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─古文書蔵─ No.78 ~ No.83
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厳しいご指導をいただきました! 前号で私が個人的に使っているノート型PCの接続料金の話をしたところ、同情的なご意見ではなくかなり手厳しいご意見をBBSやメールでいただきました。もちろん、最初から同情をかうつもりで書いたものではありませんので、それ自体は別に堪えていませんが、非常に大切なことを指摘されました。これは、非常に私自身勉強になりましたし、永田町徒然草の愛読者のみなさまにも知っておいていただいた方がいいと思ったことがいくつかありましたので、紹介させていただきます。 まず最初は、BBSにも紹介させていただきましたが、山田さんからいただいたメールです。
サポートセンターの件に対しては、私の理解が足らずで若干感情的な表現をしたことを、ニュービジネスに理解を持たなければならないものとして反省しております。アメリカから帰って従来使っていたPHSでの接続に切り替えようとしたとき、うまく作動しませんでした。しかし、電話会社のサポートセンターに電話したところ、丁寧にサポートしてもらい無事使用できるようになりました。そのとき確かに30分以上かかったと思います。「コンピュータ科目」を大学の入試科目にしたらどうかという提案についての山田さんのコメントに対して、私はとても意見を申し上げるだけの知識は持ち合わせていません。コメント自体を理解する知識もないのです。ただ、山田さんがおっしゃる通りコンピュータに関する基礎技術や基礎理論でなければならないと思います。もし、そのようなことは不可能だというのであれば残念ですが諦めざるを得ません。これを書いてから親しいコンピュータのプロにどうだろうかと聞いてみたのですが、それはできるんじゃないかということでした。私自身もっと研究してみたいと思います。 次は、あるパソコン関係の出版社で編集のお仕事をしておられる方からのメールでのご指摘です。
これに対し、私は返信として次のようなメールを出しました。
手厳しいご指摘をいただいてしょんぼりしていたところ、若干私に同情的な書き込みをBBSでいただいたものですから、次のようなレスを付けておきましたので少し上のものとダブルところがありますが、お読みいただければ幸いです。
ご免なさい。少し長くなってしまいました。まずいえることは、必要もないのにPHSでインターネットに接続するということがそもそもの基本的な間違いだったということです。私の場合少しは必要があることはあったのですが、どうしてもモバイルにしなければならなかったかといえば、そこまでの必要はなかったのかもしれません。でも、便利だったことは確かですし、私のインターネットの習熟に少しは貢献したことは事実であって (といっても50の手習いですからタカがしれていますが…)、これまでにかかった料金については後悔していません。ただ、もし安くできるのならば、これからはもう少し節約してみようと思っています。これについては、いろいろと教えていただきました。でも、いままず心掛けていることは、できるだけマメに切断し、最大限努力して一ヶ月どのくらいになるのかやってみようと思っています。 しかし、私がいちばんいいたかったことは、日本の通信料金をはじめとするネットワーク産業の料金体系が従量制を基本としていることへの疑問だったのです。IT革命(インフォメーション・テクノロジーの革命…すなわち情報を集積したり、伝達したりすることの革命ということでしょう)を国をあげてやろうというのであれば、この根本問題に手をつけなければならないのではないかという問題提起をしたかったのです。しかし、補正予算や来年度予算編成をみていると、IT関連ということで、いつものように各省庁が予算の分捕り合いに狂奔しているだけで、だれもこの問題を真剣に考えていないと思うからです。これは、技術の問題でもハードの問題でもありません。でもこの問題が根本的に解決されない限り、通信料金の問題も解決しませんし、新しい通信方法が出てきても普及に時間がかかります。それでは革命は起こせません。