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リベラルこそ、新世紀の指導理念 昨年の12月16日から、それこそ徒然に書き始めた「20世紀末のわが国の政治的虚空」、前号の<その9>をもってひとまず脱稿しました。最後の部分は、ちょっと端折(はしょ)り過ぎたのではないかとは思っています。しかし、この部分は改めてのべた方がいいと思いましたから、そうしました。長い間お付き合いいただきましてありがとうございました。これをまとめまして「リベラルこそ、21世紀の主導的政治理念」として、 Webサイトに掲載しました。 永田町徒然草もそれなりにかなり丁寧にみた上で掲載しているつもりですが、改めて見てみるとかなり誤字・脱字やこなれていない表現がけっこうありました。それらを訂正するとともに、見出し・小見出しをつけたりしました。まだみていない人は、どうぞこちらをご覧ください。また、これまで読んでいただいた方も、ザァーと見ていただければ幸いです。標題をどうするか迷ったのですが、新世紀になってはじめて私のサイトを訪れた方の目に、いきなり「20世紀末…」では興醒めなのではないかと思い、また結論を考えて「リベラルこそ、21世紀の主導的政治理念」としました。 21世紀を迎えたにもかかわらず、わが国はあらゆる分野で分厚い壁に突き当たり、新しい展望を見出せないでいます。混乱と閉塞感がわが国を覆っています。しかし、私たちはひとつの大きな潮流をはっきりとみることができます。国民はあらゆる分野で自由にして公正なものを求めているということです。政治ついていうならば、社会的公正を重視する自由主義、すなわち「リベラルな政治」です。国民はリベラルな政治を求めているにもかかわらず、自公保連立などという国民の考えに真っ向から反する政権がこの日本を支配しています。 本人が意識したかどうかは別にして、加藤紘一氏の決起は自民党リベラル派の決起でした。国民はこれを支持しました。加藤氏が自壊しなかったならば、日本の政治はあの時点で大きく変っていたはずです。加藤氏の自滅は、自民党リベラル派の死滅を意味しています。確かにひとつの痛恨事ではあります。しかし、日本の政治は、今年7月に行われる参議院選挙によって必ず大きく変るでしょう。加藤氏の行動を支持したあの津波のような動きが必ず出てくるという予感が、私には確実にあります。 自由を求める国民は大きな力をもっており、これに敵対するあらゆるものを打倒することなど、実は造作(ぞうさ)もないことなんです。わが国の21世紀の希望を作り上げることは決して難しいことではありません。国民が求める自由に反するいろいろな障碍を取り除くことによって、私たちは希望と活力に満ちた新世紀を創ることができるのです。そのためには、国民の良識と能力を信頼し、国民の自由をさらに強く保障することによって、国民の叡智と逞しい活力を引き出すことがいまいちばん大切なのです。 「政治的虚空」を書きながら、いろいろな角度から日本の政治を分析すると、21世紀の課題とそれを可能にする道筋がかなりハッキリと私にはみえてきました。このような視点から、日本の政治についてさらに情報をどんどん発信していきます。21世紀の政治は、なんだかんだといっても必ず変ります。歴史とはそういうものです。インターネットがひとつの大きなトリーガー(銃の引き金)になることはいうまでもありません。白川サイトは、そのようなサイトとしていくつもりです。ぜひ、ときどき訪れて下さい。 今日は小正月です。改めて今年がいい年でありますように! 14:30東京の事務所にて |
20世紀末のわが国の政治的虚空(その9) <いわゆる政権担当能力について> 1月7日に放映されたNHKの「日曜討論」で、保守党党首の扇千景さんが、「野党は自公保連立政権打倒というけれど受け皿がないじゃないですか。私たちには、自公保という受け皿がちゃんとあります」といっていました。私は扇千景さんが自民党にいたときからよく知っています。扇さんは、自民党が野党になった平成5年にはまだ自民党にいました。党の政治改革本部の会合などで、こんな自民党ではもうダメですよというようなことをさんざんいっていました。そして、自社さ政権ができる少し前に自民党を離党していったと記憶しています。 