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大世紀末の大政局観(その5) 今日未明に就眠して、今朝の新聞に目を通し、なかなか考えが整理できず、いまになりました。この10日間ばかり、私もいささか緊張していたために、昨晩の幕切れはあまりにもあっけなく、不甲斐なく、また不可解で、なかなか眠ることができませんでした。そして、なによりも加藤紘一という政治家がこれから歩まなければならない道に想いをいたすとき、あまりにも悲しくかつ痛恨やみがたいものがあり、長年の盟友だけに私の心のなかで整理できないものがありました。賛成から欠席に路線をかえたのは、やはり数であったようです。 加藤氏のサイトには、まだ何のコメントもありませんが、山崎拓氏のサイトには、次のような山崎氏のコメントが載っています。
私は、昨日の永田町徒然草No.103で次のように書きました。
私がいいたかったこと、国民が期待していたことは、こういうことだったのです。残念ながら、昨日の加藤・山崎氏の行動は、このことに応えるものではありませんでした。それだけに、加藤氏の行動を支持してきた方々には、大きな失望となってしまいました。白川BBSの意見も圧倒的にこのようなものです。また、テレビや新聞に寄せられている声も同じです。いま私が危惧するのは、このリアクションです。期待が大きかっただけに、そのリアクションは大きいと思います。しかし、加藤氏は自ら決断したことですから、その責任も、自ら取らなければなりません。それが自由主義政治家の生き方です。厳しいことと思いますが、隠忍自重の上、今回の変革の志が本物であったことを国民の前に示されることを、心からお祈りします。 いろいろな意見があると思いますが、これまでも述べてきたように、加藤騒動を鎮圧した自民党執行部が本当に勝利したわけではないというだけは、改めて確認しておきます。これから、自民党・自公保連立に対する評判・支持は、ますます悪くなってくるでしょう。加藤政局の最初に、「加藤が死ぬのか、自民党が死ぬのか」と書きましたが、私には「加藤も死に、自民党も死ぬ」という気がしてならないのです。 13:30東京の事務所にて |
大世紀末の大政局観(その4) いよいよ問題の日となりました。11月20日というは、政治的には今年でいちばん長い日となるでしょう。 加藤政局の第一幕の、ひとつの結果が出ます。この数日間、不信任案が可決されるかどうかという数の面からの報道が中心になっています。それも大事なことですが、加藤政局の本質は、そんなことではないのです。加藤氏が突きつけた問題提起に、自公保連立政権の主流派といわれる人々(公明党もふくむ)がどう対応するか、ということなんです。少なくともいまの時点では、自公保連立の主流派は公明党をふくめて、問題の本質が分かっていないばかりでなく、まさに加藤氏が提起した問題とまったく逆の方向のことをやっています。 この戦い、勝ち負けは別として、政治的には加藤氏の完勝です。 森首相の進退など、政治的にはもうどうでもいいことなんです。国民はとうの昔に、森首相など見限っています。国民がいま問題にしているのは、このような森首相を支えている自公保連立という体制なんです。「森の中の青き亀」などといわれている面々が、いま、そのターゲットになっているんです。それなのに、この人たちが前面に立って事態収拾を図ろうとしているのですから、風はますます加藤氏にいい方向に吹いてくるのです。 なんでこんな簡単なことが分からないのか、不思議でなりません。昔の自民党ならば、こういうときに時の氏神といわれる人がでてきて、事態収拾にあたったものです。今だっていることはいるんですが、「森の中の青き亀」さんたちに気を使って、またこの人たちの歓心を買って自分がいいところにいきたいと思っているものですから、ダンマリを決め込むだけではなく、その走狗となっているのです。池田グループの結成など、その最たるものでしょう。加藤氏が突きつけた問題は、このような自民党でいいのかということなのです。国民が加藤氏を支持しているのは、このことなんです。 舞台回しは、加藤氏にますます有利に回っています。