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2004年12月9日
No.227

日刊スポーツ・テレビ朝日からのビジターへ

日刊スポーツ・テレビ朝日の記事を観て私のWebサイトをお訪ねいただいた皆さん、こんにちは。白川勝彦です。両記事とも丁寧に取材し、誠実な報道をしてくれました。いずれも、スペースと放映時間に制限がありますから、問題の「職務質問」の全部を詳しく伝えることができないのは、仕方ありません。掲載しております「忍び寄る警察国家の影」にでき得る限り詳細に全様を書いておきましたので、お読みいただければ幸いです。

それにしても、マスコミの影響とは凄いものですね。日刊スポーツに私の記事が載ったのは、12月7日朝でした。この2日間で、私のホームページにあるアクセスカウンターは、10530も跳ね上がりました。私のサイトは、政治家のものとしてはいまなおアクセスが多いのですが、それでも普段は300前後でした。それが1日に5000以上です。日刊スポーツの発行部数は、約200万部だそうです。テレビ朝日の『Jチャンネル』で放送された時間は4分間でした。私は観ていなかったのですが、朝の新聞記事を紹介する番組を観てアクセスした方も、けっこうあったのかもしれません。

2000年3月、私の秘書の交通違反もみ消し事件のことが全国各紙の1面トップで報道されたその日でも、私のサイトへのアクセスは3000までありませんでした。ひとつは、インターネットがこの4年間で普及したからだと思います。もうひとつは、乱暴な職務質問なるものに、多くの人々が関心をもっているからでしょう。そうなんです。多くの人々に関心と注意を喚起したかったので、問題の職務質問のあった直後に、永田町徒然草にこのことを書いたのです。多くの方々からメールをたくさんいただきました。関心の高さを感じたのですが、マスコミからの問いあわせはありませんでした。

日刊スポーツの記者からメールを貰ったのが、12月4日15時24分でした。翌日(日曜日)の午後に、記者さんと会いました。真面目で熱心な、好感のもてる記者さんでした。そして同紙に「渋谷で職質した相手は国家公安委員長だった!!」との記事が載ったのは、7日朝でした。それからのブレークが始まったのです。多くの人々の関心の高さが窺われます。私は良かったと思っているのですが、家内からはこっぴどく叱られました。

「あなたが変な格好で渋谷なんかに行くから、こういうことになるんです。あなたが変な格好をすることは、女房がちゃんとしてないからだといわれて、私が非難を受けるんですからね!!」

もともと、私はダンディとかいうことにほとんど関心がありません。当日の服装は、お義理にもダンディとはいえないでしょう。でも、犯罪者と疑われるような服装とも思っていないのですが…。それに、服装で人を犯罪者と疑うなんて、差別ではないでしょうか? しかし、こんなことは、本筋の話ではないのです。吉良の仁吉じゃありませんが、「男心は男でなけりゃ、分るものかと諦め」ております(笑)。「ボロは着てても心は錦」という歌もあります。

さて、今晩よほどのことが起きない限り、テレビ朝日の『報道ステーション』で再び、私が職務質問されたことについて、報道してくれるそうです。昨日取材を受けました。問題の職務質問の実態を、さらに多くの人々が知ることになります。警察のコメントも披露されるそうです。ぜひ観て下さい。私は、元国家委員長として、私が受けたような職務質問が横行することになれば、それは本当に恐ろしいことだと考えているのです。そして、それは警察への信頼をなくしてしまう自殺行為なのです。何でこんな簡単なことが分らないのか、悲しくなってきます。

それでは、またときどき覗きにきて下さい。これからも私の身辺でいろいろなことが起きるでしょう! 警察国家だけは、作ってはなりません。自由は完全になくなります。自由の戦士である私にとって、このサイトは唯一の戦う武器なのです。アクセスに感謝申し上げます。

09:45新潟県長岡市のホテルにて

白川勝彦

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2004年12月5日
No.226

あなたの生活レベルは?

