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2004年10月30日
No.217

家屋の被害は甚大である!

  1. 全国民がその無事を祈った皆川さん親子3人は、レスキュー隊の必死の救出活動にもかかわらず、無事だったのは長男の優太ちゃん(2才)だけでした。お母さんの貴子さんも、長女の真優ちゃん(3才)も、土砂崩れの下敷きになった瞬間にその命を奪われてしまったとのことです。あの現場をみれば、それは容易に ( うなず ) けます。あの現場は、土砂崩れというより「崖崩れ」といった方がいいでしょう。あの大きな岩石の下敷きになったのでは、ひとたまりもないないと思います。優太君があの大惨事の中で4日間も生きていたことが、奇跡だったのです。

    ご遺族に、衷心からお悔やみ申し上げます。貴子さん、真優ちゃんのご冥福を、心からお祈りいたします。また第二次災害の危険のある中、文字通り必死の救出活動を行なったレスキュー隊の皆さんに、敬意を表します。 

  2. さて、私はこれまで「十日町市では、幸いにもビルや家屋の倒壊などは比較的少なかった」と書いてきましたが、これは全くの素人目の報告でした。確かに見た目には、倒壊したビルや家屋は少ないのですが、専門家の目からみたらビルや家屋の根幹部分がやられ、そのため危険で使うことができないビルや、家屋が非常に多くあるのです。例えば、十日町市にある大きなビルの状態は次のようなものです。

    [県立十日町病院] 外見は、ほとんどなんともないのですが、骨格部分がやられてしまい、危険で立ち入り禁止となっています。また医療機器等も大きな被害にあい、使えなくなっています。ですから、軽い患者さんは家に帰され、重症の患者さんは他の病院に搬送されています。近くの小千谷市や長岡市の病院は満杯なので、遠くの病院に行かなければなりません。

    [新潟厚生連JA中条病院]第二病棟は危険建物となったために、立ち入り禁止となりました。第一病棟も危険なために、近くの病院などに患者さんを移送しています。

    [商工会議所の入っていたビル] 十日町市街地のど真ん中にある十日町商工会議所の入っているビルは、崩壊が激しく、取り壊さなければならないとのことです。

    このほかにも、1955〜1965(昭和30、昭和40)年代に建てられたビルの被害は大きく、今後、取り壊わさなければならない建物が、かなりあると予想されます。それ以前に建てられたビルは、十日町市にはありません。

  3. 地震直後に倒壊した木造の家屋が、かなりありました。危険なために既に取り壊された家屋も、相当数あります。山間部の集落の被害には、やはり大きいものがあります。

    素人目には一見なんともなく見えた家屋も、建築の専門家が診ると危険と判断され、「赤紙」が貼られた家屋が多数ありました。特に、十日町市や信濃川を挟んでその対岸にある中魚沼郡川西町では、そうした家屋・店舗が多数あります。

    赤紙の貼られた建物は、現在でも損壊が激しく危険であり、また事実上使用することもできません。しかし、厄介なのは、「黄色の紙」を貼られた建物です。現在は一見大丈夫そうに見えても、詳細に調査する必要があり、また今後の余震などによっては、倒壊や危険な建物となる可能性があるので、要注意の建物という判定なのです。この黄色い紙を貼られた建物は、それこそ無数にあります。

  4. 私は「余震など」と書きました。それは「余震だけでない」という意味です。そして、余震がどうなるかは気象庁でも確かなことはいえないようですが、この「など」は、近い将来に必ずくるのです。それは、間違いなく到来する、最低でも2メートル前後の積雪となる雪です。 

    前に、今回大きな被害を受けた被災地は、例外なく日本一の豪雪地帯だといいました。十日町市は、その中でも一番の豪雪地域なのです。2メートル前後の積雪といいましたが、このくらいでは、十日町市ではまだ豪雪ではないのです。1984・1985(昭和59・昭和60)年の豪雪の時には、十日町市の市街地で積雪が4メートルを超えました。街全体が、雪に押し潰されるのではないかという恐怖をおぼえました。

    間違いなく到来する2メートル前後の積雪は、他の地域では間違いなく豪雪です。積雪2メートルというのは、毎日降った雪が地上でどのくらい積もっているかということです。毎日降る雪を累積したものを降雪量といいますが、2メートルの積雪というのは、降雪量でいうと10メートルの前後の雪が降った場合にそうなるのです。1日に1メートルくらいの雪がふるのは、十日町市では本当にめずらしいことではないのです。こうした降雪が3〜4日間続けば屋根には2メートルくらいの雪が積もります。その重量は大変なものです。

    これを屋根から降ろすのが、「雪降ろし」です。しかし、十日町市では「雪降ろし」とはいわず、「雪掘り」といいます。私も昔よくやらせられましたが、雪降ろしをする人にとっては、すっぽりと自分の身が埋もれる雪の中での作業です。だから、雪堀りと呼ぶのだと思います。1メートルくらいの雪を屋根から落とすのならば雪降ろしなのでしょうが、2メートルくらいの屋根の雪を降ろす作業は、本当に雪を掘る仕事なのです。

    十日町市だけではなく、今回の地震で大きな被害を受けた地域は、みな同じです。こうした雪(他の地域でいえば文句のない豪雪)が、あと1ヶ月もしない内に確実にやってきます。黄色い紙を貼られた建物にとって、それは地震と同じくらい危険なのです。このことを考えると、他の地域であれば補修したりすれば大丈夫の家も、私たちの地域では、結局は取り壊さなければならないというケースが多くなるでしょう。

  5. 昨日、十日町市や川西町を回った後、私は、午後から長岡市と小千谷市に足を運ぶことにしました。普段ならば小千谷市には20〜30分もあれば行けるのですが、十日町市と小千谷市を結ぶ国道117号線も、主要地方道小千谷・十日町・津南線もJR飯山線も多少遠回りになりますが、国道17号線も交通止めのため、十日町市から東頚城郡松代町(国道253号線)、松代町から刈羽郡高柳町(県道)、高柳町から柏崎市(国道252号線)、柏崎市から長岡市(北陸高速道)、長岡市から刈羽郡越路町を通って小千谷市に行きました。所要時間は2時間半でした。

    小千谷市に入ると、十日町市とも、途中通った長岡市や越路町とも、全然違った様相でした。まず第一に、道路の損壊はひどいものです。仮復旧は既になされているのですが、市街地に向かう平地の道路もいたる所で陥没し、車の腹を打ってしまいます。電線こそ切れていませんが 、電柱が大きく傾いています。倒壊した家屋がいたるところにあります。

    私は先ず、いとこの嫁ぎ先に行きました。昨年の選挙では、必死になって私を応援してくれました。私のいとこといっても、かなり歳が離れているので、お孫さんがいます。要するにおばあちゃんです。彼女が冒頭に発した言葉。

    「勝っちゃん。よォーくきてくれたのォー。勝ちゃん、これ見てくんねェー。今日もこれを食えというんだって」

    彼女が私に見せた紙袋には、カップヌードルが6個入っていました。彼女は少し半狂乱の様子でした。私はこう答えました。

    「文ちゃん。大丈夫。ちゃんとした弁当を買ってきたから。それより、ちょっと小千谷の街の中を案内してよ」

    私は彼女(文ちゃん)に小千谷の街の中を案内してもらいました。中央商店街はもうもう夕暮れだというのにほとんど明かりが点っていません。この街では、3分の1くらいが赤紙でした。

    暗い街中に医院がありました。めずらしく電気が点いていました。昨年の選挙でたいへんお世話になった先生です。文ちゃんがズカズカと入っていったので、私もついていきました。先生は治療に忙しくてお会いできませんでしたが、婦長さんがいいました。

    「私の家は、まだ電気が来てないのよ」

    JR小千谷駅の近くにお住まいだそうです。小千谷市の市街地です。

  6. 小千谷市の市街地を小一時間近く案内をしてもらい、彼女の家に入りました。彼女の家は、青紙でした。大丈夫だったのです。でも、家の前の車庫で生活し、夜は2台の車の中で一家6人が寝ているそうです。

    午後6時半ころ、私が高柳町で買ってきた弁当を食べました。田舎のお弁当屋さんが売っていた弁当です。1週間ぶりに食べた、ちゃんとした食事だそうです。彼女は涙を浮かべていました。私は、彼女からくだんのカップヌードルを貰って、それを頂きました。いっぱいあったパンも頂きました。

    2時間くらい、車庫の中でありったけの話を聴き、私は同道した長岡の友人と長岡市に帰ってきました。長岡市に入るとスーパーやコンビニが開いていたので、そこに寄って商品を観ました。肉や魚屋やお惣菜が陳列されていました。小千谷市や十日町市では、まだこうなっていません。だから、彼女のようになるのです。

    夜の長岡市を車で一巡しました。食堂に電気が点いていました。営業もしていました。しかし、住宅地に行くとやけに暗いのです。電気の点いている家の方が少ないのです。人口18万の長岡市で、避難生活をしておられる方が4万人だというのですから、これも頷けます。

    視察がてらスーパーで買ってきた魚とお惣菜で、遅い夕食を食べました。友人も1週間ぶりのちゃんとした食事だと感 一入 ( ひとしお ) のようでした。私の定宿のホテルは満室でした。仕方ない、今日は私も車で寝なければならないかと覚悟をしたのですが、諦める前に挑戦することにしました。私の長年の知恵で、こういう時はモーテル(いわゆるラブホテル)が穴場だということを知っていたので、これに挑戦することにしたのです。友人は1週間風呂に入っていないというので誘いました。

    最初に挑戦したモーテルは、案の上ガラガラでした。私は直ぐ休みました。さすがに私の疲労もだいぶ溜まってきたのです。友人は、長い間風呂に入っていたようです。午後6時頃目覚め、この文を打ち始めました。友人はイビキをかいて寝ておりました。

    これを書き終え、いつまでも熟睡している友人を起こして、これから長岡市の街を改めて観てきます。山の中のモーテルのため、DDIポケットではインターネットに繋がりません。こんな調子ですから、乱文の程、ご容赦下さい。

08:30   刈羽郡刈羽村の、とあるモーテルにて

白川勝彦

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2004年10月27日
No.216

十日町市の“いま”!

  1. 十日町市は、人口43,000人の小さな市です。でも、きものや雪まつり、魚沼産コシヒカリや十日町そば、信濃川や河岸段丘、国宝火炎式土器や笹山遺跡などで小さい市にしては全国的にかなりの知名度がある方だと思います。しかし、今回の新潟県中越地震で、その知名度はいまや全国的になりました。地震の被災範囲はかなり広いのですが、被害の大きい地域にある市は、長岡市、小千谷市、十日町市の3市であり、報道の度に十日町市の様子が全国に伝えられるからです。

    今回の地震は、新潟県中越地震と命名されました。新潟県は、上越地域、中越地域、下越地域と大別されます。京都に近い方から(富山県に接した地域から)、上越、中越、下越なのです。上越地域の中心都市は高田市と直江津市が合併して誕生した上越市です。上越線や上越新幹線は通っていません。このためよく勘違いされるのですが、上越新幹線の「上越」は上州(群馬県)と越後(新潟県)の上と越なのです。

    中越地域の中心都市は、長岡市です。長岡市から信濃川と魚野川に沿った上流地域は、すべて中越地域です。信濃川沿いに長岡市、小千谷市、十日町市・中魚沼郡川西町、同郡中里村・津南町の順にあり、長野県と接します。魚野川沿いに小千谷市、北魚沼郡川口町・堀の内町・湯ノ谷村・小出町、南魚沼郡大和町・六日町・塩沢町・湯沢町の順にあり、三国峠や清水峠を越えて群馬県に至ります。上越新幹線も関越高速道はこの魚野川に沿ってあります。

    北魚沼郡には前記町村の他に広神村、守門村、入広瀬村が福島県に向ってあります。地震で多くの家屋が倒壊し、道路が寸断されために全村避難した山古志村は古志郡山古志村で、長岡市はかつての古志郡の町村が合併してできた市です。原発で有名な柏崎市や刈羽郡、見附市や栃尾市なども中越地域です。

    これ以外の新潟県の北部ー山形県や福島県に至る地域を下越地域と呼び、その中心都市はもちろん新潟市です。衆議院の選挙区でいうと上越地域と十日町市と中魚沼郡が新潟6区です。これは旧新潟4区で私が28年間におよび政治活動をしたところです。長岡市、山古志村、北魚沼郡、南魚沼郡は新潟5区で、昨年の総選挙で私が立候補した選挙区です。ですから、今回の新潟県中越地震で大きな被害を蒙った地域は、新潟5区と6区にまたがり、私はこの地域をもっともよく知っている者の一人ということになります。

  2. 以上は、地理の初歩的な説明です。このように小千谷市と十日町市は隣接しており、長岡市や小千谷市にも親戚や昨年の選挙でお世話に方々がおられるので行きたいのですが、柏崎市経由でないと行けませんので、私はこの3日間は十日町市を回っていました 。その中で、見聞したこと、感じたことを前回に引き続き報告します。

    昨晩も冷たい雨が降り、とても寒い夜でした。地震発生から4日目の夜だというのに十日町市で12,000人が避難所で夜を過ごしました。しかし、12,000人というのは、十日町市が掌握している避難所にいる人々の人数であり、自宅の車庫や納屋(豪雪地帯のため、すごく頑丈な立派な車庫や納屋があるのです)などで夜を過ごす人々の人数をカウントすれば43,000市民の半数近くが自宅で夜を過ごしていないのです。

    山間部を除き、十日町市では幸いにも倒壊家屋は少なかったのですが、どうしてこのように寒くて不便な避難所や車庫などで夜を過ごすのかというと、大きくいって二つの理由からです。そのひとつは、なんといっても地震に対する恐怖からです。余震がまだかなりあるため、地震に対する恐怖が消えないのです。23日の地震の衝撃は凄まじかったのです。昨晩も3回震度3前後の余震がありました。あの地震を体験した人々には、それはいまなお強烈な恐怖を与えるのです。

    二つめの理由は、電気は回復しましたが、水道が回復していないからです。十日町市では下水道が普及しており、市街地の家庭はほとんど水洗トイレです。ですから、トイレが使えないのです。また十日町市には都市ガスはなく、ほとんどの家庭がプロパンガスを使っているのですが、水道が使えないためお風呂にも入れませんし、食事も思うように作れないからです。避難所にいけば、不便ながら仮設トイレもありますし、最低限の食事も提供されます。もうひとつの理由として、家の中がメチャクチャになっていて、その片付けが済んでいないこともあると思います。この3日間余震が続いたために、またいつ大きな地震が起きるかも分らないということで、片付ける気が起きないのでしょう。

    一日も早くこのような不便で苛酷な避難所生活を解消するために、いま一番必要なことが、水道の復旧です。行政当局も全力でやっているのでしょうが、もう市民の我慢も限界にきています。幸いにも市内にはいくつか温泉施設があり、これが今日から稼動します。皆さん、4日間もお風呂に入っていないものですから、これを非常に楽しみにしています。

    食事の方は、最初はおにぎりと水だけだったためにだいぶ参っていたのですが、支援食料が多く寄せられ、かなり改善されているようです。しかし、ほとんどがおにぎりと保存食料のため、調理された普段口にする温かい食事を取れないことがストレスになっていることと思います。それぞれの避難所には、ガスやコンロが多少はあるのですから、調理できる肉や野菜や油などがあればボランティアの手によって温かい副食品も出せると思うのですが…。食事の改善のためには食堂の再開が望まれるのですが、水道が回復していないために、まだほとんど開店されていません。コンビニやスーパーでは、弁当やお惣菜が多少売られはじめたようです。

    幸いにも、十日町市の道路網は、亀裂や段差こそかなりできていますが、通行不能の道路は、あまりありません。孤立集落もほとんど解消しました。十日町市は、小千谷市や長岡市といちばん交流が多いのですが、これを結ぶ国道117号線は不通です。これがいちばんの障碍なのですが、長野県に繋がる117号線、中越地域でも比較的被害の小さかった南魚沼郡に繋がる国道・県道、上越市や柏崎市に繋がる国道は通行できます。湯沢町までは普通に行けますし、ここで関越道にのれば、東京まで普段と同じようにいけます。関東からは、月夜野インターまで高速できて、あとは国道17号線で十日町まで来れます。