野中幹事長が高圧的に出ればでるほど、加藤氏のいっていることに対する国民の理解は深まり、自民党がもうどうにもならないほど時代遅れの政党であることを白日のもとに曝けだすだけです。 いま、「森の中の青き亀」執行部の大義は、野党が出す不信任案に賛成するという形式的な非を訴えることしかありません。しかし、国民は、自民党という政党が政権党であることの正統性すら疑いだしているのですから、その政党の形式的な正統性に過ぎない党規約をもちだしてきても、国民の共感を得ることはまったくできないでしょう。 昨日の栃木県知事選の投票結果は、まさにこのことを象徴するに十分なことなのですが、感度が鈍いというのか多くの自民党の国会議員は、「森の中の青き亀」執行部の恫喝に右往左往しています。選挙になれば、国民の恫喝の方が本当は怖いということを知りつつも。 こんな政治家は、この際もう放っておけばいいのです。正しい時代認識ができ、勇気をもって行動できる政治家が何人いるかだけをみていればいいのです。 今日の動きのポイントは、加藤氏が最後までブレないで断固として行動できるかです。もちろん、その数が多ければ多いにこしたことはありませんが、必ずしも本質ではありません。 加藤氏を敵に回してしまった自民党に、国民の支持が集まるはずはありません。加藤氏が抜けてしまった自民党は、坂道を転がり落ちるように凋落していくだけです。加藤氏が体現しているものは、自民党にとってそれだけ大きいものなのです。このことに気がつかないのならば、もうどうしょうもないということです。 私は、これまでに何度か「落ちるところまで落ちたら」といってきましたが、私のいいたいことは、こういうことなんです。採決までには、まだかなり時間があります。何が起こるか、最後の最後まで分かりませんが、いずれにしても、平成12年11月20日という日が、自民党にとって歴史的な日となることだけは間違いありません。 11:00東京の事務所にて |
大世紀末の大政局観(その3) 十日町市にある私の実家は、江戸時代の終わりに建てられました。実家のある集落で、最初にできた板葺きの家というのが、私の親父のいちばんの自慢でした。農村であった私たちの集落では、茅葺の屋根の家が主流だったのです。その後、祖父と父が絹織物業を始めたものですから、必要に迫られて建て増しをしましたが、母屋は150年くらい経っているのです。ですから、住めることは住めますが相当に古く、どの部屋も平らなところはなく、どちらかに傾むいています。実家を継いだ兄は、「勝彦、この家はもう土台が腐っているから、変に手を加えてもダメなので、俺はこのままにしているんだ。そして、いよいよダメになったときは、思い切って新築するしかないと思っているんだ」といっています。兄のこの判断は、賢明な判断だと思っています。ですから、「兄さん、それでいいと思うよ」と、いつも言っています。残念ながら、わが家は文化財になるほど古く、質の高い建物でもないのです。 かなり勾配のある長い坂道に、一台のかなり立派な黒塗りの車が止まっています。いまのところ、ブレーキはちゃんとかかっているので、みな大丈夫と思っていますが、この車にはサイドブレーキしかかかっておらず、しかも、これが緩いんです。誰かが、指一本で押しただけでも、前に動くかもしれない状態なのです。この事を知っている人は、ほんのわずかしかいませんが、事実なのです。この車のバンパーを足でドンと前に蹴ったのですから、この車の運命は明らかではないでしょうか。走りだしたこの車が、軽自動車くらいなら、誰かが止めることもできるのですが、3ナンバーの重たい車なものですから、もうたまりません。しっかりとかけていたと思ったサイドブレーキに問題があったのです。このブレーキは、コウメイ社製の、とかく欠陥を指摘されていた製品だったことは、いうまでもありません。 11月20日に不信任案が提出され、あまり間をおかずに採決に付されるそうです。こういうときの議員心理というのは、次のようなものです。 クイーンエリザベスのような豪華客船が座礁し船底に大きな穴が空いて、浸水をはじめました。船長はじめ乗組員は「いま補修をしているから心配ありません、安心してください」と、必死になって船内にアナウンスを流しています。