この人は宝塚出身だけに演説はたいへん上手く、いろいろの会で自民党の宣伝をしていましたが、要するに自民党だけが政権担当能力がありますという類の演説をしていたような気がします。旧福田派に属し、いわゆる自民党の保守派の宣伝政治家といっていいと思います。扇さんの冒頭の言い草を聞いて、もう少し若かったころの彼女の雄姿を改めて思い出し、それと二重写しのものを感じました。人間というのは、変らないというのか進歩しないといえばよいのか、まあそういうものですなー。 扇さんのことはいいとして、各種の世論調査などで自民党がいちばん評価されているところは、政権担当能力があるということです。自民党のいいところは、、現に政権党であるということと政権担当能力がいちばんあると見られていることといってよいと思います。しかし、多くの国民は自民党の政治を支持していません。矛盾といえば、これほどの矛盾はありません。これはもう笑えないジョークです。どうしてこんなことになるんでしょうか。 私にいわせればこういうことです。ある程度の数のある政党ならまたどんな連立の組み合わせだって政権を担当することはできるし、いま現に政権を担当している自公保連立にも真の政権担当能力なんてないということです。現に細川連立内閣だって存続しえたし、自社さ連立政権だってけっこう長く存続しました。このことからいっても、またいわゆる革新自治体だってけっこう持ちました。日本の官僚機構はそれほど優秀だし、したたかだし、また尊大だということです。政党や政治家をちゃんと立てることをしながら、自分たちのやりたいことは少しも譲ろうともしなければ、譲りもしないということです。 ある政党に政権担当能力が本当にあるかどうかは、その政党が掲げる政治的理念にしたがって官僚組織をちゃんとコントロールして実際の行政に反映させる力があるかどうかということです。そんな能力など、自民党にだって全然ないとはいいませんがごく一部で、ほとんどないといった方がいいでしょう。長年この党にいる、そして大臣をしたこともある私がいうのですから間違いありません。政策通といわれる政治家のほとんどは、課長補佐や係長が持っている知識を知っているというという程度の話であって、その官僚の論理のどこが間違っていてどう変えさせるかという能力ではないのです。政治家に求められている能力とは、そういうものだと私は思っています。 いま、みんなが政治は変らなければならないといっています。国民は政治を変える力を持っています。しかし、実際の政治を変えるためには、官僚組織をちゃんとコントロールして行政のやり方をキチンと変えなければ、国民が願っている政治を変えることにはならないでしょう。そのためには、本当に優秀な能力のある政治家や政党が必要なのです。ある程度の政党は、官僚組織に対抗する知識と能力のあるシンクタンクを作るくらいのことをしなければならないと思います。 しかし、こんなことは一朝一夕にできることではありませんから、役職についた政治家が修羅となってやらなければならないことだと考えます。自治大臣になったとき、私は自治行政にそんなに知識があったわけではありません。それでもいくつかのことをやりました。まず、地方自治体が外国人を採用するかいなかはその地方自治体の自由にするということでした。それまでは、自治省は事実上何の法律的根拠がないのに「当然の法理」としてこれを制限していました。 自治省は、都道府県や大きな地方自治体に自治省の職員を出向させています。私は、そのことはいいとしても同じポストに連続して出向することを止めさせました。そうすれば、その自治体の特定のポストが自治省枠として固定することを防げると考えたからです。私がこの構想を発表したところ、同じ内閣で厚生大臣をしていた小泉純一郎氏と建設大臣をしていた亀井静香氏も、わが省もそうすると賛同してくれました。しかし、ふたを開けると実際は全然変っていませんでした。私はひとつの例外もなく実行しました。こんなことは、大臣が頑として厳命すればできるのです。 このほかにも、投票時間の延長・不在者投票の条件緩和を徹底的にやるように支持しました。その結果、現在のようになったのです。自民党からは恨まれていますが、民主主義のためには致し方ないと思っています。また、新幹線の建設に交付税措置を行い、新幹線建設費を50パーセントUPしました。これなどは、財政局長と3日間徹底的に議論して決めました。これまでにも話題になったことはあるのでしょうが、官僚の抵抗にあって決められなかったのです。 