるのだ。いや私の目の動きとともに左右に動くのだ。こうなるともう麻雀どころではない。この虫のことが気になって仕方がない。滅多に自分から麻雀をやめるなどとはいわない私だが、他のメンバーに代わってもらうことにした。私は洗面所に行って、水で目を洗った。ゴミが入ったと思ったからである。しかし、事態はいっこうに変わらなかった。近くに夜でもやっている薬局があったので、目薬を買って何度もなんども注してみた。それでも事態は変わらない。これは少しおかしいとは思ったが、不安感をもつほどではなかった。このところちょっと無茶をしていたので、一晩じっくり眠れば治るだろうと思い、その夜はそのまま家に帰ってバタンキューと寝た。

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私の麻雀スタイル

このように事態をあまり深刻に考えなかったのは、その無茶というのが結構な無茶だったからである。私はその日の前日も前々日も別のメンバーと麻雀をしていたのだ。このメンバーとは、前々日の夕方から始めて前日の夜までやっていた。そして、遅くなり次の日また出てくるのが億劫だったので、近くの漫画喫茶にいき、そこで仮眠をし昼前に起きてその日のメンバーの待つ雀荘に出陣したのである。だから、仮眠を除けば3日間続けて麻雀をしていたことになる。普通の人にいわせれば、これはかなりの無茶ということになろう。

でもこんなことは、私にとってはそんなに無茶なことではなかった。私にとって2、3日の徹夜は、こと麻雀においてはそんなに珍しいことではない。あくまでも麻雀においてはである。これが勉強や仕事であればたいしたものなのだが…。これには理由がある。私が麻雀をおぼえたのは、実はおそく大学3年生のときだった。普通は、大学に入ってすぐ始める人が多い。私は大学に入学して直ぐに学生運動に首を突っ込んだ関係で、2年生まで暮らした駒場寮では麻雀をしている暇はなかった。教養学部を終了して本郷にきた時、ちょっと暇になったので、そのときにおぼえたのだ。

貧乏学生の私は、この時も寮で生活していた。オバアチャンの原宿として有名となった巣鴨のトゲ抜き地蔵の近くにある大学の寮である。東大豊島寮という。200人くらいの寮生がいた。寮の一室や階段の近くの空いたスペースで卓を囲むのである。寮で麻雀をやるのは便利である。麻雀で4人のメンバーを集めるのって、意外に簡単ではないのである。3人まではすぐ集まるのだが、4人目が意外にみつからないことが多い。寮の場合だと、まずその苦労はない。寮内をひとっ走りすれば、すぐ集まる。メンバーが一人欠けそうになっても、これもすぐ補充できる。

このように麻雀にはきわめて都合がいいのだが、麻雀環境が良過ぎるのでつい長く打つことになる。私などは、麻雀が本当に好きだし体力があるものだから、ひとたび麻雀を始めると2、3日ぶっ続けで打つクセがついてしまったのである。自慢じゃないがこれまでの最高記録は、9日間ひとつの雀荘で打ち続けたことがある。麻雀を打っていると何もかも忘れてしまう。そのために大切なことをすっぽかしたり、やるべきことがやれなかったことが実に多くある。麻雀とは、それほど楽しいゲームである。

大学を卒業する時、6年間の大学生活を総括したところ、司法試験の合格のために費やした時間は3000時間であったが、麻雀に費やした時間は大雑把に計算して1万時間であった。このように私は何かをはじめるとのめり込む習癖がある。だから、短い人生なのだから、趣味というか遊びは麻雀だけにしようと決めた。将棋をしようとか囲碁をやりなさいとずいぶんいわれたが、意外にこの決心は固く一切やらなかった。その代わり麻雀だけはかなり極めたつもりである。麻雀の世界にも我こそはという人が多い。碁や将棋のように段位というものがないから、どのくらい強いのかというのは実際に打ってみないと分からない。その時々にそれなりの授業料を払ったが、その結果、こと麻雀についてはどこに出ても恥ずかしくない打ち手になったと自負している。もちろん、まったく歯がたたない凄い打ち手に何人かあったことはあるが…。

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「そのうち慣れますよ」とはなんだ!

閑話休題。事実上2晩満足に寝ていなかったので、熟睡して目が覚めた。疲れはほとんど残っていなかった。漫画喫茶の仮眠は、、ぶっ続けの徹夜に比べれば私にとっては無茶の度合いを十分やわらげるものだった。例の虫のことも忘れていた。朝風呂に入り、3日分の汗を流した。ヒゲもそり、爽快になった。にもかかわらず、件(くだん)の虫はあい変らず私にまとわり付いているのである。眼を左右に動かすと、その虫も左右に動く。ゴミが眼に入っているためと思い、洗い流すように大量の目薬を注してもいっこうに消えない。この時点で私は、これはちょっとおかしいと本気で思うようになった。

私は学者でも文筆家でも芸術家でもないが、それでも目は職業柄も大切なものだ。目が悪くなったら困る。これは眼科にみてもらった方がいいと思った。以前モノモライが悪化した時に、かかったことのある立派な病院が近くにあった。眼科医院ではなく、入院施設もある眼科専門の病院だ。机の中を探したら、診察券がまだあった。私は朝食をすませると、すぐにこの病院に向かった。

視力検査をしたり、眼底検査をした結果、担当の女医さんは「たいしたことはないですよ。これはヒブンショウといって、眼球の水の中に水泡ができたために、そうなるんですよ。誰にでも起こる、一種の老化現象ですよ」といった。白内障とか緑内障とかソコヒというのは、聞いたことがある。しかし、ヒブンショウなどという恐ろしい病名を聞いたのは初めてである。これは大変だ、困ったと思った。

「そうですか。でも治せるのでしょう?」と訊ねると、

「そのうちに慣れますよ」とまことに素っ気ない。

でもこんな状態が続いたのでは困る。だいいち煩わしくてしょうがない。ぜひ治してもらいたいと必死に訴えるのであるが、手術とか特効薬という回答はない。そして最終的判定は、

「黒く見えるものはたいしたことはありませんが、血圧がちょっと高いですね。眼底をみたのですが、ちょっと危険な状態ですよ。血圧の方を、専門の先生に診てもらって下さい。いないのであれば、専門の先生を紹介しましょうか」

と私の関心ないことをいう。

「いや、かかりつけの先生がいるので結構です」

といって、きわめて不満であったが退散することにした。普通にいえば二晩も徹夜したのであるから、血圧が少々高くても仕方がない。だいたい血圧なんてものは、高くなったり低くなったりするものだ。上150-下120なんてことはこれまでも結構あった。そんなことはたいしたことではない。問題は目の中のこの虫だ。そのうち慣れますよというのは、ちょっと無責任ではないか。私はかなり強い赤緑色弱であるし、小学生のときから0.7くらいの視力だししかも乱視だ。でも、世の中はよく見えてきた。だが、黒いものがいつも目の中にあるというのは、尋常ではない。近代医学で何とかならないことはない筈だ。それなのに「そのうち慣れますよ」とはちょっと酷いではないかと腹がたった。

入院施設まである眼科専門病院にしては何だという気になったが、それだけに目の方はどこかに行って診てもらう訳にもいかない。セカンドオピニオンというやつだが、きっと無駄だろう。そうすると打つ手がないということだ。たいしたことはないといわれても、本人にとっては一大事であり、深刻この上もない事態だ。どういう状態かというと、自動車のフロントガラスにちょっと埃の混ざった水滴の跡があるようなものである。あれって、結構気になるでしょう。少なくとも私は気にする方で、運転する場合はウィンドーウオッシャーで液を十分出してきれいにして運転する。それでも落ちない場合には、タオルできれいに拭くようにする方だ。

痛くも痒くもないのだが、目の中の黒い斑点はすごく気になる。目を動かすたびに黒い点が左右に動く。煩わしく、うっとおしいことこの上ない。私にしてみれば、深刻な一大事の発生だ。しかし、どうしようもないと宣告された。それは、この状態が一生続くということではないか! 無茶したことを若干反省しつつ、暗澹たる気持ちになった。女医さんにかなり強く言われた血圧の関係を看てもらうなんて気になれなかった。だいいち、その結果は分かっている。どうせ血圧を下げる薬を呑みなさいといわれるだけのことだ。そして、血圧降下剤を呑めば、血圧は確実に下がるのである。女医さんがいうほど、こちらの方は深刻でもないし、一大事でもない。

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血圧の高い家系

私にはこの8年くらい前から何かと診てもらってるお医者さんがいる。主治医というほどのものではないが、何かにつけて診てもらっているのだから強いていえば主治医といってもよいのだろう。この先生に診てもらうようになったのは、8年前メニエール氏症候群にかかった時である。ご存知の方もいると思うが、メニエール氏症候群というのは、疲れなどから三半器官が炎症をおこし、平衡感覚がおかしくなる病気だ。一過性で習慣になることもなく、それほど重大な病気ではないという。しかし、これも現れる事態は深刻だ。

