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2005年2月6日
No.237

2度目のドカ雪の来襲!

  1. 2月1日のNHKニュースのトップで、十日町市の積雪が2メートル98センチ(…詳しい数字はメモしていませんでしたので忘れましたが、約3メートルという印象の数字でした)と報道されました。私のWebサイトをご覧の方は、白川がこんど市長選に立候補しようという十日町市はそんなに豪雪の地なのかと、改めて認識されたことと思います。十日町市は、もともと全国有数の豪雪の地でした。人口5万の市で、十日町市ほどの積雪のある市は世界中にないという話を聞いたこともありますが、これが本当かどうか、確かめたことはありません。合併により、こんど十日町市となる東頚城郡松代町・松之山町は、現在の十日町市よりもさらに雪の深い地域です。ですから、新しい十日町市は全国でもっとも雪の深い市の一つとなるでしょう。

    この豪雪の地が、私の生まれ育ったところです。また、政治的にも私の地元でした。選挙の度に、70パーセント近くの圧倒的な支持をしていただいた地域です。ですから、豪雪対策は、私が国会活動を通じて熱心に取り組んできた課題でした。豪雪対策の第一は、なんといっても道路の除雪です。自動車が交通手段として一般的になったにもかかわらず、雪国では降雪の時期、自動車が使えませんでした。これは、あらゆる分野において致命的なハンディキャップとなりました。冬でも自動車を雪の降らない地域と同じように使いたい ── これは雪国の悲願でした。

  2. 視察に出かける前の私の自動車に積もった雪先週は、月曜日(31日)午後から降り始めた雪と付き合っているうちに終わってしまいました。今回は、今年最大の寒波来襲ということだったのですが、本当のドカ雪は月曜日の午後から火曜日の深夜まででした。この一日半に1メートル以上の雪が降り積もりました。その後も断続的に一週間降りましたが、ドカ雪というほどではありませんでした。でも水曜日から今日までにダラダラと降り積もった雪が1メートル超になるのでしょう。先月9日から14日のドカ雪に次ぐ今冬2度目のドカ雪でした。

    このようなドカ雪が降ると道路の除雪はどうなるのか、それが私の一番の関心事でした。除雪態勢や除雪機械もかなり整備はされてきましたが、一日に80?から100cmも雪が降るとこれに対応できなくなり、いたるところで交通が困難な状況になります。でも交通不能なところはほとんどありませんでした。雪に対する態勢はかなり整備されたということです。

    しかし、問題がかなりあることも判りました。雪が降ることはある程度予測できるわけですが、これを前提に対応しておけば、交通に支障がでることなどほとんど回避できるのではないかということです。要するに段取りの問題なです。段取りが悪くなる原因のほとんどは役所の規制にあります。どんなに雪が降っても人々の生活や経済活動に支障をきたさないようするという断固たる意思と使命感があれば、現状はかなり改善できるとの結論に至りました。こういうことをやるのが、行政のトップの責任だと肝に銘じました。

    川西町小白倉の集落内で悪路を小さな4駆で走ったために、腰が痛くなりました。除雪の悪い道路というのは、大きな石のある川原を走っているのと同じほどの衝撃があります。2月4日、国道117号線を走っているとき、国土交通省が作っている電気表示の看板に「この先、悪路がつづく」とあり、思わず苦笑してしまいました。117号線は十日町市・中魚沼郡のもっとも主要な幹線道路です。この道路の除雪を担当しているのは新潟県です。どんなに雪が降ってもここだけは「悪路」にしてほしくないというのが住民の願いです。こうなると気迫の問題でしょう。

  3. 豪雪対策の第一は、なんといっても道路除雪ですが、雪が降りつづくと、こんどは屋根雪の処理です。今回のドカ雪のため、先週は火曜日に雪降ろしをして、さらにこの土日にまた雪降ろしをした家がかなりあります。一週間に2回の雪降ろし(前にも書きましたが、私たちの地域では「雪堀り」といいます)となると、肉体的にも精神的にもほんとうにまいってきます。雪堀りという作業は、単に家を雪から護る、倒壊を防ぐという消極的意味しかない作業だということが、いっそうやるせない気持ちにさせるのです。

    雪降しは原則として個人の問題ですが、過酷な仕事です。十日町市では、最低でも4〜5回屋根の雪降ろしをしています。山間部では7〜8回くらいのところもあります。耐雪住宅や落下式住宅は、まだまだ10数パーセントくらいしかありません。昔、私も生家の雪降ろしをしました。雪の多いときなど、本当に泣きたくなりました。3回目以降になると、降ろした雪をまず片付けなければ、屋根の雪も降ろせなくなるのです。

    屋根の雪降ろしは、原則として個人の問題だといいましたが、雪降ろしができない世帯のそれは、行政の問題となります。また、やむなく道路上に雪を降ろさなければならなくなるところも多いのですが、それも、道路除雪とからんで行政の問題として考えなければならないでしょう。このように、豪雪対策には諸々の問題があります。

    「雪地獄、父祖の地なれば住み継げり」

    これは、昔、十日町市にあった映画館が雪のために倒壊し、映画を観ていた多くの人がなくなった事件現場にある慰霊碑に刻まれた句です。

    当時に比べれば、雪対策もかなり進歩してきました。私たちは「雪地獄」などと思っていませんが、このようなドカ雪に見舞われると、私はつい、この句を思い出します。私は、どんなに雪が降っても大丈夫な十日町市を創ることが行政の課題だと、肝に銘じております。政治の力で、それは可能なのです。

15:10十日町市の事務所にて

白川勝彦

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2005年1月30日
No.236

Webサイトを開いて満5年(その3)

  1. 十日町市の市長選に出馬することになった割には、その選挙に関する記事が少ないと思っている方が多いと思います。私が出馬声明をするまでは、ひょっとすると無競争で新しい市長が決まるのではないかなどと雰囲気だったのですが、現在までに5人が立候補の声明をしました。今後50年か100年に一度あるかないかの合併に伴う最初の市長選ですから、おおいに結構なことだと私は思っています。