私は自治行政にそんなに深い知識はありませんでしたが、わずか10ヶ月の在任期間でもやる気になればこのくらいのことはできるのです。大臣には、それだけの権限があるのです。ですから、政党や政治家が本気に行政を勉強して、いま国民の視点にたって改革しなければならないのは何かを真剣に考えれば、政治はいくらでも行政を変えることができるのです。そういった能力のある政党や政治家が、本当に政権担当能力のある政党であり政治家だと私は考えています。またこのようなことが実際にできるようになったとき、政治指導の政治(行政)が行われたということができるのだと考えています。 最後にもうひとつ、この際いっておきたいことがあります。それは、官僚の堕落ということです。明治以来の官僚は、「我は、国家なり」という気概と気迫をもって仕事をしてきました。日本に本当の政治家がいなかったのですから、彼らがその気概と使命感をもってこの日本の設計をしてきたのです。明治・大正の高級官僚は、官僚であるとともに政治家でもあったのです。戦後の復興をリードした高級官僚にもそのような気概と気迫がありました。私が国会にでた昭和54年のころは、まだ少しはそのようなものを感じさせる官僚がいましたが、最近ではそのような官僚は本当に少なくなってしまいました。このことは、優秀な官僚がそういうんですから、まず間違いないと思います。官僚自身も自己改革をしなければならないとこの際ハッキリといっておきます。 <大河の流れを見つめよう!> 私は、信濃川をみて育ちました。いま自分が見ている河は日本一の河であるということは、私の人間形成にかなり大きな意味をもちました。いま、私たち政治家がいちばん真剣に考えなければならないことは、国民は何を考え何を求めているのだろうかということだと思います。1億2700万の日本人のものの考え方や意見は、それこそ無数にあります。しかし、それらを貫き大勢としてどこに向かっているのか、また向かうべきなのかをみる眼力がなければ、政治家ではないと思います。 すべての政治的・経済的・社会的現象を貫くいちばん基本的なコンセプトは、自由ではないでしょうか。そして、それは評価すべきことだと私は考えます。私は、自由を求める国民がアナーキーな無責任な動きをしていないと思います。自分の自由を求める国民は、他人の自由を尊重することをちゃんと心得ているとみています。このことさえシッカリしていれば、自由主義の原理でこの国を運営していくことは大丈夫なのです。多少の例外がないわけではありません。しかし、いま私たちが見なければならないのは、大勢なのです。目の前の大河の流れなのです。 この日本を自由主義の原理で運営していくことは、いまや国民的合意━コンセンサスがあります。しかし、これをちゃんとわきまえた政党があるかというと、先にみたとおり、自民党にも民主党にも自由党にもそういう人もいれば残念ながら自由主義者とはいえない人もけっこういます。すべての問題はここにあると私は考えます。本来ならばそれぞれの党がこのことについて真剣に議論して、本当に国民の期待に添う党になったならば、その党は多くの国民の支持を得ることができるでしょう。 政党にはそれぞれ歴史もあり、経緯もあります。そう純粋な理論や原理だけでひとつの政党を作れるものでもありません。それはある程度やむを得ないことだとは思います。しかし、これだけ政党離れが進んでいることを、政治家は真剣に受け止めなければならないと思います。いまいちばん国民の支持を多く受けている自民党も、公明党との連立と今回の加藤騒動で自由を愛する人たちの支持を失ってしまいました。大河を貫く自由を愛する国民のからみたら、特殊な人々が作っている政党・政権になっているのだと思います。それが極端に低い内閣支持率なのだと思います。事態は、極めて深刻なのです。 昭和45年、言論出版妨害事件であまりにも有名な『創価学会を斬る』の中で、藤原弘達氏はこういっています。