2004年も師走となりました。来年は、敗戦から満60年になります。昭和20年生まれの私ですから、来年は還暦を迎えます。還暦というと、昔はお年寄りの仲間入りでした。そんな実感はぜんぜん湧いてきませんが…。私は高校生の頃から政治に関心をもち、30才の時から政治を職業としてきました。政治を通じて世の中をみるという人生でした。

私は政治が好きでした。政治の場面においてこそ、人はもっとも人間的であると思ってきました 。戦後の政治を突き動かしてきた最大のものは、何といっても日本国憲法でした。戦後の民主主義もこの憲法の存在を抜きに語ることはできません。しかし、政治の場面において、民主主義が健全かつ逞しく育ってきたかというと、必ずしもそうとはいえないことが、政治家としての最大の悩みと嘆きでした。近年、特にその感を深くします。

政治の場においては、必ずしも順調とはいえないにもかかわらず、経済の面では憲法の理想は極めて着実に実現しつつあるというのが私の実感でした。戦後民主主義の理想は、政治面よりも経済面において実現されてきたのです。国民が等しく豊かになるという理想です。具体的にいえば国民の多くが貧困から解放されて、中流家庭となるということです。

中流家庭とは何かというと、これはまた難しい問題です。国際的指標や絶対的所得額からみたら、日本人が中流と意識している暮らしは、本当に国際的な見地でいう“中流”なのかという疑義があります。が、この点はあえて無視して、日本人の生活意識の変化を見てみましょう。11月30日付の読売新聞に同社が行った世論調査の結果が載っていました。総理府(現内閣府)は生活意識調査を、かなり前からやっていました。本来ならば、これ使って考察すべきなのでしょうが 、今回は読売新聞の調査をもとに、筆をすすめてみましょう。

"現在の自分の生活水準を、「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」の5段階から選んでもらったところ、「中の中」51%が最多だったものの、バブル崩壊後の1994年に行った同調査よりも2ポイント減少。「中の下」と「下」は計34%と、11ポイント増えた一方で、「中の上」と「上」は計14%で同9ポイント減少。10年前より自分の生活レベルを下の方に位置づける人が増えている"  (一面トップ記事)

以上が読売新聞の総括な分析です。具体的な数字は、「上」と答えた人が1.8%、同じく「中の上」が12.3%、「中の中」が50.9%、「中の下」が28.1%、「下」が5.7%です。1984年、1994年、2004年のそれぞれの数字は一部明記されていませんが記事から計算すると、「上」の数字は(不明)→6.7%→1.8%、「中の上」は18.0%→19.3%→12.3%、「中の中」は51.2%→53.3%→50.9%、「中の下」は19.0%→19.9%→28.1%、「下」は(不明)→2.9%→5.7%と推移しています。

注目すべき点はこの10年間で、「上」と答えた人が6.7→1.8と約5%も減ったことです。人数でいうと600万人が上流階層と意識できなくなったのです。「中の上」の人も19.3→12.3と7%も減っています。中流の上の暮し向きだと感じられる人が、840万人も減少しているのです。

その一方で、「中の下」と答えた人が19.9→28.1と約8%も増えています。人数にすると960万人です。「下」は2.9→5.7と約3%も増えています。中流階層からドロップアウトしてしまったと感じる人が360万人も増加してしまったのです。約700万もの人々が、自分を下流階層と感じているのが、わが国の姿なのです。

国民の生活意識調査なるものには、見栄や願望が入っていると、私はいつも考えてきました 。絶対的なモノサシで計ったものではないのですから、単純に比較することは危険だと思います。また、世論調査には多少の誤差はつきまとうものです。しかし、2〜3%以上の数字の変化は、もう誤差ではありません。ハッキリとした“傾向”です。

生活意識調査は、上の方は少し高めに出て、下の方は少し低めに出る、と私は考えます。「上」と「中の上」と答えた人が9ポイント減少したといっても、これはもう少し高くみた方がいいでしょう。「中の下」と「下」と答えた人が11ポイント増加した訳ですが、実態は、もっと深刻でしょう。

読売新聞社の世論調査から、この10年間で、国民の生活意識はハッキリと変わったことが窺われます。それは、戦後の一貫した上昇傾向から転落をはじめたということです。私が羨ましいと思った経済面での順調な上昇傾向がとまり、逆の方向に動き出したのです。この調査によれば、「貧富の差が大きくなっている」と答えた人が、「どちらかといえば」を合わせると55%もいるそうです。これは、深刻です。こうした不平等感は、国や社会の運営に大きな障碍となります。その兆候が至るところに出始めていると、私は考えているのです。このような視点からいろいろと論じたいことが、実は、たくさんあります。追追かつ徒然に、書いていきたいと思っています。