    いかなる状況になろうとも私の決意と方針は不動ですから、5月15日と決定した選挙の日に向けて、毎日を淡々と活動をしています。きわめて元気に充実した活動をしておりますから、ご安心下さい。ただ、そのために、肉体的にも物理的にもWebサイトのためになかなか時間がとれません。毎日多くの方々がアクセスしてくださるのに、更新できないことを申し訳なく思っています。お許しください。「Webサイトを開いて満5年」の連載を中途半端にしておくことも、気になっていました。昨日はちょっと早くアパートに帰って、とにかく書き上げようと思ってパソコンに向いました。新しいパソコンにも少し慣れてきたので、一気に書き上げました。どうぞご覧ください。


  2. (前号からつづく)私のWebサイトは、1999年12月1日にスタートしました。インターネットについてはある程度知っていたつもりですが、Webサイトを実際に開設して、それまでの私の知識はまったくゼロに近いことを思い知らされました。私は当時、自民党と公明党の連立に反対するグループの代表格の政治家でした。そのころ、国民の間にも自民党の中にも、自公連立には強い反対がありました。私は、いろいろなメディアや集会に呼ばれて、自公連立に反対の主張をしていましたが、多くの賛同者がいました。これをもっと多くの人々に訴えるために、インターネットを利用することを考えたのです。ですから、Webサイトを開けば、それこそウンカのごとく多くの人々がアクセスしてくれると、単純に思っていたのです。しかし、ごく身近の関係者を除いて、一般の方々のアクセスはまったくありませんでした。

    そうなんです。Webサイトを開いても、それはインターネットの世界に席をおいたに過ぎないのであって、Webサイト自身は自分から手をあげて他人に向かって発言するわけではないのです。ただ他人が注目して、お前はいったい何を言いたいんだといって、Webサイトにアクセスをしてくれ、自分の言いたいことを読んでくれれば、そこではじめて他人に自分の考えを伝えることができるのです。しかし、いいたいことがあるからWebサイトを開いたのに、自分から他人に向かって話しかけられないというのは、まったく歯がゆいことです。これは現在でもまったく変わりありません。

  3. Yahooに登録されれば、これを通じてアクセスがふえるという人もいましたが、登録されるまでにはかなりの日数がかかるというのです。気の短い私ですから、そんなものを待っているわけにはいきません。私は手紙や自分の後援会報で、Webサイトを開いたことを一生懸命に宣伝しました。その数は10万通くらいあったと思いますが、1日に100までのアクセスはありませんでした。私はWebサイトの宣伝の名刺をつくって、会う人会う人に渡しました。これはそれなりの効果があったと思います。数ヵ月後にYahooに私のWebサイトが登録されました。これを機にかなりアクセスがふえたことは事実ですが、それは人がいうほど多いものではありませんでした。それでもこうした努力があいまって、開設から2〜3ヵ月後には1日に100〜200のアクセスが安定してあるようになりました。

    私はそのころ、けっこういろいろなマスコミに出る機会がかなりありました。そうすると一時的にちょっとアクセスはふえるのですが、そんなに多いものではありませんでした。これは意外でした。このようにアクセス数ばかり気にする私をたしなめたのが、Webマスターでした。彼は、アクセスなどあまり気にせずに、質の高いWebサイトを作っていきましょうとだけしかいわないのです。しかし、選挙をやる政治家としては、やはりアクセスのことを気にせずにはいられませんでした。

  4. 私のサイトがある程度ブレークしたのは、Webサイトの書込交流広場というBBS(掲示板)に、創価学会関係者と思われる筋からの猛烈な書込みが始まったのがきっかけでした。私は自民党と公明党との連立に主に憲法20条の観点から反対する論陣をはっていました。これについての読者の皆さんの意見を書き込んでもらったりして、議論を深めるためにBBSを最初から作っていました。最初はなかなか書込みはありませんでした。それでも1ヶ月もするとかなりの書込みがあるようになりました。そして、それは議論をいろいろな観点から深める、質の高いなかなかいい書込みでした。

    Webサイトを開いて2ヶ月少し過ぎたころでしょうか、それまでの論調とはまったく異なる書込みが始まりました。そしてそれは、私や私の考えに同調する人たちの意見に難癖をつける、執拗な書込みでした。議論を深めるというより、私たちの意見を封殺しようとするものでした。私自身も一瞬ひるむような、とげとげしい強烈なものでした。ですから、気軽に書込みをする方々にとっては、かなり怖いと感じられたと思います。BBSの世界では、このような書込みが「荒らし」と呼ばれていることを初めて知りました。それは、大なり小なりBBSにはつきものなのだそうです。「あまり気にすることはない」とWebマスターにはいわれましたが、何らかの対応をしないと、一般の方々の書込みがなくなるおそれがありました。また、私自身の論調が自信がないというという印象を読者に与えてしまいかねませんから、ある程度の反論はせざるを得ませんでした。そのやりとりは、私自身がBBSに直接書き込まざるを得ません。ここで、私がタイプを打てることが武器になりました。

    いわゆる荒らしという書込みにレスをつけるというのはたいへんなことでした。こういう問題にくわしい数人の方々も、反論を書き込んでくれました。その壮絶なバトルを多くの人々がみてくれました。これは当時のインターネットの世界で、ある程度話題になったのでしょう。私のサイトへのアクセスは1日に300〜400くらいになりました。これは、当時の政治家のWebサイトでは3本の指にはいるものでした。これに元気づけられて、永田町徒然草の更新も週に2〜3回くらいになりましたし、BBSへの書込みも2〜3日に一回はかならずしました。私のタイプのスピードも、必要に迫られてかなりはやくなりました。

  5. 次にブレークしたのが、忘れもしません2000年3月20日付けのほとんどの新聞が一面トップで報じた私の秘書の「交通違反もみ消し事件」でした。この時は、一日に2000を超えるアクセスがありました。この人たちには、この件に関する私の考えを直接伝えることができました。しかし、新聞やテレビの集中砲火的報道に対してまったく無力でした。ただ、このつらい事件を機に、私のWebサイトが一気に全国区となったことだけは確かです。これはその後、私が政治的論陣をはる上で、かなり役立ちました。私のサイトは、政治家のサイトではいつも1〜2のアクセスのあるものになりました。ただ、その代償がきわめて大きかったことはいうまでもありません。