慧眼というのは、恐ろしいものです。いままさに自民党は公明党と連立を組んでいます。そして中曽根元首相、石原都知事、野中弘務、亀井静香などといった政治家が異常に張り切り権勢を誇っています。自民党は選挙で負けながらも、なぜか自公保連立政権は安定しています。そして、長年の懸案事項があまり本格的な議論もない中で、トコロテンのように次から次と国会を通過しています。まさに藤原氏が危惧していた事態が現に起こっています。だから、国民は自公保連立政権に強い危惧をもち、一貫して不支持の表明をしているのだと私は思います。 しかし、政治の世界で公明党の政権参加を問題にし、批判する人はほんのわずかとなっています。マスコミも労働組合もほとんど問題にしたり、批判していません。本当は心のなかではおかしいと思いながら。なぜでしょうか。率直にいって創価学会=公明党が怖いからです。創価学会=公明党は敵対者や批判者に対して容赦ない攻撃を仕掛けています。その一方で、いろいろな懐柔策を膨大な組織と豊富な資金を使って行っています。その結果なのです。私は、ここに一種のファシズム的なものを感じ、深い危惧もっているのです。 国民は自由を求めているにもかかわらず、自公保連立などという藤原氏がファッショと呼ぶものがこれに対峙しています。いま日本の政治を考えるとき、これが本質的な問題です。しかし、自由を求めるこの大河の流れを堰きとめることなどだれもできるはずがありません。このことをシッカリと認識し、果敢に行動することが、自由を愛する政治家のなすべきことです。 それぞれの政党には、それぞれの歴史的経過があり、それゆえに理念的には不完全であり未完成です。自民党についていえば、リフォームによって本来の自由民主党という名にふさわしい党となることは、もう不可能なのではないかと私は考えています。加藤騒動はこのことをハッキリさせてしまいました。他党のことを私はここでいうつもりはありませんが、似たような事情がそれぞれあるように感じます。少なくともリフォームをする程度で、自由を求める国民の大多数の支持やアイデンティティーを得ることができる政党はないように思います。 現在の状況は、ちょうど幕末に似ていると思います。政治家はみなそれぞれの政党や派閥に所属していますが、21世紀の政治や国民の政治意識からみたら、それはあまりにも古くなり硬直化しています。その政党や派閥を少々リフォームしたくらいでは、新しい世紀の課題に応えることもできませんし、国民の政治的意識にマッチしたものとなることはできません。明治の志士たちが、それぞれの藩を離れて日本という国を考えたとき、明治維新が始まりました。これと同じようなことを考えなければならない、それがいまの政治を閉塞状況から解き放つ唯一の道だと思います。 自由を愛する政治家は、己を束縛している政党から自由であれ、これが21世紀初頭の政治の課題であり、ここから出発することが新しい世紀の政治をつくる唯一の道であると私は考えます。 (了) 11:30東京の事務所にて |
20世紀末のわが国の政治的虚空(その8) <国民の政治意識と政党とのミスマッチ> すべての国民がリベラルな政治意識をもっているなどという気は毛頭ありません。いろんな政治的考えがあることを否定もしませんし、あってもいいと思っています。しかし、6~7割の国民の政治的意識や価値観はリベラルなものであるというのが、私の考えです。仮に、多くの国民にその意識がなかったとしても、その人たちのいっていることや行動を分析すれば、これは否定できない事実だと私は思っています。このような政治理念や政治的価値観をもつ人たちが、どのような政治行動をとっているのか、みてみたいと思います。 自由主義を支持するほとんどの人たちが、55年体制のもとで自民党を支持してきたことは、否定しがたい厳然たる事実だと思います。なぜなら、自民党以外の政党は、自由主義以外のものを指導理念としてきたからです。しかし、自民党が自由主義に忠実な党であったかどうかは、別問題です。まったくゼロなどという気はありませんが、他に自由主義を主張する政党がなかったために、自民党があまり自由主義に忠実でなかったとしても、リベラルな人を含めて自民党を支持するしか選択肢がなかったことは確かだったと思います。 冷戦構造が崩壊して事情は一変しました。これと相前後して起こった自民党の分裂が、これに拍車をかけました。そして現在の国民の政治意識━価値観と支持政党の関係はかなり複雑です。ミスマッチもあります。 まず、自民党からみていきます。これまでの長い歴史からいって、この党のなかにリベラルな潮流はまだ厳然とありました。それゆえに自民党を支持する人たちがかなりいたことは事実です。これは自民党のひとつの遺産といっていいと思います。しかし、わずかの間に大きな変化が生じました。 