通常では考えられないことを一挙にやるから、革命なんです。どうも言葉が軽く使われているように思えてなりません。私がかなり前から考えていたことをここで述べるきっかけを作ってくれたのですから、今回の一件は感謝しなければならないと思っています。また、いくつかの大事なことを知ることもできました。ですから、後悔はしていません。だれも責めません。もうこの話は止めます。 読書の秋です。IT革命の時代ですから、これからはインターネットの秋ということになるのかもしれません。最後になりますが、一昨日、ホームページのカウンターの表示数が18万を超えました。ご来訪に心から御礼を申し上げます。これからもマメなご来訪をお待ち申し上げております。 01:00東京の寓居にて |
電話料287,445円の請求がきました 9月下旬、私がインターネットに使っている電話会社から287,445円の請求書がきました。いくらなんでもちょっと高すぎるのではないかと思って調べてみました。まず最初の内訳は、5~7月の3ヶ月分の合計262,358円と8月分の16,773円でした。8月はカード式電話がこわれたために、実際に使ったのは10日間だけです()。この合計が279,131円です。それに、8月10日に新しく買ったカード式電話の方の電話料金は、実際には4日間しか使ってないのに8,314円の請求がきていました。そうすると、8月は14日しか使ってないのに(8月14日からはアメリカにいたためこの会社の電話は使っていません)、25,087円の料金ということになります。もし、8月中ずっと日本にいたとしたら5万円くらいになっていたことでしょう。いずれにせよ、私が個人的に使っているPC(パーソナルコンピュータ)のインターネットへの接続電話料金は、月平均7万円強ということになります。これにプロバイダーに支払っている代金が月に約3万円です。そうすると、私が個人的に払うインターネットの接続料金は約10万円ということになります。いくら情報が命の政治家だとしても、これは高すぎるのではないかとの疑問をもったのです。もちろん、事務所のPCのインターネットへの接続料金はこれとは別にちゃんと払っています。 インターネットを長くやっておられる方々は、白川何バカやっているんだ、とお笑いのことと思います。正確を期すために、もう少し状況を詳しく説明しましょう。私が個人的に使っているのは、ノートPC2台です。最初は1台だったのですが、選挙区への往復の際いつも持ち運ぶのもけっこう重かったので、栗本慎一郎先生からいただいたPC(これがちょっと具合が悪い時期がありましたので)と自分で買ったPCを、東京と上越にそれぞれ置きました。接続方法は、PHSを使ってやっています。ときには、宿舎や自宅以外でも使うときがあるからです。8月に壊れるまでは、カード式電話は32kを使っていましたが、新しいやつは64kです(あまり速度の変化は感じませんね)。この4ヶ月間のうち、6月は選挙がありましたので、私の電脳秘書が1ヶ月間くらい私のPCを使いましたから、このときはダブルで使ったことになりますが、それ以外は、私一人しか使っていません。すなわち、東京にいるときは上越の自宅に置いてあるものは使っていないし、自宅のものを使っているときは、東京の宿舎のものは使っていないということです。もう一つだけいっておかなければならないことは、プロバイダーは東京事務所のPCが同じプロバイダーの別アカウントを使っていることです。なお、私のPCは5分間で自動切断になるようにセットされています。 選挙ときの1ヶ月間の電脳秘書とのダブりの使用と東京事務所のPCとのプロバイダーのダブりを差し引いたとしても、きっとこの2台のPCを使ってのインターネットの接続料金は、月9万円近くかっていることになるのではないでしょうか。請求書の料金は銀行で振込みましたが、常識的に直感として、ちょっと高すぎると私は思いまました。どうしてこのような金額になるのかと思い、今日電話会社には行ってきました。二人の社員がでてきて接続時間によってはこのようになるのではないでしょかと丁寧に説明してくれました。私は、今後のこともあるので接続時間の明細を送ってくれるように頼んできました。ものはついでですから、この際プロバイダーの方にもいこうと思って所在地を訊ねようと思って電話をしました。