これも仲間の議員と麻雀をしている時に発症した。その日の麻雀、私は滅茶苦茶ついていた。すごい手がどんどんできるのだ。にもかかわらず何となく目が回るような感じになってきた。すごくついていたのでやめるのは忍びないのだが、そのうちにとても麻雀を続けていける状態ではなくなった。友人たちは救急車を呼ぼうかといってくれてたが、少し横になれば治るだろうと思い、別室で横になった。横になったにもかかわらず、目が回るのである。そしてだんだんそれが酷くなってくる。

これは中風になったのかなぁーと思った。私の父は60歳ころ中風になった。母は50歳ころ中風になった。正確には脳梗塞か脳溢血というのであろう。父は最初の発作で軽い麻痺をもつ体となった。母は麻痺をもたなくてすんだ。そして必死の療養で、以後中風にはならなかった。このように私の家系は中風にかかる者が多かった。めまいはますますひどくなった。私はこれは中風にやられたなぁと観念した。ついに耐えることができなくなったので、「おぉーい、救急車を呼んでくれ」と最後は私の方から頼んだ。私は救急車で病院にいった。救急車の中で私は手と足の感覚を確かめていた。幸いにもちゃんと感覚は残っていた。

翌朝目を醒ますと、若い先生がベッドの横に立っていた。脳梗塞か脳溢血と観念していた私に対し、「3つの可能性があります。よく調べた上でないといえませんが、きっとたいしたことはないと思いますよ」といってくれた。絶望のどん底にいる患者に対して、医師はこうでなければならない。果たせるかな、私の場合はメニエール氏症候群だった。大騒ぎの割にはたいしたことはなく、1週間で退院できた。一過性で習慣性もなく、もちろん後遺症などは残らなかった。それ以来、私はこの先生を絶対に信頼している。専門は脳神経内科なのであるが、胃が悪るかろうが腰痛であろうがまずこの先生に診てもらう。大きな病院の副院長なので、その先生から専門の科に紹介してもらって診てもらう。

私の血圧は、そのころから上が120から130、下が85から90くらいであった。高血圧かどうかの限界線上にあるのだという。不摂生な生活をするとこれよりも上がることがある。だから、薬を呑みますかと何度かいわれたことがある。しかし、薬を呑むと簡単にはやめられないと聞いているので、私はそうしなかった。先生も無理には勧めなかった。こんなことがあるので、女医さんから専門の先生に血圧関係を診てもらいなさいといわれたが、結果はだいたい分かるといったのだ。だから、ちょっとしたことがあっても気軽に診てもらっていた私だが、この先生のところになかなか足が向かなかったのである。

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2006年11月22日掲載

おどろおどろしい眼疾

目の虫はなかなか消えてはくれなかった。生活に特に支障があるというのではないが、非常に気になる。不快そのものだ。手術は嫌いだが、簡単な手術で済むのだったら、それをしたっていいと思うくらいだ。しかし、その手はないというのだから仕方ない。私にとっては、体の老化現象を痛感した初めての出来事であった。そのことも気を落ち込ませた。ところで、後になって知ったのだが、おどろおどろしい「ヒブンショウ」というのは、「飛蚊症」と書くのだそうだ。眼科の専門用語として使われている。本当に蚊が飛んでいるのである。

さて、私の飛蚊症をそのうち慣れますよと突き放した女医先生に対する反発からであろうか、私は素直に主治医のところに行く気にはならなかった。それに行けばどうせ薬を呑みなさいといわれ、これからずーっと薬を呑まなければならないことになることはほぼ明らかだった。飛蚊症と血圧が関係していると女医先生はいわなかった。だから、血圧を下げたところで虫が消える訳ではないのだろうが、家系からいっても血圧が高いのを放っておいていい訳はない。

そこで、「主治医に血圧関係の診断を受ける前に、血圧を下げておこう、そうすれば薬を呑めといわれないだろう」 ─ こう考えたのである。なぜそんなに薬を呑むのが嫌かというと、苦いとか副作用が怖いとかいうのではない。薬を呑まなければ、正常とはいわれないということが嫌なのである。鎮痛剤や抗生物質のように、一時的にある症状を治めるために呑む薬にはこうした思いは持たない。しかし、一生薬を呑まなければならないとなれば話は別だ。薬を呑まなければ正常ではないということは、大げさにいえば半病人ということではないか。まだ半病人にはなりたくはなかった。

  • 『専門医が応えるQ&A―高血圧』
  • 『自分で治す・自分で防ぐ高血圧』
  • 『高血圧をらくらく下げるコツがわかる本』

私が書店に行って買ってきた3冊の本の題名である。私のその時の気持ちが分かっていただけると思う。同じようなことが書いてあったので、司法試験の時のように3冊を丹念に読んだわけではないが、高血圧というのがよく分かった。なぜ高血圧になるのかということは、専門家も本当のことは分かっていないのだそうだ。しかし、控えていたほうがいいこと、治療法などは3冊ともだいたい同じことが書いてあった。

  1. 塩分を控える。一日6g未満。
  2. 体重を適切に保つ。
  3. 低強度の運動をする。
  4. たばこを断つ。
  5. 規則正しい生活をおくる。

要すればこういうことが書いてあった。私の生活は、長いことこれと正反対のことばかりしていた。これじゃ、家系でなくとも高血圧気味になるのは仕方ないというものだ。しかし、これだけ悪いことをやってきたのであるから、これをやめれば意外に簡単に血圧も下がるのではないかとも考えられる。それではそれをやったみようという気になった。

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ヘルスメーターにのったら

まず、体重を量ってみた。このところ少し太ってきたとは思っていた。これまではいていたズボンがほとんど着れなくなっていた。私のこの10年間の体重はだいたい75キロ前後であった。だから、77から78キロくらいになっているのじゃないかと軽い気持ちでヘルスメーターにのった。ヘルスメーターは浴室を出たところにいつも置いてあるのだが、この1年くらいはのってみたことがなかった。なんと、83キロきっかりあるではないか! これにはちょっとビックリした。ちょっと太ったなんてもんじゃない。明らかに太ったのである。

だいたい太り過ぎというのは、ヘルスメーターにのらないところから始まるようである。適正体重を保つ=ダイエットのもっとも簡単でしかも基本的なことは、ヘルスメーターにのっかることだと思う。ヘルスメーターにのることなど少しも苦労はいらないのだが、肥満体質の人間とってこれは意外に勇気のいることなのだ。私などはちょっと油断をすると直ぐ太る。ヘルスメーターにのると、そのことが数字ではっきりと表われる。現実を直視するということは、辛いものだ。

次に、控えなければならないのは塩分である。私は新潟県出身なので、しょっぱいものを食べてきた。しかし、結婚を機にかなりしょっぱいものは食べなくなったのは事実である。昔は、東京の人が使う「塩辛い」という言葉が、私には理解できなかった。私の田舎には、塩辛いなどという言葉はなかったような気がする。塩気のきいたものは、「しょっぱい」と表現してきた。塩のきいた沢庵などを東京の人は塩辛いというが、これは「しょっぱい」というべきではないかと思っていた。最初のうちは「しょっぱい」というのは、方言かと思っていた。

「辛い(からい)」とは、唐辛子などを食した時に感じることをいうのだろう。私はたとえ塩のきいた沢庵を食べても、辛いとはまったく思わなかった。なのに、なぜ「塩辛い」というんだろうか。私には理解できなかった。結婚して家内から塩気の多いものを食べないようにいわれていたし、かなり薄味に慣れらされてきた。ある日選挙区の支援者の家で本当に塩のきいた沢庵を口にした時、舌の先にピリピリとくるものを感じた。「あぁ、この感じを東京の人は『塩辛い』というんだなぁ」ということが、その時はじめて分かった。私の選挙区の新潟では、しょっぱいものがけっこう多いのだ。だが最近ではかなり少なくなった。

塩分は、そんなに多くとっているとは思わなかったが、1日6g以下という基準からすれば私はたいへんな量の塩分を摂っていた。沢庵5切れ30gで塩分2.1g、梅干親指大1個で2.1g、かまぼこ3切れ30gで2.0g、さつま揚げ小1枚60gで1.1g、あさりの佃煮大さじ2強60gで2.2gなどなど。みんな私の好物である。私は、和食党である。しかもご飯が大好きだ。わが家の米は魚沼産コシヒカリで、すこぶる美味い。このご飯と佃煮と味噌汁があれば、大満足。しかし、そうすると摂取する食塩の量は、6gをはるかに超えてしまっていたのだ。