そのひとつが、自民党が公明党と連立を組んだことです。公明党との連立によって、自民党はこれまで自民党を支持してきた宗教団体の票を失ったということはよくいわれています。このことは事実ですが、それだけではないのです。公明党との連立によって、自民党はリベラルでないという馬脚を現してしまったために、これまで自民党にリベラルなものを求め期待していた人たちの心を完全に失ってしまったのです。 もうひとつは、最近の加藤騒動です。加藤氏は、本人が意識するかどうかは別にして、自民党リベラル派の頭目であり代表とみられていました。そして、それはそんなに大きな間違いではなかったと私は思っています。加藤氏の決起は、自民党リベラル派の決起でした。その加藤氏の決起をみるも無残に鎮圧した自民党を、リベラルなものを求め期待してこれまで自民党を支持してきた人たちは、完全に見放してしまいました。 この変化が最初に現れるのは平成13年夏の参議院選挙ですが、自民党の多くの人が考えるよりかなり大きいものだと私は予想しています。そのかわり、リベラルのものを求める人たちと自民党とのミスマッチはかなりなくなったと思います。 自由党ですが、自由主義を支持する人たちの支持を受けていることは、小沢党首の経歴や主張や党名から明らかです。しかし、リベラル志向の人たちの支持を受けてきたかというと、これまた小沢氏の経歴や言動がわざわいして、そのような人たちがいないとはいいいませんがあまり多くはないような気が私にはします。創価学会=公明党と最初に政治的な連携をやったのが小沢氏であったということは、率直にいってリベラル派にはかなり受け入れがたいもの ─ 抵抗があり、これがかなり大きな原因となっていると私はみています。 民主党は、新党さきがけの鳩山由紀夫氏と菅直人氏が中心になって旗揚げした政党です。少なくとも鳩山氏や菅氏が掲げる理念には、リベラルなものがかなりあります。現にこのため、リベラル志向の人たちのかなりの層が自民党支持から民主党支持に変ったことは事実です。しかし、旧民主党結成のときにかなり多くの旧社会党の人たちが入ったこと、現在の民主党になるときには旧新進党の人たちがかなり多数参加したことが、この党の性格をいまひとつハッキリしないものにしています。リベラル志向の人たちが大挙してこの党に向かわなかった原因も、こうしたことにあると私は思っています。 最近になって、鳩山代表と横路副代表との間に集団自衛権の問題をめぐって論争・確執がありました。このことは集団自衛権をめぐっての論争の是非というより、この党が旧社会党的なものを根強く引きずっているということを、改めて強く国民に印象付けたと思っています。この党に、リベラルな考えをする人たちとそうでない人たちが混在していることは確かです。現在はリベラル派がこの党の主流派を形成していますが、実際の選挙となると労働組合に大きく依存せざるを得ないために、自由主義政党さらにはリベラルな党に純化していくには大きな障害があります。これがこの党の最大の問題であり、課題でしょう。 リベラル志向の人たちが公明党を支持することは、ほとんどネグジェブル (negligible=無視できる) と考えていいのではないでしょうか。共産党には、若干のリベラル派の票が流れていると私は思います。自民党がリベラルでないと考える人たちが、批判票を投じる意味で共産党に投票しているからです。社会民主党にも、同じような意味での批判票が入っていることも事実でしょう。人権闘争などを通じて、リベラル派の支持がこの両党にあることは否定しがたい事実でしょう。 <無党派と政党との関係> 世論調査で支持政党なしと答える人たちが、50パーセント前後になっています。この人たちのことを、ふつう、無党派もしくは無党派層と呼んでいます。また、この人たちも自らを、無党派もしくは無党派層とよくいいます。無党派、もしくは無党派層という言葉は、実はそんなに古い言葉ではなく、10年くらい前から使われだしたいい方です。以前は、政治に対して関心がないという意味で、無関心層と呼ぶことが多かったと思います。また、この人たちの票を浮動票と呼んだりしていました。 ふつう、無党派層と呼ばれる50パーセント前後の「支持政党なし」と答える人たちを、ひとくくりに無党派層ということに、私は前から異論をもっています。