    私のWebサイトは、開設から半年も経たない2000年5月24日に、ホームページのアクセスカウンターが10万を超えました。その日に書いた永田町徒然草No.55に次のような一節があります。

    「いろーんな波が押し寄せてきた。それでも舟は進んでゆく。向こうの岸に着くまでは、自分の腕でしっかりと漕いで行こう」──美空ひばりの35周年記念リサイタルでの語りです。いい言葉と思っています。

    この1ヵ月後に衆議院選挙が行われ、私は落選しました。しかし、落選が決まったその瞬間に、私は翌年に行われる参議院選挙に新党を立ち上げて、比例区で戦おうと決意していました。ですから、このことは明言しませんでしたが、政治的意味のあることを、つづけて発信しつづけました。眼光紙背に徹すで読んでいただければ、私がこのような決意でいたことを察していただけたと思います。本来は11月初旬には正式に記者発表できることろまで準備していたのですが、加藤の乱がおこりました。私はサイトを通じて全面的に応援しました。結果は、ご案内のとおりです。私は数ヶ月前の落選よりも大きなショックを受けました。

  6. 2001年2月4日、読売新聞一面で、私の参議院選挙への出馬が報道されました。私はWebサイトを通じて新しい政治活動を始めました。この参議院選挙では、このWebサイトは大きな役割を果たしてくれました。半年で50万くらいのアクセスがありました。もしアメリカや韓国のようにインターネットが普及し、かつ、政治の場面でもっと大きな役割が果たしてくれるようでしたら、私はきっと当選していたでしょう。

    残念ながら、わが国においては、政治や選挙においてはまだまだ、インターネットは世間でいわれているほど実際にはみられていないのです。これがインターネットの可能性を信じて、まじめにやってきた者の実感なのです。だから、私は世間が思うほど楽観的なことは言いません。でも、そこに少しでも可能性があると期待し、それを乞い願っているからこそ、まじめにWeb活動をしているのです。もっとも、一時的には絶望して休んだときもありますが…。一昨年は、新潟5区で衆議院選挙に立候補しました。この時も、全国の私の支持者の皆さんに、私の思いや戦況を伝える役には立ちました。

  7. 「いろーんな波が押し寄せてきた。それでも舟は進んでゆく。向こうの岸に着くまでは、自分の腕でしっかりと漕いで行こう」

    昭和の歌姫といわれた美空ひばりのこの言葉。2000年5月にあえてこれを引用したのは、私自身が政教分離の必要性を貫けば、複雑な運命に翻弄されることになるかもしれないと、何となく予感していたのかもしれません。美空ひばりも、歌以外のことで何かと翻弄されました。でも美空ひばりは、最後までやはり美空ひばりでした。私のもっとも好きな歌手です。私もいろんな波に翻弄されました。でも、私は政治家であることをやめていません。私の志を理解し、これを支持してくれる人がいる限り、私は政治家として生きなければならないと固く決意しています。私のWeb活動は、私の志を天下に明らかにする大切なツールなのです。それでいいと思っていますし、それ以上のことは、現状ではあえて期待しない方がいいと思っています(ちょっと醒めすぎているでしょうか)。

    今年5月15日に行われる合併して新しく誕生する十日町市の市長選に向けて、いま私は全力で毎日を生きています。私の政治生活の中でも、いちばん燃えて充実していた日々を送っています。そのために、あまり更新できないかもしれません(便りのないのは良い知らせと受けとめてください)。でも、できるだけ時間をみつけて、思うこと・感ずることを書き連ねていきますので、ときどきアクセスしていただくことをお願いいたします。長い間、つたない私のサイトにアクセスしていただいたことに、心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

00:30十日町市のアパートにて

白川勝彦

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2005年1月22日
No.235

Webサイトを開いて満5年(その2)

  1. Webマスターたらんとする彼の態度は、毅然としていました。その気迫におされて、売り言葉に買い言葉という訳ではありませんが、私は、
    「それなら、やるよ」
    といわざるを得ませんでした。

    私のこの言葉を聞くと彼は、改めて椅子にすわり直し、こんどは馬鹿にていねいにタイプライターがいかに簡単なものか、まるで子供にさとすように説明するのです。そうはいっても、ピアノが簡単に弾けるようにならないように、そんなに簡単にタイプを打てるようになるなんて、私には思われませんでした。でも彼は、タイプを打つなんていうことはたいしたことではないことを、くどいくらいにいうのです。

    とにもかくにも、私は50半ばにしてタイプライターの練習をすることになりました。夜の会合を終えて宿舎に帰るのは、いつも11時すぎでした。バイエルよろしくアルファベットが意味もなくならんだ本を預けられ、これを打つようにいわれました。これは手の運動にはなりましたが、まったくおもしろくありません。秘書から「特打ソフト」を入れてもらって、これでちょっと腕試しをするのですが、ぜんぜんできないのです。それから、1時間もタイプを打っていると、ほんとに肩がバンバンにはるのです。これには驚きました。

  2. 私がタイプの練習をはじめて、心がけたことが一つだけあります。それは、私の政策秘書をしていた田口正比古君が以前私にいったことでした。田口君は、私が昭和54年衆議院に初当選後まもなく私の秘書になり、私を本当によく支えてくれました。まだインターネットなどない時代から大きなワープロを持ち歩き、これを駆使していました。ある時、打ち合わせをしていて、「これは大事なことであるから、ちゃんと書くように」と催促すると、
    「私は書くより、ワープロで打つほうが早いんです」
    というのです。

    私は、タイプライターを打つことなどまったく考えていませんでしたし、その気もまったくなかったのですが、何かの折に田口君が私のこういったのを、タイプの練習を始めたら思い出したのです。

    「タイプライターは、アルファベット打ちにしなければなりません。また、ブラインドタッチを心がけないと、絶対に早く打てるようになれません」

    田口君は、平成10年に大腸がんで亡くなりました。50歳の若さでした。彼を失ってから、私の政治生活は少しずつおかしくなってきました 。何の気もなく聞いていた彼の言葉を思い出したのは、彼が天国から私に語りかけたのだと思います。最初のうちは間違うことが多いのですが、それでも、絶対にキーボードだけは見ないようにしました 。