しかし、所在地をなかなか教えてくれず、そういった質問には電話以外では答えられないといいます。そして、お客様番号を教えてほしいというのですが、私は秘書任せだったので、すぐには分からないのです。運転免許証をちゃんと持っているので、本人確認ならできますよというのですが、会社の方に来られても対応する窓口がないというのです。おかしいとは思いましたが、それ以上はいくら話しても埒があかないので、過去半年分の代金の明細を送ってくれるように頼んで電話を切りました。お客様番号の方が、本人が自分を証明するものを持って参上するより大事だというのもおかしいし、会社の方に来られても応対する窓口がないというのも、私にはどうしても理解できません。コンピュータ関係の業界は、ちょっと世間の他の商売とは違った常識があるのではないかということを、これまでも何度か永田町徒然草でもBBSでも書きましたが、これなどもその最たるもののひとつのような気がします。どう思われますか。 もう済んだことですから、どうでもいいように感じがするのですが、このように珍しく執拗に「調査」に乗り出したのは、これからも続くことなので調べておこうと思ったのと、郵政関係の仕事に長く携わった者として、この際自分たちがやってきたことをよく調べておきたい気がしたからです。請求された料金がちゃんとした根拠のある数字だということは、電話会社の社員の説明やプロバイダー会社(これも電話会社の子会社です)の社員の電話での応対によりよく分かります。だから、私も請求された金額はすでにちゃんと払っているのです。私が訊きたいのは、個人的に使うPCの接続料金が月9万円というのは高すぎはしないか、ということなのです。そして、もっとリーズナブルな料金のサービスはないのかということです。どうしてこんな単純な人の気持ちが分からないのだろうかと、残念でなりませんでした。コンピュータのことは分かっても、これを使う人の心が分からなければ、本当のプロとはいえないのではないでしょうか。両社から使用明細の資料を送ってもらうことになっていますので、どうして先に述べた料金になったかは、完璧に説明はされると思います。しかし、それでは私がわざわざ会社まで出向いた、また出向こうとした気持ち─要求の半分も満たされたことにはならないのです。 こんな想いをもって帰路についた電車の中で、今週発売の『週刊朝日』の中吊り広告の「プロバイダーand電話料金 こんなに値切れる」との見出しが目に留まりました。さっそく買って読みました。まあ、安いものがあるからそういうところと契約すればいいという記事です。「使い放題で月5千円」などといった広告は私もよく目にします。でも、私のような素人には、そういう手続きをするのが非常に大変なんです。億劫なんです。他に以前はなかったような安い料金のものが出たのなら、私が使っている電話会社にしても、プロバイダーにしても新しいサービスを始めたのではないかと思うのは、人情ではないでしょうか。それがないか訊ねたいと思っても、相談にのってくれない、そういうサービスは当社にはないというのでは、嫌なら勝手にどこにでもいけばという営業態度といわれてもしょうがないのではないでしょうか。移動電話の会社は、いまは景気がいいのでしょうが、いつもいうように諸行無常です。また、プロ意識がないといわれてもしょうがないのではないでしょうか。この会社も電気通信の自由化によってできた新しい電話会社です。こんなことで民間のいきいきとした活力があるといえるでしょうか。新しくできたNCC(ニューコモンキャリア─NTTに対して新しくできた通信会社のこと)の中では、大手になったもので、もう殿様気分になってしまったのでしょうか。こんな意欲では、私たちが通信の自由化をした理想が全く分かっていないのではないかという気がしました。 もうひとつ感じることですが、マニュアル通りの応対しかできないというのか、それさえやっていればいいというような仕事の教え方をしているのではないかという気がしてならないのです。マニュアルとは、間違わない仕事をするための手順のことです。マニュアル通りやれば最高の仕事であるというのは完全に間違った考えです。いわゆるハイカラな商売では、こういうサービスによく出会います。ぜひ直してもらいたいものです。 