海は相当に荒れています。しかし、数人の乗客が救命ボートをおろし、脱出しはじめました。この人たちは、もうこの豪華客船が助からないことを知っています。確かに海は荒れていますが、小さな救命ボートであっても、穴の空いていない船にのる以外に助かる道はないと確信していることが、他の乗客には感じられます。さあ、どうするか… いま売り出し中の鈴木宗男さんという方は、平成6年6月29日の首班指名選挙が行われる本会議の前に開かれる自民党代議士会で、議運理事として「みなさん、わが党の首班指名者は村山富市とお願いします。富市のイチは、棒イチでは無効となります。棒イチではなく市場の市ですから、絶対に間違っちゃダメですよ。(注─このとき社会党の衆議院議員に村山富一さんという人がいたのです)」といいながら、その十数分後には「海部俊樹」と書いているんですから。 森内閣総理大臣不信任決議案が採決に付されるその瞬間まで、衆議院議員はギリギリのことを考え、賛成票を投じるか、反対票を投じるか、白票を投じるか、本会議を欠席するか、決めなければなりません。そして、それがその議員の政治生命を大きく左右することになります。一人ひとりの衆議院議員が最終的にどうするのか、マスコミの予想をはるかに超えたことが起こるでしょう。そういうものです。 前号でのべたことを、分かりやすくいうとこういうことになります。 14:30東京の事務所にて |
大世紀末の大政局観(その2) 加藤政局 (BBSの書込みにこのような表現がありました。非常に適切な表現だと思いますので、これを使わせていただきます)
を理解する上で、二番目に大切なことは時代認識だと思います。 21世紀の日本がどのように変わっていくのかということをここで論ずる暇(いとま)はありませんし、私がここで述べなくとも論者は山ほどいます。加藤氏も政治家のなかでは、この問題でももっとも優れた論客の一人だと思いますが、加藤氏でなければ他にいないというわけではありません。 しかし、自民党に対する時代的な自己認識が正しくできる人は、政治家のなかにも学者や評論家のなかにもほとんどいません。加藤氏は、このことをきわめて冷静に判断できる識見と貴重で豊富な経験をもっている数少ない政治家だと私は思っています。 加藤氏は、自民党が大分裂した平成5年5月には幹事長代理をしていましたし、自社さ政権のもとでは自民党の政調会長(1期)と幹事長(3期)をつとめました。大きな時代の変わり目のなかで、自民党は何ができ、何ができないのかということいやというほど経験し、その能力も限界も知りつくしている政治家です。そして、21世紀を展望したとき、自民党という政党が日本の希望を実現するうえで何ができ、何ができないのかということをもっとも知っている政治家といってもいいでしょう。 加藤氏の今回の政治行動は、自民党というものに対する自己認識をふまえたうえでのギリギリのことだと私は考えています。ですから、主流派と称する人たちがいまやっていることは、加藤氏にとってはすべて予測していたことであり、これに対しどのように行動するかもいまのところすでに決めていた範疇に属していると思います。加藤氏にまったく動揺がみえない理由は、ここにあると思います。 加藤氏は、自民党を改革するためにこれまで全精力を費やしてきたし、それができる立場にいました。そして、一定の成果をあげてきたという自負をもっていると思います。それは、単にいまをどう乗りきるかということだけではなく、21世紀の初頭の10年くらいの日本の政治を担当できる自民党を作りたいという抱負をもっての努力だったと思います。 加藤氏の側で政治活動をしてきた私は、加藤氏のこの想いを誰よりも分かっているつもりです。私は、加藤氏からこのようなことをなんどか聞いたこともあります。私もまったく同じような認識でした。しかし、自民党改革を叫ぶ人は多くいますが、加藤氏のこのような想いを本当に理解できる人は、あまり多くはいなかったように思います。平成11年9月に行われた自民党の総裁選挙を戦うなかで、私はこのことをつくづく感じました。 