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一念発起

たばこは、大学に入った時から、1日としてやめたことがない。一時は時間がこないと開かないシガレットケースなどをもって節煙に心がけたこともあるが、禁煙そのものはできなかった。かなりのヘビースモーカーの方だ。普通の日でも、2箱ではきかない。書き物をしたり、麻雀などをしていると一体何箱吸ったのかも分からない。7〜8箱も吸ってしまうことさえ珍しくなかった。

このところ、低強度の運動すらもやっていなかった。たばこを吸うようになってから、強度の運動は息が苦しくてできなくなった。高校時代までは水泳をやっていて、2時間くらい泳ぐこともできたのだが…。低強度の運動は、決して嫌いではない。ゴルフも好きだし、ジョギングをやっていた時もあった。また散歩とかウォーキングなどという洒落たものではないが、歩くことそれ自体は好きだ。街中であろうが、公園であろうが、普通の道であろうが、いろんな物を見ながら歩くのは苦にならない。少なくとも何も見えない水の中を泳ぐのより楽しい。もっとも、最近ではこれも服装だけは気をつけた方がいいようだ。元国家公安委員長が2度も職務質問をされたんじゃ、洒落にもならない emotion icon

規則正しい生活。麻雀スタイルの項で触れたようにこれもダメだ。1年近く自堕落な生活をしていたのだから、不規則にして不健康な生活を地でいっていたのだ。これじゃ、血圧が上がってもしょうがない。飛蚊症は直接これによるものでないかも知れないが、このくらいの罰が当たっても自業自得。おおいに反省しなければならない生活スタイルであった。これだけ血圧に悪い生活をしてきたのだから、対策はきわめて分かりやすかった。それもそんなに難しいことでないことは明らかだ。いつ頃かは定かではないが、私は一念発起した。7月の終わり頃だった思う。確かまだ8月には入っていなかった。

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2006年11月26日掲載

歩くことから始める ─ その問題点

だいぶ前置きが長くなってしまった。しかし、これから述べることは、かなり極端なことである。過酷という人もあろう。そういうことをやり抜くためには、その動機がしっかりとしていないととても続けていくことはできない。いままで述べたことは私の健康生活を実践する動機なのである。決して無駄なことはないのである。

いよいよ本論に入ろう。やらなければならないことは、次の4つであった。

  1. 塩分を控える。一日6g未満。
  2. 体重を適切に保つ。
  3. 低強度の運動をする。
  4. たばこを断つ。
  5. 規則正しい生活をおくる。

Dのたばこをやめることを私は今回のターゲットから外すことにした。いままでの経験からいってそれはいまの私にはできないことで、たばこをやめることをターゲットとするとターゲット全体を実行しないことになると考えたからである。極端な全否定というのは、いいようで結局はダメなのである。自分にとって不可能と思われることを目標にすることは、その目標自体が間違っているのである。

私は、まずBとCをターゲットとすることにした。これは連動している。83キロの体重はまず落とさなければならない。そのためにはまず運動をしなければならない。低強度の運動は決して嫌いではない。国会議員だった頃、皇居を一周するジョギングをやっていた時期があった。苦しいというより楽しい思い出のほうが多い。探したらその時に着たトレーニングパンツなどがいっぱい出てきた。その時使っていたナイキのシューズもあった。これを着て、歩くことからまず始めることとした。最初は1時間くらい歩けばいいと思って始めた。1時間歩くというのはぜんぜん苦にならなかった。むしろ楽しかった。

今年の夏は本当に雨が多かった。梅雨は7月いっぱい続いた。梅雨は終ったといわれ、西日本では猛暑になっていると報道されていたが、東京ではあのギラギラと照りつける太陽はなかなか現れてはくれなかった。ギラギラと照りつける中で歩くと83キロの私などの場合、運動した後2キロくらい体重が減る。これは体重減そのものではないのだが、体重を減らそうとしているものには痛快であり愉快なことなのである。だから私は暑い中でもほとんど水も飲まずに運動していたが、今回はこれはやめた。血圧の本にこれは良くないと書いてあった。また熱中症にならないためにも水分は摂らなければならないと報道されていたからである。そのためにはウエスト・ポッシェットに水をいれたペットボトルをいれて持ち歩くのが一番いい。以前持っていたウエスト・ポッシェットは使い過ぎてダメになって捨てていた。だからデパートに行って買ってきた。店員が最初に勧めたのは皮製の15,000円のものであった。そんなに高いもの要らないと思い、4000円くらいのものにした。意外に高いんだなぁーと思った。

本格的な運動スタイルの服装をしてナイキのシューズを履き、水を入れたペットボトルのはいったウエスト・ポッシェットを装着して歩く。気分がいいものである。天気のいい日などすぐに汗が噴出してくる。ドンドン体重が減っていくような気がする。一時的にではあっても、汗となって体外にでた水分だけ体重が減っていることは確かなのだ。歩くだけだから何の問題もないようだが、それが意外にあるのである。まずコースの選定である。低強度の運動といってもブラブラ歩くのではない。やはり力強く歩くのである。

そうすると歩くコースを予め決めておいた方がいい。歩いて快適なコースの方がいいに決まっている。私はいま住んでいる近辺をブラブラとけっこう踏破してきたので知ってはいるが、本格的な歩きのためにはどのコースがいいのか、改めて試してみた。その際、空気のいいことも今回は重視することにした。ヘビースモーカーの私が、車の排気ガスを気にするのは矛盾しているのではないかという人もあろう。私もそう思う。それはそれとして、いやそれだけに排気ガスの多いところは避けられるものならば避けた方がいいに決まっている。

コース選定のうえで大切なことは、できるだけアスファルトやコンクリートの上を歩かなくていいコースを選ぶことである。体重のある者がアスファルトやコンクリートの道を歩くというのは、けっこう膝に負担をかけることになるからである。かつてジョギングをやっていた時、このことを私は体で知っていた。たとえ固い砂利道であっても、アスファルトの道でジョギングをするよりはるかに体にやさしいのだ。しかし、いまや田舎でもアスファルトやコンクリートでない道を歩くのは難しいのだ。東京で土の上を歩けるのは貴重なことである。でもそれがあるのである。明治神宮である。幸いにも歩いて20分で私の場合は明治神宮に行ける。ここをメインコースとすることにした。

次に問題になるのが、雨の日どうするかということである。雨の日にゴルフをする時に使ったカッパがあった。それを着ることにしたが、それにしても雨の日に歩くというのは決して快適なことではない。カッパを着ていても体中が濡れる。これは、ギラギラと照りつける太陽の下で歩く時に汗びっしょりとなるのとは全然違うのである。しかし、今年のように雨が多い年に、雨だからといってその日は休みということにしたのでは、"仕事"にならない。もともとが低強度の運動なのだ。消費するエネルギーは、そんなに多くはないのだ。毎日続けてこそ、効果は期待できるのだ。私は雨の日も休まないことにした。少々の雨ならばカッパで歩くことにした。激しい降りの時は時間をずらすことにしたが、それも期待できない時は大きめの傘をもって歩くことにした。これもやってみるとどうってことはないものだ。

私の場合、もうひとつの問題がある。たばこである。理想的には運動をしている時は、たばこなど吸わない方がいいに決まっている。かつてジョギングをやっていた時など、その間中はたばこは吸わなかった。また吸いたいとは思わなかった。ジョギングをしている時間は、1時間くらいであった。今度はジョギングではない。ただちょっと早めに歩くだけの低強度の運動だ。だから2時間でも3時間でも続けることはできるし、私としてはそのくらい歩きたいのだ。しかし1時間くらい歩いていると、たばこが吸いたくなる。我慢ができないわけではないが、1時間半くらいすると無性にたばこが吸いたくなる。歩くのは少しもつらくはないのだが……。たばこを持っていないとたばこを吸うために家に帰ることになる。私はウエスト・ポッシェットにたばこを入れて歩くことにした。1時間以上歩いたら、たばこを吸ってもいいことにしたのだ。たばこを一服吸うと、また1時間くらい歩くのが苦にならない。だから、天気のいい日など2時間、3時間歩くようになった。歩くという何んでもないことだが、この外にも問題がないわけではない。それはまた別の機会に触れることにする。

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キャベツが主食

1回でもダイエットに挑戦したことのある人なら誰でも知っていることであるが、運動だけで体重を減らすことは無理である。摂取カロリーを落とさなければ体重を減らすことはまず不可能である。これまでに私は2回、減量に挑戦したことがある。最初は、40歳の頃である。そのキッカケは膝が痛くなり、そのためには体重を減らすしかないと思い減量に挑戦したのだ。そして、86キロあった体重を74キロにした。膝が痛いのは、ピタリと治まった。この時の運動はジョギングであった。そして食事はキャベツを主とする野菜中心の特別メニューを食することであった。2回目は、それから6年後くらい後だったと思う。74キロに減量した後、そんなにすぐにはリバウンドしなかったのだが、仕事が忙しくて運動しなかったり、不摂生な生活をしていたために体重がまた83キロくらいになった。この時も運動と食事に注意することにより、74キロまで体重を下げた。