いままですべて秘書任せだったことを、自分でできることはできるだけ自分でやるようにしているのは、ここに書いたようにいろんなことが分かってとても勉強になるからです。国会議員だからといって、別に偉ぶっていた気持ちなど毛頭ありませんが、実際に経験しないと分からないことがいっぱいあります。白川何をくだらないこと、無駄なことをやっているんだとお笑いにならないで下さい。本人はあえて納得しながら、けっこう楽しみつつ、大切な鈍牛の歩みを真面目にしているのです。ところで今日友人と食事をしながら話して非常にいいことを聞きました。5年後にITの最先進国を目指すと森総理がいうのならば、大学の受験課目に選択課目として社会や理科と並んでコンピュータ課目を入れればいいというのです。たいへん面白い意見だと思います.。私は大賛成です。やるべきです。どうやるか、そんなことは専門家に任せればすぐにできるでしょう。文部省の役人や審議会の偉い先生では無理でしょうがね。一時浮上したパソコンの講習クーポンなどといったことの何百倍の効果があるでしょう。そして、こういう手法が、私のいう自由主義的手法なのです。みなさんは、どう思われます。なんとなくぐずついた天気が続いていますが、秋は秋です。いろんなことを考える思索の秋としたいものです。 00:10東京の寓居にて |
西暦2000年も、はや10月となりました 今年もはや10月となりました。ミレニアムということで特別な感慨をもって迎えられた今年でしたが、この一年の中間決算をしてみると、特別な年としてはどうだったのでしょうか。総選挙も行われました。沖縄サミットも大過なく行われました。2000円札も発行されました。オリンピックでも、日本はまずまずの成績を残しました。IT革命をやり、5年後にはこの分野で最先端の国を目指すとの大号令もかかりました。この他にもいろいろあるでしょうが、21世紀に向けての確かな希望と確信がこの国に生まれた一年だったのかと聞かれれば、いまわが世の春(秋?)を謳歌している自民党の五人組と創価学会=公明党以外のほとんどの人は、NOと答えるのではないでしょうか。あと3ヶ月ありますが、少なくとも政治の面では、これといった新しいものが生まれる可能性はほとんどありません。 ところで、自自公連立内閣が正式に発足したのが昨年の10月5日でした。かつての自由党は分裂し、いまは自由党と保守党になりました。自自公連立から離れた自由党は元気になっていますが、保守党という政党の前途はあまり明いようにはみえません。自自公連立を決断した小渕総理は他界しました。自公保連立3党は、総選挙で60近くの議席を失いましたが、まだ貯金があるといって政権をもっているだけです。国民の多くの理解と支持を失っています。とにかく景気回復だということで、遮二無二にやった自自公連立―自公保連立である訳ですが、景気回復の足取りは依然として緩慢です。そもそも経済は本当に回復しているのかという疑問さえあります。カンフル注射的な景気刺激策をとりつづけてきたために、経済の自律的回復力がなくなりつつあるような気がします。もしそうだとしたら、これまでの景気対策は大失敗ということになります。今年中に経済の自律的回復のハッキリとした兆候がでなければ、このように判定されても仕方ないことだと思います。そして、自由民主党としては自公保連立をもう一回総括しなければならないときだと思いますが、そのような気運は見うけられません。 自自公連立そして自公保連立とは、大きな閉塞感がうみだした巨大な閉塞の塊だと私は思っています。このことは、私の「自自公連立の政治論的批判」に当時書いておきましたので、改めてご覧下さい。自自公連立が3党の閉塞感から生まれたとの実証的検証をしたものです。そのことは、自自公連立から離脱した自由党が、おおかたの予想に反して先の総選挙において大善戦したことにより、私の指摘が正しかったいえると思います。閉塞感の塊の政権が国民に夢と希望と勇気を与えることは、たとえその塊がどんなに巨大であっても、期待するほうが無理というものでしょう。政権や政党のエネルギーは数ではないのです。理想であり、理念であり、志の高さなのです。このようなものがその動機においても、実態からも少しも感じることができない自自公連立―自公保連立では、国民の理解と共感が得られないことは、最初から明らかだったのではないでしょうか。 