支持政党なしとする人たちのなかには、政治にほとんど関心がないため特に支持政党もなく、また選挙のときほとんど投票に行かない人たちは、昔と同じようにいまだってかなりいるということです。一方ではその人たちと違い、政治に関心もあるし (特定政党を支持する人たち以上に深い関心をもっている人も相当います) 選挙のときには実際に投票するにもかかわらず、特に決まった支持政党をもたない人たちも、世論調査上は同じ「支持政党なし」となるわけです。歴史的には、こうした人たちを「無党派」と呼びだしたのです。 政治にほとんど関心もなく、実際に投票にもほとんど行かない人たちのことは、「無関心層」といっていいのではないでしょうか。これと無党派もしくは無党派層 (以下、無党派といいます) と呼ばれる人たちは、やはり分けて考えなければなりません。それでは、世論調査で支持政党なしと答える人たちのどのくらいが無関心層で、無党派の割合はいったい何パーセントくらいなのでしょうか。 専門家にいわせれば、いろいろと説はあるとは思いますが、無関心層といわれる人たちも、政治状況や選挙情勢によって投票に行くこともけっこうあり、絶対的なものではありませんから、その割合・比率を厳格に論ずることは、あまり意味はないと考えます。私の経験からいえば、無党派と呼ばれる人たちは、支持政党なしと答える人の半分よりちょっと多め、と考えて、そう大きな間違いはないと思います。 無党派の政治的意識 ─ 価値観は、リベラル的なものだということは、先にのべたとおりです。そして、その政治的行動は非常に反自民的だということも先にのべました。無党派の多くは、すでに自民党にリベラル的なものを感じていないということです。しかし、民主党にも自由党にも自分たちの政治意識 ─ 価値観を感じることができないため、あえて無党派として存在しているのだと考えます。 ただ、無党派の実際の投票行動は、民主党や自由党などに投票する傾向が強くあります。民主党の候補者が獲得する票は、世論調査上の民主党の政党支持率の2.5倍~3倍と私がいつもみているのも、こうした理由があるからです。これは、何が何でも民主党ということではないのです。その選挙において自民党以外の有力な候補者がいれば、民主党候補ではなくとも、無党派の票はその有力候補者に向かいます。無党派は、民主党に縛られてはいないのです。だから、無党派なのです。 無党派は、いっさいの政党支持を拒んでいるわけではないと私は考えています。ですから、無党派がアイデンティティを感じることができる政党が出現したら、その政党は非常に短期間のうちに大きな勢力になることができるでしょう。政界再編成ということがいわれていますが、要は、国民の多くがアイデンティティを感じることができる政党をつくる試みだと、私は思っています。無党派のアイデンティティを掴むことに成功するということは、いまある政党を支持している人たちの多くも巻き込むこともできるでしょう。そういった意味で、無党派の政治行動は注意深くみていく必要があると、私は考えています。 (つづく) 12:00東京の寓居にて |
今年も頑張りましょう! 今日から仕事始めという方が多いのではないでしょうか。新世紀を迎えて、新しい気持で職場に初出勤したことと思います。今年1年、気持も新たにそれぞれの課題に思い切ってチャレンジして下さい。ご多幸をお祈りいたします。 『シンジケートとしての創価学会=公明党』、『システムとしての創価学会=公明党』、最近では『カルトとしての創価学会=池田大作』という3冊の労作を出版した古川利明氏をご存知ですか。いずれもたいへん読み応えのある本です。昨年の暮れ、私は古川氏と会いして、いろいろとお話を聞かせてもらいました。その際、「僕の方で載っけますから、ときどき白川BBSに投稿する原稿をメールして下さい」とお願いしておいたところ、元旦にメールをいただきました。非常に示唆に富むものですから、BBSではなく、Webページとして掲載しました。ぜひご一読ください。 昨年の12月16日から6回にわたって掲載してきた「20世紀末のわが国の政治的虚空」ですが、20世紀中と思って書きはじめたにもかかわらず、21世紀までもち越すことになってしまいました。それだけ問題がいろいろあるということです。現状を深く分析することによって、21世紀の政治の課題がみつかってくるのですから、あと数回つづけます。お付きあい下さい。 