    救援物資を届けるにしろ、道路などのインフラの復旧をするためにも、店舗の修理・商品を仕入れて開店するためにも、家屋を修理して住めるようにするためにも、補給路がなければこれを行なうことができません。日頃いちばん関係の深い小千谷市や長岡市を最短で結ぶ国道117号線の不通は困るのですが、それでも、このように他の都市との補給路は大丈夫ですから、最悪の事態は避けられました。この補給路が確保されていますから、救援活動や復旧活動は着実に進めることができるでしょう。

  3. ここまで書いてきた時、大きな余震がきました 。この5日間で私が体感したいちばんの衝撃でした。午前10時40分ちょっと過ぎのことです。正直にいって、私も怖さを感じました。パソコンでの作業を中止し、この余震による被害をみるために私は市内を回ることにしました。

    ─ 中断 ─

    市内を一巡して、またいろんな話や要望を聞いてきて、いま(午後2時30分)帰ってきたところです。

    幸いにも余震による被災や被害はあまりなく、支援活動や復旧活動なども一時的に中断されましたが、力強く続けられています。しかし、この大きな余震は冒頭に書いたように、地震に対する恐怖を改めて惹き起こし、自宅で暮らすことを再び諦めさせます。肉体は疲労の極に達しています。そして、精神も限界に近づきつつあります。このような状態にたびたび襲う余震は、特別の恐怖を与えます。それにしても、こんなに余震が続く地震は、あまり聞いたことがありません。

    ただ、十日町市の下条地区では人家に迫る山の土砂崩れがあり、新たに避難を指示されました。十日町市には山間地の集落が多くあり、2日間続いた雨のために、これからも、このような土砂崩れの危険のある集落がでてくる可能性あります。被災地への雨は、本当に悲惨です。幸いにも、雨はだいぶ小降りになってきました。

    ニュースをみながらこのレポートを打っているのですが、崩壊した土砂の下敷きになっていた小出町の皆川さん親子3人の生存の可能性大ということが報じられています。現時点(午後3時10分)で1人の子供さんの無事が確認されました。お母さんの声もレスキュー隊が確認しています。3人の心音が、レスキュー隊に確認されているそうです。この大惨事の中で、私たちに大きな喜びを与えるニュースです。すごい土砂崩れの現状からすれば、生存は奇跡に近いといってもいい思います。

    このように、いまなお、救出活動も復旧活動も、被災の中での生活も戦いなのです 。皆、必死に頑張っているのです。越後の人間は、滅多なことで泣き言はいいません。今回大きな被害を蒙った地域は、例外なく日本一の豪雪地帯なのです。2メートル、3メートルの雪の中で半年間も生活する我慢強さをもっている人たちです。その人たちが発する嘆きや苦しみは、それだけ今回の被害が深刻だからです。政府には、この苦しみをしっかりと受け止めてほしいものです。

    いま、テレビで皆川さん親子の救出活動をしている現場がNHKで中継されていますが、いままた余震がありました。第二次災害の危険の中での救出作業です。3人の無事を祈りながら、この原稿をWebマスターに送ることにします。私もこれからもう一度十日町市と川西町を回ってきます。

15:31   十日町市の親戚の家にて

白川勝彦

Webマスター補記 28日 13:30 新潟県 真優ちゃんの死亡確認を発表
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2004年10月25日
No.215

震源地真っ只中と改造人事(その4)

  1. 10月23日午後6時前後から始まった新潟県中越地震の発生時は、私は新潟県十日町市珠川(たまがわ)地区にある当間高原リゾートのホテル「ベルナチオ」のロビーで記念写真を撮ろうという、その瞬間でした。

    何の記念写真かというと7〜8年ぶりに催された県立十日町高校昭和39年卒の同年会の記念写真です。私はアルミ製のベンチの一番高い3段目におりましたので、そもそも地震が発生する前から、少し揺れていました。地震の瞬間、下の列の女性が急に騒ぎだしたので、一瞬いったい何が起きたのかと思ったのです。地震と直ぐには気が付きませんでした。

    最初の揺れはかなり続きました。広い窓ガラスが歪み、軋む音も少しありました。これは、完全に地震だなと気がついた頃、揺れは止みました。部屋にいた人も、ロビーに集まってきて、かなりの人数となりました。皆で怖かったなどという話をしている時に、2度目の大きな揺れがきました。女性や子供さんはかなり騒ぎ始めましたが、私のように東京で生活している者はけっこう地震には慣れているので、それほどたいへんな地震だとは思えませんでした。震度3〜4位の感じでしたでしょうか。

    その後も何度か揺れがあり、ホテルの従業員の指示で屋外に出ました。でもたいした揺れはなく、小1時間もしない内に皆さんがホテルのロビーにまた戻ってきました。小さな揺れはありましたが、地震はおさまったようでホテルは簡単な夕食を出してくれました。皆さん、これをロビーでいろんな話をしながら食べておられました。

    私たちは、記念撮影のあと懇親会をやる予定だったのですが、地震でそれは無理ということで中止となりました。皆、残念がっていましたがやむを得ません。久々に会った者同士、ロビーで立ち話で、またソファーに座りながら、旧交を温め合いました。それも小一時間程度で終わり、部屋に帰るもの、自宅が心配で帰る地元の友人たち、それぞれでした。

  2. このように一段落すると、私たちは急にお腹が減ったことに気が付きました。また酒の好きな友人は、せっかくの同級会なのだから一杯飲みたいなーなどといいだしました。その輪の中に、実家がお鮨屋さんをしている友人がいましたので、十日町は全市停電らしいがロウソクで明かりを取りながら、お鮨を食べ少しお酒でも飲ませてもらおうということになりました。

    そこで、私の車で5人で十日町に出かけることになりました。運転はもちろん私です。地震の直後だけに気を付けて車を走らせましたが、5、6ヶ所で道路に少しの亀裂があったり、橋のつなぎ目などに少し段差を感じましたが、それ程の異常は感じませんでした。これは大丈夫だと思って、皆お酒や鮨を期待し友人のお寿司屋さんに到着しました。

    その友人には、「お前、一足先に家にいって準備をお願いしておいてくれ。俺たちは念のため、実家の様子だけちょっと見てくるから」ということで、それぞれの家に向かいました。車で動けば、20〜30分で行けるところにそれぞれの実家がありました。十日町の街中に入った頃から少し異常に気が付き始めました。停電のため真っ暗でした。それは承知していたのですが、商店街のガラスが割れて、道路にまで広く散乱しているのです。またシャッターが曲がり陳列棚がその間から見えるお店もかなりありました。信号はもちろん作動していません。

    一人の友人が家いって家族の無事と様子を見てくるというので、それを待っている間、外で集まっておられた10人くらいの方々に、地震の様子をお聞きしたました。その話は同じ十日町市ですが、私たちがホテルで感じた地震の様子とは全然違うものでした。十分くらいして帰ってきた友人は、「家の中は、まるでメチャメチャだ。白川、今日はダメだ」といいました。「そうだ。そうしろよ」ということで、残った者だけでくだんのお寿司屋さんに向かいました。

    そのお寿司屋さんに着いたところ、お寿司屋さんの友人が、息を切らせていいました。

    「店の中がメチャクチャだ。家には誰もいない。近くの学校のグランドに避難しているらしい」

    その友人の真ん前に、私の後援会の大事な役員の家がありました。その役員も外に出ていました。

    「先生じゃないですか。どうしたんですか。いやー、たいへんです。すごい地震でした。こんな調子ですよ」

    その方の家は、立派な石垣が周りにグルリと回されていたのですが、その跡形もありません。全部崩れているのです。国道117号線に面した石垣は、道路の方に倒れ、3メートルくらい道路に大きな石が転がっています。暗い中、車も通り危険ですから、寄せるだけ少しでも寄せようということで、4人で力を合わせて動かし、前後に夜でも光る三角アングルを置きました 。

    時々救急車のサイレンの音が聞こえましたが、真っ暗中、誰も人がいない街で、何もできませんでしたので、私たちは一旦ホテルに帰ることにしました。ホテルに帰ると、車で東京方面に帰った友人もいて、私と一緒に泊まる予定の友人たちは、誰もいませんでした。私たちは、隣の部屋に行って、見てきた街の様子を話しました。ホテルに泊まっていた同級生が集まってきました。皆、びっくりしていました。自家発電で非常灯は点いていて明るいのですが、テレビはつきません。携帯電話も通じず、地震全体の情報はまったく入らないので、私たちが見てきたことが、真実性のある貴重な情報だったのです。

    1時過ぎまで、地震の話や学校時代の懐かしい話をして、非常灯がこうこうと点る部屋で自然と寝てしまいました。非常灯というのは、消すことができないですね。

    翌朝(24日)、目が覚めると、たまたまその地域の電気は回復していて、テレビが観れました。そのニュースを観て、私たちは新潟県中越地震の全体の様子を初めて知ることができました。震源地は、十日町市に近い小千谷市の南部でした。私たちが泊まったホテルから30キロくらいしか離れていません。ですから、私たちは震源地のすぐ脇にいたわけですが、震源真上の被害は、震源から僅かに外れていた私たちの実感をはるかに超えるものでした。伝えられた死亡者は、朝のこの時点では、4人とのことでした。

  3. 新幹線は、越後湯沢ー東京間が動いていましたので、関東方面に帰る友人は10時半にホテルを出発して、東京に向かいました。私はこの友人たちを見送った後、十日町市の市街地に向かいました。街全体の被害の様子を把握するのと、親戚やお世話になっている方々をお見舞いをするためです。

    お見舞いがてら、地震の様子をお聞きすると、それはすさまじいものでした。皆さん、家ではなく自動車や安全な車庫などで夜を過ごしたそうです。私がお見舞いにお伺いした時は、メチャクチャになった家の中の片付けをしておられました。家屋の倒壊こそ、十日町市ではあまりありませんでしたが、しかし、被害はかなり甚大でした。携帯電話はほとんど通じず、連絡が取れないので苦労しました。

    夜は、十日町市のホテルや旅館に泊まることもできないので、十日町市の近くの津南町にいる姉の見舞いを兼ねながら、そこに泊めてもらいました。前の晩はあまりよく眠っていませんから、夕食を食べると8時ころには睡魔が襲ってきて、休ませてもらいました。姉たちも昨晩はほとんど寝ていないため、皆、早く寝ました。寝ている時、けっこう強い余震が3回ほどあり、目を覚ましましたが、避難するほどではありませんでした。十日町市の人々は、昨晩も屋外の自動車で夜を過ごしました。停電が続いている地域がまだ4分の1くらいあり、水道はほとんど復旧していません。

  4. 今朝(25日)は5時半に起きました。そして、このレポートを書きました。今日は、また十日町市に行きます。今度は、今回の地震で感じたことをもう少し詳しく書きます。

    それから、少し長くなりますが前回のお約束ですから、大臣評を付け加えます。これは、同級会に出かける土曜日(23日)の朝に書き終えていたものです。長い間お付き合いいただいてありがとうございました。

    • 大野 功統 (おおの・よしのり)防衛庁長官(初)

      (共同通信社マーク)共同評東大卒業後、旧大蔵省に入り、主に関税、国際金融畑を歩いてきた。政界に転じてからは郵政、国防、年金と守備範囲を広げ、自民党内屈指の政策通として重宝される存在に。しかし、その器用さが災いしてか、所属派閥の入閣候補の一番手ながら先送りされ、ようやく初入閣を果たした。「いすで仕事をするな」が座右の銘の苦労人。68歳。香川県出身。衆院当選6回。(山崎派) http://homepage3.nifty.com/e-ohno/

      白川コメント口八丁・手八丁というのは、大野氏のためにある言葉といっても好いくらい、よくしゃべり、仕事ができます。演説の中にジョークというか洒落をいれるのですが、こちらはその努力は認めますが、イマイチでした。

      逓信委員会一筋だった加藤常太郎代議士(旧香川県2区選出ー13回当選)の女婿で、その後継者だからだと思うのですが、大蔵省出身でありながら党の通信部会には必ず出席し、その有力メンバーとなりました。当時すでに私は郵政族の準幹部でしたから、大蔵省出身の大野氏が通信部会に入ってきてくれたことを多いに喜び、いろいろと助けてもらいました。

      通信部会のテーマのひとつは、電気通信政策の改革でした。こちらは、通産省とよくバッテングしました。もうひとつのテーマは郵便貯金や簡易保険をめぐる大蔵省と銀行・保険業界との対立でした。私も大蔵委員会には長く所属しておりましたので、ある程度の知識はありましたが、とても大蔵省出身の大野氏に適うはずはなく、本当に助かりました 。いま小泉首相がいう郵政民営化とは、このころの議論とまったく同じです。だから、大蔵族の総理大臣がそのレベルを一歩もでることなく、国政の中心課題としているだけなんだと私は前から指摘しているのです。

      私は国防部会にはあまり出席していないので、大野氏が防衛政策についてどのくらいの造詣があるのか知りませんが、口八丁・手八丁の人ですからすぐ身に付けるでしょう。大野氏の選挙区のライバル、月原茂アキ元衆議院議員(自民党→新進党→自由党→保守党→自民党)は防衛庁出身の官僚でしたから、これと張り合って意外に防衛問題は勉強していたのかもしれません。

    • 伊藤 達也 (いとう・たつや)金融担当大臣(初)

      (共同通信社マーク)共同評米カリフォルニア州立大学大学院に研究員として留学、米国サクラメント市長や下院議員の政策スタッフを経験して、政界入りした。

      政策に強い半面、党務の経験が浅く、国会での駆け引きなど調整力は未知数。日本新党から自民党に移った「外様」という事情もあり選挙が安定せず、自民党内や旧橋本派内で立場が確立していないのも弱みだ。43歳。奈良県出身。衆院当選4回。(旧橋本派) http://www.tatsuyaito.com/

      白川コメント日本新党→新進党→自民党という経歴です。若い政治家であり、日本新党も新進党もともに解散したのですから、党を変遷したことをとやかくいうつもりはまったくありません。伊藤氏とは、総務局長として何度か会ったことがあります。

      それは、私が総務局長に就任した平成7年10月時点では、伊藤氏が立候補する予定の東京22区には自民党から立候補する適当な候補者がおらず、私は、旧日本新党出身の議員には事情が許すならばできるだけ自民党から出てもらいたいと思い、日本新党にいた友人を介して何度かお会いし、このことをお願いしたからです。しかし、残念ながらどうしてもダメでした。

      すべての小選挙区から自民党公認候補を立候補させるというのは、加藤幹事長と私の大原則でした。ですから、東京22区から別の候補者の擁立をしなければならなくなりました。しかし、新進党ブームの最中、自民党から立候補しようという地元の候補はなかなか現われてくれませんでした。そこで、私が中心になって進めた公募に合格した進藤勇治君から東京22区に立候補してもらいました。結果は次のとおりでした。

      平成8年総選挙 ─ 東京22区
      当落 候補名 得票数 政党等
      当選
      伊藤 達也
      69,707
      新進・前
      比・当
      山花 貞夫
      63,974
      民主・前
       
      進藤 勇治
      49,837
      自民・新
       
      松田 佳子
      35,762
      共産・新
      比・当
      保坂 展人
      13,904
      社民・新
       
      佐藤 和友
      2,526
      諸派・新

      その後、平成10年に伊藤氏は自民党に入りました。そして平成12年の総選挙では比例区東京ブロックの順位第3位にランクされ、当選しました。一方、東京22区からは進藤君が立候補しました。その結果は次のとおりでした。

      平成12年総選挙 ─ 東京22区
      当落 候補名 得票数 政党等
      当選
      山花 貞夫
      104,132
      民主・前
       
      進藤 勇治
      77,761
      自民・新
       
      鈴木 盛夫
      39,503
      自由・新
       
      岡田 隆郎
      38,318
      共産・新
       
      酒井 松美
      5,635
      無・新
       
      友野 康治
      2,687
      自連・新

      そして、昨年の総選挙ではいわゆるコスタリカ方式で進藤君が比例区に回り、伊藤氏が小選挙区から立候補しました。その結果は、次のとおりでした。なお、伊藤氏は順位4位の重複立候補者であったために復活当選し、新藤君は順位26位の比例候補者であったため、当然のことながら当選しませんでした。

      平成15年総選挙 ─ 東京22区
      当落 候補名 得票数 政党等
      当選
      山花 郁夫
      113,931
      民主・新
      比・当
      伊藤 達也
      105,385
      自民・前
       
