HOME | NEWS | 略歴 | 著書 | 徒然草 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 旧サイト徒然草
No.110 | No.111 | No.112 | No.113 | No.114 | No.115
─古文書蔵─
No.78 ~ No.83 | No.84~No.90
| No.91~99 | No.100~104
| No.105~109
20世紀もあと2日(年末のご挨拶) あと2日で私たちがそれぞれの感慨をもっている20世紀が終わります。私たちは、それぞれの20世紀を生きてきましたが、これを読んでいる人で22世紀をみる人はいないでしょう。そういった意味で、ミレニアムを迎えた昨年もそうでしたが、今年も歴史を振り返るということが普通の新年より強いのは当然だと思います。私も「世紀末のわが国の政治的虚空」と題して5回にわたり、現在のわが国の政治情勢をそれなりに分析してきました。こちらの方は、過去を振り返るというより21世紀の政治を考えるために現状を分析しようと思って書きはじめました。 最初は3~4回で終わるつもりでしたが、稿を進めていくうちに次から次と論及したいことがでてきて、まだ相当書かなければなりません。「世紀末のわが国の政治的虚空」と名づけたものですから、私は日本人的な律儀さでどうしても今年中に書き終えなければならないとおもっていたのですが、とても終わりそうもありません。年が明けても続けることにしました。どうかご了承ください。現在の政治状況を深く分析するなかから、21世紀において私たちが何をしなければならないかが明らかになってくるからです。 今年も白川サイトをご訪問・ご愛読をいただき、本当にありがとうございました。私が落選をした総選挙以後の半年だけでも10万余のアクセスをいただきました。さらに付け加えると、白川BBSは別サイトで常連の方々は直接こちらの方にアクセスしますので、これに約5万のアクセスがありました。あわせて15万のアクセスがあったということは、私にとって大きな励ましであると同時に感激でした。政治家にとって選挙での落選ということは死ぬよりつらいことですが、こんなことにめげず頑張らなければならないと思い、私の考えることを発信し続けてきました。それが私を支え、そのことにより私は政治家としての自覚を失なうことなく生きてくることができました。本当に感謝申し上げます。 20世紀も本当にあとわずかです。新しい年、新しい世紀がみなさんにとって素晴らしいものとなることを心からお祈り申し上げ、年末のご挨拶といたします。 09:00上越市北城町の自宅にて 20世紀末のわが国の政治的虚空(その6) <なぜリベラルでなければならないのか> これまでいろいろな角度から見てきたように、日本国民がいま現実に求める政治的理念 ─ 政治的価値観は、政治的にいえばリベラルであることは明らかです。 これは、国民自身がリベラルという言葉を知らなくともまた意識していなくても、政治的にいえばこうなるということです。リベラルということをもう一度きちんと定義しておきましょう。社会的公平を重視する自由主義のことです。セーフティ・ネットをきちんと整備している自由主義とです。 現代の自由主義を大別すると、自由主義でいくけれどもこのように社会的公平やセーフティ・ネットを重視する考え方とあまりこのようなことを重視しない考え方があります。前者が現在ではリベラルとかリベラリズムと呼ばれ、後者が新保守主義と呼ばれています。しかし、どちらも自由主義であることはまぎれもないことであり、リベラルな自由主義を主張するか新保守主義と呼ばれる自由主義を主張するかは、その社会がおかれている状況によって決められることだと私は思っています。 リベラルが主張する社会的公平や、そのためのセーフティ・ネットをあまりにも重視しすぎると、確かに自由主義であるかどうかも危うくなってくることもあります。イギリス病などと揶揄されたかつてのイギリスなどは、そうした例のひとつでしょう。サッチャー首相が新保守主義を果敢に掲げて、イギリスの大改革をやったのはそういう事情があったからです。アメリカにおいても、リベラルと称される勢力があまりにも放逸した怠惰な社会的動向があったため、またこれと期をいつにして長い不況が続いたために、レーガン大統領が新保守主義を掲げてアメリカの改革に果敢に挑戦しました。このふたつの新保守主義の改革は成功したと思います。 日本でも新保守主義的な主張をする人もいますが、私は日本ではいま新保守主義的な動きはまだ必要ないし、歴史的にも日本の自由主義はまだそこまで成熟していないと考えています。もっと端的にいえば、いまわが国にある自由主義を阻害する要因は、そもそも自由主義以前の問題なのだと思っています。リベラルが主張する社会的公平やセーフティ・ネットは、いろいろな分野で自由化をしたところ、いろいろな弊害がでてきたためこれを何とかしなければならないとして実施されたものです。日本で問題になっている諸問題は、本当はまだ一度も自由化されていないということに最大の問題があるからです。自由化をしてみてはじめてどのようなセーフティ・ネットが必要か明らかになってきます。そしてそのセーフティ・ネットが度を越してしまった場合、これをどう見直すかが新保守主義の課題であったからです。 日本の政界でリベラルということがさかんに膾炙された1994~5(平成6~7)年ころ、当時社会党の救世主として期待されていた横路北海道知事(現衆議院議員・民主党副代表)が、あるテレビ番組で「社会的公平・社会的平等を重視する考えを、アメリカではリベラルといい、ヨーロッパでは社会民主主義というのだ」といっていました。