  3. ともかく、私は田口君の遺言とWebマスターの激励に支えられて、少しずつタイプが打てるようになりました 。ある程度打てるようになると、こんどはおもしろくなります。半月くらいすると、文章を打つことくらいは、そんなに苦労ではなくなりました。ちょっと笑われるかもしれませんが、私がWebマスターとの約束を守ったのには、もう一つのことがありました 。

    当時、私は携帯電話をかなり使っていた方ですが、携帯電話に誰かを登録しようとする場合、こんな不便があります。「オ」を入力しようとして、「アイウエオ」と打ってきて、よく打ちすぎてしまいます 。そうすると小さな「ァィゥェォ」が出てきます。これをやりすごしてまた「アイウエオ」と打たなければなりません。ふたたび「オ」をやりすごすと、また9回ボタンを押さなければなりません。タイプは、打つのがどんなに遅くとも、こんなことだけはしなくてもいいわけです。「タイプはそんなに悪いものではないぞ」と思いました。お笑いの方も多いでしょうが、これ、くじけないでタイプをやったもう一つの理由です。

  4. 私がある程度タイプを打てるようになったころ、私のWebサイトができあがりました。すごく感じのいいホームページでした。さっそく永田町徒然草の連載をはじめたのですが、最初のうちは原稿を紙に書き、秘書に打ってもらっていました。正直なところ、なんであんなに苦労してまでタイプをしなければならなかったのかと思いました。でも、Webサイトの開設者がタイプを打てなければろくなサイトにはならないということを、私は思い知らされました 。

    それは、気軽なつもりではじめた「書込交流広場」というBBSでした 。「自自公を批判する」というタイトルをつけたサイトですから、その筋からの猛烈な書込みが始まったのです。こうなると、いちいち反論を紙に書いて秘書に打ってもらう訳にはいかなくなりました。おぼつかない手つきではありますが、直接私が書き込まざるを得ません。そうこうしているうちに、タイプの方はかなり早くなりました。

    当時は現職の国会議員でしたから、金帰火来の日々でした。そうすると、ノート型パソコンがどうしても必要になってきます。折よく、Webサイトの開設をすすめた栗本代議士からノート型パソコンをいただきました。そのパソコンを、つい先月まで使っていたのです。満5年間、よく働いてくれました。手馴れて打つのもかなり早くなっていただけに、万策を尽くしたのですが、その命がなくなってしまいました。残念ですが仕方ありません。

    現在は、倉庫にあった使い古しのデスクトップパソコンで、インターネットをやっています。画面が大きくて非常に楽ですが、キーボードの感覚がノート型パソコンと違うため、少しの間、苦労しそうです。でも、田口君の遺言を守って、ブラインドタッチだけは守っています。次回は、この5年間のWebサイトを通じての私の戦いを、少し振りかえってみたいと思います。

07:10十日町市のアパートにて

白川勝彦

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2005年1月16日
No.234

雪国の小正月

「小正月」は、ある程度全国的な行事だったと思うのですが、1月15日の「成人の日」を移動休日にしたため、小正月の行事などに相当混乱が起きています。これは、立法当時も相当に議論されたことですが、現実となっているようです。

写真 ほんやら洞の中に入って私たちの地域では、1月14日の夜が「鳥追い」と「ほんやら洞(かまくら)」でした。雪が降らないとほんやら洞は作れませんが、そのくらいの雪は降っていました。私が子供だったころは、子供たちが自分たちでほんやら洞を作ったものですが、当節は、大人が子供たちのために作るという風になっています。ほんやら洞の中にこたつを作り、夜遅くまで遊んだ記憶があります。

1月15日は「もぐら追い」と「どんどん焼(賽の神)」がありました。もぐら追いは、木の槌ををわらの縄で引きずって、集落中を回る行事です。もぐらが農作物を荒らすので、それを退治したいという願望からの行事だったのでしょう。写真 どんどん焼きの様子どんどん焼きは、締め縄・門松・神社などのお札・だるまなどを高く積みあげて燃やす行事です。集落中のお札などが全部集められ、相当高く積みあげられました。これに火が放たれると、雪が降る中であっても、強い炎が天高く上ったものです。雪国の人々は、こうした行事で、一日も早い春の到来と、その年の豊作を願ったのです。

小正月は、大正月(1日〜3日)とそんなに遜色のないごちそうがありました。でも、大正月の年取り魚は新巻鮭でしたが、小正月の魚は塩鱒などでした。いまの子供たちには、こうした微妙な違いなど無縁なのでしょう。

私たちの地域では、伝統行事をなんとか残そうとして、大人たちが一生懸命に努力していますが、伝統行事の底にある意味や願いを子供たちに教えないと、奇異な習俗をただおしつけられていると思われてしまうのかも知れません。ある長老から聞いた話ですが、私たちの地域の「鳥追い」の鳥とは、実はトキだったのだそうです。トキは、農作物を荒らす害鳥だったからですが、これを追いすぎてしまって、いまでは、懸命になって保護しています。

写真 季節市のにぎわい今年は、15日が土曜日、16日が日曜日なので、1日ずれた感じで、それなりの小正月をそれぞれが楽しみました。写真は、15日の節季市の写真とその夜の友人宅での新築祝いを兼ねた小正月の宴会のスナップです。

写真 季節市でみなさんと談笑節季市は、かなりにぎわっていました。雪の季節だけではなく、十日町市なのですから「十日市」をぜひやるべきだと私は思っています。やり方によっては、十日町市の中心商店街の活性化を起爆することになると考えます。

写真 季節市でみなさんと談笑

写真 友人宅でボタン鍋を囲んで友人宅では、奥さんの心づくしの郷土料理がたくさん出されました。ほんとうにおいしく頂戴しました。また、十日町市でとれたイノシシで、ぼたん鍋がふるまわれました。一同、感激しました。私は、ぼたん鍋をはじめて食しました。その味は…うーん、なかなか微妙なお味でした。