      若林 義春
      24,859
      共産・新
       
      佐藤 盛隆
      4,001
      無・新

      なぜ、こんなことをクドクドと書いたかというと、進藤勇治君という一人の政治家を紹介したかったからです。平成8年からもう8年も経っています。そして、自民党がいちばん苦しかった時、我々の意気に感じて自民党に飛び込んできてくれた一人の青年の志を、自民党はまだ成就させていないということを知ってもらいたかったからです。小選挙区制で行なわれた最初の平成8年の選挙の前に、伊藤氏が自民党に来てくれていたら、進藤君には別の政治家としての道を歩んでもらえたと思うと、平成7〜8年にかけて伊藤氏を口説けなかった私の力足らずが悔やまれてなりません。


      進藤 勇治 略歴

      1951年11月1日生まれ 。東京大学工学部卒業、東京大学大学院修士課程修了。工学博士号取得(東京大学)。マサチューセッツ工科大学国費留学。
      通産省 工業技術院 国際研究協力企画官
      自由民主党本部衆議院新人候補者公募試験に合格し、党本部合格者で唯一の党公認を得る。
      現在、府中市 、調布市 、狛江市 、稲城市で活動中。
      自民党東京都衆議院比例区第五支部・支部長。

      自由民主党が野に下った後の村山総理の時代の平成7年12月に、自由民主党本部において衆議院新人候補者の公募試験が実施されました。私はこの試験を受け合格しました。

      そして、平成8年の衆議院議員選挙に際して、党本部公募合格者で唯一の党公認を得た私は、自民党の再生と日本の将来のために、職を辞し、わが身をなげうって出馬いたしました。

      当時の橋本龍太郎総裁のもと、私は自民党の再起をかけ、新進党、民主党らの候補者を相手に激戦の選挙戦を闘いました。


      以上は、進藤君のWebサイト(http://www.shindoyuji.com/)からの引用です。なお、伊藤氏には氏の尊称を付けながら、進藤氏を進藤君と書いたのは、進藤氏が誇りにしている公募の実行責任者として彼に親しみをもっているからです。伊藤氏が国会議員であり、進藤氏が国会議員にまだなっていないからではありません。進藤氏がいずれその志を成就することを願ってやみません。政治家の栄光の陰には、こういうことがあることを知っていただければ幸いです。

    • 竹中 平蔵 (たけなか・へいぞう)郵政民営化・経済財政担当大臣(留)

      (共同通信社マーク)共同評自民党参院議員のバッジはつけたが、改革路線で党とのあつれきは消えない。だが、小泉純一郎首相とのきずなは固く、内閣の看板として残った。景気回復は「構造改革の成果」と胸を張る。慶大教授から入閣して三年を越え、官僚を動かす術も覚えた。経済財政諮問会議を舞台に、あらゆる経済問題に関与するが消化不良との声も。53歳。和歌山県出身。参院当選1回。(無派閥) http://web.sfc.keio.ac.jp/~heizo/

      白川コメント私は竹中氏にはお会いしたこともありませんから、コメントはしません。皆さんの方がよくご存知でしょう。

    • 村上 誠一郎 (むらかみ・せいいちろう)行政・規制改革担当大臣(初)

      (共同通信社マーク)共同評衆院大蔵委員長、財務副大臣などを歴任。小泉純一郎首相が進める郵政民営化には批判的で、首相の「踏み絵」発言に反発してみせた。閣内でも歯に衣(きぬ)着せぬ発言を貫けるか。故河本敏夫元通産相の秘書から政界入り。曽祖父、父も衆院議員を務めた政治一家。待望の初入閣を果たした。岡田克也民主党代表の義兄。52歳。愛媛県出身。衆院当選6回。(高村派) http://sei-murakami.web.infoseek.co.jp/

      白川コメント村上氏とは、彼の当選前から親しく付き合っていました。何度か彼の選挙区にも応援に行きました。私のもっとも親しい国会議員の一人でしたし、彼もまた私の政治活動を助けてくれました。特に細川内閣と対峙して自社さ政権をつくる時は、私と一緒になってその理論面やら活動面で私をサポートしてくれました。

      経済問題に明るく、財政には一家言をもっており、いつも私を口説いていました。私は村上氏のいうことが正しいのかどうかについて判断する力はありませんでしたが、官僚の経済政策や財政運営はなっていないと悲憤慷慨していました。そして、この十数年間、日本の経済は最悪になり、財政破綻の一歩手前まで来ているのですから、きっと正しかったのでしょう。

      村上水軍の末裔だということを誇りにしており、体もでかいですし、馬力もあります。好漢です。でも、行政・規制改革担当というのは、村上氏の得意な分野ではないような気がするのです。しかし、能力はある政治家ですから、きっと何かやってくれると期待しています。有能な人物というのは、いつでもどこででも仕事ができるものですし、また、仕事をしなければならないのです。ガンバレ、村上水軍!

    • 棚橋 泰文 (たなはし・やすふみ)科学技術・IT担当大臣(初)

      (共同通信社マーク)共同評東大卒業後に通産省に入省、その後弁護士事務所を開いて中華航空機事故被害者弁護団に加わるなど人権派弁護士として活躍した。旧橋本派のホープとして期待される。自民党青年局長として党改革に取り組み、定年制や候補者公募制の導入を提唱。昨年九月の党総裁選では世代交代を訴え、独自候補擁立に動いた。41歳。岐阜県出身。衆院当選3回。(旧橋本派) http://www.jimin.jp/jimin/giindata/tanahashi-ya.html

      白川コメント端正な顔立ちと同じように、すべての面において端正な政治家です。当選回数も違い、年齢も離れていますから、あまり付き合いはありませんでした。父君は、通産事務次官もされた通産一家です。科学技術・ITを担当する能力を十分もっていることは間違いありませんが、政治家としてこうした分野にどういう足跡を残せるのか、ナタをふるえるか。何といっても3回生ですからねー。

08:30   新潟県津南町にて

白川勝彦

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2004年10月22日
No.214

改造人事について(その3)

  1. 宿題となっていた大臣評です。さっそく始めます。

    • 小池 百合子 (こいけ・ゆりこ)環境大臣(留)

      (共同通信社マーク)共同評大環境に関するイベントに積極的に参加、地球温暖化対策や廃棄物の不法投棄対策に尽力、続投となった。負けん気の強さと、ものおじしない明快な口調で、官僚のおぜん立てでなく自分で提案する政治姿勢をモットーにしてきた。中東、イスラム通でアラビア語通訳、テレビキャスターから国政に。保守党などを経て自民党入りした。52歳。兵庫県出身。参院当選1回、衆院当選4回。(森派) http://www.yuriko.or.jp/

      白川コメント私が小池さんに初めてお会いしたのは、「ルックルックこんにちは」というテレビ番組で、小池さんが竹村健一氏のアシスタントをしていた当時でした。竹村氏の担当していたコーナーに私が出演した時です。初当選から間もないころでしたから、いまから20数年前です。

      その後、小池さんはテレビ東京の夜のニュース番組のキャスターになりました。そのキャスターをやめた頃、当時自民党の若手議員で作った自由主義経済推進機構が毎月発行する機関誌『新時代』の巻頭対談のインタービューアーを、小池さんに頼みました。この雑誌の事実上の編集長だった私は、小池さんと一緒にいろんな人(そのほとんどは経済人でした)と対談しました。ですから、毎月1回は最低お会いしていました。3年間くらいお願いしたと思います。

      平成2年の選挙で私は落選しました。そして、平成4年のあの日本新党ブームといわれた参議院選挙で小池さんは当選。平成5年の総選挙では兵庫2区から立候補し、衆議院議員に当選しました。私もこの選挙で復活したので、数年ぶりに再会したわけです。この時は、まさに細川内閣で細川ブーム絶頂期でした。小池さんは、日本新党のプリンセス。一方の私は、落ち目の自民党の一代議士でした。

      ある時、食堂だったと思うのですが、小池さんとちょっと話せるような機会があったので、私は親しく話しかけたのですが、「あら、白川さんですよね」という感じで終ってしまいました。その後、小池さんと話す機会はいくらでもありましたが、私は小池さんとはお話をしていません。小池さんとは一緒の党にいたことがありませんから、小池さんがどういう政治家なのか、私にはコメントできるだけの付き合いはありません。

      なぜこんな小さなことを、男の私が女々しく書いたかというと、政治家が人と付き合う時の基本的な心構えというか、接し方を知ってもらいたいと思うからです。政治家は多くの人々に会い、多くの人々に向かって話をするのが仕事みたいなものですが、だからといって、人との接し方が薄っぺらではダメなのです。時間は短くとも濃密な心を揺さぶる何かがなければ、政治家ではないのです。ましてや、政治家と政治家の付き合いは、時には命がけの戦いをすることにも繋がる、大事な真剣勝負なのです。

      日本新党→新進党→自由党→保守党→自民党(しかも森派)と歩み、いまや環境大臣をされている訳ですから、小池さんの政治家としての嗅覚は鋭いのかもしれませんが、政治家の能力は、これとはまた違います。20年以上前から小池さんを知っている者として、環境大臣として何をやるのか、じっくりとみさせてもらいたいと思っています。

    • 細田 博之 (ほそだ・ひろゆき)官房長官(留)

      (共同通信社マーク)共同評福田康夫前官房長官の辞任で急きょ長官に起用された。地味だが、官僚出身の手堅さで内閣のスポークスマン役をこなした。説明を尽くそうと定例会見が長時間に及ぶことも。首相の信任は厚いが、内閣の要として力量も問われる。情報技術(IT)政策に強く、「選挙博士」の異名も。イチローの活躍に一喜一憂する大リーグファンでもある。60歳。島根県出身。衆院当選5回。(森派) http://homepage1.nifty.com/h-hosoda/topframe.htm

      白川コメント平成4〜5年の2年間は、選挙制度の改革が国政の最大のテーマでした。その結果として、現在の小選挙区比例代表並立制という選挙制度となりました。この時期、選挙制度について最も深い知識をもっていたのが、細田氏でした。選挙制度のことは、細田氏に聞けばなんでも分るという程のものです。「選挙博士」というのは本当です。細田氏は通産省の役人だったのですが、まさか通産省で選挙制度を勉強していた訳ではないでしょう。衆議院に当選後、勉強したはずです。このように何でもよく勉強しており、極めて有能な政治家であることは間違いありません。

      大平正芳氏が池田内閣の官房長官だった時(たぶん当時は官房長官は国務大臣ではなかったと思うのですが)、「池田内閣とは、私のことである」といって、池田総理から怒られたという話を聞いたことがあります。官房長官というと内閣のスポークスマンといわれます。それだとしたら、誰が考えたって大平氏は有能な官房長官とはいえないでしょう。また、大平氏もそんな自惚れではないでしょう。

      官房長官のいちばん大変で大事な仕事は、各省庁間の利害を調整し、内閣としての方針を示すことなのです。役所の自己利益の主張というのは、それは凄いものです。しかし、内閣の中のそれぞれの役所が別のことをいっていたのでは、内閣の方針がどうなのか分りませんし、それでは済まされないこともでてきます。それを調整し、内閣としての決断をする。それが官房長官のいちばんの仕事なのです。大平氏が「私が内閣そのものである」といったのは、そういう意味合いでいったのだと、私は思います。

      私が知っている官房長官の中でいちばん凄かったのは、中曽根内閣の後藤田官房長官だったと思います。各省庁間の言い分をよく理解した上で、ほんとにバサッと、切る時は切りました。その切れ味は、カミソリではなくナタでしたね。細田氏は万能選手ですから、各省庁の言い分を正しく理解する力は誰よりもあります。後は、ナタのように切る政治家としての力でしょう。もっとも、今の総理大臣は自分で最初に切ってしまいますから、バラバラになったパーツをどう繋ぎ合わせるか、苦労しているようにもみえます。

      選挙博士という言葉が出ましたので、もう一言。選挙の神様といえば、なんといっても田中角栄氏でしょう。日本全国に人脈をもち、かつ資金力もあり、またセンスも抜群でした。選挙そのものが好きでしたね。田中氏と話をしていると、その半分はいつも選挙の話でした。毛沢東は「権力は、銃口から産まれる」といいましたが、「選挙から、権力は産まれる」と考えていたのが田中氏だったと思います。しかし、田中氏のこの考えは、その通りなのです。

      「私の専門は選挙学」といったのは、竹下登氏です。ですから、どうしたら平成8年の総選挙で勝てるのか、朝から晩までこのことばかり考えていた総務局長の時、私は竹下氏に教えを乞おうとして、事務所を訪ねました。でも、竹下氏は、「白川さん。もう私の出る時代じゃないですよ」と笑って答え、何も教えてもらえませんでした。中選挙区の選挙と小選挙区の選挙は、実は全く違うのです。国会議員の中で、いちばん選挙のことに詳しいのは加藤紘一氏でしょう。細田氏にも、選挙制度の専門家ではなく、選挙の専門家になってもらいたいと思います。政党には、そういう人がいるのです。

    • 村田 吉隆 (むらた・よしたか)国家公安委員長・防災担当大臣(初)

      (共同通信社マーク)共同評旧大蔵官僚出身で、内閣府副大臣(金融担当)を務めるなど金融通で知られる。故藤井勝志元労相の女婿で、地盤を継承。大蔵省在職中には、フランス留学や中国勤務を経験し、フランス語と中国語に堪能。堀内派の政策委員長で政策全体にも明るいが、「役人の殻を抜け切れていない」との評も。園芸とチョウの採集が趣味。60歳。静岡県出身。衆院当選5回。(堀内派) http://murata-yoshitaka.jp/

      白川コメント昔、こんなことがありました。共同のコメントにある故藤井勝志代議士によばれ、ある料理屋で、当時大蔵省の役人だった村田氏とお会いしました。奥さんもご一緒でした。一方、私は田中秀征代議士と同道しました。藤井氏は三木派の代議士でしたが、とにかく田中秀征氏と私に来てもらいたいというのです。なぜ田中氏と私に声がかかったかというと、きっと、自民党の憲法調査会で田中氏や私が、自主憲法制定論なるものに反対の意見を述べていたことで、目を付けられたのだと思います。私は3回生、田中氏は1回生の時だったと記憶しています。

      事前には知らせられていませんでしたが、藤井氏は、自分としてはもう引退をしたいと思っているが、女婿の村田氏がなかなか後継者として立候補する決断をしない。ついては、けし掛けてくれないかという会合でした。頼まれた訳ではありませんが、田中氏も私もまったくゼロから出発して代議士になったものです。村田氏に政治への志があるのであれば、藤井氏の地盤があるのだから、何の躊躇もいらないじゃないかというのが田中氏と私の意見でした。しかし、村田氏の決意は固まらず、そうしようということにはなりませんでした。側におられた奥さんも、村田氏が決断できないことに少しイライラしているような感じでした。ですから、田中氏も私も「奥さん。あなたが出たらどうですか」と本気になっていったことを懐かしく思い出します。

      こんなことがあってから、1回見送ったと思うのですが、村田氏は平成2年の総選挙で初当選しました。同じ宏池会に所属していましたので、親しくお付き合いしました。快活で人柄がよく、また正義感をもった政治家です。官僚出身だけに政策にも明るく、期待するところが大きいのですが、私も務めた国家公安委員長というのは、なかなかその手腕を発揮するのが難しい役職なのです。警察大臣ではないので、警察官僚に向かって直接指揮命令はできないのです。

      防災担当大臣というのがどういう権限をもっているのか分りませんが、これも、かつての国土庁長官と同じようなものだとしたら、これまた、災害復旧などについて独自の予算を持ち、災害復興事業が直接できるわけではないのです。各省の予算を使いながら、これを進めていかなければならないのです。国土政務次官をやりましたので、そのもどかしさはイヤというほど味わいました。

      凶悪犯罪が多発しています。多くの国民が、日常生活に不安をもつようになりました。「日本は世界でいちばん治安はいい」との神話は、すでに過去のものとなってしまいました。また、今年は多くの災害にみまわれました。こうした時、政治家としての国家公安委員長が何ができるのか、防災担当大臣として何ができるのか、それが問われている時だと、私は思います。舞台は整っています。後は、村田大臣としてどう蛮勇を奮うかということだけです。

  2. こんな調子で書いていくと、けっこう長くなりますね。でも、ありきたりの評論よりも、こうしたことが政治家の理解に役立つのではないかと思います。今回で宿題を全部すませてしまうつもりだったのですが、このくらいでやめにします。そのかわり、次回で必ず全部すませることをお約束します。

    ところで、皆さんは、大臣が機密費なるものを一銭も持っていないことをご存知でしょうか。知事にしろ、市町村長にしろ、交際費と呼ばれるものをもっていますが、大臣にはそれすらないのです。もっとも、官房長官だけは数十億という官房機密費をもっていますが…。