11:00東京の寓居にて

白川勝彦

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2004年11月30日
No.225

片山知事の英断

前号でお約束した「災害と政治家(その2)」を先週の金曜日にアップしました。お読みいただけましたでしょうか。被災地の皆さんにとっては、非常に関心のある深刻な問題ですから、誤りがあってはならないと、いろいろと調べたりしていまして、ちょっと時間がかかりました。災害救助法や被災者生活再建支援法には、文字面だけみるといろんなことが書いてあるのですが、これを現実の災害に当てはめると、本当に問題が多いのです。この土・日・月の3日間、被災地を回りながらこのことをつくづく感じました。もっとも、他の法律や制度でも同じことがいえるのですが…。民法や刑法と違って、行政法規には解釈の余地が少ないので、現場の行政当局もどうにもならないのです。

この小論の最後で紹介した、鳥取県西部地震に対して片山善博鳥取県知事が作った制度は、画期的なものでした。政治家が決断するというのは、このようなことだといいたいのです。平成8〜9年にかけて私が自治大臣を務めていた時、片山氏は税務局の固定資産税課長をしておりました。あまり肩に力を入れない温厚な人でしたが、非常に存在感のある課長でした。官僚出身ですから、政策には明るい知事です。ちゃんとした理論や政策をもち、かつ、政治家としての決断力があるから、このような制度を作れたのです。蛮勇だけでは、現実の制度を作ることはできません。最近、地方自治のことで、よく片山知事をテレビなどで拝見します。いつも正鵠を得た発言をしています。派手なパフォーマンスはしませんが、注目しなければならない知事の一人です 。

災害に同情はするけれど、あまり関心はないという方もおられると思います。それにもかかわらず、このWebサイトで新潟県中越地震のことを何度も取り上げたのは、ひとつは被災地が私の選挙区であるからです。テレビや新聞でもう十分報道されているので、あえて私が報告する必要はないのかもしれません。しかし、私なりに感じたことを私のサイトを愛読して下さる方々にお伝えするのは、また別だろうと思ったからです。もうひとつは、政治家の役割や責任とは何かということを、災害対策を通じて問題提起したかったのです。それは、「政治とは何か」を考えることでもあります。今年は本当に災害の多い年でした。多くの方々が被災されました。小泉首相の何らかの決断が被災者に勇気を与えたり、元気付けたりしたかどうか。これは、小泉政治を評価する上で大きな要素だと思います。

災害は、ひとつの極限状態です。極限状態に、国民がどう対処するか? ボランティアを含めて、国民の方はいろんな災害の経験を積み重ねて、災害に対処する術を身に付けているのではないかと思います。しかし、政治家の対応は、ほとんど進歩していないとの感を拭えません。政治の場に長い間身をおいたものとして、慙愧の思いです。極限状態において国と国民を守ることは、政治家の使命です。普段偉らぶって国家防衛や危機管理などをことさらに強調している政治家ほど、極限状態の中で意外にダメなのだと、私は思っています。これは、私の偏見かもしれませんが…。例としては、ちょっと適切でないかもしれませんが、自民党が野党になった時、勇ましかった政治家の無様な右往左往を嫌というほど見せられたからです

とかく柔軟性に欠ける役人を含めて、みんなの勇気と力を引き出し、極限状態に対処する。国民に対する愛情と信頼がある政治家でなければ、こうしたことはできないのです。「護民官」という言葉に、政治家の原点があるような気がします。古代ローマにあった官名です。護民官のジュリアス・シーザーは、ローマ市民の熱狂的な支持を得ていました。しかし、皇帝となったジュリアス・シーザーは、ローマ市民の支持を急速に失いました。構造改革を髪を振りかざして叫ぶ小泉首相は、極限状態に対処するというより、あえて極限状態を自ら作って楽しんでいる ─ そんな気がしてならないのは、私だけでしょうか。

12:00東京の寓居にて

白川勝彦

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2004年11月24日
No.224

あの日から1ヶ月…

新潟県中越地震の発生は、10月23日でした。あの日から1ヶ月が経ちました。先週の土曜日から丸4日間、私は被災地を改めて視察してきました。これまで道路の関係で行くことができなかった北魚沼郡川口町も訪ね、震度7の地震に襲われたこの町を、詳しく案内してもらいました。倒壊した家屋が多数あり、ほとんどそのままです。道路には、いたるところで大きな亀裂が走り、応急的に砂利が埋められ補修されていますが、車でやっと通れるだけという状態です。阪神淡路大震災を視察した時、神戸で目にした光景と同じです。