09:30東京の事務所にて 20世紀末のわが国の政治的虚空(その7) <21世紀初頭の政治理念はなぜリベラルなのか> 私は、21世紀初頭の10~15年くらいの日本をリードする政治理念は、リベラルなものと考えています。そしてきっとそうなるでしょう。それは、日本ではまだあらゆる分野で自由化がなされていないためです。これからの日本の政治課題はあらゆる分野の自由化です。これは裏を返せば、日本には政治的・経済的・社会的にまだまだ自由がないということです。現に自由を阻害している制限や規制や社会的因襲が数多くあります。しかし、それらはそれなりに自由競争の結果もたらされる不平等を阻止していることも事実です。自由化を進めるということは、このような不平等が顕在化してくることは避けられません。 くどいようですが、自由化をはかりながら社会的にたえられない不公平・不平等は回避するということがリベラルな考え方です。わが国の自由化政策は、すべての分野においてこのような仕組みをセットしながら進めていかざるをえないでしょう。それがまた国民の基本的なコンセンサスだと私は思っています。たとえば、預金や生命保険を金融機関や保険会社が破綻しても1000万円までは保護するなどといったペイオフ制度はそのひとつでしょう。官僚機構は、このようなマインドがあることを理由に制限や規制を撤廃しないようにしたがっていますが、それは違います。日本はあらゆる分野の自由化をしなければならないのです。自由化をした上でどのようなセーフティ・ネットを設けるかを考えていかなければならないのです。一見似ているようにみえるかもしれませんが、それは現在の制限や規制とは性格が全然違うことなのです。ここのところを私たちはキッチリと見分けなければなりません。 強大な官僚組織の制限や規制あるいは日本的な慣習や因襲で守られてきたわが国の秩序は、自由化によってある程度の混乱やフリクッションを避けてとおることはできないでしょう。またこのことを見こしたり想定して、左右の全体主義者などとはいいませんが非自由主義者たちは自由化に反対するでしょう。国民はこうした人たちと戦わざるをえないでしょう。しかし、あらやる分野で果敢に自由化を進める以外に、厚い壁に突当っているわが国の諸問題を解決する方法はないのだということを私たちは心に銘じておかなければなりません。 第二次世界大戦に敗れ、すべてのものを失ってしまったわが国が奇跡の復興を成し遂げたのは、新しい憲法によってそれまでより大幅な自由を手にしたからだと私は考えています。自由を手にした国民は、あらゆる分野で自由闊達に行動し、新しいものを作ってきました。21世紀においてわが国がひきつづき発展するためには、国民の能力や活力や智慧を信頼するしかないのです。自由主義者が自由化を主張するのは、国家・国民を愛するからです。自由主義者はアナーキストでもなければ、無責任な政治家ではないのです。人類の歴史が明らかにしている自由主義の原理原則に揺るぎない信念をもつ政治家なのです。国民の能力と活力と智慧を信頼している政治家が、リベラルな政治家なのです。 (つづく) |
21世紀明けましておめでとうございます 21世紀はじめての元旦です。お互いにこうして元気にこの記念すべき朝を迎えることができたことを、心から喜びたいと思います。この世紀が、そしてこの1年があなたにとって素晴らしいものとなりますことを心からお祈り申し上げます。 私たちはこれまでにどれだけ「21世紀」という活字を見たり、口にしてきたでしょうか。数え切れないと思います。政治家などは、口が腐るほど21世紀という言葉を発してきました。日本が順調な経済発展をしているときは、21世紀という言葉はそのままさらに発展する未来の代名詞でした。多くの日本人が21世紀を夢見て、相当オーヴァーランしました。それがバブルの時代だったのかもしれません。 バブルが崩壊して約10年。こんどは、日本人は現状を悲観し、保身に走り、未来を素直に信じることができなくなったような気がします。閉塞感とか制度疲労とか構造改革などという言葉が多く使われるようになりました。しかし、その割には現実の改革に果敢に挑戦することは少なかったような気がします。このことは、不況対策ということでかれこれ300兆円以上が使われたにもかかわらず単に公債残高が膨らんだだけで、景気も回復しなければ構造改革や行政改革もほとんど進んでいないことに象徴されていると思います。 