    大臣になると、やたら出費が多くなります。しかし、職務権限がありますから、献金には気を付けなければなりません。ですから、大臣をやるとカネが入ってくると思ったら、大間違いなのです。大臣には職務専任義務がありますから、他の収入も入らなくなります。私の場合は、法律顧問としての弁護士収入もかなりあったのですが、それも辞退しなければなりませんでした。従って、私の場合、大臣としての1年間で、2000万円くらいの経費が別に必要とされました。秘書がたいへん苦労したことは、後で知らされました。大臣の懐具合は、実は意外に大変なのです。

    10月20日、「テレビ雑考(その1)」を掲載しました。その2、その3と続けていく予定です。こちらの方はすでに粗原稿ができておりますので、今回のように苦労はしないはずです。かなり独善的な主張もあろうかと思いますが、誰かがちゃんと(?)したことをいわなければならないと考え、かなり前から執筆を始めていたのです。

    テレビは何といってもマスコミ=第四の権力の代表です。すべての権力は、常に批判していかなければ、 ( よど ) んでしまいます。お読みいただければ幸いです。

07:10   東京の寓居にて

白川勝彦

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2004年10月19日
No.213

知事選と5日間の格闘

  1. 10月17日に投開票された新潟県知事選挙の結果は、次のとおりでした。

    当落 候補名・政党 得票数
    泉田 裕彦 (自・公)
    344,904
     
    多賀 秀敏 (社民)
    299,145
     
    小林 一三
    198,675
     
    宮越 馨
    109,539
     
    川俣 幸雄 (共)
    46,207
     
    伊藤 雄二
    41,626

    [朝日新聞の記事]

    新潟知事に泉田氏 全国で最年少

    新潟県知事選は17日投票、即日開票の結果、元経済産業官僚で前岐阜県局長の泉田氏(42)が、早大教授の多賀氏(54)、元新津市長の小林氏(68)、元上越市長の宮越氏(63)、出版社社長の伊藤氏(39)、共産党県常任委員の川俣氏(49)を破り初当選した。

    投票率は53・88%(前回63・59%)。泉田氏は全国最年少知事となる。民主党県連が事実上分裂。泉田氏は自民、公明推薦のほか旧自由党系民主党国会議員の支援を受けた。(1面)

    自民系、乱戦制す 異例のテコ入れ奏効

    過去最多の6人が立候補した17日の新潟県知事戦。自民、公明両党が推薦した元経済産業官僚で前岐阜県局長の泉田氏が接戦を制した。故・田中角栄元首相を生み、保守王国とも言われた新潟だが、最近の国政選挙では与野党が激しく競り合う。自民党は今回、新執行部ができて最初の選挙に党本部が異例のテコ入れをし、野党側を破った。

    (中略)

    新潟では、02年の参院補選で民主、社民、自由(当時)各党の野党共闘候補が自民の公認候補に圧勝。昨年の衆院選では、「自民5野党1」から「自民2野党4」に議席数が逆転した。今夏の参院選は、二つの議席を与野党で分け合ったが、トップは野党共闘の候補だった。

    この余勢をかって民主党は、各党相乗り型で3期務めた平山征夫知事を推さず、独自候補の摸索を早々と打ち出した。しかし、党県連内の意見が分かれて自主投票に。渡辺秀央参院議員ら旧自由党グループは泉田氏支援に回った。

    それでも新潟大学で約15年間、教壇に立った早大教授の多賀氏は「最も市民の目線で仕事をしてくれそう」などと有権者の期待を集め、激しい接戦を演じた。(38面)

    [読売新聞の記事]

    新潟知事に泉田氏 自公推薦 42歳 現職最年少

    新潟県知事選は17日投開票され、元岐阜県局長・泉田氏(42)(無ー自民・公明推薦)が、早大教授・多賀氏(54)ら新人5人を破り、初当選した。泉田氏は、現職知事で徳島県の飯泉嘉門知事(44)を抜いて全国最年少となる。

    3期務めた平山征夫知事の引退を受け、無所属の新人6人立候補。共産党を除く主要政党の支援を受けた平山知事時代から一転対立構図を反映した選挙戦となった。(1面)

    自民、終盤テコ入れ奏効 民主は“分裂選挙”響く

    17日の新潟県知事選は、当初、苦戦が伝えられた泉田氏が初当選し、武部幹事長ら自民党執行部は安堵している。自民党は終盤、知事選としては異例のてこ入れを図り、党幹部や閣僚らを相次いで派遣しただけに、「党を挙げての支援態勢が功を奏した」(党幹部)としている。

    武部幹事長は同日夜、「新執行部の初の選挙であり、たいへんうれしい」との談話を発表した。

    昨年の衆院選で、自民党は新潟県内6選挙区のうち4選挙区で敗北した。今年夏の参院比例区でも、民主党の得票を下回った。知事選では、保守系候補が乱立した中、出遅れを盛り返して勝っただけに、自民党内からは「地方での不振に歯止めをかけることができた」との声も出ている 。

    一方、民主党は、地元組織が多賀氏支持派と泉田支持派に分裂し、多賀氏推薦を見送った。岡田代表も地元入りせず、与党との対決ムードを盛り上げることができなかった。民主党の玄葉光一郎選対委員長は17日夜、「統一した選挙態勢を確立できなかったことは残念だ」とのコメントを出した。

  2. 新潟県で圧倒的なシェアを誇る新聞は、なんといっても『新潟日報』です。全国各県にある県紙の中でも、そのシェアはトップクラスでしょう。新潟県では『読売新聞』も『朝日新聞』も、この新聞に比べたら影が薄いといってもいいでしょう。内容も充実しており、地方紙にありがちな貧弱感はまったくありません。ですから、新聞は『新潟日報』だけという家庭がかなりあります。いま現物がありませんから、同紙のWebサイトから県知事選に関する記事を引用します。

    [新潟日報Webサイトの記事]

    県知事選、泉田氏が激戦制す

    任期満了に伴う第17回県知事選は17日、県内98市町村で投開票が行われた。即日開票の結果、無所属新人で自民党、公明党が推薦、民主党内の旧自由党グループが支援した元岐阜県新産業労働局長の泉田裕彦氏(42)が約34万票を獲得、本県知事選史上最多の6候補による激戦を制し初当選、民選第8代知事の座を得た。現在の全国最年少知事となる。

    社民党が推薦、民主党県連が支援した早大教授の多賀秀敏氏(54)は2002年参院補選以来の「非自民共闘」で臨んだが、民主県連が選挙戦で分裂したことなどが響き、約4万5000票差で届かなかった。前回選に続き出馬した元新津市長の小林一三氏(68)は前回の半分に満たない約19万7000票。元県議の宮越馨(63)、共産党県委員会常任委員の川俣幸雄(49)、出版社社長の伊藤雄二(39)の3氏は浸透しきれなかった。投票率は53・88%で前回を9・71ポイント下回り、1992年に次ぐ過去2番目の低さだった。

    白川コメント以上、3紙の記事を紹介しました。

    • いずれも、民主党新潟県連の意見が分かれ、分裂選挙になったことに触れています。今回の新潟県知事選挙における最大の政治的問題は、このことに尽きるでしょう。民主党の玄葉選対委員長は、「統一した選挙態勢を確立できなかったことは残念だ」といっておりますが、知事選挙の公認・推薦の権限は党本部にあるはずです。党本部の責任は大きいと思います。また、今回の選挙における分裂を民主党新潟県連がどう総括し、これを克服していくのか注目していきたいと思います。
    • 過去最多の6人が立候補したのに、投票率がほとんど信任投票といってもよかった前回の知事選よりも約10パーセントも低かったのも理解に苦しみます。過ぎたるは及ばざるが如しということでしょうか。当選した泉田氏は、有効投票の33 ・16パーセントしか得票していません。これは、力強い県政を進めていく上で大変なハンディになるかもしれません。
    • 過去、共産党は全県規模の選挙ではいつも10万票前後取っていたのですが、4万6000票というのは一体どうしてなのか解せません。共産党の支持者の多くが、社民党と旧社会党系の民主党国会議員が推す多賀候補を当選させようとしてこうなったのでしょう。ですから、泉田氏はかつての自自公が推す候補、多賀氏はかつての社共統一候補という感じを一般の有権者はもったのだと思います。どちらも一昔前の枠組みですよね。
    • 自民党が推薦した泉田氏は、公明党と旧自由党の支援でやっと勝てました。新潟県でも、自民党という金看板の威力がなくなったということでしょう。私は平成7〜9年の2年間、自民党新潟県連の会長を務めました。当時は、まだ新潟県では自民党という金看板は通用しました。ですから、平成8年の総選挙では6つの選挙区すべてで自民党公認候補が勝てたのです。しかし、金看板に奢ることなく、汗も流しました。なぜ、金看板が通用しなくなったのか、自民党は真剣に考える必要があると思います。「地方での不振に歯止めをかけることができた」などといって喜んでいる場合ではないでしょう。今回の泉田氏の勝利は、民主党が分裂して選挙戦に臨んだからにすぎません。
  3. 新潟知事選のことはこのくらいにして、次の話題に進みます。私は、この5日間、かなりクタビれてきた愛用のノート型パソコンでメールを打っていました。その数、約2000通です。いま、私のパソコンに入っているすべてのメールアドレスに打ち終えて、この永田町徒然草を書いています。正直にいって、相当疲れました 。でも、我ながらよくやったなーという満足感があります。何のメールだと思いますか?

    日一日と秋の風情が深まりゆく今日この頃です。

    白川勝彦です。いつも温かいご激励をいただきながら、ご無沙汰をいたしましたこと深くお詫び申し上げます。

    想えば、この4年間は悪戦苦闘の日々でした。しかし、平成13年の参議院選挙、昨年の衆議院選挙、いずれも政治家としての私のギリギリの行動でした。後悔はしていません。でも、3連敗はさすがにこたえました。でも、それに耐えるのも政治家のひとつの宿命なのでしょう。

    私のWebサイトを見ていただければお分りのとおり、私は心身ともに立ち直りつつあります。ご安心下さい。昨今の政治の状況を見ていると、いつまでもフトンをかぶって寝ているわけにはいきません。

    さて、私のメールアドレスはWeb上で公開されているため、スパムといわれるメールが1日に100以上も入ってきます。しかもそのほとんどがアダルト系のいかがわしいメールです。嫌気がさして1週間も開かないと、もう受信する気も失せてしまいます。

    そんなことで、新しいメールボックスを作りました。今度のは、スパムをかなりハネてくれるそうです。新しいメールアドレスからの初めてのメールです。これからもよろしくお願いいたします。

    白川 拝

    ○○○○さま

    かなり注意深く私のWebサイトをご覧いただいている人でも気が付かなかったと思うのですが、実は10月13日に私のWebサイトの各ページの下に表示しているメードアドレスを変えたのです。その理由は、メールで述べたとおりです。

    もっと正直に白状しますと、今年の5月から、私はメールボックスを開いていないのです。いや、開けないといった方が正確でしょう。メールを受信しようとしても1000から2000のメールがダウンロードされてくる訳です。どういう訳か分らないのですが、そのダウンロードの途中で受信が切れて、また同じメールがダウンロードされてくるのです。ですから、いつまでたっても受信作業が終らないのです。

    ですから、この半年近くの間に私にメールして下さった方々のメールを実は拝見していないのです。本当に申し訳ありませんが、こういう事情ですからお許し下さい。従って、当然のこととして返信もできませんでした。Webサイトをまた本格的に動かしていくにあたり、これではいいサイトを作っていくことができないと思い、Webマスターと相談してこの際メールアドレスを変えることにしたのです。

    私はまさに浪々の身です。ですから、これからはちょっと ( かみしも ) を脱いで、率直にいろいろなことを書きたいと思っているのです。また固い話題だけではなく徒然草と銘打っている以上、いろいろなテーマについて書きたいのです 。例えば、ゴミ問題とか、野球や相撲のことなど。

    しかし、こういう問題について書けば書くほど、これをお読みになった方にはまたいろいろなご意見や感想があるはずです。私もそれを知りたいですし、また参考にもしたいのです。BBSでもあれば皆さんが意見を書込めるのでしょうが、以前述べたような理由でいまのところまだ設けるつもりはありません。そうすると開かずのメールボックスではいけないと思ったのです。

    これからは、いろんなことを自由かつ率直に書いていきます。ですから、皆さんの素直なご意見もぜひ教えてください。それがインターネットの良さ、面白さだと私は思います。

  4. さて、Webサイト上でこのことをお知らせする前に、この4年間にメールをいただいた方々にこのことをお知らせするのがマナーというものであろうと考えて、私が普段使っているノート型パソコンにメールアドレスが入っている方々に前記メールを出すことにしたのです。事務所で使っていたコンピュータには重複をチェックしたもっと多くのメールアドレスの名簿があるのですが、私はこれを扱うことはできません。

    それでも皆さまからメールをいただく度に、私は私のパソコンに登録をしておいたので、これならばいまの私でも差し出すことができるわけです。そう思って始めたのですが、私なりの分類がかえって仇になり、かなり重複しておりました。何通も同じメールを差し上げるのは失礼ですから、これをチェックしながら出すというのは実はたいへんな作業でした。もちろん、機械的にチェックしておりませんので、2〜3通のメールが届いた方もおられると思うのですが、事情ご賢察の上、お許し下さい。

    考えてみますと、白川サイトはこの4年間の私の戦いの武器でした。その戦いの中で、多くの方々からご激励や貴重なアドバイスをいただきました。メールを差し上げる方のお名前を書込むと、その方からメールをいただいた時のことが思い出され、一つひとつに追伸を記しますと、なかなか先に進みませんでした 。でも、どうしても一言書かざるを得ないように思い、それで5日間もかかったのです。

    メールをお送りした方々の中には、面識のある方々もおられますが、大半はメールだけのお付き合いしかない方々です。でも、ギリギリの戦いをしている時にいただいたメールというのは、感激しましたし、その時の印象がはっきりと残っています。ですから、一つのメールを打つのにけっこう時間がかかるのです。疲れはしましたが、この4年間を振り返るいい機会でしたし、改めて感謝を申し上げることもできました。

    これまでに何度か、「政治の世界では、まだインターネットはバーチャルな域を脱していないのではないか。政治の中で、インターネットが果たせる役割というものについて私はあまり楽観的にはなれない」といってきましたが、今回のこの仕事をやり終えて思うことは、少なくとも110万を超えるアクセスのあるWebサイトは決してバーチャルではなかったということでした。私はWebサイトに掲載するものを書く時は、いつも1000〜2000人くらいの講堂で話すような気持で書いております(ですから、どうしても裃を着けたものになってしまうのですが…)。

    今回のメールを差し上げる過程で、私のサイトを観て下さる方々のお顔や表情や考え方がかなり分ったような気がします。これからも、皆さんからいただくメールでそれを掴みながら、できるだけ価値あることを書いていきたいと肝に銘じています。今回のメール作業は私にとってたいへん意味のあるものでした。

    こんな事情で、前回お約束した大臣についての論評は書くことができませんでした。「残りの大臣については次回(念のために以降といっておきましょうか)」と書いておいて助かりました。口約(?)違反になりませんでした。何でも慎重にしておかなければなりませんね。いままでの私にはこの慎重さが欠けていたのです。それでいろいろ苦労しなければならなかったのです。でも、政治家はかりそめにも「口」にしたことは守らなければならないのです。冒頭で述べたこともこのことに尽きます。「綸言汗の如し」という矜持が、いまの政治家にいちばん欠けているのです。だから、政治が面白くなくなったのです。

08:10   東京の寓居にて

白川勝彦

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2004年10月15日
No.212

改造人事について(その2)

  1. 東京は、久しぶりに朝から快晴です。このような快晴は、1週間ぶりです。本来ならば秋晴れが続かなければならない10月に、1週間もどんよりした天気が続いたのはめずらしいのではないでしょうか。口癖の「爽やかな秋晴れ」にかなうものは、ありませんね。

    さすがに、東京でも朝晩はだいぶ冷え込むようになってきましたね。昨日例の散歩をした際、露出している手が冷たく感じました。「明日からは手袋をしなければならないなぁ」と感じたくらいですから。もっとも、今日はいろいろと仕事があって、散歩は午後になりますから、手袋は必要ないと思いますが…。いや、そもそも私は手袋というものを持っていないので、散歩に出かけた時に買わなければなりません。もちろん、軍手ですが。