被災地の復旧の程度は、地域によってさまざまです。十日町市などでは、目で見たところ復旧は相当進んでいるように見えますが、社会生活や生産活動が平常に戻ったかというと、ほど遠いのが現状です。地崩れの惧れがあるため避難所生活を余儀なくされている集落も、いまなお相当数あります。川口町などでは、多くの人々が避難所生活をしているため、その救助に依然として多くの労力を割かなければならず、復旧は、ようやく緒につきはじめた状況です。古志郡山古志村は、全村民が長岡市に避難しています。復旧したくても、何一つできない状態です。

復旧についても、このように地域によって状況が異なるのですから、復興となると、地域ごとに異なった施策が必要になってきます。まだ、どの被災地でも復旧に全力を割かなければならず、復興までは、とても思いが及ばない段階です。それには理由があります。中越地域はどこも豪雪地帯で、雪の降る前に、どうしても済ましておかなければならない復旧要件が、多くあるからです。しかも、応急的な第一次復旧は別にしても、本格的な復旧をする段階では、復興計画をしっかりと視野に入れなければなりません。そうしないと、二重に費用をかけることになってしまいます。

小泉構造改革は、地方と中小企業を切り捨てる改革といわれてきました。この10年間で、地方は体力を大きく減退させられました。地方再生のビジョンをもつことがなかなかできない中で、苦闘しています。中越地域も例外ではありませんでした。そんな状態のところに、地震という大きなダメージを負ってしまったのです。二重苦、三重苦の中で、確かな地域再生のビジョンをもつことは、口でいうほど簡単なことではありません。しかし、地域再生の確かなビジョンをもたずしての復興は絶対にあり得ませんし、実は、本格的な復旧さえ、できなくなっているのです。現に、山間部で住宅が大きな被害にあった方々の中には、離村を決意した方が実に多くおられます。店舗をやられてしまった商店などでは、廃業もかなりに上ります。事態は、小泉首相が考えているよりはるかに深刻なのです。復旧と復興についての私の考えは、「災害と政治家(その2)」で詳しく述べたいと思い、いま書いているところです。被害状況が明らかになればなるほど論点が多くなり、簡単にはまとめることができません。どこかで区切って、近いうちにアップしたいと思っています。

最後にひとつだけ、言いたいことがあります。被災地を回っていながら、いつも私の頭をよぎっていた思いです。いま目の前でみている被害と同じような現状が、イラクのファルージャなどでは起こってい る─ それは、人間が引き起こした被害です。テロとの戦争・イラクの民主化のためと誇らしげに語られています。小泉首相はこれを支持し、その内閣を、日本国民の半数ちかくが支持しています。何万人、何十万の人々の命を奪い、住居と生活を破壊しながらやろうとしている民主化とは、一体何なのであろうか。本当にイラク国民を思いやる心があるのだろうか。人々の平穏な生活が破壊されることが、いかに非人間的であるか、被災地を回れば回るほど、私の確信となっています。わが郷土の被害を目のあたりしながら、はるか遠くのイラクのニュースに接する度に、ますます暗澹たる思いにかられるのです。

12:00東京の寓居にて

白川勝彦

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2004年11月17日
No.223

白昼堂々、4人組が! (その3)

  1. 平壌で行なわれた第3回日朝実務者協議が終わり、代表団が帰ってきました。代表団が持ち帰って物は、どう見てもいかがわしいものが多いとしか思えません。関係者の怒りは、限界に達しつつあります。経済制裁を求める声は、日に日に高まりつつあります。とても日朝国交正常化などという雰囲気は出てきませんし、その道筋は、ますます不透明なものとなってきています。そもそも小泉首相の北朝鮮観は、いかなるものであったのでしょうか。私には、小泉首相がしっかりとした北朝鮮観をもっていたとは、どうしても思えないのです。

    北朝鮮という国がどういう国家なのか、少なくとも政治家たるもの、キチンとした認識をもっていなければなりません。北朝鮮という国は、全体主義国家であり、金日成=金正日一族の独裁国家なのです。それは、フセイン政権下のイラクよりひどい独裁国家といってよいでしょう。イラクのフセイン政権は武力で打倒しても構わないとアメリカの戦争を支持した小泉首相が、どうして金正日の北朝鮮とは国交を正常化し経済援助をしようとするのか、整合性がないのです。日朝国交正常化を果たし、“歴史的な”外交成果を挙げて、政治的な得点にしたかっただけではなかったのかと思えて、仕方ないのです。