これを聞いた私は、社会党のホープといわれている人でもこの程度の認識しかないのかと、率直なところ愕然としました。ヨーロッパでもアメリカでも、リベラリストが頑迷固陋な古典的自由主義者と戦って、いろいろなリベラルな制度を作ったのです。この人たちは、いずれも烈々たる戦う自由主義者でした。 自由主義や自由化政策は、その本来的性格からいってどうしても不平等をもたらします。それはある程度どうしようもないことです。多くの自由主義者は、そのようなことを仕方のないこととして考えたのですが、それに対してこの問題を何とかしなければならないと主張し戦ったのがリベラルといわれる勢力 ─ リベラリストであったわけです。リベラリストが対峙した自由主義者を、私たちは現在では古典的自由主義者と呼んでいます。当時のリベラリストたちは、この人たちを保守主義者と呼んでいました。行き過ぎたリベラルな制度を見直して本来の姿にしようという主張をいま新保守主義と呼ぶのは、こんなところからきているのだと思います。 リベラリストたちは、自由主義の本来的矛盾である不平等という問題になぜ挑戦したのでしょうか。もちろん単純な正義感もあると思います。しかし、そうだとしたならば自由主義を諦めるしかありません。リベラリストが不平等を問題にしたのは、この問題を完全に放置していたのでは自由主義そのものが危うくなってくるという強い危機感だったと私は思っています。 国民が自由主義そのものを否定していなくとも、あまりにも不平等が大きくなった場合、政治的には自由主義はもたないからです。自由主義の本来的矛盾である不平等に、自由主義の本然の原則を守りながらこれが社会的な不公平にならないようにどうするか、これがリベラリストのテーマであり課題です。ただここで重要なことは、リベラリストたちは自由主義を否定はしていないということです。いや、熱烈な自由主義者であることです。熱烈な自由主義者であるがゆえに、自由主義を政治的に崩壊させるような不平等や不公平・不公正を看過しないところにリベラリストの真骨頂があります。このところを理解しないと横路さんみたいにリベラリズムも社会民主主義も一緒ということになってしまうのです。 自由主義を否定せず、自由主義の本来的矛盾である不平等という不公平感をなくするということは、決して簡単なことではありません。いや、非常に難しいことです。しかし、リベラリストたちはこの困難な問題に果敢に挑戦してきました。そしてそれは可能なことでした。社会主義者や共産主義者が偽善だとか不可能だといってきたこの問題をなぜリベラリストたちは解決できたのでしょうか。 それは、それぞれの国でやはり自由主義を支持する国民が多くいたからです。このことは、現在でも基本はまったく変わりありません。ソ連邦の崩壊ということに気を許して、自由主義が政治的に本来抱えているこの矛盾に目をつむると、自由主義体制に対する疑問や反対がいつ噴出してくるか分からないということを、自由主義者は決して忘れてはならないと私は考えています。 (21世紀もつづけます) |
20世紀末のわが国の政治的虚空(その5) <政治的な自由って一体なんだ> これまで、各党や無党派の政治的性格をみてきました。自民党はいうまでもなく自由民主党ですから、自由ということを抜きにこの党の存在は本来はあり得ないのです。自由党にとってもこのことは同じでしょう。民主党は、党名には自由ということはうたっていません。しかし、この党の誕生やスタンスからいって、自由ということを否定するとは思いません。鳩山党首が自らの政治理念としてニューリベラルといっていることが、このことを物語っています。保守党が自由ということをどう考えているか、仔細に調べたことがありませんから私には分かりません。しかし、この党がどういう風に考えているか、あえて調べる必要はないでしょう。 共産党や公明党は、自由をどのように考えているのでしょうか。共産党は、共産主義を指導理念としているから共産党と名乗っているのでしょう。ですから、この党が自由についてどのようにいおうが、自由主義政党でないことは、この党自身が否定しないと思います。公明党は平和とか人権をさかんに強調しますが、自由主義政党でないことは、この党の成り立ち・性格・歴史からみて明らかだと思います。土井党首率いる社会民主党は、やはり、社会民主主義を指導理念と考えているから社会民主党なのでしょう。 無党派のもっとも基本的な属性は政治的な自由だと、私はいいました。自らが政治的に自由でありたいと願い、現にそう行動をしている人たちが、政治的にいちばん大切に考える価値は自由だといえるのではないでしょうか。無党派は、その性格からしてひとつの理念や考えで統一されていないことはもちろんです。しかし、かつては特定政党を支持していた人たちが、現在では無党派となっていることを考えると、それが旧自民党支持者であろうが旧社会党などの革新支持者であっても、やはりいちばん基本的な政治的価値は自由なのではないかと、私は考えています。 私は、共産党や社民党が自由を否定しているなどといっているのではありません。いや、これらの党は時には自民党や自由党以上に自由の問題にこだわり、一定の役割をこれまでにもはたしてきたことを、私は率直に評価します。たとえば、日本の警察や検察の人権無視の体質が引き起こした冤罪事件などで、これと戦ってきた人たちを支えてきたのは、旧社会党や共産党でした。これは、日本の自由主義者が決して忘れてはならないことだと私は思っています。自由のために戦うには、ある程度の組織はどうしても必要なのですが、日本の自由主義者はそうした組織をもたなかったために、現実には社会主義者や共産主義者にたよらざるを得なかったのです。 いま私が問題にしている自由とは、この日本をどういう指導理念で秩序づけていくかという意味での自由という考え方です。