    写真「選挙本番では、いつも軍手」軍手?と思う方もおられるかもしれませんが、軍手にかなうものはありませんよ。庭仕事やちょっとした作業をする時、軍手をしないと、すぐ手に怪我をしてしまいます。ですから、農家の方や建設作業にたずさわる方は、作業にかかる前に、まず軍手です。力仕事をする人は、皆そうです。軍手をしただけで“さあ仕事"という気分が高まってきます。

    私は、選挙本番で街宣車に乗る時は、いつも軍手です。選挙が力仕事というわけではありませんが、私はいつも軍手です。街宣車は遠くの人も見ます。ですから、候補者が声援に応えていることをはっきりと見えるようにするために、手袋をつけておいた方がいいのです。でも、私は近くの人や街宣車に駆け寄ってくる方々には必ず握手をします。この時、私は必ず手袋をはずします。だから軍手が一番いいのです。なぜかというと、軍手はとるのも着けるのもいたって簡単だからです。

    写真「握手は手袋を外して」綿の洒落た白い手袋もありますが、これは男の手にはちょっと小さすぎて、着けたりはずしたりするのが素早くできません。この洒落た手袋をはめて、天皇陛下みたいに上品に手を振るのが選挙と思っている候補者がいます。なかには、手袋をはめたまま握手をする人がけっこういますが、私は何か勘違いしているのではないかと思います。天皇陛下や皇族はいちいち握手などしませんし、手袋をはめたままの握手は、正装をした淑女のマナーだけだと私は思っています。応援にいった若い候補者などには、私はいつも、このことをきつく注意しました。

  2. 臨時国会が始まりました。NHKは国会中継をしていますが、私はまったくみる気が起こりません。いまだかつてこんなことはなかったのですが、小泉首相にも、野党にもまったく期待できることがないからです。「政治は一寸先は闇」といわれますが、日本の最近の政治には、こうした緊張感などまったくありません。

    「政権交代、政権交代!」という言葉は確かによく耳にします。しかし、政権交代とは昔の合戦でいえば、敵の本丸を奪うということです。城攻めというのは、合戦の中でも一番たいへんなのです。多くの犠牲を覚悟して行なうのです。攻める側も攻められる側も、まさに乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負なのです。こうした覚悟で国会に臨まなければならないのですが、そのような気迫は与野党にまったく感じられません。そんなものをみたって仕方ないじゃないですか。そういうことです。

    さて、宿題にしていた閣僚に対する論評をしなければならないとずっと思っていたのですが、他の話題の方を書きたかったのでつい延び延びになってしまいました。いまさらという方もおられるでしょうし、私もあまり意欲が湧かないことですが、やりかけた仕事ですからやはりやり遂げておきましょう。それに物事は、少し時間をおいてからみるということも大事なことですし、また各大臣の出番はいよいよこれからなのですから、何かの参考にはなるでしょう。

    しかし、すべての閣僚についてこの前みたいに述べるのは正直にいってちょっと辛いですし、またそれだけの価値があるとも思えませんので、共同通信の大臣評をまず(共同通信社マーク)共同評印で紹介し、その後に白川コメント印で私のコメントを付け加えることにします。

    なお、これから述べる方々には、もう4年以上あっていません。男子三日会わざればカツ目して見るべしという言葉があります。しかし、三つ子の魂百までという言葉もあります。私がこれから述べる大臣についての人物評は、選挙という、政治家にとって一番大切なことに関連して接触をもった時の印象を中心に、かつてのお付き合いを加味しての私のコメントです。

  3. 新しい大臣について
    • 中山 成彬 (なかやま・なりあき)文部科学大臣(初)

      (共同通信社マーク)共同評大卒業後に旧大蔵省入りし、世界銀行への出向経験もある国際派。経済・財政分野だけでなく、防衛、農林、文教各分野にも精通、空手四という武道家でもある。北朝鮮による拉致問題担当の中山恭子内閣官房参与の「夫」と紹介されることが多いだけに、待望の初入閣で妻に匹敵する存在感を示せるかどうか。61歳。宮崎県出身。衆院当選5回。(森派) http://www.nakayamanariaki.com/

      白川コメント個人的な付き合いはあまりありませんでしたが、穏やかな人柄と筋道を立てた言動を通す政治家です。最初に施行された平成8年の総選挙の時、中山氏には立候補する選挙区がありませんでした。平成5年の選挙で落選していたため、宮崎県の3つの小選挙区にはそれぞれ自民党の現職が公認されていたからです。

      中山氏から九州ブロックの当選確実な比例区候補として処遇してほしい、でなければ宮崎2区から新進党で立候補する道を真剣に考えなければならないということをいわれました。当時、私は選挙の事務的な責任者の総務局長をしていました。私はこういう人にはぜひ自民党で頑張ってもらいたいと思い、そう短兵急に考えるなと何度も話しました。しかし、当選確実な順位の比例区で処遇するということはどうしても約束できませんでした。比例区で当選確実な順位で処遇するというのは、現職同士がバッテングする場合以外は認めないというのが大原則でしたから。

      私は何度も中山氏と会い、当選確実な順位を保障することはできないが私も最大限努力するので、あなたも党員の募集をはじめとして1区の大原一三候補、2区の江藤隆美候補の当選のために全力を尽くしてもらいたいとお願いしました。最後は中山氏もこの方向で納得し、最大限の努力をしました。

      ところが、平成8年の選挙直前に当時農水大臣をしていた大原一三氏が病気で倒れ、小選挙区では戦えないということで中山氏は1区から立候補できたのです。厳しい戦いでした。でも、結果は次のとおりでした。

      宮崎1区
      得票数 候補名 党派等
      78,145
      中山 成彬
      自元
      75,152
      米沢 隆
      進前
      23,730
      松浦 利尚
      社元
      12,025
      長友 ちか
      共新
      913
      椎葉 憲一
      連新

      自民党が野党になり、選挙制度が変わり、浪人中という苦境の中で、政治家としてギリギリのお付きあいをしました。もし、この時、中山氏が短気を起こして新進党にいっていれば、中山氏の今日はなかったでしょう。政治家の判断というのは難しいものです。

    • 尾辻 秀久 (おつじ・ひでひさ)厚生労働大臣(初)

      (共同通信社マーク)共同評財務副大臣や総務政務次官などを歴任した。日本遺族会副会長を務め戦後処理問題や、ドミニカ共和国への日本人移民問題などに熱心に取り組む。防衛大在学中に母を亡くし、妹の面倒を見るため帰郷。その後東大に入学し、学生時代に世界70数カ国を旅した行動派でもある。温厚で誠実な人柄で知られるが、頑固な一面も。63歳。鹿児島県出身。参院当選3回。(旧橋本派) http://www.otsuji.gr.jp/

      白川コメント時の小淵首相や自民党執行部(森喜郎氏が幹事長でした)が自自公連立にまっしぐらに走り出していた1999年8月13日、私たちは「公明党との連立内閣に関する意見書」を自民党国会議員19名の連名で発表しました。

      私たちは、100名くらいの賛同をいただけそうな人たちに話しかけましたが「選挙で創価学会を敵に回したくない」「派閥の親分が小淵支持、自公賛成だから勘弁してくれ」「私は今回どうしても大臣(政務次官)になりたいから勘弁してくれ」など様ざまの理由でたった19名の決死隊だけでこの意見書を発表したのですが、その中の唯ひとりの参議院議員が尾辻氏でした。

      当時、参議院は村上天皇と呼ばれるほど、村上正邦議員が権勢をふるっていました。もちろん、村上天皇は自公連立推進派だった訳です。尾辻氏の政治活動が困難になっても困りますから、「尾辻先生、あなた一人しか参議院ではいないのだから意見書の名簿から外そうか」と私はいったのですが、「白川さん、いいよ。これは私の信念ですから」と事もなげにこたえました。

      さすが防衛大学校出身だけのことはあるなーと感じ入った次第です。尾辻氏とはそういう人です。

      厚生労働省は、いまや伏魔殿的なところが目立ちます。尾辻大臣は一見地味に見えますが、このように腹のすわったところがありますから、官僚が舐めてかかったらたいへんなことになるでしょう。また、いくつかの点でバッサリとやって貰いたいことが、厚生労働省にはあります。期待したいと思います。尾辻氏はお父さんを戦争で亡くしている、苦労人です。

    • 島村 宜伸 (しまむら・よしのぶ)農林水産大臣(2回)

      (共同通信社マーク)共同評農相就任は橋本内閣当時に続き2度目。東京下町育ちの明るい性格で、べらんめえ調で本音を語る論客として知られる。村山内閣の文相当時、日本の戦争責任に関し「いちいち謝罪するのはいかがなものか」と失言、物議を醸したことも。故島村一郎元衆院議員を父に持つ二世議員。中曽根康弘元首相の秘書を経て国政入りした。70歳。東京都出身。衆院当選8回。(亀井派) http://www.shimamura-yoshinobu.com/

      白川コメント私よりも1期先輩(昭和51年初当選)のため、いろいろなところで一緒に活動する機会がありました。甲高いちょっとカスれた感じ(ハスキーとはちがいますね)の声でよくしゃべります。話が上手で、退屈をさせません。こういうのを江戸ッ子というのでしょうか。

      平成5年の総選挙で自民党が野党になった時、「民主政治研究会」を発足させ、山崎正友氏などを呼んで勉強会を精力的にやったのが島村氏でした。私が創価学会問題を考えるようになったのは、島村氏が代表を務めるこの会がキッカケでした。いま、島村氏は自公連立の問題をどう考えているのか聴いたことはありません。尾辻氏のところでのべた意見書には名前はありません。

    • 中川 昭一 (なかがわ・しょういち)経済産業大臣(留任)

      (共同通信社マーク)共同評農相を務めた故中川一郎氏の長男で、父親の遺志を継ぎ銀行員から政界入り。党内きっての農水族だが、昨年の内閣改造で経産相に就任し、自由貿易協定(FTA)推進に尽力。政治家として幅を広げた。懸案だったメキシコとのFTA締結を粘り強い交渉でまとめた実績が認められ留任した。超党派の拉致救出議連会長も務めた。51歳。北海道出身。衆院当選7回。(亀井派) http://www.kantei.go.jp/jp/koizumidaijin/031119/09nakagawa.html

      白川コメント初当選の時期がだいぶ違いますし、年齢もかなり違いますので、大学も同じなのですが中川氏とはほとんど付き合いはありませんでした。お父さんは青嵐会の代表的政治家で、いわゆるタカ派と呼ばれる政治家でした。そして、それがまたサマになっていました。

      このお父さんのイメージを引き継がなければならないと思っているのかどうか分りませんが、政治的なスタンスは一貫してタカ派的でしたね。でも端正な顔立ちと若さが災いしてか、お父さんのようにあまりサマにはなっていませんがね。年齢的にも経歴からいっても十分に自民党のリーダーを狙える立場にいるのですが、日本のリーダーをめざす以上、歴史的認識や思想的にあまり偏っているとそれが障碍になるのではないかと私は思います。

    • 北側 一雄 (きたがわ・かずお)国土交通大臣(初)

      (共同通信社マーク)共同評弁護士時代は消費者金融や悪徳商法の被害対策に奔走。庶民の目線に立った「現場主義」は政治家になっても変わらない。選挙区は違うが、父・義一氏も衆院議員を六期務めた。創価大一期生で「クールな論客」が評。野党時代は金権疑惑を鋭く追及。連立政権入り後も納得できなければ自民党議員と激論する場面も。サウナがストレス解消法。51歳。大阪府出身。衆院当選5回。(公明党) http://www.kitagawa-sakai.org/

      白川コメント個人的にはまったく付き合いがありませんから、その人となりなどを語る資格は私にはありません。でも、一度「朝まで生テレビ」だと思うのですが、公明党問題についての番組で議論したことがあるような気がします。その時の印象として、少なくとも「クールな論客」という印象は受けませんでした。むしろその逆という気がしました。前の公明党出身の坂口厚生労働大臣に比べれば、はるかに党派性を強くもった大臣だと思います。もちろん公明党としての党派性のことです。

      今回小泉首相は、人事について他の人には一切相談しなかったといわれてますが、公明党とだけはシッカリと話し合っているのですよね 。どうしてマスコミはこのことを指摘しないのでしょうか。公明党が今回要求した大臣ポストは経済産業大臣か国土交通大臣でした。私はこれを聴いた時、公明党もいよいよ本丸に手を入れてきたなと思いました。

      経済産業大臣は、日本の経済界に対する影響力を狙ってのことでしょう。国土交通大臣は、自民党の選挙基盤そのものに手を入れることを狙ってのことでしょう。そして、小泉首相は公明党に後者を与えました 。自民党の選挙を支えるのは、都市部は別として地方ではなんだかんだといっても建設業界なのです。自民党も最後はいつもこれを頼りにして選挙をやってきました。

      特定郵便局長会は自民党の最大の選挙マシーンだといわれていますが、選挙の実態を知っている者としては建設業界の力に比べればそれは問題になりません。建設業界こそ自民党の選挙マシーンなのです。ですから、建設業界のウェイトが少ない都市部では自民党は選挙に勝てなくなったのです。こういう地域にもちゃんと特定郵便局はあるのですから、もしこれが自民党の本当の選挙マシーンだとしたら、都市部に弱い自民党にはならないハズです。

      これまでも、東京都や大阪府などでは、議会に多くの議員がいるために、公明党は建設業界にかなりの影響力をもっていました。しかし、議会レベルでみるかぎり、地方では公明党の勢力は決して強くありません。新潟県をみても、県議会では公明党の議員は1人しかいませんし、ほとんどの市議会で1〜2人くらいです。ですから、建設業界は自民党の選挙マシーンでいられたのです。しかし、「これからはそうはいきませんよ」という創価学会・公明党のメッセージが、今回の国土交通大臣の要求だったのです。

      市議会くらいになれば、ほとんどのところに公明党の地方議員がおります。市としては、相変わらず国土交通省に陳情せざるを得ません。市町村として国土交通大臣に直接陳情したかったら、公明党の議員を窓口にしなければできないなどといった、党派性を発揮しなければいいのですがねぇ。北川大臣はその経歴からしても、党派性の極めて強い人ですから、要注意です。

      それから、旧建設省だけでなく旧運輸省も、港湾や空港などの公共事業をたくさん持っている役所なのです。日本の公共事業の大半を支配する巨大官庁のトップを手に入れた創価学会・公明党がこれからどうするか、そして、大事な選挙マシーンに手を入れられた自民党がどうなるか、注目しておく必要があります。

  4. 簡単に済まそうと思ったのですが、こうして書き始めるとけっこう長くなりますね。書く方もけっこう疲れますが、読む方もそろそろ飽きたのではないでしょうか。ですから、残りの大臣については次回(念のために以降といっておきましょうか)とさせていただきます。

    それにしても、今回の党・内閣の改造に対する世間の評価は低いですね。このように一人ひとりの大臣をみてみると、そんなにおかしな人選ではないのですが…。新しい内閣全体の印象が国民からみたら、ちょっとフィーリングと違うというところに、私は最大の原因があるのだと思っています。だってこの内閣は郵政民営化実現内閣だというのでしょう。でも郵政民営化に期待する国民は2パーセントにすぎないという世論調査の結果を、ある新聞が報じていました。これじゃ、国民の期待が新しい内閣に集まるはずはありません。

    「郵政民営化こそ小泉構造改革の本丸だ」と、小泉首相は力説しています。しかし、「小泉首相が考えていた構造改革とは、そんなものに過ぎなかったのか」と感じている国民が多いのではないでしょうか。国民は、細かいことは知らなくても、事の本質をチャンと見抜き始めているのだと私は思います。小泉内閣が発足した当初から、「小泉首相が構造改革だといっていることは旧大蔵省が考えてきたことだし、小泉首相の発想は大蔵族も発想そのものにすぎない」と、私は執拗にいってきました。これは、現在に至るも、まったく変わりませんね。

    郵政公社を民間会社にすれば、30万人近くの国家公務員は確かになくなります。しかし、現在も郵政省の職員の給与は、郵政特別会計でまかなわれているのであり、郵政三事業にたずさわる職員の給与には、税金は投入されていないのです。この点は、一般の公務員の場合と違うのです。国民が求める構造改革のひとつに行政改革が強くあるのですが、行政本体について、小泉首相はまったくメスを入れる気がないのです。派手なパフォーマンスはありますが、所詮はすべて役人任せなのです。ですから、構造改革といっても、役人は自らの身や骨を切る行政改革をやろうなどという案は、決して首相へは上げないのです。税金でその給与を賄っている公務員をどう減らすかという根本問題は、話題にすらなっていないのが実状です。