「信なくば立たず」とは中国の古い言葉ですが、私はこれを自由主義政党や自由主義者は別の意味で解さなければならないと思い、何度もなんどもこのことを指摘してきました。 自由主義の政治は、国民の力を信頼しこれを思いきり引き出すことをいちばん大切にしなければならないのです。政府の力で、経済を良くしてみせる。政治の力でいい世の中をつくる。だから政府について来い。こうした発想・言動が自自公連立―自公保連立にはずいぶんとあるような感じがしますが、よく考えてみれば、自由主義の政治から根本がはずれているのです。自自公連立―自公保連立の中心は、あくまでも自由民主党です。自由主義とは縁もゆかりもない─これとまったく対極に位置する公明党と連立を組むこと自体が、まともな自由主義政党や自由主義者として考えられないことです。自由民主党は本当に自由主義政党なのかという、本質的な疑いさえ持ちたくなります。もし、自由民主党が自公保連立を唯々諾々として認め、これを延々と続けるようならば、私はそういう疑問を持たざるを得なくなります。自由民主党の同憂の士が一日もはやくこのことに気が付いてほしいと願わずにはいられません。 大型補正予算と財政再建の問題、定住外国人の地方参政権の問題、参議院比例区に非拘束式名簿方式の導入の是非、少年法の改正問題など、どれをとらえても、それぞれの政党や一人ひとりの政治家の基本的な価値観や政治観が試される問題です。もし私が国会に議席を得ていたら、苦渋の決断を迫られていたと思います。どれもそういう問題です。そういった意味では、20世紀最後の国会にふさわしいテーマなのかも知れません。でも、どれもあまり前向きの生産的なテーマではないような気がします。しかし、これがいまのわが国の実態を反映した政治的テーマなのでしょう。もって瞑すべし。 「爽やかな秋の快晴の空のような政治」。これは、平成5年の総選挙のときの私のキャッチフレーズでした。このとき私は、ダントツのトップ当選をはたしました。こんな当たり前のことが、わが国ではまだ必要なことを、すこぶる残念に思います。いまはただ、爽やかな秋空のもと、実り豊かな収穫を祈っています。 00:10旅先のホテルにて |
暑さ寒さも、彼岸まで 爽やかな、過ごしやすい日が多くなってきました。「暑さ寒さも、彼岸まで」とはよくいったものです。帰国して10日になりますが、爽やかな、穏やかな気候のもとで街の様子を見ていると、アメリカに比べて、わが国は本当に「小綺麗」な国であることを日々感じております。綺麗な国とはいわずに小綺麗な国といったのは、アメリカにはアメリカなりの美しさがあり、それとの対比で、小綺麗といったのです。私は海外旅行に行った日本人がよくいう「外国にいって日本に帰ってくると、日本という国が一番素晴らしいことをつくづく感じました」というあの言葉が、あまり好きではないのです。長年住みなれた、言葉の不自由のない自分の国が、誰だって一番いいに決まっています。そんなことを実感するためにわざわざ海外旅行をするんだったら、海外旅行などには最初から行く必要はないんだと思います。日本とは別の価値観をもって、そこにある外国をそのまま見て、その国の素晴らしさを感じる。そして、わが国と対比してみて、何か参考になることがあれば、それを感じる。これが海外旅行の楽しさであり、目的ではないでしょうか。 「小綺麗な国」と感じることについて、若干補足しましょう。まず、第一は街並みです。日本の現在の街作りは、欧米的な街並みをモデルにして計画されている訳で、よくできてはいるのですが、どう考えてもスケールが小さいために、アメリカやヨーロッパの街並みが持っている迫力と美しさがどうしてもありません。欧米の街並みは、全体としての美しさを大事にしているのだと思います。もし、欧米的な街作りを計画するのならば、私たちは、これからはこのことを第一に考えて街作りをしなければなりません。そのためには、どうしても広いスペースを取らなければならないのですが、一見無駄のように思えても、長い目で見ると決して無駄ではないということを、私たちは知らなければなりません。第二は、個性化です。服装や表現やパフォーマンスです。日本人もかなり個性的になったといわれています。でも、そこにいるのがほとんど日本人であるからでしょうか、アメリカのあの混沌とした中に見られる個性的な美しさには、なかなかお目にかかれません。