何はともあれ、よんだり、よばれたり──地方の人は、欧米風にいえばホームパーティーをこうして楽しんでいます。東京ではなかなかやれないことです。こんな風に生活を楽しむ──これは、私のいう「偉大なる郷土」のひとつの側面だと、言えると思います。

さて、今週はもう休日はありません。正月気分から脱して、仕事に本格的に取り組もうではありませんか。ご健闘をお祈りします。

12:00十日町市の事務所にて

白川勝彦

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2005年1月12日
No.233

当地、豪雪となりました

  1. 今十日町地域は、1月9日早朝から雪が降り始めました。そして、12日には各市町村に「豪雪」対策本部が設置されました。この4日間で150センチメーターくらいの積雪ありました。豪雪ということ、豪雪の難儀をぜんぜん雪の降らない地域の皆さんに伝えるということはすごく難しいのです。でも少し試みてみます。

    豪雪になるかならないか、それはまず雪の降りかたです。豪雨というのは、1時間に雨量がどのくらいあるかということによってだいたい決まります。また一定の雨量が長時間つづくとこれまた豪雨になります。限られた時間に多くの雪が降ったために豪雪と呼ばれることはきわめて稀です。雪が数日間降りつづけることによって豪雪となります。今回の場合、まず9日は一日中間断なく降りつづきました。「日々のアルバム」─ <1月9日 新年会、そしてその帰路… >の「遭難」の写真はこの日に撮ったものです。そして、10日の昼過ぎまでやみませんでした。しかし、午後から雪はやみ、夕暮れまで日が差しました。すると、日当たりのよい道路は、アスファルトが現れるのです。これでしばらく雪が降らなければたいしたことはないのです。「日々のアルバム」─ <1月9〜10日 この冬でいちばんの雪が降る >の写真は、この晴れ間に撮った写真です。

    でも半日間降り止んだだけで、10日の午後6時ころから、またせっせと雪が降りはじめました。11日と12日の二日間、ほとんど休みなく雪は降りつづけました。すなわち2日半のあいだ雪は降りつづけているのです。ほんとに休みなしです。これがいけないのです。道路は懸命な除雪にもかかわらず、圧雪となり、通行に支障が出てきます。除雪の状態にもよりますが、昔の石ころだらけの道を走るような感じのするところもでてきます。

    除雪がうまくいっているところでも、除雪によってできた道路わきの雪の壁が幅員を狭くします。この雪の壁をロータリー車で飛ばさないと、幅員は狭くなるばかりです。道路沿いに人家がないところならばこれもできるのですが、人家のあるところではこれもできません。さらに都合の悪いことには、屋根の雪を道路に落とさざるをえないところも多くあるので、ますます道路の幅員は狭くなります。消雪パイプがあって、道路そのものは通行に支障がなくとも、道路わきの雪は消せないので雪の壁となって、幅員が狭くなります。その壁と道路の際を歩くのですが、道行く車が水を歩行者に跳ねかけます。私もきのう事務所前の除雪をしていたとき、しこたま水をかけられました。このようなことを防ぐために歩道除雪を最近ではしています。

    屋根の雪降しもしなければなりません。今回は、10日の午後晴れ間があり、ちょうど休日だったので多くの人々が雪降ろしをしました。しかし、この2日半で150センチメートルはしっかりと屋根の上に雪が積もってしまいました。明日はどうしても雪降ろしをしなければなりません。今日雪降ろしをしていた家もかなりありました。最近は屋根の雪が自然に落下する構造の住宅もかなり増えてはきましたが、まだまだ多くの家では雪降ろしをしなければなりません。私も子供のころ実家の雪降ろしをさせられました。つらい苦しい作業でした。これはいまも変わりありません。ちなみに十日町地域では、雪降ろしとはいわずに「雪堀り」といいます。2メーターちかくの屋根の雪を降ろす作業を実際にやってみると分かります。それはまさに雪堀りなのです。積もった雪、それもかなり重い雪をスコップでまず掘って、それから屋根の下に落とさなければならないから、こう呼んだのでしょう。

    豪雪の状況を写真で伝えることは、非常に困難です。白の物体を映像にしても、まわりが全部白なものですから、感じが分からないのです。できるだけ何かといっしょに撮るようにしているのでが、私の腕では迫ってくる雪の感じを写真で撮ることはできません。だいいち、もくもくと降る雪の様子を写真にとっても、素人写真ではただピントのあわないボヤけた写真にしか見えないでしょう。明日updateする「日々のアルバム」も、雪と苦戦する私たちの地域の人々の難儀を伝えることはとうていできないでしょう。眼光紙背に達すよろしく私の苦労のほどを汲みとって下さい。

    幸いにもこの原稿を書いているとき、降りつづいた雪は止んでいます。これが助かるのです。休みなく降りつづく雪、それが「豪雪」なのです。鈴木牧之の『北越雪譜』は、江戸時代の私たちの地域の雪のことを書いた古典です。選挙戦を間近いにひかえたいまの私に現代の『北越雪譜』を書くことはとてもできませんが、深い雪の中で暮らす私たちの地域の苦労や難儀、そして時には楽しみを皆さんに伝えるべく、できるだけ努力してみます。鈴木牧之の時にはなかったカメラがありますので、少しは助かるでしょう。5年前のデジカメでこれまで写真をとっていたのですが、ちょっと大きすぎるのと手ぶれ防止がないので、Webマスターの薦めで浜崎あゆみの「LUMIX」を買い求めました。少しだけ期待してください。

22:30十日町市のアパートにて

白川勝彦

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2005年1月7日
No.232

Webサイトを開いて満5年(その1)

  1. 今年は4日からお仕事という方が多かったのではないでしょうか。いずれにしても4日〜7日までお休みという会社は少ないのではないかと思います。もしこの4日間お休みということになると、8日から3連休ですからジャンボな年末年始の休暇ということになります。ごく稀にはそういう方もいらっしゃるかもしれませんね。キリスト教国のクリスマス休暇というのは、いったい何日くらいとるのでしょうか。詳しい事情を私は知りません。ご存知の方がいたら教えてください。