    ところで、いまテレビ放送について小論文を書いています。来週にはサイトにその一部を掲載します。NHKの不祥事が問題になっていますが、日本の政治や経済や社会や文化に大きな影響をもつ放送やマスコミについて、論評が少なすぎると思います。そして、第四の権力といわれるこの巨大権力も、自らを改革することは消極的です。そんな問題意識から、いま、コツコツと書いているところです。乞う、ご期待。

15:00   東京の寓居にて

白川勝彦

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2004年10月12日
No.211

大量破壊兵器と、韓国のデモ

  1. 台風一過という言葉がありますが、少なくとも、東京はこの三連休、お天気には恵まれませんでした。運動会をはじめ、この季節はいろいろな催物があるのですが、関係者の皆さんはご苦労が多かったのではないかと、お察しいたします。しかし、私は、こんな天気ではありましたが、1日として欠かすことなく散歩しています。散歩をはじめてから20日以上経ちますが、新潟に行った3日以外は、1日もサボっていません。最近は、散歩に出かけるのが楽しくてたまりません。でも、生来の怠け癖がありますから、いつおかしくなるか分りません。この習慣が身に付くまでは、心してやろうと思っています。

    ジョギングも、昔やってことがあります。皇居一周ですが、国会議員の場合、時間が取れるのは午後4時から6時くらいの時間帯が多いのです。週に2回くらいやっていた時もあったのですが、お医者さんに「その時間帯、皇居周辺は空気が一番悪いから止めなさい」といわれて、これをモッケの幸いにして止めてしまいました。いまも本当はジョギングの方がいいのでしょうが、これはちょっと辛いので、散歩にしています。辛いことというのは、しょせん長続きしませんから。ジョギングに比べれば、運動としては軽い運動なんですが、いまやっているような散歩ならば、辛いという気が全然しません。それに散歩の場合は、いろいろなことを考えながらできます。「日々是考日」のいまの私には、ジョギングより、いまやっている散歩の方が向いていると思っています。

    平均1時間ちょっと、時間の許す時は2時間くらい散歩するのですが、体重の方はほとんど減りません。4〜5キロくらいはすぐ減るだろうと期待していたのですが、そうは問屋がおろしませんね。減量は、やはり食事制限をしなければダメなのでしょう。10キロくらいの減量は、2〜3回やったことがありますので、それなりの自信はあるのですが、いまは減量ではなく、体力の向上を重視しています。「健全な精神は、健全な肉体に宿る」ということは、健全な肉体を作ることが健全な精神をもつことにつながると考えるからです。健全な精神を作るということはなかなかたいへんですが、健全な肉体は、プログラムをキチンと立てこれを実行すれば比較的確実に作れますから、まずはこれに努めているところです。

    また、先週1週間かけて、ピロリ菌の除菌をしました。正しくは、ヘリコバクター・ピロリ菌というのだそうですが、胃の中に存在する細菌です。これは胃潰瘍や十二指腸潰瘍を引き起こす一つの原因になる細菌なのだそうです。私は胃液が強いため、胃潰瘍になりやすい体質なのです。これまでにも、何度か胃潰瘍ができました。その都度、ピロリ菌を除菌しなさいといわれていたのですが、ついサボっていたのです。今年の夏できた胃潰瘍は、だいぶ大きく相当に苦しみましたので、今回は、お医者さんのいうことに従ったのです。7日間キチンと薬(抗生物質)をのみましたので、多分退治できたでしょう。検便で検査するそうです。

    胃潰瘍の方はだいぶ良くなっているのだと思いますが、けっこう大きな潰瘍だったので、もう少し続けなければなりません。昔、胃の日本の権威という先生に診てもらったのですが、私の場合、胃液が非常に強いので、自分の胃液で自分の胃を傷つけてしまうのだそうです。よく「寝る前に物を食べてはいけない」といわれますが、私の場合は胃を完全にカラにするのは良くないそうです。牛乳とかゆで卵とか消化の悪いものを少しお腹に入れてから寝た方がいいのだそうで、これ幸いに夜食を食べてきたのが、いままでの私の生活でした。これからは、これも注意していこうと思っています。

    要するに、私の胃は元気過ぎるから、いまは気を付けないといけないのです。年をとると胃の元気もなくなり、普通の人の場合は胃弱気味になるのだそうですが、私の場合は、そのころちょうど良くなるのだそうです。それがいつ頃なのか分りませんが、まだ私の胃は元気過ぎるのでしょう。元気過ぎるということは、まだまだ若い証拠ですから、このことに自信をもって(?)万事においてガンバリたいと思っています。

  2. 先週のニュースで一番大きかったものは、何といってもアメリカのCIAがイラク戦争の開戦時、「イラクには、大量破壊兵器は存在しなかったし、その開発計画もなかった」と発表したことでしょう。少なくとも一国に対して戦争を仕掛けた最大の名目が事実でなかったのですから、これは大問題でしょう。でも、アメリカでも日本でも問題にはなっていますが、「大問題」には残念ながらなっていませんよね。ブッシュ大統領は「事実の間違いであって、判断には間違いはなかった」などといっていますが、戦争の前提の事実の間違いは、こんなレトリックで言い逃れることはできないと、私は思います。

    イラク戦争で、一体どのくらいのイラク国民、一般人が殺されたのでしょう。一説には13,182〜15,248人。その人たちの霊はうかばれないでしょう。イラク人が反米になるのは当然です。ましてや、戦争の口実となった大量破壊兵器が存在しなかったともなれば、その反米意識はますます強まっていくことでしょう。フセイン政権を崩壊させ、自由で民主的なイラクになったといいますが、ある国の政治体制はその国自身の問題であり、いかなる名目であれ、他国がこれを武力で崩壊させたり干渉してはならないのです。これは、第二次世界大戦以降の国際的常識です。ブッシュ大統領は「フセインからイラク国民を解放した」と力説しますが、おかしいのです。でも、これをおかしいという政治家や政治評論家は、ほんの少しですね。わが国の政治は、完全におかしくなっていますよ。

    要するに、わが国の政治は、最近では原理・原則をないがしろにしているのです。問題が複雑多岐になればなるほど、原理・原則に立ち返って対処しなければなりません。そうしないと後で、取り返しのつかないことになります。赤字国債を野放図に発行してきたことが、今日の財政破綻の原因です。私の政治の師――大平正芳総理は、自らが大蔵大臣の時に赤字国債を発行した責任を痛感し、これを可及的速やかに解消するために、選挙で不利となることは百も承知で一般消費税の導入に言及しました。私が衆議院に初当選した、昭和54年の総選挙のことです。

    テロ特措法もそうでしょう。わが国の憲法は「戦争はしない」と定めているのです。テロに対する戦争だろうが、どんな高尚な名分を掲げた戦争だろうが、戦争はしないし、戦争には協力しないというのが、憲法が定める原理・原則なのです。私は、PKO法案が議論されていたころ、PKO法案は憲法との関係ではあまり問題はないと考えていました。PKO活動は、自衛隊が海外に行くことは事実なのですが、国権の発動としての戦争という要素がないからです。そのころの社会党などの主張は、自衛隊が海外に行くという外形的事実を海外派兵と捉え、反対しているに過ぎないと思いました。しかし、テロ特措法は違います。戦争には、最前線の武力も後方の武力も兵站も、しょせんは相手方の武力なのです。武力攻撃は好ましくないが、後方支援ならば戦争に参加・協力したことにはならないなどいうのは、それこそ平和ボケした軍事関係者の詭弁にすぎないのです。

    イラク戦争は、本当に終ったのでしょうか。ファルージャをはじめとしてイラク各地で、アメリカ軍は反米武装勢力に武力攻撃を行なっています。これはいかなる法的根拠に基づいて行なっている武力攻撃なのでしょうか。戦争が終ったというのならば、それはイラクの法律に基づいたものでなければならないでしょう。主権は移譲されたというのですから、イラクの国内法に基づきイラク政府の指揮下で行なわれるものでなければなりません。これらの点をまったく無視した軍事攻撃なのです。もし、法的に何らかの根拠をつけようというのなら、戦争をもちだすしかないでしょう。戦争なら、人を殺しても建物を破壊しても、戦争だからという法的根拠を与えられます。法的根拠といっても、戦争に勝ちさえすれば、少なくとも殺人罪や建造物損壊罪に問われることはないという、消極的な意味しかありませんが…。

    「アメリカの武力攻撃が続いている限り、イラク戦争は終ってはいない」── この永田町徒然草でも財界展望の「日本を斬る」でも、私は口を酸っぱくして何度も執拗にこう述べてきました。軍事占領は戦争の最終段階としてやることであって、講和条約で軍事占領が認められない以上、それはまだ戦争の最終的形態にすぎないのです。一方では戦争をしながら、あるいは戦争に協力しながら、人道的な復興支援などというのは、論理矛盾です。それは軍事占領そのものであり、軍事占領の補完そのものなのです。戦争であり軍事占領であれ、それは相手国の国民の尊厳を侵かす、もっとも非人道的なことだという認識が、アメリカにもわが国の政府にもないのです。

  3. 先週接したニュースの中で、私を複雑な気持にさせたのは、韓国の政府が売春の取締りのを強化したことに対して、2000人ものフーゾク嬢が抗議のデモをしたというニュースでした。私は韓国には30数年前から何度も行っておりますので、韓国のフーゾク事情はよく知っています。しかし、いまなお生活のために売春をせざるを得ないのだという状態 ── フーゾク嬢がそういうことを堂々という世相に、私は驚きました。少なくとも、この10数年近くの韓国の経済発展をみている限り、こういう状態はなくなっていると思うのですが…。しかし、私たちの知ることができないところで、まだまた韓国は複雑な事情を抱えているのかもしれないとも感じました。

    日本にも春を売ることを「なりわい」としている多くの女性がかなりいます。ソープランド嬢などは、その典型でしょう。最近は、ソープランドの手入れなどあまり聞きませんが、それでも、時々は行なわれているのでしょう。でも、日本でこうした取締りを強化したとしても、そうした女性たちがデモをするとは思われません。自分がそうしたことをしなければ家族が生きていけないといっても、誰もそうは思いませんし、必ずしも、そういう事情からそのようななりわいについているばかりでもないでしょうから。

    売春は「人類最古の営業」といわれています。まだまだ発展途上国では、悲惨な現状が多くあります。最後はエイズに冒され、死を余儀なくされる薄幸な女性が多くおります。わが国でも、昭和20年までは、娘の「身売り」という風潮が、貧しい農村部にはありました。戦後の農地解放の結果、貧しいからといって娘を身売りするという悲しい悪習はなくなりました。少なくとも私が育った新潟県では、戦後は耳にしていません。こういう面からみても、農地解放というのは、まさに革命的出来事だったのです。小作農から自作農に転じた農民は農業生産を高め、食料危機から国民を救い、豊かになった農村が日本経済の発展の基盤となったのです。そうした中で、戦後民主主義が花開いていったのです。

    私はそうした雰囲気のある準農村で育ちました。戦後民主主義は単なる言葉ではなく、多くの国民が肌でその熱気を感じながら、政治的にも経済的にも社会的にも文化的にも成長していったのです。そして、日本という国は新しく生まれ変わり、戦前とは全く違った国の形を作ってきたのです。確かに一部の特権階級には、戦後は好ましくなかったかもしれません。でもそんな人たちは国民のほんの一部にすぎません。ですから、戦後民主主義は、肯定すべき実態のあるひとつの革命なのです。だから、私は戦後民主主義の子であることを誇りに思っているのです。

    戦後民主主義の根底に、日本国憲法の制定があったことはいうまでもありません。その経過がどうであれ、一度制定した憲法は憲法であり、制定に深く関与したアメリカといえどもこれを尊重せざるを得なかったのです。いまや憲法を護るなどというと変わり者のように思われていますが、日本国憲法がなければ日本は今日の発展を手にいれることは決してできなかったでしょう。憲法改正論者は、戦後民主主義をボロクソにいいますが、戦後民主主義は世界でももっとも成功した民主主義革命であり、自由主義革命だと思います。すべての革命に完全なものなどありません。いかなる革命もその指導者の思い通りにはいかないものです。特に自由主義革命の場合は。

    韓国のフーゾク嬢のデモの話からだいぶ話は大きくなりましたが、こういうことです。韓国では、日本のような本格的な農地解放は行なわれませんでした。韓国経済の底が浅いとすれば、ここに一つの大きな原因があるのでしょう。いずれにせよ、これからは憲法改正問題、戦後民主主義の総括が大きな政治のテーマとなります。保守政治家でありながら、一貫して現在の憲法を高く評価してきた者として、またその歴史を肌で感じてながらみてきた者として、私に与えられた責任だけは果たさなければならないと感ずる今日この頃です。

06:10   東京の寓居にて

白川勝彦

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2004年10月7日
No.210

イチローと知事選

  1. イチローがついに年間最多安打の大リーグ記録を樹立しました。久々に日本国民の圧倒的大多数が、感動し痛快に感じた快挙ではないでしょうか。

    「イチロー選手、大記録達成おめでとう。ここらから敬意を表すると同時に祝福いたします」

    ── 素直にこういいたいと思います。

    そこで、私はこの前紹介した平成海援隊BBS 政治論議室」に、「あなたは、イチローとJ・Fケリーのどこが好きか」というスレッドを立てさせてもらったところ、いろいろな興味あるまた参考になるレスをいただきました。以下に、そのBBSでのやりとりの中での私の書込みの一部を紹介します。

    今日(10月2日)、私は東京から新潟にきていろいろ仕事をしていたものですから、イチローが大リーグ記録を更新したことは知っていたのですが、じっくりとテレビでそのニュースを見ることが出来ませんでした。夜9時半過ぎからやっとテレビでこのニュースやら報道を見ることが出来ました 。でも観た番組は、イチロー凄い、イチロー立派というだけで、イチローのどこが凄いのか、このイチローの快挙を誰がどのように受け止めたのかという視点が全然ありませんでした。このBBSで皆さんが触れたような視点は少なくとも全くありませんでした。

    >球場の万雷の拍手。

    アメリカ人の記録を日本人が塗り替えたことに何の違和感もなく、祝福する球場の観客や選手達、そしてイチローに真っ向から勝負した相手投手のフェアプレー精神に良きアメリカを久しぶりに思い出したような気がしています。

    ニライカナイさんのこのご指摘、同感です。私は最近アメリカのことをいろいろと批判していますが、それは9・11以降ブッシュ大統領がやっていることを批判・非難しているのであって、なにも最初から反米でも嫌米でもないのです。アメリカにもアメリカ人にもいいところはいっぱいあるのです。でも相手チームがイチローに祝福を送りこれにイチローが応える映像は残念ながら観ることはできませんでした。私はこういうところが観たかったですね。

    さて、イチローとケリーのどこが好きですかというスレッドを立てながら、私の意見や感想を書かなかったのは、実はイチローについてもケリーについてもそれを披瀝するほど本当に知らないからです。でもこれじゃあまりにも無責任という気がしますので、ちょっとだけ書かせてもらいます。

    私がイチローや松井に好感をもつのは、この二人には変なパフォーマンスのかけらもないところです。この二人もテレビによく映りますが、正直いってその話や話し振りはまったくおもしろくありません。それに比べ、最近私たちが見せられる政治家やスポーツの選手や芸能人の映像は変なパフォーマンスが多すぎます。私にいわせれば、ダサイ感じです。そのダサいパフォーマンスをあえて放映するのは、テレビ局としてはそれがいいと思っているからでしょう 。

    しかし、この二人のインタビューや会見は全然面白くも可笑しくもありません。この二人には、面白い気の効いた話をしようなどという気が全然ないのでしょう。要は、野球のプレーでファンが期待する成績を出せばいいんだし、またそれを出すために真剣に努力しているのだと思います。それだけはちゃんと伝わってきます。それでいいのだと思います。私たちはイチローや松井に話家(はなしか)としての上手さを期待しているのではなくて、あくまでも野球で見せてくれるプレーなのです。しばらく前まで4番に据えられながら、ホームランもヒットも打てなかった松井を観ていて私は悲しくなりましたし、松井しっかりせよといいたくなりました。でもどんなに頑張ってもどうしても結果を出すことができないことが勝負にはあるのです。でも必死に努力する。そして結果を出す。それが勝負師なんです。