政治的な価値観としての自由です。自由のなかでひとつの秩序を作っていこうと考えるならば、そういう考え方を政治的には自由主義というのです。そんなことではいい秩序などできるわけがない、一定の国家的・社会的な管理 ─ 規制 ─ 統制がなければ理想的な秩序などできるはずがないという考えを、共産主義であったり、社会主義であったり、社会民主主義というのです。私はこういう考え方に賛成はしませんが、否定する気持はまったくありません。現にヨーロッパの半分くらいの国では、社会民主主義を指導理念とする政党が政権をとっているのですから、わが国でも自由主義に対抗するこういう考え方を支持する人がいるのは当然なことなのです。 社会主義的な考え方だけが、自由主義と対立しているわけではありません。自民党や保守勢力といわれるなかにも、自由主義と対立した考えをもっている人たちがいっぱいいます。私は、こうした人たちをいっぱいみてきました。自民党にいるものですから、ヴェールを被ってあまり世間には目立ちませんが、私は、この人たちと同じ党にいることに違和感を感じたことが多々ありました。この人たちを見分ける方法は、いたって簡単です「自由は確かに大切だ。しかし、行き過ぎた自由はこれを許すわけにはいかない。なんらかの規制は必要だ」といって、いったん認めた自由を、すぐ規制したり制限することを主張する人たちは、だいたいそういう人たちと考えて間違いありません。 自由主義というのは、いい秩序というものは国や社会が管理や規制や統制をすることによっては決してできない ── 国や社会が定めたルールの下に国民が自由に行動することによって、はじめていい秩序ができるのだという、政治的な考え方です。政治的な考え方というのは、そもそも、問題があったときどういう原理・原則でこれを解決するかということなのです。自由を保障し、国民が自由な行動をしたことによって問題が生じたからといって、その自由を規制することによって問題を解決しようなどという考えは、そもそも自由主義と無縁です。 自由主義だからといって、最初からルールのない競争や行動を認めているわけでは決してないのです。一定のルールのもとに自由な行動や競争を認めているのです。もちろん、そのルールが最初からあまりにも多くの制限があるようでしたら、自由主義を認めたことにはなりません。役人が作る制度・仕組みには、けっこうこういうものが多いのです。この問題は、自由主義的手法でやると決めた以上は、公正な競争や制度とするために最初に定めたルールに違反しない限り、ある程度の混乱や問題が生じても、それは自由主義的に解決するしかないのです。自由主義にはその力があると信じて、良貨が悪貨を駆逐するのを見守る・支援するという考え方が自由主義なのです。 自由を求めることは、誰もが主張することです。しかし、ひとつの国 ─ ひとつの社会を自由という概念でコントロールしようということは、かなり違ったことを意味しています。自由主義は、国民やその社会の構成員を信頼して、一定のルールのもとに自由な行動を保障することによっていい秩序を作ろう ─ そのことによってしかいい秩序などできるはずがない、という考え方なのです。自由の本来的な意味において、自由主義者はある程度の摩擦・衝突・混乱を否定しません。自由な競争という自由主義のキーワードが、そのことを象徴しています。自由主義には相当の摩擦・衝突・混乱を克服する力がある ─ 少なくとも変な政治家や役人が考える規制や制限よりもマシだという強い信念を、自由主義者はもっています。 これまでみてきた自由を求める人たちは、その人たち自身の自由を大切に考えるだけではなく、細かい理屈や七面倒くさい理論は分からなくても、どこかでこのような考え方やフィーリングをもっているのではないかと私は思っています。もしそうでないとしたならば、この人たちは自分の自由だけを主張し、他の人たちの自由を顧みない、かつ結果としてアナーキー社会を容認する無責任な人たちということになります。かれこれ半世紀近く自由を求め行動してきたわが国の国民を見てきた私には、いま、政治の世界で自由を求めている人たちが、そのような無責任でアナーキーな人たちだとは、とうてい思えません。ここは、信頼してもいい ─ いや、信頼しなければならないと、私は考えています。 (つづく) 13:00東京の事務所にて |
20世紀末のわが国の政治的虚空(その4) <政治を変えつつある無党派の動き> 現在の国民の政治的動向を注意深く分析してみましょう。国民の自由に対する欲求はますます強いものになってきています。価値観の多様化は、政治・経済・社会のあるゆる分野で、いまや当然のこととなっています。価値観の多様化とは、それぞれが違った価値を主張することであり、自由化の裏返しです。政治の場合、この現れ方がたいへん難しいことは事実です。政治の場合、ある程度のボリュームにならないといくら個性を主張したくても実際には無視されてしまうために、非常に現れにくいのですが、明らかにその兆候はでています。 私は、東京21区の衆議院補欠選挙と長野県と栃木県の県知事選挙に、それをはっきりとみることができると思っています。なかでも、私は栃木県知事選を特に注目しています。栃木県は、自民党王国なのです。ここであまり知名度もなくマスコミもあまりとりあげなかった福田候補が当選したということは、自分が支持する政党がどういおうがイヤなものはイヤとして県民が自由に投票したということです。東京21区や長野県知事選のように必ずしも福田候補が当選する可能性が高いということがなくとも、イヤなものはイヤと考えて行動することは、自民党王国といわれる栃木県ではひとつの革命的な現象といっていいでしょう。