    新しい十日町市の市長選への立候補を決めた私には、年末年始の休暇など、あろうはずもありません。お正月は年始回りで終わりました。でも、非常に意義ある年始をすることができました。多くの方々とお会いし、お話を拝聴すると、改めて私たちの郷土が抱える問題について教えていただけます。私が取りくまなければならない課題が、ますます具体的に、明らかになってきます。これが政治と選挙の原点だと、肝に銘じています。毎日が楽しくて仕方ありません。

  2. さて、昨年暮れに緊急入院したわが愛用のノートパソコンですが、ついに寿命が尽きてしまったようです。5年間使ったPCです。残念でたまりませんが、Webマスターからあきらめるように宣告されました。ですから、いま、事務所のデスクトップPCで打っているのですが、キーボードがノートPCとちょっと違うため、打つのにかなり苦労しています。この5年間は、私にとって悪戦苦闘の日々でした。その中で、わがWebサイトは、大きな役割を果たしました。愛用のPCから発した文字は、何百万語でしょう。わがPCは、戦場の機関銃みたいなものでした。限りない愛着は拭いきれません。

    お神酒を捧げ、清め塩で四隅を囲んで神頼みのお祓い。しかし、神力も結露には敵わず…

    壊れてしまった最大の原因は、ひとつはウィルスだったようです。100個以上のファイルがウィルスに感染していたそうです。もうひとつの原因は、湿気だったそうです。いま生活している十日町市は雪国ですから、暖房をいれます。そして、出かける時には暖房を切るわけですが、そのときに結露してしまうのだそうです。いままでも、上越の自宅で同じようなことがあったはずだったのですが、そのときは大丈夫でした。なぜ、十日町市ではダメになったのか、その原因は私には分かりませんが、ハード的な寿命がきていたのかもしれません。いまは、私が戦友に感謝し、その冥福を祈るだけです。

  3. 私がWebサイトを開設してから、満5年が経ちました。いささかの感慨があります。昨年の年末、そのことについて感ずることを書きかけたところで、PCの具合が悪くなったのです。使い慣れないPCでは、思うことを自由に書くことができなかったのであきらめました。PCが元気になったら書こうと思っていたのですが、それはダメになりました。でも機会をのがすと書けなくなりますので、さわりだけちょっと述べます。

    私がWebサイトを開くことを決意したのは、栗本慎一郎代議士(当時)の勧めでした。当時、自民党と公明党との連立が党内でも国民的にも大きな問題となっていました。その問題について本でも書こうかと栗本代議士に相談したところ、いま現に動いている政治問題について本を書いても、タイムラグがかならず出てくるので、Webサイトで問題を提起する方がいいとのアドバイスをもらったのです。私は郵政関係の仕事を長くやってきたので、インターネットのことはだいたいは知っていたのですが、インターネットそのものは、見たことも触ったこともなかったのです。

  4. その理由はいたって単純です。私はキーボードというものに触ったことがなかったからです。私の事務所にはワープロを打てる秘書はいっぱいいました。ですから、キーボードに触る必要はなかったのです。でも、キーボードに触らないと、インターネットを見ることも、参加することもできませんでした。私はインターネットの埒外にいたのです。

    インターネットを考え出したアメリカでは、タイプを打つことはごく一般的なことです。しかし、日本ではタイプを打つことは必ずしも一般的なことではありません。私たち日本人がインターネットに参加する上で、キーボードが障碍として立ちはだかっています。ですから、キーボードを使わなくともタイプを打てるような努力がなされていると聞いていますが、キーボードをいったん使えるようになると、それはかえってわずらわしいのではないかと思います。キーボードを多少使えるようになったからといって偉そうなことを言うなと怒られそうですが、多分間違いないでしょう。インターネットの世界に入るためには、多少わずらわしくとも、やはりキーボードに触れるようになるしかないのだと思います。そして、それが結果としていちばん簡単なことなのだと思います。私の経験をありのまま紹介します。

  5. Webサイトを作るために、栗本代議士から紹介されたWebマスターに最初に会ったとき、
    「あなたはタイプが打てますか?」
    といわれました。
    「私は、ピアノとタイプライターはぜんぜんやったことがない。でもうちの事務所にはタイプが打てる秘書がいっぱいいるからいいでしょう」
    と私は答えました。
    「いや、あなたがタイプを打てなければWebサイトを作ってもしょせん立て看板にしかなりません。あなたは、タイプを打てるようになる気はありますか?私が責任をもって教えますから」
    と執拗にいうのです。私も頑固のところがありますから、
    「いや、私はタイプはダメだ。ピアノやタイプをやる環境に育たなかったのだから仕方がないでしょう。タイプを打てる秘書がいっぱいいるのだからいいじゃないか」
    というのですが、Webマスターは断固として譲らないのです。
    ピアノを弾けるようになりたいという希望がないわけではありませんが、いまさらピアノを弾けるようになれるとは思えません。それと同じように、タイプを打てるようになれる自信はまったくなかったものですから、ここは私としても簡単には譲ることはできなかったのです。

    何度か同じようなやりとりをしていたのですが、私がタイプを練習するといわなかったものですから、Webマスターは、
    「この話はなかったことにしましょう」
    といって席を立って部屋を出ようとするのです。彼の態度には何の逡巡もありませんでした。

(つづく)

★最初に書いたとおり、使い慣れていないPCのため、少し疲れました。あまり夜遅くまで起きていると明日の仕事に差しつかえますので、以下は次号にさせていただきます。

00:30十日町市の事務所にて

白川勝彦

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2005年1月1日
No.231

新年のごあいさつ

スマトラ島沖大地震と、それに伴うインド洋沿岸の巨大津波により亡くなられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。また、巨大地震と津波により被災された多くの皆さまに、衷心よりお見舞い申し上げます。私たちの地域では、2ヶ月あまり前に大きな地震にみまわれました。いまなお多くの面で、その被害とたたかっております。それだけに、今回の地震と津波で被災された皆さまの悲しみと難儀は、人ごととは思えません。多くの国々と国際機関の努力により、第二次被害の発生を最小限にくいとめ、一日もはやく復興されますことを、祈らずにはおられません。