だいぶ個性的な服装をしているお嬢さんもおりますが、あまり堂々としていないような感じがします。個性的であるという第一の条件は、堂々とするということではないでしょうか。街を歩いていても電車に乗っていても、いろんなものが本当に綺麗なのですが、あまりにも綺麗過ぎるものですから、若干の皮肉をこめて、あえて「小綺麗」と、こういった訳です。あまり深い意味はありません。 ところで、オリンピックがまさに佳境に入っています。私は体操と音楽が小学校のときからダメでしたので、スポーツにはそれほど興味はある方じゃないんです。オリンピックもテレビのチャンネルをひねって、たまたまオリンピックの放送があれば、それをみるという程度なんです。でも、実際に見ると、どの競技もみな面白いですね。日本が順調に勝っているソフトボールがあんなに面白いなんて、初めて知りました。もし日本が優勝をしたら、きっとソフトボールを始める女の子が増えるんじゃないでしょうか。そうなったらいいですね。こんな私ではありますが、昨日の女子と男子の100メートル競争は、ちゃんと時間を合わせてテレビの前に座って、ライブでこれを観ました。マリオン・ジョーンズ、モーリス・グリーン、ともに素晴らしかったですね。本命中の本命といわれる選手でも、実際にオリンピックの決勝で金メダルをとるということがいかに大変であることか、つくづく感じさせられました。二人とも優勝が決まった瞬間、涙ぐんでいるのがすごく印象的でした。マリオン・ジョーンズ選手は、あと4個のメダルが目標とか。すごいですね。独占には非常に厳しいアメリカですが、これはアンチトラスト法にひっかからないんでしょうか。スポーツは別ですかね。 それから、今日も朝7時からテレビの前に座り、女子マラソンもちゃんと観ました。昔からマラソンは好きなんです。もっとも、昔は女子マラソンなどありませんでしたが。マラソンは、いつも日本は強い方ですよね。今回も、日本の3人娘は大きな期待をもたれていました。でも、高橋尚子選手のように、最初から先頭にたちレースを引っ張り、そのまま優勝したケースは初めてじゃないでしょうか。シモン選手が途中までピッタリとついていたので心配でしたが、力で振り切りました。力を感じさせた、堂々の戦いでした。38キロ地点の最後のスパートでシモン選手を振り切れないと、ぜんぜん違った展開になったのでしょう。このへんが、駆け引きというやつでしょうか。女子の陸上競技では、日本初の金メダルとか。心からおめでとうといわせていただきます。 日本勢では、女子の健闘が目立ちます。男子の選手の健闘も期待したいと思います。それにしても、オリンピックはいつのドラマを生みますよね。やはり4年に一回のスポーツの祭典です。それに比べると、かなりスケールは落ちますが、日本の政治を変えるのは、4年に一回はある衆議院議員の総選挙です。あの総選挙から、はや3ヶ月が経ちました。いろいろなことを感じながら、無聊をかこっている今日この頃です。 22:00上越市北城町の自宅にて |
帰国して思うこと アメリカをちょうど1ヶ月旅行して、一昨日帰国しました。敬老の日でした。帰りの車の中では、シドニーで開催されているオリンピックの開会式の実況中継をしていました。あっ、その前に大相撲の中継がありました。武蔵丸が勝ち、優勝は曙か武蔵丸に絞られたとアナウンサーがいっていました。国技といわれる相撲の横綱の二人はアメリカ出身なんですね。日本もなかなかオープンな国ではないかともいえますし、オープンにするとこうなってしまうということなのか意見の分かれるとことだと思います。昨日は時差ボケで一日中寝ていましたので、武蔵丸が優勝を決めたのかどうか今のところまだ知りませんが、多分武蔵丸が優勝するのでしょう。 1962年(昭和37年)、ちょうど1ヶ月アメリカに滞在し羽田空港に降り立った私の第一印象は、汚い、そしていやな匂いのする空港というものでした。もちろん、現在の成田空港はきれいですし,近代的です。でも、ずいぶん小さいコンパクトな空港という感は否めません。アメリカでは相当数の空港に行きましたが、そのどれよりも小さいのではないでしょうか。この成田空港が日本の表玄関なのですから、ちょっとお寒い感がします。そして、東京にあまりにも遠過ぎます。これは誰もが指摘することです。