    全体的国家では、人権など保障されません。国家は神聖かつ絶対な存在であり、国家の犯罪などという概念は、最初からありません。こういう社会では、国家の人権に対する犯罪は一般的であり、日常的に行なわれます。しかし、最低限の生存すら保障しえない国家は、国民から見放されて、“脱北者”を多数生み出しています。しかし、こうした北朝鮮の現状を私たちは、不幸な他国のことといえるのか? といいたかったのが、今回私が受けた職務質問なのです。

    今回のような職務質問が公然と許されるようになれば、わが国は警察官の天国となるでしょう。それにより、犯罪は現在よりも摘発が楽になるでしょう。治安も多少は良くなるでしょう。だが、私たちの人権は確実に侵され、私たちは国家に対して従順に生きていかなければなりません。テロとの戦争ということで、イラク国民を十数万人も殺したアメリカを公然と支持する小泉首相が率いる国家に、私たちはどうして従順に従わなければならないのでしょうか。私に対してあのような石頭的対応しかできなかった警察官のやることを、私たちはどうして素直に受け入れなければならないのでしょうか。少なくとも私はそういう社会には住みたくありません。日本をそんな国家にはしたくないのです。

  2. 警察官職務執行法(以下、警職法といいます)は、第2条において次のように定めています。

    第1項 警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行なわれた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者を停止させて質問をすることができる。
    第2項 その場で前項の質問をすることが本人に対して不利であり、又は交通の妨害になると認められる場合においては、質問をするために、その者に付近の警察署、派出所又は駐在所に同行することを求めることができる。
    第3項 前2項に規定する者は、刑事訴訟に関する法律の規定によらない限り、身柄を拘束され、又はその意に反して警察署、派出所若しくは駐在所に連行され、若しくは答弁を強要されることはない。
    第4項 警察官は、刑事訴訟に関する法律により逮捕されている者については、その身体について凶器を所持しているかどうかを調べることができる。」

    以上が、職務質問といわれることに関する規定です。それほど、難しい条文ではありませんから、普通の人でも理解できると思います。職務質問に何かと問題があることを知っている方は多いと思いますが、この規定を読めば、4人の警察官が私に対して行なった職務質問は明らかにおかしいということが、分っていただけると思います。しかし、私も弁護士ですから、若干説明を付け加えましょう。

  3. まず、どういう者に対して職務質問が許されるのかということですが、次のような者に対してできるのであって、誰に対してもできるというものではないのです。

    1. 異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して、何らかの犯罪を犯し、または犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者

    2. 異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して、既に行なわれた犯罪について、または犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者

    Aは、犯罪を犯し、または犯そうとしている者です。しかし、ただ警察官がそう思っただけではいけないのであって、「異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して、そう疑うに足りる相当な理由」が必要なのです。「現に罪を行い、または現に罪を行い終わった者」は、現行犯人として逮捕することができます(刑事訴訟法第212、213条)。しかし、それは犯罪を行なったことが明らかである場合にだけ許されます。

    4人の警察官からみて、私の挙動のどこが異常だったのか、そして私がどのような犯罪を犯しまたは犯そうとしている者と疑ったのか、これはぜひ聞いてみたいと私は思います。警察署に行くタクシーの中で、ひとりの警察官が、私が彼らを見てこれを避けようと通路を変更したとかいっていましたが、私は彼らをまったく認識していません。ですから、これを避けようとして進路を変更したこともありません。一体、私のどこの所作を指しているのかも分りません。しかし、百歩譲って、仮にそういうことがあったとしても、それだけで「異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して、そう疑うに足りる相当な理由」があったとすることはできないでしょう。

    Bは、既に行なわれた犯罪について、または犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者に対して行う職務質問です。この場合にも、「異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して」という条件が必要だと記されています。すなわち、問題にされている犯罪との現場性が必要とされるということです。ですから、一般の捜査の聴き込みのことではないのです。このようなことが許されるのは、犯罪の現場における捜査上の必要性と現に行なわれる惧れのある犯罪の予防という観点から認められたものと思われます。