だから、ダイエット=食事制限をした経験はあったのである。一日に何カロリーなどという計算は特にしなかった。体重を減らすためには、摂取カロリーは少ない方がいいに決まっている。何が何カロリーなんて詳しく計算する必要はないというのが、私の考えだ。食事制限で一番つらいのはカロリー不足などではなく、空腹に耐えることである。私のような大食漢にとっては特にそうだ。だから、カロリーのないものを食べて腹を満たすことしかない。コンニャクの類でお腹を満足させるのもいいことだが、そんなにコンニャクばかり食べられるものではない。だから、カロリーの少ない野菜を食べるのが一番だ。しかし、野菜ならば何でもいいというものではない。例えばレタスをかなり食べてもお腹はしっかりとしない。ところがキャベツだとお腹がシッカリと落ち着くのである。トマトやきゅうりだけでは、この落ち着き感・しっかり感がでてこないのだ。果物も意外にこのしっかり感がでてこない。それに果物の場合、カロリーも結構あるようだ。

このような経験があるものだから、食事はキャベツ中心のものとすることにした。このことを決意し実行に踏み切った時、キャベツは長雨のために非常に高かった。1個300円以上していたが、健康のためだから仕方がない。1個300円はしたが、でもそんなに食べられるものではない。だいたい1個買えば3日はもつ。そうすると1日100円にしかならないのだ。いままでは、キャベツだけをただムシャムシャと食べていた。ただその時は3食の内、1食多くて2食がそういう食事でそれ以外は普通の食事をしていたし、またせざるを得なかった。しかし今回は原則野菜中心の食事にしようと思ったので、キャベツだけじゃもたない。ウサギじゃないのだから。だから、キャベツを中心に食べれるものは何でも食べようと思った。夏の真っ最中であったので、高かったがいろいろな野菜があった。トマト、きゅうり、ピーマン、みょうが、なすなど生で食べれるものを買ってきて、これをどんぶりにいっぱいにもって食べた。

生で食べれるものだけにしたのは、深い理由がある。私は家内にガスレンジを使うことを禁じられていたからである。1年くらい前、雑炊を作ろうと思って、信越線横川駅で買った"峠の釜飯"の釜があったのでこれを使ったのだ。ところがガスレンジに載せて火を点けたのはいいのだが、これをほったらかしにしてしまいキッチンを煙だらけにしてしまったのだ。それ以来、ガスレンジを使うことはきつく禁じられていた。だから、生で食べるしかないのである。また生で食べる方がビタミンCなどを壊さず一番いいのだし、腹のしっかり感を出すためにも煮るより生の方がいい。このことに抵抗感はなかった。生で食べるというとサラダだと思う方が多いだろう。しかし、サラダなんて洒落たものではない。キャベツやきゅうりやピーマン、そしてバナナなどを適当な大きさに切って、どんぶりにもってひたすらに食べるのである。

今回は、もうひとつ課題があった。それは、塩分を減らすことである。これまでのダイエットでは、キャベツに塩をふって食べていたが今回はそれをしないことにした。最初のうちは、塩も醤油もないどんぶり一杯の野菜を食べるのは正直いってちょっと寂しかった。家内が作ってくれる肉じゃがや小女子の佃煮をおかずと考えて食べると、どんぶりの野菜に塩をふる必要はなかった。だが、いつも肉じゃがや佃煮がある訳ではない。そうすると塩っけがまったくない時もある。その時も私は塩を振らないことにした。ドレッシングももちろんかけない。どんぶりに盛られたキャベツやきゅうりやピーマンやバナナをひたすらに食べるとそれぞれにちゃんと味があるのだ。塩や醤油をかけている時は逆にそれらの味を感じることができないのだ。このことに気がついたら塩をふらないことは少しも苦にならなかった。

しかし、3食どんぶり一杯の野菜を食べなければならないのだ。考えていたよりも美味しいのだが、調味料があったらそれにこしたことはない。ドレッシングはカロリーは高いが、酢や唐辛子などはカロリーはない。酢も唐辛子も体にいいといわれている。家内の母が、ニンニクを入れたきび酢が万病に利くというのでいっぱい作ってくれた。これをかけることにした。私は酸っぱいものは苦手だったが、これはそんなに酸っぱくもなく、それなりの味があって私の食事を美味しくしてくれた。だがニンニクのエキスがだいぶ出ているとみえて、トイレではニンニクの臭いがした。生の野菜に唐辛子をふるなどということは、これまであまりしたことはない。七味唐辛子は、優れた香辛料である。これをかけると非常に美味しくなる。

バナナにはそれなりのカロリーはあるが、それ以外はほとんどカロリーはない。それで大丈夫かと思う人も多いであろう。ところが意外に大丈夫なのだ。量だけはちゃんとどんぶり一杯食べているから、あの惨めな空腹感はない。カロリー不足だからといって、空腹感というものが出てくるものではない。必要なカロリーを摂っていなければ、体内の脂肪が溶けてエネルギーになる、その結果として体重が減るというのが私の考えである。だから、体重を減らすためには摂取カロリーは少なければ少ないほど効果は出てくる。

そう思って、ウサギのような、高尚にいえば修行僧のよう食事をし始めた。このような食事をすることが体重減につながると思うと、歩くことがあまり苦にならないように苦しいとは思えなくなる。それでも時には、無性にカロリーのあるものが食べたくなる。家内が食べているご飯や食パンをほんのちょっぴりいただくと、その美味しいこと、美味しいこと! 例えようがない。しかし、この美味しさに負けてご飯やパンでお腹を満たせばカロリーオーバーになリ太るのだ。ただ、あえてここで述べておこう。後で専門家から聴いたのだが、このような極端な食事制限は健康にとって決して好ましくないのだそうだ。だから、私がやったような極端なことは真似をしないでほしい。

小学生か中学生の時、たんぱく質は1日80g必要だと習った。私たちが子供の時、このたんぱく質がなかなか摂れなかった。特に動物性たんぱく質が摂れなかった。身長が伸びなかったのもその性だと思っている。私たちの世代は、動物性たんぱく質に対して特別な想いがある。だから、肉や魚を食べ過ぎるのだ。しかし、必要な量以上のたんぱく質は脂肪として体に蓄えられる。そして、肉や魚はたんぱく質であるが、同時に脂肪も含まれている。私はもともとあまり肉を食べない。外国旅行をしてもビーフステーキを1枚も食べないで帰ってくることが多かった。魚は大好きだ。よく食べていた。

今回はたんぱく質を大豆製品で摂ることにした。豆腐と納豆である。特に深い理由はないが、小さい頃大豆は畑の肉だといわれて、よく食べさせられた。そして、肉や魚をあまり食べれなかったのに人から頑丈だといわれる体に育ったのだから、齢60を過ぎてどうしても肉や魚を食べなくとも大丈夫だと思ったのだ。肉や魚を拒絶するというのではなく、自分からは強いて求めないということで、家内が魚を用意してくれたらそれは遠慮なくいただくことにした。わざわざ私のために無理して作らなくてもいいよとはいったが。たまに食する肉や魚の美味しいこと、美味しいこと! 肉じゃがの中にある小さな肉片がなんと貴重で美味しいことか……。しかし、それだけでいまの私には十分だと思うことにした。

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ピタリと止まった間食の癖

私の生活は、きわめて規則正しいものとなった。毎日、2時間は最低歩く。気分の乗った時などは、3時間、4時間という時もある。運動が終ると、風呂に入る。これまではカラスの行水であったが、できるだけ長く入る。最低でも40分、長い時は1時間くらい入る。運動で汗を流し、入浴でまた汗を思いっきりかいて、最後にヘルスメーターにのる。うまくすると、2キロくらい体重が減るのである。それは、一時的なものだということは分かっているが、それでも嬉しい。

食事の時間も長くなった。その日の野菜をどんぶりに盛り、これを良く洗って果物ナイフで料理する。キャベツなどは、あまり細くきると食べた後のしっかり感がでてこないので、あまり小さくは切らない。キャベツの芯に近いところが貴重なのだ。これがしっかり感をだしてくれるのだ。後で知ったのだが、この固い部分に栄養が豊富なのだそうだ。きゅうりやトマトやバナナはできるだけ細かく切る。ムシャムシャと食べれないようにするためである。こんなことをしていると10分から15分くらいかかる。それからテレビを見ながら食べ始める。40分くらいかかる。私は昔から早飯の大食いであった。これが太る原因だということは知っていたが、ある程度のスピードで食べないと美味しいものが美味しく感じられないのだ。これも貧しい時代に育った悲しい性(さが)なのであろう。