ここにハッキリと大きな政治の自由化の波を感ずることができます。 この数年間自民党本部で選挙実務に携わってきた私がいちばん関心を払ってきたのは、無党派という存在でした。無党派が完全に反対に回したら、都市部であろうが地方であろうが選挙に勝つことなど絶対にできません。無党派はその名が象徴するように、必ずしもひとつの主義・主張をもっているわけではないのです。しかし、私は無党派を無色透明な存在と考えてはならないといつも考えてきました。基本的には反自民の傾向が極めて強いのです。ですから、少しでも気を抜いたり自民党が奢ったものを選挙戦で感じさせると、この層は反自民となってしまうのです。逆にいえばこのことに注意しておくことによって、無党派の支持を得ることはできなくとも少なくとも敵に回さないことはできるのです。 この無党派にも、わずかこの一年で明らかな変化がでてきていることを私は肌で感じます。無党派が無党派の力を意識しはじめてきたということです。無党派が無党派として固まりだして、主張し行動しはじめたということです。もしこのことが本当に現実となったら、いまあるどの政党も太刀打ちできません。なぜなら、無党派こそいちばん数が多いのですから。この無党派を組織することができる政党や政治家がいたら、その政党や政治家はたちまちのうちに大きな政治的勢力をつくることになります。ただし、それはきわめて難しいことですが。先にあげた3つの選挙では、それを見事に組織する候補者がいたということです。 もう少しこの無党派について見てみましょう。けっして無党派は政治的に無色透明ではないと私は思っています。最近の自民党は別にしても、私たちリベラル派が自民党の主流であったときでさえ、無党派は自民党には非常に厳しい態度をとっていました。自民党が現在のような奢り高ぶった政治をしているならば、無党派が反自民となることは明らかです。もうひとつハッキリといえることは、無党派は反自公保だということです。自公保ブロックがどんなに無党派の歓心を買おうとしても、それは無理でしょう。無党派は、本質的に創価学会=公明党に嫌悪感・拒否感をもっているのです。このことは、公明党が政権に参加して1年以上経つのに、自公保連立に対する評価が相変わらず厳しいことをみれば明らかです。 無党派の政治的傾向でいちばん強いのは、自由ということだと私は考えています。政治的行動にあたって、政党や組織に拘束されたくないという人たちだと思っています。実は、これは無党派に限らず自民党支持者にだって同じような傾向があるのです。自民党支持者だからといって、自民党が決めた候補者なら誰だって支持してくれるかといえば決してそんなことはないのです。だから、私たちは自民党支持者が自信をもって支持できるいい候補者を選定するのに腐心しました。いい候補者を選ぶことに成功すれば、その時点で選挙は半分終わったようなものです。そのような候補者がいない場合、どんなに努力してもほとんどの場合徒労に終わりました。 <無党派が求める政治的自由> なぜ、今ことさらに政治の自由化などということをいわなければならないのでしょうか。それは、新しい憲法ができて民主主義ということが定着したようでも、国民からみたら本当の政治的自由はなかったという思いをもっているからではないでしょうか。確かに、選ぶ自由はそれなりにあったとは思います。会社・労働組合・業界団体・強権的地域コミュニティーなどいろいろなものが介在してそれぞれの政党や候補者への投票を組織しましたが、それでもごく一部の例外を除けば投票の自由だけはありました。しかし、それは選ぶ自由でしかありません。政党が政党の都合や利益で候補者を選定し、こうした候補者のなかから選択することしかできないとき、国民は政治的自由を感じることができなかったのだと思います。 したがって、私がいう政治の自由化とは、国民が自分たちの意に反する候補者を拒否し、これに対抗して自分たちの希望に添う候補者を担ぎ出して投票するということを意味します。しかし、実際には無党派層が集まって協議することはなく、こうした雰囲気を感じ取った候補者やグループが決起することによって、この作業は行われることになるでしょう。それは仕方のないことです。でも、このような事例が多く成功することがこのような動きを誘導し、国民が自分たちの意に添う候補者を得ることはそんなに難しいことではなくなるでしょう。 このような動きが次々とでてきて、これが定着したとしたら、これは明らかにひとつの政治的な革命です。各政党はよほどシッカリしないとこの自由化の波に呑まれてしまいます。各政党ともこの危険にさらされているのです。いま、この動きの最大のネックは、実際のところ政治資金だと思います。ある程度の規模の選挙となると、宣伝の費用がかなりかかるのです。問題はそれだけです。組織対策費などほとんどかかりません。無党派は組織的な存在ではないのですから、そのようなものは本来的に必要ないのです。政党が無党派に比べて優位に立っているのはこの点くらいなのです。 インターネットが普及したらこの問題はかなり解決しますが、その普及率はかなりのものでなければなりません。とても現在の普及率を前提にしてこれが少し伸びたくらいでは、まだまだ現実の選挙戦では強力なツールということにはならないと思います。しかし、それはもう数年という指呼の時間の問題に過ぎません。21世紀は、政治的な広報・宣伝において国民はこの問題から解放されるでしょう。これは政治の自由化にを私たちが考えているよりはるかに早いペースで進めることになるでしょう。 もうひとつは、当分の間やはり大きな役割を果たすのはマスメディアです。マスメディアが国民の側が擁立した候補者をとりあげてくれれば、無党派はほとんどの選挙で勝利することができるでしょう。