    イチローは今回大記録を達成しました。でも仮に大記録を達成できなかったとしても淡々と努力しているイチローは好きでした。松井は日本を代表するホームランバッターとして大リーグに行きました。でもその意味でのまだ結果は出していません。でも松井がその期待に応えるべく必死に努力している姿勢やヤンキースの一員として日本を代表する選手として笑われない働きをしなければならないという気持は、彼の話し振りやプレーに感じられます。

    私がみたある試合ではヒットでなかったんですが、一塁への送球が悪かったためにあの松井が走って走って、一点を取ったのが印象的でした。ホームランであろうが相手のエラーであろうが、一点は一点じゃないですか。打で結果を出せなかったら、守走でもいいから必死になって結果を出そうとする、その姿勢に好感が持てました。なお、ここでの松井とは、松井秀喜のことです。念のため。

    政治家にとって大切なのは、話の中味であり、その情熱であり、それを伝える必死の話振りなのです。いまの視聴者は、それをちゃんと見抜ける目を持っています。それなのにダサいパフォーマンスをする政治家を私たちは見せつけられます。それは、テレビ局がそのパフォーマンスがいいと思っているからでしょう。テレビ局の意識・感性の問題でしょう。(以下、省略)

    イチローが大記録達成した翌日は、各マスコミはこのニュース・特集でもちきりだったようですが、私は忙しくてほとんど観れませんでした。けれども、イチローが記者会見で述べた言葉には、私は改めて、ただただ感動しました。

    「私は、日本のプロ野球では中くらいの体格ですが、大リーグでは子供みたいなものです。そんな私でも頑張ればこのような記録をだすことができました。夢を失ってはダメなのです。もし、私の今回のことが多くの子供たちに夢を潰さずに努力する勇気を与えることになれば幸いです。」

    今、手元に新聞がないので若干いい回しは違いますが、そんなに異なっていないと思います。さすがですね。「すごいの一言に尽きるね! 感動した! 永久とはいわないが、当分の間彼以外にこの記録は破られることはないだろうね」というようなことをのたまう大政治家よりも、はるかに知性と見識のある言葉だと思いませんか。相撲ではよく心・技・体といいますが、イチローは、まさにその「心」をもった大リーガーになったのですね。イチロー選手に、改めて心からの敬意と祝意を表します。

  2. もう一つ触れておかなければならないことは、新潟県知事戦(9月30日告示・10月17日投開票)のことです。6人の候補者が今、必死になって戦っています。知事選に6人もが立候補したことは、新潟県でははじめてのことです。「白川、お前は誰を応援しているのか?」という質問もあろうかとは思いますが、この知事選には私なりの思いもあり、またいろいろと事情がありますので、ノーコメントとさせてください。

    しかし、残念なのは、知事選に関しては民主党新潟県連が事実上分裂したことです。旧民主党系の人と旧自由党系の人は別の候補者を応援しています。こんな状態ですですから、自民党推薦、公明党推薦、社民党推薦、共産党推薦の候補はおりますが、民主党推薦の候補は現在のところ(この状態は最後まで変わらないでしょう)いません。新潟県では、全国にさきがけて旧民主党と旧自由党と社民党が協同して選挙を戦い、平成13年の参議院補選、平成15年の衆議院総選挙、さらには、今年の参議院選でも、大きな成果をあげました。

    私が昨年の総選挙で新潟5区から立候補したのも、新潟県の政治の大きな流れを評価し、この流れを拡大・加速するために一人の政治家として、その役割を担わなければならないと思い、また、全国の模範としたかったからでした。長年にわたり命懸けで戦い、いうならば私のすべてを賭けてきた新潟6区ではなく別の選挙区から出るということは、あだやおろそかなことでできることではありません。私としては、政治家のすべてを賭けた行動だったのです。私の行動は新潟県における民主党の大きな躍進に貢献したと確信しています。だから、後悔もしていません。

    こうした新潟県における政治の大きな流れの一つの集約点として今回の知事選があり、民主党が新潟県にしっかりと根を張るためにも、候補の絞り込みは絶対に必要なことなのです。しかし、この知事選において、民主党は意見を集約することができず、別々の候補者を応援しています。このような現在の事態は、残念でなりません。民主党を応援してきた多くの県民も同じ思いでしょう。昨年の衆議院選挙でも今年の参議院選挙でも、比例票でも民主党は新潟県でも第1位でした。

    これは、自民党王国である新潟県においては、革命的と表現しても過言ではない出来事です。平成8年(現在の選挙制度では初めての選挙)の総選挙では、6つの小選挙区のすべてを自民党公認候補が勝ちました。その時の県連会長は私でした。平成12年の総選挙では、5つの小選挙区で自民党候補(一人は無所属でしたが、その後自民党に入りましたので、こういってもいいでしょう)が勝ちました。しかし、平成15年の総選挙では、自民党公認候補は2つしか勝てませんでした。これをみれば、私が「革命的」といったことがご理解いただけると思います。

    民主党は、口を開けば「政権交代、政権交代」といいます。都道府県における知事選挙は、その都道府県における政権をかけた選挙といってよいでしょう。国の政権交代を主張する以上は、都道府県における政権交代も、常に命懸けで考えなければならないことなのです。民主党がいう官僚支配は、何も国だけではなく、地方政府においても深刻な問題です。私にいわせれば、国と同じくらい深刻な問題です。政権をめざす政党は、少なくとも知事選くらいはいつも視野において日常活動を行ない、知事選には、公認もしくは推薦候補を出さなければ、看板に偽りありといわれてもしょうがないでしょう。今回の新潟県における知事選の民主党本部(知事候補の公認・推薦は党本部の権限)および民主党新潟県連の対応は、その意味で残念なこと…いや、残念というより、この政党のレーゾンデートルが問われる、深刻な事態なのです。イチローの快挙に比し、こちらは痛恨な事態です。

06:30   長野県の高原ホテルにて

白川勝彦

raison d'etre (仏語) 存在理由・存在価値 [reason + of (for) + to be] [戻る]

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2004年10月1日
No.209

改造人事などについて

  1. Webサイトのキャッチフレーズを変えたのですから、この「永田町徒然草」のネーミングも変えようかと思っているのですが、適当なものがいまのところ思い浮かばないものですからもう少しこのままでいくことをお許し下さい。まあ、そんなことですから今回の党・内閣の改造からまず述べてみたいと思います。

    正直いってあまり論評する気も起きないのですが、それじゃ話にならないのでちょっと気になることを述べてみます。まず最初にマスコミは今回の改造のサプライズはなんだろうかなどということをいろいろと詮索しておりましたが、一番大切なことに全く触れていません。小泉首相は、その就任直後に「一内閣・一閣僚」といったはずです。そういって第一次小泉内閣を発足させたのです。これは、一つの見識だと私は思っていました。国民の多くが「たった派閥順送りでたった1年くらいしかしない大臣に一体何ができるのか」という思っていました。もし官僚主導の行政を政治家主導の行政に変えたいならば、見識と実力をもった政治家を各省庁のトップ(大臣)に据えなければそれはできることではありません。そして、そのような大臣ならばきっと劇的に各省庁のこれまでのやり方を変えることができると私は思っています。

    ですから「一内閣・一閣僚」というのは、一つの見識なんです。小泉首相のこの大原則はどうなったのか、そういう視点から今回の改造人事を論及した社説やコメントがマスコミにまったくなかったのが不思議でなりません。わが国の国民もマスコミも一時的には熱狂しますが、忘れやすく冷めやすいのです。しかし、政治や政治家を論評する場合、もっとしつっこさが必要なのです。言換えれると政治や政治家の一貫性を追及することは大切なことなのです。一貫性のない政治や政治家は、やはりどこかに大きな問題があります。一貫性のない政治や政治家は、本当の理想や信念がないことを自白している証拠なのです。

    今回発表された閣僚名簿をみると第一次小泉内閣から大臣を務めているのは、竹中平蔵経済財政・郵政民営化担当大臣だけです。その竹中氏にして直前までは、金融担当の大臣だったはずです。経済財政→金融→郵政民営化、一見関連しているようですが、率直にいってその所管は違います。また省庁のトップでないためにストレートに行政を変える訳にはいきません。小泉首相がいった「一内閣・一閣僚」は看板に偽りありということになります。

    司法修習生の時、ある検察官にこう教わりました。「詐欺師かどうか見分けるために必要なことは、被疑者の供述に一貫性があるかどうかということなんだ。そのためには、同じことを時間をおいてまた角度を変えて何度も何度も質問して被疑者の供述をとるんだ。そうすると同じようにみえてもどこか違ったことをいう。その矛盾を突いていくんだ」 私は検察官にはなりませんでしたが、これは政治家としていろんな人と付き合う時、大変参考になりました。信頼できる人というのは、基本的にその話ややり方が一貫しています。小泉政治をどう評価するか、もうそろそろその結論を出してもいいころなんだと思うのですが、あれほど強調した「一内閣・一閣僚」という大原則をこうも完全にないがしろにした首相だったということは小泉政治を評価をする上で大事な視点だと私は思います。

  2. 今回の党・内閣の改造を論評する上で、総論的ではなくまず極めて各論的に述べてみたいと思います。もう4年以上これから述べる方々にはあっていません。男子三日会わざればカツ目して見るべしという言葉があります。しかし、三つ子の魂百までという言葉もあります。私がこれから述べる人々についての人物観は、選挙という政治家にとって一番大切なことに関連して接触をもった時の印象を中心に日頃の付き合いを加味しての私の見立てです。

    こんな人物観をあえて述べるのは、各省庁は当然のことながら極めて官僚化しています。いや各省庁のやり方が官僚的といわれているのです。自民党も官僚化しています。これは優秀な党官僚がいるというより、優秀な党官僚がいないためにマンネリ・前例踏襲主義に陥っています。党も内閣も官僚主義的なやり方を劇的に改めなければ、わが国の行政も自民党も国民の求めているようなものに変わることはありません。そのようなことをこれから述べる人々がやる可能性があるのかという極めて微視的な分析です。

    • 武部勤幹事長…多くの人々がいまなぜ幹事長に武部氏なのかと思ったことでしょう。武部氏は自民党的には極めて真面目な政治家といっていいでしょう。やることは、極めて実直に実務的に実行するタイプです。しかし、いま自民党に求められているのは、これまでの自民党的な発想とやり方を打ち破ることです。そういう視点から見ると、そういう柔軟さや独創性はこの人にはほとんどないと私はみています。自民党の運営は、幹事長によって大きく変わります。武部幹事長の下で、自民党が大きく変ることはまず期待することはできないでしょう。しかし、参議院選挙で過半数を割ってもほとんど危機感のない自民党です。そもそもこの党には自らを大きく変えなければならないという意欲がないのですから、いまの自民党にはそんなに見識と実力のある幹事長は求められていないということなんでしょう。

    • 与謝野馨政調会長…与謝野晶子のお孫さんというのが最大の売りの政治家といっていいのでしょう。頭もいいし、碁は国会でも一、ニだそうです。ですから、確かに政策通という雰囲気はあります。官僚の作った政策を理解することもできればこれにカミソリのような批判を加えることもできる人です。でも、いま日本の政治を担当している自民党がしなければならないのは、これまでのような官僚が作った政策にカミソリ的な批判を加え、ちょっと変更する程度のことではないと思うのです。官僚政治に大胆にナタをいれるようなことをこの人に期待することは、ほとんど無理でしょう。かつての福田赳夫さんや河本敏夫さんのように時の総理や霞ヶ関が何といおうが、自説を断固主張するというタイプの政治家ではありません。しかし、小泉首相が求めるものは、現在の日本の諸問題をどうやって解決するかということではなく、郵政民営化だけなんですから他の問題は官僚たちと仲良く摩擦なく格好付けれればそれでいいんですから、適任の政調会長といっていいのかもしれません。

    • 久間章生総務会長…総務会長というのは総務会の議長ですから、平素はその政治的手腕はあまり問題になりません。今回は、郵政民営化法案を党の総務会で承認してもらうという大きな任務があります。小泉首相が久間氏を総務会長に指名したのは、頭数が一番多い旧橋本派から出しておいた方がいいとでも思ったのでしょうが、郵政民営化問題で党が割れるということはそもそもないでしょう。自民党には、いまやそんなエネルギーはありません。ですから、本当は、総務会長など誰でもいいのです。久間氏個人は、おとなしい地味な人です。この人が怒ったところを見た人はほとんどいないのではないでしょうか。

    • 安倍晋三幹事長代理…こういう人事というのはどうなんでしょうか。幹事長代理というのは、総裁派閥から幹事長を出さなくなってから、総理大臣と幹事長のパイプ役として総裁派閥から任命するということが慣習化してきたのです。これまで幹事長をしてきた人をパイプ役として使うというのは、どうなんでしょうか。これは、裏を返せば、安倍幹事長というのは本当はその程度の政治家なんだということになり、せっかく安倍幹事長を任命し新しい将来の人材を作ったのに、この人材を殺すことになります。また党は、幹事長中心に運営されるのです。武部幹事長としても前幹事長がいつも横にいたのでは何かとやりにくいでしょうね。小泉氏というのは、こういう人事の妙を知らないのではないのではないでしょうか。安部氏もいくら総裁のいうことでも、こういうおかしな人事は断るべきだったと私は思います。人間、まったくの無役というのも大事なことなんです。

  3. さて、こんな調子で17人の閣僚についていちいち述べなければならないと思うといささか気が重くなります。でもせっかく始めたことですし、もしこれらの人々の誰かがこの論評をみて少しでも奮起することになればそれはそれで日本のためになることですから、面倒でも始めましょう。

    • 麻生太郎総務大臣…麻生氏とは、当選も同期でしたし、派閥も同じだったので、知りすぎているほどよく知っております。非常に自尊心が高く、経営者として世の中のことをよく知っていますから、官僚にとってはやりにくいところが多々あるでしょう。しかし、官僚を動かすためには、理屈がやはり必要なのです。そのためには法律や理論的な根拠がどうしても必要なのですが、麻生氏はこういう面が必ずしも得意ではありません。政調会長やこの1年間の総務大臣としての実績をみればこのことは明らかなのではないでしょうか。

      麻生氏も小泉首相と同じく長い間大蔵委員会に所属しておりました。基本的には大蔵族的な政治家といってもいいでしょう。ですから、旧自治省の行政分野では三位一体の改革ではかなり財務省の言い分をすでに実現しました。旧郵政省の行政分野では郵政民営化についてはすでに踏絵を踏まされたのですから、郵政族の期待に応えるべく担当大臣として頑張るかというならば、それはあまり期待しないほうがいいということはクドクドと述べなくとも明らかなことでしょう。

      しかし、旧郵政族の政治家として私がいいたいことは、郵政民営化を議論していく上でいちばん大切なことが現在忘れられていると思っています。それは、信書の秘密=プライバシーの保護=国家からの自由という問題なのです。郵政担当大臣としてこのことだけは総理大臣やマスコミがなんといおうと断固として主張していくことが必要なんだと思っているのです。そのことを理解し、そのことを主張することが郵政行政を担当する大臣としていま一番求められているのです。この点で麻生氏がどういう言動をするのか、注目していきたいと思っています。

    • 南野知恵子法務大臣…日本看護連盟が推薦し、参議院に押し上げてきた政治家です。石本しげるさんの後継者として参議院議員になったなかなかのファイターです。

      法務省も多くの改革すべき課題を抱えています。まず第一は、犯罪の多発です。警察庁と一緒になって犯罪を減らし、日本の治安を取り戻すということが最大の課題でしょう。法務官僚はほとんど検察官ですから、官僚の中でももっとも自尊心が強くてそう簡単には政治家のいうことを聞きません。たいへんなファイターですが、法務官僚を動かすのはちょっと荷が重いと私は感ぜずにはおられません。

    • 町村信孝外務大臣…通産官僚出身の政治家です。お父さんは、北海道知事をやり、北海道では名門の政治家です。ですから、非常に恵まれた環境で育った政治家といっていいでしょう。何でもこなせる器用な政治家です。

      町村氏の今回の入閣の最大の問題は、この前の参議院選挙の総務局長だったということです。誰がみたって前回の参議院選挙は惨敗だと思うのです。その責任者は、幹事長であり、総務局長なんです。選挙で惨敗したことに最大の責任のある政治家が、その責任も取らずに大臣になるというのは、一体どういう感覚なんだという気がしてなりません。

      町村氏も自民党の総裁をいずれは担う政治家として期待され、本人にもその意欲があると思うのですが、政党にとって一番大事な選挙に負けたことの責任を痛感していないということは、政党政治家としての資質に疑問を持たざるを得ません。それに選挙で勝つというのは、政治家として最大の能力が求められるし、またその力が発揮できる場面なのです。自民党は、総務局長というは選挙で勝てば大抜擢をするが選挙で負けたら責任を取らせるということをちゃんとしなければ、今後もっとダメな政党になってしまうでしょう。