ニューヨークのJFK空港からマンハッタンまでのタクシー料金は一律30ドルと決められています。私は成田空港までタクシーで行ったことはありませんが、2万円は超えるのではないでしょうか。まあ、これはしょうがないとしても、一日も早く問題を解決して第二期工事を始めてもらいたいものです。どういう経緯があるにせよ、第二期工事に着手できないところに日本の政治・行政の現状が象徴されているような気がします。 家に帰って、家内が録画しておいてくれた加藤紘一代議士が出演していた、サンデープロジェクト(9月10日放映)のビデオを見ました。加藤代議士と長年行動を共にしてきた者として、加藤代議士の主張は特に目新しいものではありませんでしたが、亀井政調会長や野中幹事長を引き合いに出して、田原聡一郎さんが加藤代議士の考えを確かめていただけに、分かりやすいものがありました。亀井政調会長や野中幹事長では、加藤代議士の相手になる訳がありません。政治家としての力量・品格が違い過ぎます。ですから、加藤代議士の主張が光って見えるのは当然です。平成5年野党になった自由民主党が自社さ政権により与党となり、そして平成8年の総選挙で過半数近くの議席をえて政権党となるのに加藤政調会長・幹事長が果たした役割は、大きなものがあります。加藤代議士の政治家としての力量が発揮された大仕事だったと思います。私も加藤幹事長の下でその仕事の一端を担ったことを誇りにしています。いま、森総裁・野中幹事長・亀井政調会長などの党執行部によって、私たちが懸命に築き上げてものが日々崩されていることを残念に思います。 その最大のものが、自公連立であることはいうまでもありません。よく、野中幹事長もかつては反公明党だったといわれますが、それは違います。私たちが新進党との対決しているとき、創価学会=公明党と正面から戦わざるを得ないというときでも、野中氏(当時は加藤幹事長の下で幹事長代理を務めていました)は宥和路線をとっていました。ですから、創価学会=公明党問題・政教分離問題を中心とする戦略・戦術は野中氏をはずして、亀井氏(当時は組織広報本部長でした)と私がやらざるをえませんでしたが、それが功を奏して自由民主党は選挙に勝つことができました。そういう面では亀井氏は、自由民主党の勝利の立役者の一人といっていいと思います。その亀井氏があるときから、創価学会=公明党に対して宥和路線を取るようになりました。そしていまは自公連立の先頭に立っています。私はどうしてもこの点を理解もできないし、尊敬もできません。
その言やよし。ただ、この言を私はそっくり亀井氏に投げ返したいと思っています。保守政治家はよく「信なくば立たず」という言葉を使います。そして、自由主義政治も強制を主たる政治の手段としない故に「信なくば立たず」ということを肝に銘じなければならないのです。ここまで言いきった人が、なぜ自公連立の旗振りをするのか、私には理解できないし、理解してあげようとも思いません。どういう理由があるにせよ、ここまで見事な変節をする人間は信用できません。その言葉が信用できない政治家を、どうして信用することができるのでしょうか。亀井氏は、茶化すのが得意な政治家ですが、茶化しや冗談で済ますことができる問題もあれば、それが許されない問題もあります。この問題は、もちろん茶化しや冗談で済まれる問題でないことはいうまでもありません。こういう政治家を政調会長にしていること自体、自由民主党の信用を落としているのではないでしょうか。亀井氏とは、昭和54年に当選した同期の桜で長年の友人ですが、あえてこう言わざるを得ないのを悲しく思います。 アメリカで気軽な旅を楽しんできただけに、急に、次元の低い、魂の自由のない日本の政治の現実を目の当たりにし、これを相手にしなければならないと思うと、憂鬱にならざるをいません。しかし、誰かがやらなければもっとひどいことになると思えば、これに目をそむける訳にはゆきません。 05:10東京の寓居にて |
アメリカをアメリカたらしめているもの
12:30アメリカにて |