しかし、日本のマスコミは勝手気ままで、知名度のある候補者については報道するにもかかわらず、そうでないものは無視するという通弊があります。これはマスコミが政治的自由化をどう評価するかという見識の問題だと思います。この点においては、マスコミも政党と同じようにひとつの危機に晒されているのだと思います。栃木県知事選などは、明らかに栃木県民がマスコミを凌駕してしまったのだと私は考えます。 以上は無党派を中心に論を進めてきたわけですが、自民党にとっても民主党にとっても自由ということがいちばん大切な概念です。自民党や民主党が自由の側に立たないとしたら、このふたつの政党は存立自体が危うくなってきます。ですから、実際に自由であるかどうかは別にして自民党も民主党も自由ということをいわざるを得ないわけです。このように考えると、21世紀の政治をリードするキーワード・理念は、自由─自由主義─リベラリズムということは明らかではないでしょうか。 (つづく) 11:30東京の事務所にて |
20世紀末のわが国の政治的虚空(その3) <基本がハッキリしない民主党> これまで自民党をいろいろな角度からみてきました。自民党には、残念ながら21世紀の希望を髣髴とさせるような状況も政治家もいません。それでは、野党の方をみてみましょう。 野党第一党である民主党ですが、まず、この党について指摘しておきたいことは、先の総選挙で129議席しか獲ることができなかったことです。小選挙区制の下では、野党第一党というのはある程度の議席を確保して当然なのです。平成8年の総選挙で、新進党は300の小選挙区で96議席を獲得しました。しかし、民主党は先の総選挙では小選挙区で80議席しか勝っていません。この一点をみただけでも、民主党の野党第一党としての力量はかなり弱いということが分かります。比例区の議席数も大切ですが、政権を獲る力━組織力━政党としての迫力は、やはり小選挙区でどれだけ勝てるかがメルクマールです。 なぜ、民主党は小選挙区で80議席しか獲れなかったのでしょうか。民主党は、自民党が公明党と連立を組んだこと、すなわち政教分離違反を選挙戦で攻撃しなかったからだと、私は思っています。総選挙の前に鳩山代表や菅政調会長が政教分離問題に触れたところ、党内から即座に非難の声が上がりました。私たちが平成8年の総選挙の際に、政教分離問題と争点にしたとき、自民党内にもそのような動きがなかったわけではありません。しかし、私たちはこれを無視しました。 国民のほとんどは、公明党の連立参加は憲法が定める政教分離原則に違反すると考えているのです。この問題を争点にしないなど、私にいわせるならば、本気で選挙に勝つ気があるのかとさえ思われます。民主党をはじめとする野党は、確かに自公保連立反対とはいいましたが、自公保連立の何が問題なのかハッキリといわなければ、自公保連立を本当に批判したことにはなりません。 さらにいうならば、民主党幹部の発言には、自公連立は反対だが民公連立なら構わないという風に受け取られる発言も結構ありました。そんなバカな話はありません。それでも、公明党と連立した自民党の背信に抗議の意味を込めた票が、民主党に相当に流れていることは事実です。これから民主党がこの問題をどのように主張するのか、私は注意深くみています。 いずれにしても、このことに象徴されるように、民主党のいうことやることには、確たるものを感じません。それが国民からみると、民主党はいまひとつハッキリしない ─ 頼りないという印象になるのだと思います。民主党がこのような行動様式からなかなか脱しきれないのは、旧社会党のメンバーが党内にかなりいるからだと考えます。また、労働組合の支援なくしてこの党が存立しえないからだとも思います。 労働組合というのは、ハッキリいって自由主義 ─ リベラリズムを本当の意味において理解できないのではないかと、私は諦観にも似た思いをもってみています。民主党が自由主義政党になりきれるかどうかは、意外に深刻な理論闘争をしなければならないのだと私は考えています。民主党が自由主義政党にならない限り、この党の未来はなかなか開けてはこないと思います。なぜならば、国民は自由主義を望んでいるのですから。 <その他の野党について> その他の野党として、衆議院の議席が22の自由党、20の共産党、19の社会民主党があります。3党あわせて61議席です。ちょうど民主党の半分です。この3党について一言ずつコメントしたいと思います。 まず、自由党ですが、名前が示すとおり自由主義を標榜する党です。どちらかというと、新保守主義的な自由主義を掲げる政党です。小沢党首の性格でしょうか、非常に理論的であり、かつ行動は急進的です。どちらかというと、自民党のヌエ的なところに飽き足らない自由主義者や国民の支持を受けています。現在の日本に、このような考え方もそれなりにあるのは事実であり、そういう面ではこの政党が各種選挙でおおかたの予想に反して善戦するのは、それなりの根拠がってのことです。本当は、もっと議席をとってもいいのかもしれません。しかし、新保守主義的な政治理念を支持する国民は、現在の日本では10~15パーセントくらいなのではないか、と私は思っています。 共産党ですが、政党としてはいちばん長い歴史があり、あまりにもいわく因縁が多くある政党で、とても一言でコメントすることなどできません。あえてひとつだけあげれば、新体制になるのを契機に、路線面や政策面でかなり大幅の変化をしたようですが、実際の政治行動がどのように変っていくのかを見ないと、評価はまだできないように思います。ただ、議席数は少なくとも、政党としての組織力は公明党と同じように抜群にあることを、この党の新しい政治行動や政界再編成をみていく場合に忘れてはならないと思います。 