謹んで新年のごあいさつを申し上げます。久しぶりに凛としたとした心境で、新年を迎えることができました。私が暗中で模索しているときにも、多くの方々から力強い激励をたまわり、また、あたたかいご指導をいただいた結果です。心から、厚く御礼申し上げます。とはいえ、新潟県中越地震で被災された皆さまや度重なる台風や水害の被害にあわれた方々のご苦労、また年末に発生したインドネシア・スマトラ島沖の地震と津波で被災された皆さまの悲しみに想いをいたすとき、例年のように素直に新年を祝うわけにはゆきません。私たちは、想像をこえる被害にあったとき、人間は自然の力の大きさに驚くとともに、おのれの存在の小ささを思い知らされます。私たちは、地球という星の小さな存在にすぎないのであり、人間は地球の恵みの恩恵にあずかることはできても、地球を支配することなどできないのだということを、改めて思い知らされます。

国際政治の面でも、同じようなことがいえるのではないでしょうか。アメリカは、世界一のスーパー・パワーをもった巨大な国です。しかし、2億4千万人のアメリカが60億の人々が住む世界を支配することはできないし、また、すべきでもないということです。いまの日本の政治は、アメリカの世界支配を当然のこととし、これに追従することに必死になっていますが、事の根本に思いをいたせば、それがいかに危ういものであり、愚かなことであるか、わかるはずです。アメリカが世界とどう向き合うかは、アメリカという国の問題です。日本は、わが国なりの戦略とポリシーをもって、世界各国と向かい合い付き合っていくべきです。「日米同盟」などということが安易に使われておりますが、「同盟関係」などという表現は、そもそも軍事的な用語でした。あまり軽々に政治や経済の問題で使うべきではないと、私はいつも考えています。

さて、昨年12月12日、ことし春に行われる新しい十日町市の市長選に立候補することを正式に発表して以来、私は毎日を殺人的スケジュールで過ごしています。しかし、選挙にはなれておりますので、忙しさそのものは、なんともありません。これまでは、国政がテーマでした。いくら具体的に話しても、テーマそのものは抽象的なことでした。こんどは市政がテーマです。私たちが住む地域をどうするかという具体的な問題です。もちろん、なかには抽象的なこともありますが、多くが、きわめて具体的なテーマが多く、かつ執行権のある市長になるかどうかですから、これらの問題を具体的にどうするかということを話さなければなりませんし、また話せます。責任と緊張がありますが、一方ではやりがいもあります。なんといっても、30年ちかくおつきあいした方々とこういうテーマについて親しくお話しできることが、うれしくて仕方ありません。毎日を元気に、充実してすごしております。いろいろと心配してくださる方が多いのですが、ご安堵ください。

これまで、私はいつも全国区の政治家でありたいと思って努力してきました。十日町市という小さなまちの市長選に臨んでも、また、市民の皆さまの支持をえて市長となった暁にも、全国的にみても価値ある市政を、しっかりと担う決意です。新しい十日町市は、全国に自慢できる「10の日本一」をもった市にしたいと私は考えておりますが“政治的には日本一の先進な市である”ことなど、少しの予算もかけないでつくることができます。こんどの市長選は、その第一歩でなければならないと思っております。ですから、私はもてる力のすべてを出しつくして、立派な選挙をやる決意です。年末年始も休みなしでいるのは、そのような決意からです。幸いにも、このWebサイトを充実させるために私をフォローしてくださる若いボランティアにめぐり会うことができました。これにより「日々のアルバム」などが、かなり充実できると思っております。どうか、本年も白川サイトを可愛がってください。

新しい年が、皆さまにとりまして素晴らしいお年となりますことを祈念して、新年のごあいさつといたします。

00:00しんしんと雪の降りつもる十日町市から

白川勝彦

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2004年12月29日
No.230

PCの緊急入院

押し迫ってまいりました。今日からお休みという方が多いのではないでしょうか。羨むつもりはまったくありませんが、政治家の事務所は基本的に年中無休ですから、御用おさめなどまったく関係ありません。また私たちの地域では、30日くらいまで仕事をしている会社も多くあります。建設関係の会社などは、地震の関係でほとんどが30日まで仕事です。10月23日の地震発生から、建設関係の方々は満足な休みをとっていません。それだけ忙しいのに、儲かっているかというと、そうではないようです。被災者に対して、通常の代金を請求する訳にはいかないそうです。

記者会見の日から半月が経ちました。忙しい毎日でした。でも、これはありがたいことです。候補者がヒマのようでしたら、困ったことなのです。この間だけでも、実にいろいろなことがありました。それを皆さんにお伝えしたいのですが、私の愛用のノート型PCが、ついにおかしくなってしまって、使えなくなりました。また事務所のPCの接続ができなかったために、インターネットも使えませんでした。私のPCはいま、Webマスターのところに緊急入院しています。事務所のPCは、インターネットに接続できるようにはなったのですが、4年間使いなれたPCと勝手が違うため、この原稿も思うように打てません。こんな事情で、なかなかupdateできなかったことをお許しください。はたしてこの原稿がWebマスターのところに無事届くかも、自信がありません。届くことをただ祈るだけです。(Webマスター補記: ちゃんと届きました。先生のノートはLet's Note CF-A77という、メモリさえ増設すれば現行のWindows XP Home Editionのインストールさえ可能な機種ですが、基礎体力が足りないところへ、これまでのウィルス性疾患や蓄積疲労などが災いしたのでしょう。様々な症状を呈していて、今、治療に難儀しています。)

さて、私がWebサイトを開設してから、満5年が経ちました。実に波乱にみちた歳月でした。この中で、私のWebサイトは大きな役割を果たしてくれました。いささかの感慨があります。これからも、このWebサイトを皆さまの期待にそえるようなものにするために、努力していきます。私が写真をメールで送ることができないために「日々のアルバム」を立ち上げることができません。インターネットに強い人もおりますので、そのうちupdateできるようになると思います。

「始めはすべて困難である」 マルクスの『資本論』の冒頭の言葉です。戦いを始めると、いろいろと難しいことがあります。しかし、私はこの言葉を知っておりますから、悲観も落胆もしません。それらをすべて克服することが私の修練だと、胆に命じております。使い慣れていないPCと向きあっていると、肩がこります。5年前、はじめてPCに触った時を思い出します。明日の仕事に差し支えになりますので、このへんで止めさせていただきます。良いお年をお迎えください。