もう一つのカジノ・シティ ワシントンD.C.でラスベガスの話をしたところ、「アトランティック・シティにいったことがありますか」と聞かれ、「話には聞いたことがあるが、まだ行ったことはないない」といったところ、「あそこもなかなかのものですよ、ぜひ行ってみたらどうですか」と勧められました。ワシントンD.C.から車で3時間足らずでゆけるということなので、アトランティック・シティに来てみました。これまでにも、ワシントンD.C.やニューヨークに来たときに、アトランティック・シティのカジノの話は聞いたことがありますが、紹介する人も、ラスベガスなどに比べたらたいしたことはありません、というニュアンスで話していたものですから、あまり行こうという気は起こりませんでした。でも友人の強い勧めもありましたし、気軽な旅ですから、足をのばした訳です。来てみてビックリしました。 アトランティック・シティというくらいですから、大西洋に面して豪華ホテルが30ほど林立しています。海岸側には木でできた広い遊歩道(モール)があり、この遊歩道は、海岸に面した30ほどのホテルすべてに接続しているのです。アメリカは9月4日がLabor Dayで、ちょうど三連休でしたから、この遊歩道は家族連れであふれていました。私は、話題の不動産王Trumpが立てたTaj Mahalというホテルに泊まりました。これも名前からわかるとおり一つのテーマホテルで、すべてがインド風です。そのせいか、インド人客が多く目立ちます。アメリカにもインド人がけっこういるのですが、このホテルのお客の割合は、それをはるかにしのぎます。インド人は、いまのアメリカのIT革命にはマンパワーとして欠かすことができないくらい重要で、ワーキングビザやシティズンシップの取得には特別枠が与えられていると聞きました。話はそれましたが、ここもラスベガスと同じでワンフロア全部カジノです。その広さ・規模は、ラスベガスに比べてまったく遜色ありません。 すべてのホテルにカジノがあるようではないそうですが、少なくとも海岸に面したホテルにはカジノがあり、モールから誰もが行くことができます。ですから、すべてのホテルが一つのホテルという気がします。また、モールにはいろいろな店があり、非常にファミリアスな感じがします。海岸は海水浴を楽しむ人、サーフィンを楽しむ人が沢山いて、まさにリゾートというところです。まわりの自然もとても美しく、砂漠の中のラスベガスとは景観がぜんぜん違います。もっとも、街がこのように綺麗に整備されたのはここ数年のことらしく、以前はリゾートというより、いかにもカジノの街という雰囲気だったそうです。この辺にも、ここ数年のアメリカの好景気がうかがわれます。カジノの混み具合は、私の見たラスベガス以上でした。アメリカのカジノ・シティの代表がラスベガスだとしたならば、アトランティック・シティも完全に、アメリカのもう一つのカジノ・シティといっていいと思います。もしワシントンD.C.やニューヨークにくる機会があったら、アトランティック・シティにぜひきてみて下さい。 私も、ブラックジャックやミニバカラのテーブルに入って、少しゲームを楽しみました。戦果は多少ありました。遊ばせてもらって戦果があったわけですから、大勝利です。それにしても、カジノでも街を行く人をみても、アジア系の人はほとんど中国人です。ここアトランティック・シティでは、日本人はほとんどみかけませんでした。日本の不況のせいなのでしょうか。バブルのころは、街でもカジノでも、日本人はもっと幅をきかせていたのではないかと思います。なにもカジノで幅をきかせる必要はありませんが、日本人はもっと元気をださなければならないのではないでしょうか。ニューヨークのロックフェラービルを買収したのは調子に乗り過ぎだと私は思いますが、もっと違うところで、日本人らしい存在感のあることをすべきだと考えます。アメリカを一人の旅行者として旅していると、私たちが考えるよりはるかに、アメリカにとって日本は小さい存在なのではないかという気がしてなりません。 私たちは、アジアの中で、そして世界の中で、日本がどのようにみられているか、常に厳しい目でみる必要があると思います。世界第二の経済大国だから、それなりの存在感をもって当然みられていると考えると、とんでもない間違いを犯しそうです。経済は、国にとっても人間にとっても One of them に過ぎないことを、私たちは知らなければなりません。 23:30アトランティック・シティにて |
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