今度はそうはいかない。正直いってそんなに旨いものではないし、原則すべて生の野菜である。熱いご飯に生卵をかけて胃袋にかっこむという訳にはいかない。だいいち、キャベツやきゅうりなどはよく噛まないと呑み込めない。またよく噛まないと美味しさを味あうこともできないのだ。これしか食べれないのだから、美味しく味あうにはよく噛むしかしょうがないのである。豆腐なども、できるだけ小さく切って、何度も味あえるようにしなければならない。豆腐にも納豆にも醤油はかけない。最初はさすがに物足りないものがあったが、よく味わって食べると豆腐には豆腐の旨さがあり、納豆には納豆独特の旨さがある。醤油をかけたのでは、この微妙な味はとうてい分からない。こんな按配でどんぶり一杯の食事をとっていると、45分くらいが経っているのである。これまでの私にはとても信じられないことであった。

私が太る原因は、早飯の大食いだけではない。1日4食という長年の習慣だ。4食主義は、大学受験の時からのものだ。大学受験の勉強をしていた時、夜12時近くになると腹が減ってどうしょうもなかった。だから、私は母に頼んで12時を過ぎた頃、夜食を作ってくれることを頼んだ。既に60歳を過ぎていた母であった。一眠りして12時近くになると起きて簡単な夜食を作って私の勉強部屋に持ってきてくれた。無学な母であったが、東大を受けようとして一生懸命勉強している私の必死さは分かっていたのだろう。夜食を食べながら、母といろんな話をしたことを懐かしく思い出す。

大学時代は、6年間ずーっと寮にいた。夜も昼もない生活だった。夜12時過ぎに酒を飲みながら夜食を食べるのは、ひとつの日課だった。社会人になってからも夜食を食べるのはやまなかった。政治活動を始めてからは、いつも夜遅くまで何かをやっていた。12時前後になると夜食を食べに行くのは、白川事務所のひとつのスタイルだった。これは国会に出てからも変わることはなかった。私にとって1日4食は常態であった。麻雀などをやっていると5食、6食も食べた。仲間からよくそんなに食えるもんだねぇといわれた。ただ私は酒はほとんど呑まない、いや飲めないのだ。何かを口にいれたがるのはその代わりと思っていた。

体重を減らすために本格的なダイエットをする以上、この4食主義をやめなければならないことは明らかである。だが40年以上続いた癖をやめるというのは、そんなに簡単なことではない。夜眠る頃になると満足にカロリーのある食事をとっていないのであるから、当然のことながら何か食べたくなる。それは当然のことだ。ダイエットで一番つらいのは空腹に耐えること、食べたいのを我慢することである。そこで私は夕食をできるだけ遅くとることにした。午後8時前後を夕食の時間とした。

それまではどんなに忙しくても、「腹が減っては戦はできぬ」といって午後6時頃に夕食を必ず食べていた。12時前に寝ることはまずない生活であったので、6時間も空くのだから夜食を食べたくなるのは当然だったと思う。だから、夕食をできるだけ遅くとるようにしたのである。これと関係するが、昼食もできるだけ遅くとるようにした。昼食の前か後に2時間近くの運動をするのだから、これはあまり苦にならなかった。午後8時前後から夕食をとリ始め、終るのは9時近くである。さすがに寝る前にちょっと食べたいということは全くといってよいほどなくなった。

40年以上続けてきた夜食をやめたことは、別の効果をもたらした。朝起きになったことである。いくら遅く夕食をとったといっても夜食とった場合に比べればかなりの間なにも食べていないことになる。だから、明け方になると腹が減って目が覚めるのである。朝寝坊も私の長年の悪い癖だった。健康生活を始めたからといっても、そんなに早く寝ていた訳ではない。だからそんなに早く起きることにはならないのであるが、朝になると空腹で目が覚め、早く朝食が食べたいのでベッドから起き上がるようになった。朝の6時前後である。そして野菜中心の朝食作りから私の一日が始まるのである。その結果、早起きになった。朝早く起き、十分な運動をする。そういう生活をしていれば疲れのせいで夜は早く眠たくなる。早寝という訳ではないが、午後12時を過ぎた頃にはベッドにつくようになった。特に意識したわけではないが、「規則正しい生活スタイル」となっていった。

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2006年12月8日掲載

できることから気軽に始めること

結論からいうと、これまで述べた食事・運動により私は8月、9月、10月の3ヶ月で83キロから70キロまで体重を落とした。ここであえていっておきたいことは、それは結果であって最初からすべて計画を立てて実行したのではないということである。まず歩くことから始めたことは事実である。それはそんなにつらいことではなく、快適だし楽しいことを知っていたからまずこれから始めたに過ぎない。1年近く満足な運動をしていなかった私には歩くことは本当に楽しいことであった。しかし、本などで書かれているような本格的ウォーキングで歩こうとするとちょっと辛くなる。だから自分なりに一番楽で快適なスタイルで歩いた。たばこを吸うようにしたのも歩くことはつらくなくても、2時間も3時間もたばこを吸わないことの方がつらいので吸ってもいいことにしたのだ。

食事も最初から完全に野菜だけでやろうとしたのではない。キャベツを食べることにしたのは、かつてその経験あり、それがそんなにつらいことでないことを知っていたから、まずキャベツを買ってきて食し始めただけのことだ。ピーマンを食べたら美味しかった。みょうがはもともと大好きだった。自分の好きなものをキャベツとともに食べると美味しいから加えていっただけだ。カロリーがどうのビタミンやミネラルがどうのということは全然考えなかった。そうして食べる野菜の種類を増やしていったら、野菜だけで大丈夫になってきたのだ。かつてのようにキャベツだけだったら、とてもこうはならなかったであろう。

私は先に述べたような理由で、生で食べるしかなかった。だが、生で食べられる野菜というとおのずと限られてくる。野菜食を始めて1ヶ月半が過ぎた頃、私は電子レンジでチンすることを覚えた。電子レンジを使うことは禁じられていなかった。チンすると食べれるレパートリーがぐっと増えた。味も良くなる。現在ではもうリバウンドをしないことが主目的になったので、ジャガイモやサツマイモをご飯代わりにチンして食べている。チンを導入しなければどうしてもご飯かパンを食べることになったであろう。そうするとどうしてもカロリーを取りすぎることになる。ご飯もパンも大事な物らしいが、ジャガイモやサツマイモにもいいものがいっぱいあるようだ。いまのカロリー源としての主食は、ジャガイモとサツマイモだ。

これを要すれば、あまり無理なことはしないということだ。無理なことは所詮長続きしない。少々足りないことがあったとしても、いいと思われることを長く続ける方が良いに決まっている。こういういい加減さも大事だと思う。しかしこれは辛いことではないので、いい加減ではなくぜひキッチッと実行した方がいいことがひとつだけある。それは記録をつけることだ。減量したかったら、まず体重計にのることだ。そしてその体重を必ず記録するということだ。

  • 7月23日    83.0
  • 7月30日    82.5
  • 9月03日    78.0
  • 9月09日    77.5
  • 9月10日    77.7
  • 9月11日    77.3
  • 9月13日    76.5
  • 9月14日    76.1
  • 9月15日    75.7
  • 9月16日    75.3
  • 9月17日    75.0
  • 9月18日    74.9
  • 9月19日    74.9
  • 9月20日    74.6
  • 9月21日    73.7
  • 9月23日    73.4
  • 9月24日    74.0
  • 9月25日    74.4
  • 9月26日    74.0
  • 9月27日    73.6
  • 9月28日    73.5
  • 9月29日    73.2
  • 9月30日    73.0(以下省略)

これは私の手帳に記載されている数字である。もちろん私の体重である。単位はキログラムである。7月の下旬ころから歩き始めたが、最初のうちは私も記録していなかった。体重計にはのっていたと思う。。8月に入ってからはほぼ毎日歩いていたように思うが、記録はまだ付けていなかった。自堕落な生活をしている時は、手帳など持たなかったしその必要性もなかった。またあまり減量の結果が出なかったので、記録しようという気も起きなかったのかもしれない。7月23日と7月30日は、記録を付けるようになってから思い出して後で記入したものである。