最後は社会民主党ですが、組織としてはそんなに大きなものがついていないにもかかわらず、各種選挙でこれまた、おおかたの予想をくつがえして善戦するのは、ひとつは土井党首のイメージ・知名度と旧社会党の政治理念をいちばん忠実に主張しているからだと思います。55年体制が約半世紀続いたのですから、旧革新の支持者の中には民主党には移行できず、社会民主党を支持している人がそれなりにいるというのは当然といえば当然なことなのではないでしょうか。ただ、このような支持者がこの党を支えているとすれば、この党の前途は、そんなに明るいものではないと考えます。 いずれにしても、野党とはいうものも、自民党よりかなり右の自由党、民主党よりかなり左の社会民主党と共産党なのですから、野党4党の共闘はかつての野党共闘にくらべれば、大変なことは大変です。このことは、加藤騒動のとき内閣不信任案を提出することには共闘できても、それから先はなかなか一緒に行動することができなかったことをみても明らかです。これからある各種選挙では、野党が反自民もしくは反自公保の旗を立てさえすれば、敵失に支えられてかなり善戦するとは思います。さりとて野党全体に21世紀の希望を感じさせるような雰囲気や政治家があるかといえば、かなり好意的にみてもそのような感じはしません。野党にも、かなりの手詰まり感があります。 (つづく) 09:00東京の事務所にて |
20世紀末のわが国の政治的虚空(その2) <出鱈目からいい結果は決して出ない> 森内閣に対する国民の支持が極端に低いのは、森首相のいってることややっていることがあまりにも無内容であるということだと思います。しかし、これは森首相に限ったことではなく、現在の自民党全体にいえることです。自民党には、本来この政党を政治的 ・思想的にリードすべき新保守主義の潮流もなければ、リベラルな政治的潮流もなくなってしまったのです。そうするとこの政党には、政権党であればなんでもいいという有象無象派しか残っていないということになります。また、現在の自民党をみているとそういう感を強くします。かつての英雄たちも、有象無象派に屈し完全に堕ちてしまいました。 たとえば、河野洋平外務大臣。この人に、かつての新自由クラブを率いたときの迫力や期待を国民は感ずることができるでしょうか。また、この人の外交に河野イズムみたいな何かがあるでしょうか。なんだか分からないが、自民党主流派にただ忠誠を誓い、じっとしていればひょっとしたら首相の座が回ってくるかもしれないことを期待しているだけの姿しか見えません。宮沢喜一初代財務大臣ですか。これはもうこれだけが生きがいとしか見えません。私は、この人は生涯大蔵官僚でいたい人と思っていましたが、本当にそうなってしまいました。しかし、この人の希望をかなえるために、大蔵省が最後の最後までこだわっていた国の財政健全化という目標はズタズタにされ、国民の方がこのことを心配するようになってしまいました。これを大蔵省の堕落といわずしてなんというのでしょう。大蔵省は、省始まって以来の堕落のなかで、その幕を閉じました。 まだまだおります。橋本元首相なども、ここでどうして大臣などを引き受けたのか、私にはまったく理解できません。橋本元首相の最登板ということも、現在の自民党の人材不足では十分あり得るのではないかと私は思っていましたが、橋本内閣時代の政策を総否定した内閣に一閣僚として入ったのでは、森内閣が頓挫しても、そのアンチテーゼとはならないじゃないですか。どうしてこんな簡単な理屈が分からないのでしょうか。この人には、政治的な側近といわれる人がまったくいないのでしょう。きっと、有象無象派に「閣内にいれば、森内閣がダメになったときあなたがいちばん首相になる公算が高い」とでもいわれたのではないですか。この他にもコメントしたい人はいくらでもいますが、コメントするだけの価値のない人たちですから、これくらいにしましょう。 こんにちの自民党は、政権にしがみつく哀れな政治家の集団となってしまいました。この国をどうしようという理想や誇りのない集団ですから、将来のヴィジョンというものが少しも感じられなくなってしまいました。将来に対する責任やヴィジョンがないものですから、やることといったら、国民に媚びることしかできません。私が1997(平成9)年自治大臣のときの国地方を合わせての公債残高は450兆円前後と記憶していますが、この3年間で約200兆円の公的債務をふやしたことになります。国家経営であろうが、会社経営であろうが基本は同じです。出鱈目をやっていい結果がでてくるなどということは絶対にないということです。1998(平成10)年夏以降の約2年半の間、政府のやってきたことは出鱈目な政策です。やけっぱちの出鱈目な政策で日本が救われるなどということは、金輪際ありえないことです。どうして、こうなってしまったのか。 自民党が出鱈目なことをするようになった政治的背景に、公明党との連立があると思っています。公明党との連立は、自民党が絶対にやってはならない政治的なケジメのひとつでした。自民党が、その生き方も違えば考え方も体質も異なる公明党と連立を組む、さらに選挙まで一心同体となって戦うということは、自民党としての理想も誇りも失うということです。政党や政治家にとっていちばん大切なことは、理想であり志です。これを見て国民はその政党や政治家を支持するのです。自民党としての理想や誇りを捨てた政党に国民の支持が集まる筈がありません。いくら権力を使って支持を繋ぎとめようとしても、そんなことで支持を繋ぎとめることができるのは政権に群がる有象無象でしかありません。そんな人たちだけにしか支持されない政党や政治家に未来などあるはずがありません。こんな簡単な理屈に反する出鱈目が、公明党との連立だったと私は思っています。