いろんなことがありましたが、諸行無常。20世紀においてこの日本は大きく変りました。私は昭和20年(1945年)の生まれですので、実体験としては20世紀後半の50年しか分かりませんが、この間のわが国の変化は大変なものだったと思います。経済の発展はいうにおよばず、社会的なものも大きく変ってきました。国民は、因襲や諸制約から独立し、自由闊達に行動できるようになりました。私は、20世紀のわが国の歩みを素直に評価するひとりです。国家主義的なものをもっている人たちとは、戦後や現実に対する認識や評価が明らかに違います。 しかし、私がいちばん関心をもち、深く関わってきた政治についていうと、日本の政治は本当に進歩・発展してきたのだろうかという懐疑心をもたざるを得ない昨今です。ほんの一例をいえば、自民党と公明党との連立です。中曽根康弘氏や宮沢喜一氏は、政治的なスタンスは違いはするものの戦後の自民党の政治に長く携わり、自民党の政治をつくってきた人です。この人たちが、自民党と公明党との連立に何の疑問ももたず唯々諾々としてこれを許容しているのをみていると、率直にいって政治は後退しているのではないかと私は思っています。 創価学会=公明党を許容することやこの勢力に迎合することは、自由主義を信奉する政治家として考えられないことだからです。戦後、日本人はあらゆる分野で自由を拡大して自由な国・社会をつくってきました。その先頭にたってさらにこれを進めなければならない「自由」民主党が、政治的には自由と完全に敵対する創価学会=公明党と連立を組むなどということは、まともな自由主義者としては考えられないことなのです。 1970(昭和45)年の言論出版妨害事件で有名になった『創価学会を斬る』のなかで、藤原弘達はこう指摘しています。 「公明党が社会党と連立政権を組むとか、野党連合の中に入ることは、まずありえないと考える。その意味において、自民党と連立政権を組んだ時、ちょうどナチス・ヒットラーが出た時の形態と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における狂信的要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁を安定化する機能を果たしながら、同時にこれをファッショ的傾向に持っていく起爆剤的役割として働く可能性も非常に多く持っている。そうなった時には日本の議会政治、民主政治もまさにアウトになる。そうなってからでは遅い、ということを私は現在の段階において敢えていう。」 さすがは天下の大政治評論家、藤原弘達です。藤原弘達氏は、率直にいって自民党に好意的な政治評論家でした。その藤原氏でさえ、こういっているのです。このことは、俵孝太郎氏についてもいえることです。自民党大会に招待し挨拶までさせたことのある政治評論家なのです。こうした政治評論家の警世の言葉を受け止めることができない自民党は、理性をなくしたというべきか仁義を失ったというのか、保守政党の風上にはおけない政党に堕落してしまったのです。 自民党の歴史からいって、現在はいちばん自民党が堕落しているときだと私は考えています。このような政党が政権をとっているのですから、日本の政治も堕落しているといってもいいと私は思います。そんななかで私たちは21世紀を迎えました。20世紀的価値観でも堕落していると考えられる政治体制のもとで、私たちは21世紀の未来を切り拓いていくことなどとうていできません。現在の政治の最大の課題はここにあります。 私が「世紀末のわが国の政治的虚空」で明らかにしたいことは、どうしたら21世紀にふさわしい政治体制をつくることができるのかということです。悲観すべき現状は多々ありますが、これからの可能性を示唆する事象もハッキリとでてきております。自由の流れはとうとうたる大河のようなものです。この流れに逆らったり敵対する政治的勢力に、未来などあろうはずがありません。このことに確信をもって政治を考えること、政治的行動をすることだと私は考えています。 なにはともあれ、今年も意気軒昂に頑張りますので、ときどき白川サイトを覗いてみてください。最後にもう一度、今年一年のご多幸をお祈りします。 00:10上越市北城町の自宅にて |
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