9月9日からは、その日その日に書いたものである。これがまた難しいのだ。一番少ない体重を書きたいので、私は朝の体重を記録することにした。小用はある。というより尿意で目が醒めるのである。だから小用後というのは難しくない。しかし、大用を済ました後の方が体重は減っている。便通は比較的いい方だ。便秘などということはまずない。でも目が醒めてすぐに便意をもようすとは限らない。1時間くらい便意がない時もある。でも最小体重を記録したいので、大用を済ますまで水も呑まず、食事も我慢するのだ。これは結構つらかった。どうしても便通がこないのでやむを得ず食事をすると皮肉なことに急に便意をもようすのだ。カロリー不足からくる体の防御本能なのかと思った。やりだすとトコトンやるというのは私の長所かもしれないがこのように困ったこともある。現在ではこんな無理なことはしていない。

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両切りピースを煙管で吸う風流

「減量したかったら、まず体重計にのることだ。そしてその体重を必ず記録しなけばならない」と強く勧めておきながらその実情は以上のようなものである。食事・運動・減塩・生活スタイルをコペルニクス的に変え、その結果3ヶ月で13キロも体重は減り、血圧も正常となったが、どれも最初から完全に変えられた訳ではないということだ。体重計にのりこれを記録することをキチンと実行したのは、健康生活を始めて1ヶ月半も過ぎてからだった。他もおって知るべしだ。ただ大切なことは、自分にとって一番できそうなことからまず始めることをお勧めする。自分にとって楽しいこと・あまりつらくないことは続けられるからである。それを実行していると不得意や苦手なこともダンダンできるようになるのだ。

現に健康生活の実践といっても、いまもって私はたばこを吸っている。専門家にいわせれば他のどれよりも優先させなければならないのが禁煙であろう。私だってそう思う。しかし、禁煙をどうしてもしなければならないというと今の私には健康生活を実行できないことになるのだ。だから私は最初から禁煙を目標から外したのだ。禁煙をしていないのであるから、私の健康生活など「半健康生活」に過ぎないと非難する専門家が多いであろう。そういわれてもいいのだ。それでも私がいう「健康生活」の実践を何もしないよりははるかにマシであることは否定できまい。1歩でも半歩でも前進は前進なのだ。それでいいではないか。

以下は喫煙をしない人は読み飛ばしてもらってもいい。たばこに関して述べる。私はこの20年近く「マイルドセブン」を吸っていた。1日最低でも2箱、だいたい3箱は吸っていた。国会議員だった頃は、あっちこっちに行った。人と会っている時必ずたばこを吸う。そしてこれをしゅっちゅう忘れてくる。私の秘書はいつもたばこをもっていなければならなかった。少なくとも1日に5箱は封を切った。麻雀や原稿書きをしている時は、置き忘れはしないが今度は喫煙量が増える。1日に5箱6箱だ。これが私の喫煙であった。ところが現在では両切りの「ピース」を吸っている。1日に2箱、20本まで吸わない。そして一本を半分に切って煙管(きせる)で吸っている。東京では路上禁煙の所が増え、盛り場などではスモーキング・エリアで吸わなければならない。煙管をおもむろに取り出してたばこを楽しんでいる私を若い人たちは不思議そうに見る。確かにこういうたばこ吸(すい)は滅多にいない。

なぜこんな風変わりなことを始めたかとこういうことである。たばこをウエスト・ポッシェットに入れて歩くことにしたことは前に述べた。運動をしていると1時間くらいたばこを吸わないのは何ともなくなるのだが、それでも1時間以上吸わないと吸いたくなる。適当な所を見つけてたばこを吸うのであるが、1本丸々吸ってもどうも満足感がない。ちょっと足りないのだ。運動をしていない時はこんなことはなかった。もっともその場合は、1時間もしないですぐ吸うのだが……。運動をしている場合は、次に吸うのは1時間後なのである。ここで私は考えた ─「マイルドセブンというたばこは、私にとっとは弱すぎるたばこである。もっと強いたばこにすれば、こういうことはないだろう」と。

たばこに関しては、私も学識経験者のひとりで…いや、学識はないが、堂々たる「経験者」だ。文句はいわせない。たばこの学識経験者としていわせてもらうと、タールやニコチンが何mgだとかいうものはあまり意味ということだ。たばこに害があるのは、ニコチンでもなければタールでもない。正確にいえば、ニコチンやタールの害よりももっと悪いのは、熱い空気と一酸化炭素を吸うことにあるというのが私の「学説=新説・珍説」である。たばこの煙というのはけっこう高温なのだ。熱い空気を喉に吸い込むのが第一に体に良くないのだ。またたばこは煙っている。要するに完全燃焼していないのである。だからたばこの煙には一酸化炭素がいっぱい含まれている。いっぱい含まれているなんてもんじゃない、一酸化炭素ガスそのものを吸っているようなものだ。一酸化炭素は赤血球のヘモグロビンと仲がいい。これが一酸化炭素中毒の原因だ。たばこを吸う人は軽い一酸化炭素中毒の血液状態を自らつくっているのだ。

これは学識からではなく、経験的に知ったことだ。前にも触れたが、私は水泳は好きだったし、得意だった。しかし、たばこを吸うようになってからは息が苦しくなって、あまり泳ぎたくなくなった。30歳の時から、選挙に出た。いつも大声で演説しなければならない。選挙期間など1日中演説しっぱなしだ。どうしても喉を痛める。それでもたばこはやめらっれない。私は選挙期間になると缶入りピースを吸っていた。本数が少なくて済むからである。学識ではなく経験からいうことだから、専門的には間違っているかもしれない。私のこの説は、あまり信用しない方がいいかも知れない emotion icon 。人に私の説を押し付けるつもりはないが、私が私の理論を信ずるのは自由であろう。長年付き合ってきたマイルドセブンではあるが未練を残さず捨て、両切りのピースを吸うことにした。

両切りのピースが置いてある店や自動販売機は限られているが、買い求めることはそれほど困難ではなかった。ピースを買い求め、実際に吸ってみると今度は強すぎて弱ってしまった。またフィルターが付いてないのでちょっと吸いにくい。これは煙管で吸うのが良いと、すぐ思った。しかし、煙管を買い求めるのは意外に大変だった。こういうものはデパートにいくのが一番だと思い、三軒回ったが売っていなかった。最後にいったデパートの店員がシブチカ(渋谷のハチ公溜り場の地下商店街)の喫煙具店に行けばあると教えてくれた。さっそく行ってみると、いかにもたばこ屋のおばちゃんという風情のご婦人が、
「煙管、ありますよ。刻みたばこだって売っていますよ」
と待ち構えていた。
「刻みたばこを吸うほどまだ枯れていませんので、煙管だけで結構です」
といって2本買った。1本は20センチ、もう1本は携帯に便利だろうと思い12センチくらいの物である。

これはやはり大正解だった。まずむちゃくちゃ美味しい。たばこがこんなに美味しいものと久々に感じられた。しかし、煙管で吸っても、ちょっと強すぎた。昔、大人たちがたばこを半分に切って吸っているのを思い出した。私も半分に切って吸ってみた。これがちょうどいい感じであった。強いたばこなので、1回吸うと小1時間は大丈夫だ。私は思い切り楽しみながらたばこを吸うようになった。昔の大人は煙管入れの袋に半分に切ったたばこを入れていたが、それは持っていないのでピースの空き箱にいれて持ち歩いている。空き箱は無駄にならない。男の喫煙率が50%を割ったという。だからたばこの話もこの位にしておこう。

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健康生活を支えてくれたもの

私の健康生活の実践は最初は処女の如くであったが、9月頃からはかなり徹底したものであった。見方によれば過酷といえるかもしれない。何が私を支えてくれたのか述べよう。まず、体重を減らさなければならないという強い意志があった。体重を減らし減塩をして、薬をのまなくてもいい正常な体になりたいという強い願望があった。このことは冒頭に述べた。これは大切なことである。だから13キロの減量に成功したからといって、私は人にああしろこうしろとは決していわない。「もしあなたが本気で体重を減らしたいと思うようになったら、そんなに苦労しないで減らす方法を教えますよ」とだけいう。体重を減らすということは、自分の体内の脂肪を食べることなのであるから、どんな方法でも何らかの努力は必要であると思っている。その努力をしようという気持ち・モチーフは、他人に強制させられても長続きはしない。自らが自らに課すものでなければならない。運動は内的要因で起こるという毛沢東の言は、減量についてもいえることである。

散歩を中心とする運動している中で、健康づくりをしている多くの人々に会ってきた。その中には、不幸にして脚や手に機能障害を残してしまい、それを克服するために一生懸命努力している人たちも、沢山おられた。私も中風の体質だから、いつそうなってもしまうかも知れない。そうなってから一生懸命リハビリするより、そうならないようにこの際一生懸命努力してみようと思うようになった。脳梗塞かなんかで機能障害を負ってしまった方々がリハビリをなさるのは、決して楽ではないと思う。それに比べれば、まだ機能障害をもっていない私が運動するのは楽だし快適だ。いまやらなくてどうすると本気で思うようになった。リハビリだと思えば、2時間くらいの運動は大したことはないし、野菜食も塩分抜きの食事も苦にはならなかった。