    一体、私に対する職務質問が行なわれた現場の近くで、どのような犯罪があったのか、または行なわれようとしていたのか、私にはまったく分りませんし、そのようなことについて4人の警察官や渋谷警察署であった警察官から明らかにされてもおりません。ですから、私の場合は、このケースではないのでしょう。

  4. さて、次は、「警察官は、停止させて質問することができる」ということです。これは、二つのことを警察官に許しています。「停止させることができる」ということと、「質問することができる」ということです。

    これに基づいて、4人の警察官は、私をグルリと取り囲んで、私を「停止させた」のでしょう。しかし、正しくは停止させることができるのではなく、停止することを求めることができるということです。それは、次の第3項の規定から導き出されます。

    職務質問を受けた者は、「身体を拘束され、又はその意に反して警察署などに連行され、若しくは答弁を強要されることはない」と明記されているからです。屈強な4人で私を取り囲み、行動の自由を奪ったことは、事実上身体を拘束したと同じことです。もちろん手錠をかけるなどされた訳ではありませんが、この不当な拘束を解こうとして、私が彼らを強引に振り切ろうとした場合には、彼らは私を公務執行妨害として逮捕することは、十分に予想されることです。いや、待ってましたとばかりに逮捕したでしょう。ですから、私はこの不当な拘束に抵抗することも許されなかったのです。

    「質問することができる」ということですが、これは文字通り質問「することができる」のであって、それ以上でも以下でもありません。改めて考えてみると、彼らは、一体、私に何を質問しようとしたのでしょうか。「ズボンのポケットの物を見せなさい。財布を見せなさい」というのは、果たして質問でしょうか。これは、そもそも質問ではありません。あえて質問といえば、「ベストのポケットの物は見せたのに、ズボンの中の物を見せないのはどうしてか?」ということでしょう。

    私は、彼らにベストのポケットの物を見せたのではありません。私は、突然の襲撃に反射的に身構えるために、ベストのポケットから手を出しただけです。その時、ベストのポケットの中で手にしていたタバコとライターが一緒に出てきただけです。勘違いされては困ります。

    そして、この質問には私はハッキリと答えました。「どうして、私が君たちにポケットの中を見せなければならないのだ」と。それは、「私は、見せるつもりはない。君たちは、私のポケットの中のものを見る権限はないはずだ」ということです。それに対する彼らの答えは、「怪しいものをもっていないんならば、素直に見せなさい。見せられないというのは、何か怪しいものでももっているのか?」ということを何十回も繰り返し、ポケットの上から中のもの確かめようとして何度も何度も強く触ってくるのです。そして、4人のグルリとした囲みは、20〜30分も続いたのです。これが「答弁の強要」でなくて一体何だというのでしょうか。

    第4項に、「警察官は、刑事訴訟に関する法律により逮捕されている者については、その身体について凶器を所持しているかどうか調べることができる」と明記されています。このような条件にかなわなければ、職務質問において、どのようなものを所持しているか調べるために、身体検査的なことをすることはできないのです。私は、職務質問で身体検査など許される筈はないと思っていましたので、「何で私の体に触るんだ」と抗議しました。すると、彼らは鬼の首でも取ったように、「体を触ることは許されているんだ」というのです。私は、現場の警察官に、一体誰がこのように教えているのか、興味があります。いずれ調べてみたいと思っています。

  5. 以上が職務質問についての逐条的な解釈です。この職務質問については、制定当時から強い反対がありました。私はまだ小さかったので詳しく知りませんが、昭和20年代に数次にわたる警職法闘争といわれる出来事があったと、歴史で学びました。戦前の「オイコラ警察」に対する恐怖からだったのでしょう。そのせいでしょうか、警職法第1条第2項は、次のような規定をわざわざおいています。

    「この法律に規定する手段は、前項の目的のために必要な最小の限度において用いるものであって、いやしくもその濫用にわたるようなことがあってはならない」

    警職法が定めた最大の手段こそ、職務質問なのです。したがって、「必要な最小の限度において用いるものであって、いやしくもその濫用にわたるようなことがあってはならない」のですが、少なくとも私に対して行なわれた職務質問は、濫用以外の何ものでもありません。

    さいとうたかをの『ゴルゴ13』は、私が学生時代から好きな劇画です。もう30年以上も続いている連載漫画です。その中の名作のひとつに、「偶然は、2度続けて起きない」といって、正体不明なターゲットを暴き出す作品があります。私が体験した職務質問を単なる偶然とみるか、考えてみました。そして、たまたま私が粗暴かつ無礼(私にいわせれば違法)な職務質問に引っ掛かったのではなく、このような職務質問が一般的かつ日常的に行なわれていることの証拠だという結論に至りました。