自民党という政党が、20世紀後半の50年間に大きな役割を果たしたからといって、ただそれだけで21世紀前半の日本の政治を担当する権利や資格がある、というわけにはゆきません。自民党が21世紀前半の日本の政治を担当するには、それにふさわしい政党でなければなりません。いまの自民党には、残念ながらそれだけのことを国民に向かって主張し、共鳴を得られる状態にないという認識が私にはあります。加藤氏もきっと同じような認識をもっているのではないかと思います。 自民党に対するこのような時代的な自己認識があるかないかによって、自民党の国会議員が加藤政局において、どのように行動するかほぼ予測ができると、私は思っています。 08:30東京の事務所にて |
大世紀末の大政局観(その1) この「永田町徒然草」も、100号となりました。私としては100号である歴史的なことを書くつもりでいましたが、加藤元幹事長の政治行動でいま政局は大揺れとなっています。私のことは先に譲って、現在の政局について私の考えをのべます。 加藤氏の政治行動をどうみるか、これは極めて大切なことです。首相の地位をめぐっての争いなら、それは自民党の中の単なる政局に過ぎません。しかし、自民党の幹事長を3期もつとめ、自民党の中の保守本流を自他ともに自認する宏池会の会長である加藤氏が、自民党的には禁じ手の今回のような行動をするはずがありません。加藤氏と20年以上にわたって政治行動を共にしてきた私ですから、そのことを誰よりも知っています。加藤氏の今回の政治行動は、もう少し大きな視点からみなければならないと思っています。 前号でも申し上げましたが、今回のことにつき、私はまだ加藤氏と話をしていませんし、当面会ってお話をするつもりもありません。加藤氏は、政治家加藤紘一として、考えに考え抜いた上での行動だと私は思います。加藤紘一という政治家は、一時の感情で軽率な行動をとる政治家ではありません。一方、私も総選挙で落選という厳しい結果を受けながらも、ひとりの政治家として「我いま何をなすべきか」、この数ヶ月間考え抜いてきました。そして、ひとつの結論に達したとき、時を同じくして加藤氏の今回の政治行動があったのです。 それだけに、加藤氏の政治行動が何を意味するのか、誰よりも理解できますし、その決断に心から敬意を表します。いずれこのことはお話します。加藤氏の今回の政治行動をみるとき、自民党というものをどう考えるかということを抜きに、これを正しく理解することはできないと思います。これから先は、自民党についての私の考えです。いまの政局を考える参考にしてください。 自民党は、その前身となる吉田自由党や鳩山民主党の時代を含め戦後50年余にわたって、政権党として日本の政治を担当してきました。自民党は、確かにいろいろと問題を起こしてきました。多くの疑獄事件もありました。また今日の日本にもいろいろな問題もあります。しかし、今日の日本ができあがるなかで、自民党がずっと政権党であったことは厳然たる事実であり、その意味で自民党にも功があったことは否定できない事実だと思います。自由民主党党員としては、功罪半ばするではなく功の方が大きかったといわせてもらいたいと思っていますが、 20世紀を回顧するのではなく21世紀を展望するとき、果してこの自民党で日本の未来を切り拓くことができるのかが最大の問題意識でなければなりません。森首相やこれを支える四人組は、現在の自民党を論ずるときその問題点を象徴してくれるいい素材ではありますが、世間が問題にするほど重大視していません。自民党の本当の問題点は、実はもっと深く、大きいのです。 冷戦構造が崩壊したとき、自由主義陣営に立つということを標榜するだけでは自民党は存在価値を失ったのです。自民党としては、その時点で自民党の存在価値──政党としてのプリンシプル(主義・主張)を改めて国民に提示しなければならなかったのです。自由民主党という名前や歴史からして、それは当然のこととして自由主義ということになるわけですが、単に自由主義を標榜するだけでは十分でなく、自由主義の現代史的展開をしなければならなかったのです。しかし、それをするだけの人材や意識は、自民党という政党全体に残念ながらありませんでした。ほんのごく少数の者にしか、その危機感や問題意識はありませんでした。 