00:45十日町市の事務所にて

白川勝彦

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2004年12月20日
No.229

爽快な朝

十日町市長選への出馬を表明して、ちょうど1週間が経ちました。当然のことながら、無茶苦茶に忙しく、永田町徒然草の更新ができませんでした。お許し下さい。多くの方々からメールをいただきました。ほとんどが、今回の私の行動を支持する、評価するというものでした。なかには、やはり国政で頑張って欲しいというものもありました。皆さまからのメールは、私を元気付けます。ありがとうございました。

私の十日町市長選への出馬は、地元のテレビ・新聞などで大きく報道されたために、十日町地域では、ほとんどの方々がもうご存知です。十日町地域は衆議院の選挙で私が7割の得票をしていたところですから、私のことは、皆さん知っておられます。ですから、どこにいっても、多くの方々から「白川さん、頑張って下さい」と声をかけられます。ありがたいことです。勇気百倍になります。私は参議院選挙と昨年の衆議院選挙で財産の全てを失いましたが、これが30年の政治生活で残った最大の財産です。政治家は、地元の皆さまの信頼さえあれば、あとは何もいらないのです。

この間に、事務所もアパートも決まりました。昨日は、同志の皆さまと引越しをしました。東京、上越、十日町、長岡の事務所にあった備品・事務機器などが倉庫に詰まっているのですが、今度の事務所はそんなに広くないので、その一部だけをもってきました。「もう引越しは最後にしましょう」と、同志の皆さんは苦笑しながら作業をしました。一つひとつに、思い出があります。思い起こせば、私の29年の政治生活は、まさに戦いの連続でした。ちょっぴりほろ苦さを私も覚えました。

新しい事務所は地震でやられ、大至急で修復してもらったのですが、今日やっと電気が入ります。電話も、今日午後からつながります。このように、地震の爪痕はいたるところにあります。事務所は城です。梁山泊です。スタッフも順次決まっていきます。「偉大なる郷土づくり」が、いよいよ本格的に始動します。私は、毎日が楽しくて仕方がありません。夜12時過ぎには寝るようにしているのですが、朝早く爽快に目覚めます。

ちょっと困っているのは、いま住んでいるアパートからでは、思うようにインターネットに接続できないこと。私は長らく、PHSを使って接続してきたのですが、公衆電話が少なくなったせいか、電波が弱く、繋がる時もあれば繋がらない時もありますが、どちらかといえば、繋がらないことの方が多いのです。1時間近くやっても、結局ダメな時もあります。こんなところにも、都市と地方の格差があります。今度は全国を飛び回るわけではないので、有線に変えます。これからは、もっとマメに更新します。それでは、また。

06:40十日町市の新しいアパートにて

白川勝彦

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2004年12月12日
No.228

帰りなん、いざ。田園将に蕪せんとす。

写真 市長選挙出馬を表明した後援会緊急会議本日16時、私は十日町市で記者会見をしました。その場で、大合併をして来年4月1日誕生する十日町市の市長選に出馬することを表明しました。記者会見に先だち、14時から十日町地区白川勝彦後援会緊急会議を開き、出馬に至る経緯と決意を明らかにし、ご賛同をいただきました。

写真 市長選挙出馬を表明した後援会緊急会議新潟5区から衆議院選に出馬するにあたり、昨年9月、その経緯をご理解をいただくために同じような会議を開きました。1年ぶりに多くの同志の方々にお会いした訳ですが、あの時は、どんなお話をしても後援会の皆さまにご理解をいただくことはできませんでした。涙、涙の会合となりました。今回は熱い激励をいただき、新しい出発を決意する会議でした。30年にわたり私を支えて下さった後援会の皆さまこそ、政治家である私のすべてであることを、改めて思い知らされました。

「帰りなん、いざ。田園 ( まさ ) ( ) せんとす。せんとす。 ( なん ) ぞ帰らざる。」

早く故郷へ帰ろう。故郷の田園も荒れはてようとしているではないか。どうして帰らないわけにいこうか。意のようにならない官途にかじりついているより、田園で自然の生活を楽しむにこしたことはない。<諸橋轍次著「中国古典名言事典」>

写真 市長選挙出馬を表明した後援会緊急会議中国の詩人・陶淵明(365〜427)の「帰去来の辞」の冒頭の詩句が、この数ヶ月いつも私の心をとらえていました。「田園将に蕪せんとす」── 地方の現状は、まさにこのとおりなのです。新潟県中越大震災は、甚大な被害を私たちの郷土にもたらしました。「胡ぞ帰らざる」── そうです。帰らなければならないのです。陶淵明は自然と親しむ人生をいそしもうとして帰郷し、美しい多くの詩を残しました。私の場合は、これから、郷里の人々と共に美しい「偉大なる郷土」を創るためです。帰心矢の如しでした。

出馬にいたる経緯や心境は、「市長選出馬にあたっての決意」としてアップいたしました。また、「新十日町市の行政についての基本的な考え方」として、行政運営の基本理念について、私の考えを具体的に述べています。少々長いものになりましたが、お読みいただければ幸いです。平成の大合併の結果、3300の地方自治体は2000くらいになります。うち市は、720くらいです。すべての日本国民は、どこかの地方自治体に属しています。その首長は選挙で選ばれます。政治家たる首長が、住民の代表として行政をどのように運営するか。それがいま問われています。

官僚の書いたペーパーを棒読みし、官僚の敷いたレールに素直に乗る。官僚(役人)支配は、中央だけではなく地方も同じです。多くの国民は、このことにフラストレーションを感じています。本当の政治家ならば、このところを変えなければならないのです。また、政治家には、変えることができるのです。私は、政務次官を2回、大臣を1回務める中で、それを経験しました。今、30年間政治家としての厳しい修行をしてきた者として、これに挑戦します。それは、一地方自治体の問題にとどまらず、全国的な価値をもっていると信じます。乞う、新しい十日町市への注目!

17:30十日町市にて

白川勝彦

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