    私は、このことによって、何の被害もありませんでした。むしろ途中から、半分はしたたかな観察者としての目をもちながら、彼らと対峙し行動しました。これは、私が弁護士であったために、職務質問というものの限界をおおむね知っていたからです。しかし、一般の人々が同じような知識をもち、冷静に行動できるかどうか問うた時、そのような人がいたとしても、非常に少ないのではないかと考えざるを得ませんでした。Due Process Of Law の精神は、まだまだわが国ではそんなによく理解されていません。

    わが国では、テロへの恐怖は、まだそれほど切迫感がありません。しかし、犯罪の多発化や凶悪化には、多くの人が恐怖を感じています。かつてのような日本の治安に対する神話は、もはやありません。当然のこととして、警察には、その責任が問われています。日本の治安を守るために、また犯罪を検挙するために、警察官がその職務を遂行する上で多少の強権をふるうのは仕方ないのではないかという風潮が強くなっていることは、容易に想像できます。

    そういう中で、今回のような職務質問がなされたのでしょう。しかし、このようなことが許されるようになれば、日本という国はあっという間に警察国家となることは明らかです。警察国家になった時、その国の国民がどういうことになるか、これもまた明らかです。冒頭にのべた北朝鮮のことを他所事などといってはいられなくなるでしょう。残念ながら私は、日本の警察にも、日本という国家にも、それほど楽観的になれないのです。そして、そのような考え方は、決して危険思想でもなんでもありません。そもそも、自由主義というのは、権力への不信から出発した思想なのです。

  6. 私は、国家公安委員長の時に、国民に信頼される警察になれと口酸っぱく訓示しました。強い警察というのは、国民に信頼されてこそはじめて作られるものだという私の信念からです。それは、長いこと政治をやってきた私の経験に基づくものです。選挙をいつも戦っている政治家は、有権者の信頼があってこそ選挙もできるし、政治も行なうことができると、私はいつも思ってきました。威光や権限で選挙をやろうなどと思ったら、とんでもないことになります。

    自民党というと政権党であるために、いろんな権限や人脈や利権があり、それ故に強いと思っている人が多いのですが、実はまったく違うのです。自民党の中にもそう思っている人が多いですが、それは間違っています。政党にとっていちばん大事なのは、選挙です。その選挙にそんな考えで臨んだら、まず負けます。自民党がいちばん選挙に強いのは、自民党に対する国民の支持が強くある時です。それがないのに、政権党ということを嵩にきて、組織を締め付けたり、脅しをかけたりしても、選挙に勝つことはできません。私は党の総務局長をしながら、このことを嫌というほど味わいました。

    警察だって同じです。警察が権限をもっていることは、当然です。それでは、権限があれば犯罪の捜査ができ、検挙率を上げることができるかといえば、そうはいきません。国民に信頼されない警察には、情報も集まらなければ協力も得られないからです。国民の情報提供や協力がなければ、犯罪の捜査といえどもその実をあげることはできないのです。それは、他の警察活動でも同じです。しかし、権限の塊ともいうべき警察組織の中で育った警察官は、意外にこうしたことを知らないのです。国民に恐れられる警察が、強い警察だと勘違いしている人も結構いるのです。だから、私は「国民に信頼される警察になれ」ということを強調したのです。

    あなたは、あなたに対して私が受けたような、粗暴かつ無礼な職務質問を平気でする警察官に好感を持てるでしょうか。好感をもてない警察に、国民は果たして協力するでしょうか。日本の警察は、彼らが考えるほど国民に好感をもたれていませんし、信頼もされていないのです。しかし、彼らはこのことに気がついていません。そして、不幸なことに、そんなものは必要ないとすら思っている警察官が多いのです。強い警察を作るための根本が分っていないのです。残念なことです。このことを指摘し、監理するのが公安委員会の仕事なのですが、この公安委員会がまた、このことを分っていないのです。

    最後に、4人の警察官や渋谷警察署長からメールは、今日現在まだ届いていません。批判や非難に対して率直であることは、謙虚であることの証拠です。間違った非難や批判に対して自分の意見を述べることは、当然のことです。だから、一方の当事者である私の言い分だけの掲載であることを配慮して、彼らに釈明なり、反論があればこれを保障するといったのです。柔軟な発想と自由闊達な言動、これこそ、自由な社会にいちばん必要なことなのです。