自由主義の現代史的展開といった場合、二つの大きな潮流があります。新保守主義といわれるものと、リベラルといわれるものです。日本の現状を深く分析し、いったいどちらを日本の自由主義路線として選択するのか、これが自由主義の日本における現代史的展開の課題です。私は、リベラルなものを選択すべきであると考え、行動してきました。 リベラルとは、「社会的公正を重視する自由主義」と私はいってきました。誤解を恐れずにもっと分かりやすくいえば、「社会的弱者に配慮する自由主義」ともいってきました。むきだしの自由主義ではないということです。新保守主義を私がとらない理由は、サッチャー首相やレーガン大統領が新保守主義を選択しなければならなかった事情は、幸いなことに日本にはまだないと考えるからです。イギリスは、イギリス病といわれるほど自由主義にとって深刻な事態がありました。アメリカでは、リベラルと呼ばれる人々がかなり問題のある現象を引き起こしていました。私は、日本にはそのような事情はまだないと考えます。 1993(平成5)年6月の総選挙で、自民党は野党となりました。政権党であるがゆえに、自民党に群がっていた国会議員は、細川政権の異常な人気に恐れをなし、野党となった自民党を離党し、細川連立政権側にはしりました。11ヶ月で自民党は政権与党になりましたが、あの状態がもっと続いていれば、多分70~80人くらいは自民党を離党したのではないかと思います。そうしたならば、自民党はその後も政権党になることなどできなかったと思います。 残念ながら、自民党という政党が良くも悪くも存立するためには、政権というものが必要不可欠なのです。ですから、私は自民党という政党をまもるために政権党になる努力をしなければならないと考えました。細川首相の1億円疑惑を追及するとともに、どうしたら自民党が政権党に復帰できるか考えた結果、可能性として考えたのが新党さきがけや日本新党や社会党との連立でした。 細川連立与党内にいくら矛盾があるといっても、自民党が変わらずして自民党と連立を組んでもいいなどという政党が、現れてくれるはずがありません。私は、自民党がリベラルの路線を選択することを決断する絶好の機会だ考え、自民党内の同志を集める一方で、新党さけがけや日本新党や社会党の議員との接触を始めました。他党の議員からは、「自民党が本当にリベラルな路線を選択することなどできるのか」といわれました。しかし、それができなければ連立などできないのですから、自民党がリベラルな路線を選択することに私は自信をもっていました。 1994(平成6)年6月29日に村山内閣─自社さ連立政権ができたわけですが、これが可能となったのは、自民党がリベラル路線を選択したからです。村山首相のイニシャティブで、社会党が日米安保や自衛隊を合憲と認めるという路線変更をしただけではなく、自民党もこのとき大きな路線変更をしたのです。 自社さ連立政権下の自民党の政調会長を1期─幹事長を3期つとめた加藤氏は、誰よりもこのことを知っていました。私も自社さ連立政権を作った一人として、加藤氏を懸命に支えました。リベラルな路線を選択した自民党に対する評価は徐々に国民に理解され、自民党の支持も高くなってきました。小選挙区制のもとではじめて行われた平成8年10月の総選挙で、自民党が新進党に勝つということは、実は奇跡に近いようなことだったのです。 その選挙の参謀室長といわれる総務局長をつとめた私は、つくづくそう思っています。東京をはじめ都市部では、自民党の基礎票に対して新進党の基礎票は3~4倍ありました。定数が増えたこの都市部で勝たなければ、新進党に勝つことなど絶対に不可能なのです。この選挙の総指揮官であった加藤幹事長は、私以上にこのことを感じていたはずです。 四人組と呼ばれている人たちは、ただそのことを象徴するにふさわしい人材だというだけで、自民党全体がそうなってしまったことに問題の本当の根源があるのです。このことが、今日の政局をみるいちばん大切な点です。 (つづく) 01:00東京の寓居にて |
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