出鱈目をやっている自民党にいい結果を期待することなど、木に登って魚を求めるの類です。 <八方塞がりの自民党> 現在の自民党にとっていまいちばん大切なことは、どういう基本理念に立って、どのような政策を忠実に行うかということを国民の前に明確に示すことです。このことを避けていくら弥縫的な対策をとっても、ますます国民から見放されるだけでしょう。いま自民党は、深刻な危機にあります。リベラルの旗こそ、いま自民党が高く掲げるときなのですが、加藤氏の決起をあのような形で始末してしまいました。自民党は、リベラルという旗を当分の間使うことはできません。さりとて、新保守主義の旗を持出したくても、こちらの方は小沢自由党にすでに持っていかれています。 残念ながら、自民党は政治的には完全に手詰まり状態なのです。政治というのは難しいようで実は簡単なのです。ひとつの政権や政党が国民の支持を得て強くなっていくのは、政治的理念をはっきりと掲げ、その理念に忠実に政策を立てて実行していくことなのです。この単純なことを実行することしかないのです。しかし、意外に難しいのもこのことなのです。現在の自民党には、政治的には基本的な点において立ち直る要素はありません。少なくともこの数年間の自民党がやってきたことを全否定するだけの勇気がなければ、現在の八方塞(ふさ)がりの状況から脱却することはできないでしょう。 八方塞がりの自民党は、これからどうするのでしょうか。私にはだいたい分かります。現在の体制が行き詰まると、弥縫的な目先だけ変えた次の体制を作る。それがダメになったら、また次の体制を作る。いちばん考えられるのがこういうことです。現在の自民党には、思い切った自己改革をする力も亡くなったように感じます。河野洋平総裁案や橋本元首相再登板などです。しかし、いよいよ万事窮した場合、いちかばちかの奇策をとるかもしれません。小泉純一郎総裁─ひょっとすると田中真紀子総裁案です。その場合、一時的には人気を博すことは予想できますが、果たして現在の自民党にそれだけの度胸があるかどうか。また、このふたりに現在の自民党を本当に変えてゆくだけの思想的にしっかりしたものがあるのかどうか、実は定かではないのです。森首相がダメになったら、誰かに変えればいいと簡単にいわれていますが、ポスト森もそんなに単純な問題ではないのです。 (つづく) 09:10東京の事務所にて |
20世紀末のわが国の政治的虚空(その1) これから数回に分けて、世紀末の日本の政治の現状についていくつかの面から分析してみたいと思っています。決して楽しい話題ではありませんが、現状を冷徹に分析するところから未来の課題が明らかになってくるのです。 < 加藤騒動後の政局> 加藤騒動がああいう形で鎮圧されその後の自民党の政治を見ていると、この党は完全に20世紀の政党であって、21世紀の日本の政治をリードすることができないということを国民の前に露呈したという感を強くします。新聞や雑誌および白川BBSの書込みや私がいただいたメールには、1割くらいですがそれでも加藤氏を理解・弁護・擁護するものがあります。しかし、ああいう形で加藤騒動を鎮圧・収束した自民党、そして世紀の内閣改造をしたという自民党・森内閣を評価するものは皆無であることがこのことを雄弁に物語っていると思います。 自民党という政党に21世紀の未来はないなどということは当たり前のことであり、くどくどと論ずる必要はないという方もいまや多いのではないかと思います。しかし、この政党が現に政権を担っている以上、なぜそうなのかもう少し詳しくみてみる必要がありますし、長年この党にいる者としてその責任があると考えます。やはり、自民党は日本の政治の現実なのです。このことを詳しく分析することが、21世紀の政治がどうあるべきか考えることにもつながります。どうか、自民党なんか大嫌いだという人を含めてお付き合いをいただきたいと思います。 温泉旅館を経営している福島県のある方からいただいたメールによると、11月20日いよいよ本会議が始まる午後9時前から、お風呂は完全に空っぽになったそうです。その旅館だけではなく、その温泉街のすべての旅館がそうだったとのことです。こんなことは滅多にないことだそうです。加藤氏の政治行動に、いかに国民の関心が高ったかが分かります。加藤氏の政治行動は、自民党政治を変え、日本の政治に大きな変革をもたらすものと多くの人々が期待していたのです。このことを裏返せば、森内閣・自民党政治・自公保連立政治に国民がいかに辟易していたということです。自公保連立の3与党は、先に行われた総選挙で絶対過半数を獲得しました。それにもかかわらず、どうして現政権は国民からこのように嫌われるようになってしまったかということを真剣に考えなければなりません。 新しい省庁編成にともなう世紀の内閣大改造があったにもかかわらず、その後の森内閣の支持率は少しも改善されていません。私が古賀幹事長の就任についてだけ触れて、その後内閣改造などにコメントをしなかったのもそんなことは政治的にはほとんど意味がないと思ったからです。私にとっては、正直いってコメントする気にもなれない馬鹿馬鹿しいニュースでしかありませんでした。それは多くの国民にとっても同じような思いがあったのでしょう。政治技法的には確かにいろいろと策は弄していますが、そんなことで国民の目は誤魔化せません。問題は、もっと本質的なところにあるのです。 自民党という政党は、いったいどういう政党だったのでしょうか。いろいろ問題はあるにせよ、これまで自民党は、すくなくとも「自由民主党」でした。すなわち、自由を守る党であり、民主主義を守る党であるとみずから国民に説明をしてきましたし、このことはそれなりにひとつの実態でした。