しかし、運動には外的要因も大切なことだと毛沢東もその著『運動論』で述べている。家内は、亭主がまた変なことをやり始めたくらいにしか捉えてくれなかったようである。いつも変なことをして家内に迷惑をかけてきたのだから、これは仕方なかろう。多くの人は、減量食を家内に作ってもらったんだろうと思うようだ。結婚して丁度25年となるが、私は家でちゃんと食事をするということはなかった。朝はほとんど朝食会である。昼間家にいることはまずない。夜はこれまたほとんど夕食会・宴会だ。帰るのはだいたい午前さま。夜食もすませてから帰る。家で食べることもあるにはあるが、そういう雰囲気のある時は家内は何かを用意してくれていた。

こういうことであるから、家内がちゃんとした食事を作るというスタイルもないし、その必要もなかった。それに今回私が食事として食べようと思ったものは、料理などという代物ではない。まさに痩せるための極限の食事である。これは自分で作るしかないし、それが一番いい。

家にいることが多くなった私のために家内は料理を作っておいていてくれるのであるが、それは私が食しようと決めたものとはだいぶ違ったものだった。それまで私は大のご飯党であった。それを前提に料理を作るのであるが、ご飯を一切食べないのであるからおかずもぜんぜん違ったものになる。いや、おかずをムシャムシャと食べるような食事である。しかも塩気のぜんぜんないものを。こんな料理を作れと言われれば、どこの奥さんでも頭を抱えてしまうだろう。家内を責める気など、私にはまったくなかった。それでも肉じゃがとかカボチャの煮つけとか好物の焼き魚などを用意してくれたが、いくら薄味にしてくれといっても、おかず感覚だから私にとってはしょっぱくてどうしようもない。だから、最後には「わざわざ作らなくてもいいよ」と私の方からいった。もともと家内はあまりご飯を食べない方だったので、ご飯を炊くこともなくなった。ご飯がないのだから、ご飯を食べたくとも食べることができない。これは結果としてよかった。

私の健康生活の実践を精神的に強く激励してくれたのは、いまガンと戦っている兄であった。私は9人兄姉の末っ子だが、兄は9歳上に一人いるだけだ。この兄が2年前に大腸ガンで手術した。その時に前立腺ガンも見つかったのだが、どちらも5期になっていた。大腸ガンは手術でうまく取れたそうだが、前立腺ガンは5期になると手術できないとのこと。この2年間、ホルモン剤を呑んで前立腺ガンと戦っている。ちょうど70歳になるのだが、ガン如きでまだまだ死ぬ訳にはいかないといって、医学書などを読んでガン克服に努力している。ガンや健康法については、玄人はだしだ。本人は意気軒昂であるが、何といっても5期のガン患者であることには違いない。見舞いを兼ねてできるだけ兄の所に行くようにしているが、当然のこととして、私はいま現にやっている健康生活について話すことになる。それを全面的に評価し、激励してくれたのが兄であった。

私の健康生活は、ガン予防のためにも最も良いことをしているのだそうだ。例えば塩分を摂らないということは、ガンの予防のためにも非常にいいことなのだという。これは、初めて聴いた。運動して血流を多くして体を温めることも、ガン予防にもっともいいことなのだそうだ。大豆蛋白質をとっていれば、動物性蛋白など一切摂らなくても大丈夫だというのが、兄の考えである。納豆に含まれるナットーキナゼなどは、数万円の薬に相当する効果があるのだそうだ。こういう考えであるから、兄も私と同じような食事をしていた。だから話が合う。健康に関する話は、誰も傷つけるものでないから楽しい。健康生活を実践していた3ヶ月、毎月報告がてら兄の家に行った。兄は数年前に新潟の実家を引き払い、埼玉県久喜市に住んでいる。電車一本で行けるのである。兄の激励は、私の健康生活に弾みをつけてくれた。運動にしろ食事にしろ、このように激励や一緒にやってくれる仲間がいることは、成功の大事な秘訣だと思う。

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2007年1月19日掲載

いよいよ完結に向かって

この実践記もそろそろ終りにしなければならない。理由は二つある。ひとつは、私の「健康生活」の実践は昨年11月ころで実質的には終ってしまったからである。当時の記憶はかなりあいまいになってしまった。また最近の日々の生活はだいぶいい加減になったしまった。不健康生活になった訳ではないが、それほど自慢できる日々の生活を送っている訳ではない。当時のことを思い出して書き連ねるといまでもそんな健康生活をしているとの誤解を与えることを懼れるからである。もうひとつの理由は、健康生活を実践することにより私は心身ともに健康になり、現在はけっこういろいろなことをやっており、いろいろと書きたいことがでてきたからである。

私がこれまで書いてきたような普通の人からみたら尋常でない「健康生活」ができたのは、そのことに没頭できる時期と環境にあったからである。当時あえてまったく社会と断絶し、自分の意思で24時間をほとんど自由に決めることができた。10月の下旬頃から私は社会との接触を始め、最近では自分から社会と積極的に関わり合おうと思い、そのような生活を始めた。社会との接触はまだまだリハビリ中だと思うが、私の意思と都合だけでは動けなくなった。社会と断絶して生きることなど普通はできないし、またすべきでもない。社会と関わりながら健康生活をしてこそそれは誰にでもできることだし、また長続きすることもできる。

Webサイトを再開することを決めた時、上記リハビリはかなりかかると思っていた。そのリハビリ中にやることや考えることをWebサイトでノンビリと書こうと思っていた。安倍政権の誕生は、そんなにノンビリすることを許してくれないようになった。私は日本国憲法に帰依する者である。この憲法を改正すると明言する内閣の誕生は、私を刺激しないはずがない。またここで目覚め奮起しないようでは、私は私でなくなる。私が健康生活を実践できなくなっても致し方ない。私はこれまで述べた健康生活を実践している時、私が健康でいることが必要な時が必ずくる、だから焦らずにいまはこの健康生活の実践に専念しようと思っていた。私が思っていたよりその時が早くきただけだ。人間は時として自らの命を賭してでも何かをやらなければならない秋というというものがある。命を賭すのだから健康など省みれない場合もある。

しかし、それは真にやむを得ない場合だ。よほどなことでない限り、命と健康は大切にしなければならない。長い戦いをやらなければ決着をつけられないこともある。政治的な戦いなどはそういうものが多い。そうすると命と健康を守るのも戦いのひとつである。徳川家康が非常に健康に気を配り、当時としてはかなり長生きしたことは、彼の信念だったしそれは正しいことだったと私は思う。世捨人の健康生活では、普遍性はない。私のこれからの課題は、社会生活を普通にしながら健康生活を実践していくことである。それはこれからの永田町徒然草などで折に触れて書いていこうと思っている。そしてそれができてこそ本当の健康生活というものだ。

従って、とり合えずこの「健康生活」実践記を完結するにあたり述べることは、尋常でない健康生活を終った後の私の暮らしぶりとその中で実践していることが第一のテーマとなる。第二のテーマは尋常でない健康生活ではあったが、とにもかくもそれをやったことにより会得したことをまとめておくことだ。それでは最後の本論に入ることとする。

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70キロ達成で一区切り

8〜10月までの3ヶ月間、私はそれまでの自堕落な生活の延長線として社会との接触を避けてきた。そしていつまでもこうはしていられないであろうが、いまは健康生活の実践に専念しようと考えていた。最初のうちは健康生活の実践といってもかなりいい加減なものであったが、9月の下旬頃から10月いっぱいはかなり堂にいったものであった。健康生活を始めるにあたり当面の具体的な目標としていた70キロに日々確実に近づいていった。日々に成果がでると苦しいこともそれほど苦にならなくなるものだ。苦しいことに悦楽を感じることさえある。しかし体重減も決して一本調子ではなかった。この30年ちかく切ったことがない74キロを割ることはけっこう綱引きがあったように思われる。30年ちかく溶けたことがない氷河(脂肪)が溶けるのはやはり大変なことなのであろう。それまで順調に減ってきた体重が同じことをやっているのになかなか減らないのだ。1週間くらいの激しいバトルがあった。

当面の目標としてきた70キロに達したのは、11月3日だった。私の手帳には体重69.8とある。しかし私はどうせすぐリバウンドするであろうから、70キロを安定して保つためにも67〜68キロくらいまでこの際落としておこうと考えた。11月の中旬くらいまでは運動や食事はちょっとペースは落としたがそれでもけっこうやっていた。しかし頑として69キロの壁は割らないのだ。また運動や食事にそれまでの迫力がなくなったのも事実である。