    • 谷垣禎一財務大臣…谷垣氏の初当選(お父さんの谷垣専一代議士の死去を受けての補欠選挙でした。当時、私は当選2回生でした)の選挙では2私は20日間も旧京都2区におりました。そんな関係で、谷垣氏とは、加藤紘一氏の側近として共に同じ政治活動をしてきました。私の郵政政務次官の後任が確か谷垣氏でした。また私の総務局長の後任も谷垣氏でした。私と違って紳士であり、器用ですし、何でもこなせます。しかし、それが欠点かもしれませんね。

      良くても悪くとも、小泉首相の人気はあの一点突破の個性であり、爆発力なんでしょう。日本の財政は、まさに危機的な状況にあります。日本経済も危機的な状況にあります。このような危機から脱するには、一点突破でもいいからともかくも風穴をあけることが大事なのです。財務大臣として2年目になる訳ですから、これだけは谷垣財務大臣がやったのだということをやらなければ政治家谷垣としての将来に対する国民の期待は生まれてこないでしょう。

  4. こんなことを書いているとちょっと疲れました。読んでいるあなたも疲れたことと思います。残りの閣僚については次回以降にさせていただくことにして、今回どうしても書いておきたいことがちょっとあるのです。それは、相撲についてです。

    1. 大相撲秋場所は、とても面白かったと思います。ほとんど毎日観ました。特に千秋楽の魁皇と朝青龍の一番は久々に待ち遠しい一番となりました。これに応えるようにこの一番は、すごく力の入ったいい相撲でした。魁皇の今回の活躍ををみて感じたことは、こういう相撲が取れる大関がいないと大相撲は盛り上がらないのだということでした。朝青龍が強すぎるというより、このところ大関が弱過ぎたのだと思います。私は、無双山のファンという程ではないのですが、何となく好きなんです。でもちょっとこのところ弱すぎます。今回も事実上の負け越しですよね。来場所は、無双山と栃東がカド番です。カド番から脱出できるかどうかに関心が集まる大関では困るんです。

    2. 大関というのは、相撲の事実上の最高位であって、大関の中でも特別な力士に対して横綱という称号を与えるのだという話を聞いたことがあります。でも最近の大関をみていると関脇や小結の兄貴のような感じがしてなりませんでした。でも今回の大関魁皇は、久々に大関かくあるべしということを感じさせました。横綱と大関の相撲は、取ってみなければわからないという緊張感のあるものでなければ大関の責任を果たしているとはいえないのだと思います。

    3. 魁皇の活躍はよかったと思いますが、今場所の朝青龍は弱すぎました。北の湖理事長(私は北の湖関の大ファンでした)としては、魁皇に13勝してもらわないと困るが(そうしないと来場所魁皇が優勝しても横綱に推挙しにくい)、だからといって横綱が9勝6敗じゃ話にならないという思いが交錯して両者に勝ってもらいたいと本気で思ったのではないでしょうか。やはり、朝青龍はモンゴルと日本で結婚式をやったのがたたったのではないでしょうか。秋場所が終ってからじゃダメだったのでしょうか。力士は、どこまでいっても勝負師なんです。こういう結果になると結局こういうことまでいわれてしまうのです。

    4. それにしても外国力士の活躍が目立った場所でした。モンゴルだけではなく、ロシア・ブルガリア・グルジアなどとその数も増えてきました。序二段か三段目で優勝した力士は、確かリトアニヤ出身でした。初土俵からまだ一度も負けたことがないそうです。何となく私はうれしくなります。十両以上の力士の20パーセントがいまや外国力士だそうです。5人に1人ということです。

    5. モンゴルにはモンゴル相撲があるので、モンゴル出身のの力士が多いのは分るのですが、ここで私がちょっと気になるのが、どうして中国や韓国出身の力士が少ないのだろうかいうことです。韓国には「スムニ」という韓国相撲があり、確かプロがいるくらい盛んなはずです。何度かテレビで観たくらいですからスムニの詳しいことは知らないのですが、モンゴル相撲よりはるかに日本の相撲に近いという印象を受けました。その韓国からなぜ日本の相撲界に身を投ずる人が少ないのか、気になります。十両以上の力士の中に韓国出身の力士は現在のところたった一人しかいません。中国の相撲(あるいは類似のもの)のことは知りませんが、あの大国出身の力士が全然いないというのも気になります。少なくとも十両以上の力士の中には、現在のところ中国出身者はいません。歴史問題をはじめとするこれらの国との障碍がこんなところに反映しているのだとしたら、私たちは近隣諸国との友好ということを改めて考え直す一つのキッカケにしなければならいという気がします。

    6. この前、プロ野球のことをちょっと書きましたが、プロ野球のことは本当に詳しくないのですが、相撲についてはかなり昔(鏡里・吉葉山の時代)から興味をもってきました。地域の相撲連盟の会長もやったことがあります。その時何かと後援した選手の中にいま幕内で頑張っている「霜鳥」関がいました(残念ながら今場所は負け越してしまいました)。

      大相撲は結構盛んなのですが、地域の相撲連盟で大会を催しても、選手が集まらなくてたいへんなんです。そんな経験があるものですから、外国の選手が大相撲の力士になってくれるなどいうことに特別に感慨をもつのです。相撲がオリンピックの種目になることはないでしょうが、世界各国から力士になろうとする若者が多く現われるということは、相撲のためにもいいことだと心の底から私は思うのです。

  5. 最後にパラリンピックについて少し書きます。パラリンピックが、パラレル・オリンピックの略であることは、今回はじめて知りました。それは別として、パラリンピックの提唱者だったか、指導者だったか忘れてしまいましたが、その人の言葉に「失ったものを悲しむより、いまあるものを大切にしよう」という趣旨の言葉があると聞いて感動しました。これは、肉体だけではなく、私たちの日常生活のすべてについていえることです。こういう気持で物事に取り組めば、私たちの生活も行動ももっと素晴らしいものになるでしょう。

    こんなことがあって、今回ほどパラリンピックに興味をもち、また感動して観させてもらったことはありません。また、オリンピック以上に日本の選手が活躍してくれました。心からお祝いを申し上げますし、私に勇気と力を与えてくれたことに感謝いたします。まだまだ福祉先進国に比べれば、障害者の皆さんにとってわが国は十分な配慮に欠けることが多いと思うのですが、パラリンピックを機にこうした問題を日々の生活の中で考えていきたいと心を新たにしました。

    もし私が総理大臣だったら、成田真由美選手に文句なく国民栄誉賞を与えさせていただきます。7個の金メダル、そして6つの世界新ですよ。パラリンピックで大活躍した選手の右代表として表彰しても、他の選手からも違和感はないと思います。

    それから、イチロー選手にはこの際、どうしてものジョージ・シスラーの年間最多安打の記録を塗りかえてもらいたいですね(現時点であと3本)。これは、もう国際的関心事なのですから、皆さまのNHKが日本のプロ野球のニュースより先に報道することに私は異議を唱えません。頑張れ、イチロー!!!

06:10   東京の寓居にて

白川勝彦

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2004年9月27日
No.208

ちょっとおかしいと思うこと

  1. すでにお気付きの方もいらっしゃるのではないかと思いますが、このWebサイトのキャッチフレーズを変えました。変更前のそれは、「自公政権に終止符!! 政権交代は、天命である。」でした。別に変節した訳ではありませんが、このようなキャッチフレーズがある以上、私の論説も直接・間接にこれに関連するものでなければ、看板に偽りありということになります。しかし、いつもこのような論を張ることになると、範囲が限られてきます。もっと自由に書きたいというのが第一の理由です。

    もう一つ率直に書くなら、民主党に対する私の思い入れの微妙な変化があります。昨年の今頃、私は政権交代のために新潟5区から衆議院総選挙に立候補しました。それは、政権交代のための一尖兵としての行動でしたが、政治家としては、まさに必死の決断でした。でも、民主党はこれを受け止める度量がありませんでした。その時の幹事長が岡田克也氏でした。その岡田氏が民主党の代表になりました。私も血の通った生身の人間ですから、複雑な気持になることは事実です。でも、そんなことが、大きな理由ではありません。私を複雑な思いに駆り立てるのは、口を開けば政権交代というだけで、民主党の皆さんの言動からは、一体何のための政権交代のかという熱情が伝わってこないからです。こういうことに誰かが率直に苦言を呈しないと、本当の政権交代など起こりません。

    それらを含めて、いろいろなことを率直に言いたいと思い、この際、キャッチフレーズを変えたのです。「日々是考日」は、もちろん「日々是好日」をもじった造語です。自由に、そして徒然に、いろんなことを書いていくつもりです。

  2. 政治的に自由な立場でいまの日本をみると、いろいろとおかしいことがいっぱいあります。その最たるものが、政治と政権ということです。この前の参議院選挙で自民党は過半数を大きく割り込みました。国民の過半数の支持が得られなかった訳です。政権党としては、一大事です。でも自民党には、全然一大事という危機感がありません。少なくともこれまでの自民党は、国政選挙において過半数を取るという目標と気概を持っていました。そして、そのために一所懸命に努力もしてきました。それが自民党の党の改革のエネルギーにもなったし、運動の出発点ともなりました。でも、今回の参議院選挙の後の責任の取り方をみると、無気力そのものでした。自民党は、もう政権党としての気概も気迫も失ったということです。これは、自民党にとって大きな堕落といっていいでしょう。このような自民党に未来があるとは思えません。

    一方、大躍進をしたという民主党はどうでしょうか。政権交代、政権交代いうだけで、一体何のために政権交代をしたいのか、その熱情が国民には伝わってきません。小泉首相が進める構造「改革」の中で、国民は ( あえ ) いでいます。野党である民主党がこの国民の喘ぎに耳を貸さなくて国民に救いがあるのでしょうか。国民の声にまず耳を傾けることは、いつの時代でも政治の基本です。このような姿勢のない政党が政権をとっても、国民の苦悩は変わりません。

    政治にとって一番大切なことは、どのような価値観をもった政党が多数派になるかということなのです。しっかりとした価値観をもった政党が多数派になり政権を掌握すれば、その政権のすることは必ず変わります。しっかりとした価値観・考えのない政党が仮に多数派となり政権を取ったとしても、そんな政権は、これまでと同じように官僚の補助機関になるに過ぎません。この国を動かすというのは、そう簡単なことではないのです。官僚機構を自在に使いこなすというのは、智恵と経験と気迫がなければそう簡単にできることではありません。

    いまわが国の政治や政党に求められているのは、国民の生活を直視し、国民の願いを体現するしっかりとした価値観を身に付け、それを熱情をもって語り実行する能力なのです。それが本当の政権党なのです。真の政権党がないこと、いや真の政権党になろうという政党が不在なこと、これがわが国の政治の不毛であり、不幸なのです。

  3. 話は、極端に小さくなりますが、私は街を歩きながらなぜわが国にはゴミ箱がないのだろうかといつも不思議でなりません。これは東京だけかもしれませんが、とにかく東京の街を歩いていてゴミ箱を見付けることはほとんどできません。ただ一つだけ救いなのは、コンビニエンスストアにはありがたいことにゴミ箱がほとんど例外なくあります。この面からもまさにコンビニです。

    東京の街からゴミ箱がなくなったのは、かつての過激派の爆弾事件のあったころからでした。そしてゴミ箱というゴミ箱が東京から消えたのは、オウム真理教のサリン事件のあったころでしょうか。オウム真理教の一連の事件の後、国家公安委員長をした私にも一端の責任があるのかもしれませんが、とにかく東京がゴミ箱を追放したことは事実です。

    「護美箱」と書いたゴミ箱をよく目にします。私はなかなか言い得て妙な当て字といつも思ってきました。こういう「護美箱」があるとなかなかゴミを道に捨てる気になりません。それでも無神経にゴミを捨てる人には、別の対策を講じるしかしょうがありません。

    街を歩いていて一番数の多いゴミは、なんといってもタバコの吸殻です。私もスモーカーだけにこれが一番気になります。スモーカーの一人として、本当は同輩の心ない仕業の責任を取らなければならないという気持にもなりますが、あまりにも多くてとても一々拾って歩く訳にもいきません。ノン・スモーカーにいわせればそもそも道を歩きながらタバコを吸うなんてけしからんということになるのでしょうが、禁煙の地下鉄から降りて一服つけるというのは、スモーカーの悲しい性なのです。ご理解下さい。

    さてその一服をつけた後が問題なのです。いくら道を歩いてもゴミ箱がないのです。100メートルか200メートルに確実にゴミ箱があれば、心あるスモーカーは吸殻を道に捨てることはないと思うのですが、それがないものですから道に捨てるのだと思います。正直いって私も困ることがありますが、私はこうしています。フィルターの付いたシガレットのタバコを揉みほぐして紙とフィルターだけにしてそれをポケットに入れ、ゴミ箱があるところでそれを捨てます。なかなかゴミ箱にお目にかかれないものですから、家に帰ると2,3個のフィルターがポケットにあることも結構あります。こういう習慣をつけて20年位になります。これは、最近世間にとみに嫌われているスモーカーとしてのせめてもの意地です。

  4. 次に目にするのが空き缶とペットボトルです。また食べ物を入れていたビニールの容器なども結構あります。最近は、自動販売機の側に空き缶やペットボトルを捨てるゴミ箱が併設されていることが多くなりましたが、歩きながら買った飲み物を飲むものですから、飲み終わった時にその捨て場がないのでしょう。これは地下鉄を降りて一服つけるスモーカーと同じですね。

    さて、東京からゴミ箱が消えたのは、テロ事件がキッカケでした。それではいまテロに悩まされ、テロとの戦争をしているアメリカやロシアではどうなのでしょうか。9・11以後のアメリカに私は行っていませんので最近の事情は残念ながら知りません。しかし、9・11前のニューヨークには、ブロックの角毎にゴミ箱があったのをハッキリと記憶しています。タバコの吸殻を捨てるのに困ったことはありませんでしたから。

    一方、ロシアですが、これも最近のテロの続発でどうなったか興味のあるところですが、かつてのモスクワはいたるところにゴミ箱(陶器でできた物が多かった記憶があります)がありました。100メートル間隔というより50メートルに一つ位という感じでした。とにかくゴミ箱が多いなーという感想を強く持ちました。

    ロンドンやパリについては、ちょっと記憶がありません。しかし、東京よりも街にゴミは少ないということだけは確かです。あの美しいパリやロンドンの道に吸殻が捨てられ、空き缶やペットボトルのゴミがあったのでは興醒めです。

  5. なんでこんなゴミについて書いたかというと、私は日本人もそろそろ美しい日本を作るということを政治のテーマにしてもいいのではないかと思っているからです。せっかく多額の費用をかけ、街路を整備してもそこにゴミがあったのでは、決して美しいとはいえません。どうしたらゴミのない美しい街路・道をつくれるのか、真剣に考える時がきたのではないでしょうか。

    いまそれぞれの家庭では、ゴミと戦っています。ゴミ箱を設置したら、きっと別の問題も起こってくるでしょう。でもゴミは各個人の問題であり、吸殻や空き缶やペットボトルを道に捨てるなどもっての外だといっていたのでは、日本の街からゴミはきっとなくならないでしょう。それでは、いつまでたっても美しい日本にはならないと私は思うのです。

    爆弾やサリンから国民を護るためにゴミ箱を追放した東京。ゴミ箱をなくしたから東京ではテロがないのでしょうか。私は違うと思います。テロリストが本気でテロを考えれば、ゴミ箱などなくともいくらでも凶悪なテロを起こすことができるでしょう。テロを起こさせないためにゴミ箱を追放してしまったために東京の街は、いたる所にゴミがあります。ゴミ箱を置いてもゴミが完全になくなるとは私も思いません。でも人がひっきりなしに歩くようなところで吸殻や空き缶やペットボトルを目にすることはなくなるでしょう。少なくとも格段に少なくなるはずです。多額の費用をかけ、せっかく美しい街路を作っても、そこに吸殻や空き缶やペットボトルが捨ててあったのでは、美しい街を作ったことにはなりません。私は、必要なところには、やはり「護美箱」を置くべきだと思います。

    この外にも、ゴミについてはいろいろ考えさせられることが多い昨今です。別の視点から、またゴミについて述べてみたいと思っています。

05:30   東京の寓居にて

白川勝彦

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