しかし、総選挙の前ころから自由民主党ではなくて「不自由非民主党」になってしまったと、自民党のなかからいわれだしました。野中幹事長がやったことは、そういわれても仕方のないことでした。彼が自民党の幹事長としてやった選挙戦術は、滅茶苦茶なことでした。そして、自民党は総選挙で惨敗しました。それでも、彼の責任を追及する声は一言もありませんでした。こんなことは、これまでの自民党には絶対にありえないことです。自民党は、本当に不自由非民主党になり下がってしまったのです。若手の議員が「自民党の明日を創る会」を作って騒いで済まされる問題ではないのです。 <有象無象派に敗退したリベラル派> もう少しこれを専門的に見てみるとこういうことになります。自民党という政党は、政治的には新保守主義といわれる潮流・リベラルといわれる潮流・政権党であればどうでもいい人たちの集合体でした。最後の政権党であれば政治的考えなどどうでもいい人たちとは、政権に集まる有象無象のことですから、これを有象無象派ということにしましょう。でもこの有象無象派って、洋の東西を問わず、昔も今の意外に多いのですよ。ですから本当は、もっといい名前を付けたほうがいいのかもしれませんが、私の語彙力ではいまのところいい案がありません。しかし、どういう立派な命名をしようともこの人たちが有象無象であることには変わりはありませんし、この人たちに政権を補強はできても、政権を作る力などありません。そして、この人たちは、新しい政権ができればいの一番に現在の体制から逃げ出していく人たちなのです。 ですから、自民党を政治的に引っ張る潮流は、新保守主義とリベラルの二つの潮流ということになります。自民党のなかにもこの新保守主義的な考え方の人たちもいることはいます。中曽根元首相などは思想的にはこの考え方に近いのでしょうが、中曽根氏の場合この側面より自民党のなかにある伝統的保守主義━戦前からある古い保守の代表選手というイメージの方が強いですし、現在ではそこに政治的スタンスがあると思います。どうしてこうなったかというと、新保守主義は政治的には小沢一郎氏率いる自由党がいまの日本ではこれを代表する形になっているからです。自民党のなかで同じようなことをいっても、自民党が全体としてそのような主張をしない限り、政治的にはそのお株はひとつの政党を結成して主張している小沢氏に代表されることになるのです。これが政治力学というものです。各種の選挙で自由党がおおかたの予想に反してかなり善戦するのは、小沢自由党が新保守主義的な考えの人々の支持を集めるからです。 では、もう一方の自民党の政治的潮流であるリベラルを代表する政治家とは誰でしょうか。古くは石橋湛山元首相であり、また近年では大平正芳元首相であり、そして現在のリベラルな政治家の代表は加藤紘一であったわけです。加藤氏が自民党の政調会長・幹事長としてマスコミで述べたことや実際に政治的にやったきたことは、リベラル派の面目を代表するに遜色のないものでした。ここで改めて私のいうリベラルの定義をしておきます。リベラルとは、社会的公正を配慮する自由主義ということです。これに対して新保守主義とは、自由主義の原理原則を忠実に実行していこうという考え方です。私はこれを分かりやすくいうために「むきだしの自由主義」といっていますが、どちらにも共通している点は自由主義ということです。 このリベラルの潮流は、加藤氏が政治的に代表していました。民主党の鳩山代表などは、好んでニューリベラルという言葉を使っていますが、政治的には日本のリベラル派を代表していません。それは、民主党という政党が自由主義を代表する政党と国民に受け止められていないからです。国民は細かい政治的な理屈は分からなくても、リベラルが自由主義のひとつの考え方であることをしっかりとしっているのです。かつての社会党と一緒になって作った民主党は、本質的に自由主義政党たり得ないことを国民はしっかりとみているのです。現に民主党は、多くの地域で労働組合の支持を受けています。労働組合の支持がなければ、民主党は鳩山代表がいくら労働組合にたよらない政党を目指すといっても、現在の議席すら獲得することはできないでしょう。ここに鳩山氏がどんなにリベラルという言葉を使おうが、政治的には現在のところリベラルを代表する政治家となっていない理由です。 加藤騒動は、本人が意識したかどうかは別にして、自民党のリベラル派の決起だったのです。そして、加藤騒動の鎮圧は、自民党のリベラル派が有象無象派に無残に敗退してしまったことを意味しています。国民の多くは、実は自民党のこの人たちに最後の期待をしていたのです。ですから、加藤氏の行動にあれだけの期待が集まったのです。この人たちの期待を、加藤氏も自民党も完全に裏切ってしまいました。特に自民党のリベラル派を支持していた層は、政治的・社会的には良質といわれる人たちでした。この人たちも鎮圧されてしまったことを意味します。加藤氏をはじめ同氏と行動を共にした人たちは、自民党のなかでこれからも改革を目指して政治活動をするといっていますが、これらの勢力をこれまで支持してきた人たちは、今回の一件でその大半は自民党を支持することをやめるでしょう。 国民は、そう何度も自民党の誤りを許すほど寛容でなくなったし、自民党もかつての絶対的権威をいまの日本ではもう持ってはいないのです。そう思っているのは、自公保連立政権にどっぷりと漬かっている理想も誇りもない有象無象派だけなのです。 (つづく) 10:00東京の事務所にて |
白川勝彦OFFICE
katsuhiko@liberal-shirakawa.net
Copyright© K.Shirakawa Office 1999
Web pages Created by DIGIHOUND.,1999