ひとつは主治医の先生があまり無理をしないようにいったことである。まあだいたいこんなところでいいんじゃないですかというような調子なのだ。65キロまでぜひ体重を落としなさいとはいわないのだ。もうひとつの理由は私の同郷の友人で現在日本ダイエットアカデミー協会の代表者をやっている福崎昭一氏から基礎代謝量を割るようなダイエットは体を壊すと忠告されたからである。私の野菜テンコ盛りの食事は、基礎代謝量を割り込むおそれがあるというのである。私はカロリーゼロならそれにこしたことはないと思っていたが、そういうものではないらしい。摂取カロリーが基礎代謝量にも満たないと健康を害することになるのだという。福崎氏いわく、「ダイエットの基本は、決まった時間に腹八分目の食事をキチンととることです」

体重は少なければ少ないほど良いという私の考えはどうも間違っているようである。両人にそう指摘されたことが私の気勢を削いだ。そういわれてみれば確かに強い疲労感を感じることが時々あった。もうひとつは10月の下旬頃から社会との接触が始まり、その関係でインターネットを始めたことであった。1年半ぶりに永田町徒然草を更新したのは2006年10月30日であった。10月26日にコンピュータを設置しインターネットが見られるようになった。するとなぜか夜更かしが多くなってしまった。いま考えるとたとえバーチャルとはいえ社会との接触は新鮮かつ楽しかったのだろう。睡眠不足だと運動がどうしても厳しくなる。11月の中旬頃から例の散歩の回数が減り、12月に入ってからは1回もしていない。今年はお世話になった明治神宮に初詣に行こうと固く誓っていたが、温故の年賀状書きで無理をしたので行けなかった。今年になって例の散歩をしたのは、1月13日が初めてでありまたそれ1回しかない。運動に関してはこのようなのが現状である。

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食事は意外に持続している。

運動に関しては以上のとおりあまり褒められたものではないが、食事の方は意外に続いている。いまでも原則として野菜中心の食事を常食としている。しかし「尋常でない健康生活」の時と違うのは、ジャガイモかサツマイモか山芋を炭水化物源として少しづつ食べていることである。わが家には依然としてご飯はない。従って私は家ではご飯は食べない。塩分も自分からは積極的に摂らないようにしている。しかし鰯や秋刀魚の缶詰を野菜テンコ盛りどんぶりに入れたりして食べるのであるが、その汁はどんぶりの味付けとしていれる。家内が作った煮物などもそのままいただく。家内が作るものはもともと薄味だ。

野菜のテンコ盛りを美味しくいただくために、松の実・ひまわりの種・レイズンなどをかなり入れる。缶詰や魚の煮付けの汁などをほんの少しだがいれるので、なかなか旨いのだ。他人が思っているような惨めなものでは決してないのだ。できるものならばぜひ食べてもらいたいものである。スーパーに野菜を買いに行った時、アジフライを買ってくる時もたまにはある。たんぱく質はできるだけ豆腐と納豆で摂るように心がけている。あまい物があればデザートとしてたまにはいただくこともある。以前ほど極端ではないが、野菜中心の食事はいまではむしろ私の常食になっている。最近は仕事でけっこう出かける時や会食をする機会が多い。それは普通にいただく。それは私が食べているような野菜食ではない。だからそのような会食がある日はジャガイモやサツマイモなどはできるだけ入れないようにしている。

外食は会食などやむを得ない場合を除いてほとんど食べない。なぜならば野菜中心の食事など外ではほとんど食べられないからである。レストランで野菜サラダを頼んでも、腹一杯になるものなどない。中華料理屋で野菜炒めを頼んでも家で作る野菜中心の食事には及ばないからである。その上料金もけっこうする。その分スーパーで買えば、豪華な野菜を仕入れることができる。だから少々お腹が空いていても家に帰って自分で例の野菜テンコ盛り料理を作って食べる。その方がきわめて経済的だし健康的だからである。このような食事でけっこう満足できているのは、小さい時ほとんど野菜しか食べれなかったことを経験したからであろう。先祖返りだからそんなにつらくはないのだ。これをつらいなどといったら罰が当たる。しかしこれはまだまだ社会生活がリハビリ中だから可能なのである。もっと忙しくなり昼食と夕食を外で取らなければならなくなった場合にどうするかは今後の研究課題である。

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これにて完結!

温故の年賀状を書いていた10日間は、明らかに不健康生活であった。そのことは覚悟してやむを得ずやったことだ。尋常でない健康生活はやっていないが、そんなに不健康生活も送っていない。運動が明らかに少ないことは痛烈に反省しなければならない。だが現在のところ1キロのリバウンドですんでいる。すなわち私の現在の体重は71.0キロである。まあまあだと思っている。これ以上リバウンドしないように気をつけて、暖かくなったらちょっと運動を多くするようにしたいと思っている。

いまでも歩ける時はできるだけ歩くようにしている。万歩計は必ず付けるようにしている。でもかなり歩いたようでもなかなか1万歩にはならないものである。2時間みっちりと散歩するということがいかに大切か分る。スケジュールに余裕がある時などは、地下鉄で1駅であろうが2駅であろうが私は歩くようにしている。黒塗りの車やタクシーに乗って移動するのは、決して羨ましいことなどではなく時間のない人間がする愚かなことなのだ。強がりでなくいまでは本気でそう思っている。時間があるということはお金に換算すれば相当な財貨であることを私たちは知らなければならない。

要領など少しも良くなくてもいい、と最近本気で思っている。野菜中心の食事には満足しているし、それを自分で作るのも一向に苦にならない。けっこう手馴れてもきた。それでも主夫に過ぎないから、長年主婦業をやってきた人に比べれば決して要領は良くない。手馴れた主婦ならば1度で済ませるところを2度も3度もの手数をかけることが多い。最初のうちは自分に腹が立ったが、最近はそれで良いと思えるようになった。私はテレビの前のテーブルに座って料理を作る。その時に手際が悪いために2度も3度も起たなければならない事態が生じる。その時、ソファやテーブルに手を置かずに起つようにしている。痩せたとはいってもまだ71キロある。これが足腰のいい運動になる。そのお陰で運動不足を少しでも補えることになる。そう思えば要領が悪いことなど少しも腹が立たない。

私は最近めったに物を捨てない。たまにインタントラーメンやインスタント蕎麦なども食べる。炭水化物を摂ることも必要なのだ。しかしインスタントラーメンに付いているスープの素には塩分がいっぱいあることは知られている。だから私は半分も入れないでラーメンを作る。それでいまの私には十分だ。だが残ったスープの素を私は捨てない。これをテンコ盛りの野菜をチンする時、ふりかけると実に美味しい絶品の料理になるのである。たまにはそれくらいの物を食べないと野菜中心料理にも飽きがくる。塩分は多少摂ることにはなるが、野菜料理を続けることの方がはるかに大切なことである。もし塩分が多過ぎるというのであれば、1回ではなく2回使えばいいだけのことだ。こういう類のことは山ほどある。世界語となりつつある「モッタイナイ」に通じることなのだろうか。

前にたばこの項で述べたようにいま私は両切りのショートピースを半分に切ったものをキセルで吸っている。これに優るたばこをいまのところ私は知らない。しかし10数回吸うとヤニがたまり、タバコが美味しくなくなる。時にはすごく苦いヤニが口に入ってくることもある。だからキセルの掃除をしなければならないのだ。面倒くさいといえば面倒だが、そんなに効率よくたばこを吸ったところで褒められるのだろうか。たばこなどできるだけ少ない方がいいことくらい私でも知っている。ヤニがたまったなぁと思ったらできるだけ早めにキセルの掃除をする。新聞紙を程よく切ったもので紙縒り(こより)を作る。丈夫な紙縒りを作るのはけっこう難しいのだ。時には急いで紙縒りを引き抜こうとして切ってしまっいキセルが使えなくなることもある。こうなったら一大事だ。このキセル掃除は、たばこを美味しくいただくための偉大なる雑事なのである。

食事・運動・生活スタイルをコペルニクス的に変えることにより、私のものをみる目や考え方もコペルニクス的に変化した。マイナス面もあるかもしれないが、ほとんどは良かったと私は思っている。いままでが異常だったのかもしれないが、ようやく私は多くの人々が日常思ったり考えていることが理解できるようになった気がする。政治家は偉大なる常識人でなければならないと私は考えているが、やはり普通の人が日常やっていることをできるだけ自分でもやらないと本当の常識は身につかない。こんな視点からいろいろと感じることや考えることをこれから永田町徒然草で書きたいと思っている。ここで長々とそのことを書くよりも良いと考えるからである。従って以上で私の「健康生活」実践記を完結させていただくこととする。長いことお付き合いいただいたことを心から感謝する次第である。(終り)

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