09:10東京の寓居にて

白川勝彦

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2004年11月14日
No.222

白昼堂々、4人組が! (その2)

  1. (前号からのつづき) さて、渋谷警察署に行くために、囲みを振り切ってようやく反対車線きたものの、私の自由は依然として奪われたままでした。手をあげてタクシーを止めようとしても、4人の警察官が私の周りをグルリととり囲んでいる状態はまったく変わらないのです。こんな状態ですから、第一タクシーが止まってくれません。1、2台は止まってくれたのですが、私が乗り込むことができないので、そのまま先に行ってしまいます。こういう状態なのですから、私の自由は、事実上奪われているといってもいいのでしょう。

    事件当日の私の服装です。まあ、お世辞にもダンディとはいえませんが、見るからに犯罪者という風体でもないと思いますがねぇー。ベストを着ていたのは、風邪のために悪寒がしていたために、厚着をしていたのです。私が立っているところが、事件現場です。私はここで4人組にいきなり取り囲まれたのです。どっちから4人組が私を襲ったのか、私はいまでも分りません。その位、いきなりのことでした。さすがに彼らも私を交番に連れて行くのは諦めたようです。後はどうやって渋谷警察署に行くかという問題です。渋谷署は、いま私たちがいるところから、1キロメートルくらい離れたところにあります。私は警察署長にあって、彼らがやったことを包み隠さず話し、反省してもらいたいから警察署に行くつもりですし、本気なのです。逃げる気など毛頭ありませんし、いまさら解放されても、私は渋谷署に行くつもりでした。いくら彼らがそれは勘弁してほしいといったって、今度は私の方がもう譲る気がないのです。

    だから、私が渋谷署に行こうというのですが、その方法が問題になっているのです。

    「私は、いま風邪をひいているので、渋谷署まで歩いていくのは正直にいってしんどい。だから、タクシーで行く。君たちも乗ってもいい。もちろん、お金は私が払う。なんでこれがいけないのか?」

    こう私がいうのですが、彼らはこういうのです。

    「それはできないのです。私たちはタクシーには乗れないのです。パトカーを呼びますから、それで行きましょう」

    こう繰り返すだけなのです。パトカーなら、タクシー代は確かにかからないが、理不尽な職務質問をさんざん受けた上、パトカーに乗せて下さる!? 冗談じゃない!よくも平気でそういうことがいえるものだとさすがに腹が立ってきました。

    「冗談じゃない。パトカーなんかにのれるか! 私はタクシーで行く」というと、「私たちはタクシーには乗るわけにはいかないのです。それでは、歩いて行きましょう」というのです。私は、風邪がひどくやっとベッドから這い出てきたのですから、1キロちかくある渋谷署まで歩いていくのは本当にしんどいのです。このことを何度話しても、彼らの答えは同じなのです。

  2. もうポケットの中のものを見せろ、見せないの問題ではなくなりました。タクシーかパトカーか、車でいくか歩いていくかの押し問答です。こんな押し問答を5〜6分、車がひっきりなしに通る交差点の路上で行ないました。交差点ですから、信号が変わるたびに多くの人が通ります。私だって、こんなことをしているのは、嫌になってしまいます。だからといって、パトカーを差し向けて下さるというご好意を受ける訳にもいきません。また歩いていくのは、しんどいのでOKという訳にもいきません。どうして、こんな石頭を相手にしなければならないんだろうと苛立ってきました。

    ハチ公前交差点から、道玄坂方面に行く歩道。商店や映画館がある、渋谷の有名な通りのひとつです。私は、このような人ごみの中を歩いていました。しかし、彼らもさすがに参ったのでしょう 。4人組の一人が無線で上司と相談しれいるようでした。間もなく、許可が下りたらしく、私がタクシーに乗っていくことを了承しました。手をあげてタクシーを止めました。一人が前に乗り、もう一人が私の側に乗らせてもらいますというのです。そんなことは、最初から私は当然のこととしていましたので、許可するもしないもないのですが、逆に私はこういいました。

    「後に二人乗らなくていいのか? 君たちは私がタクシーに乗って、怪しいものをタクシーの中に置いていく危険があるから、タクシーはダメだといったんのだろう。私の左右に二人乗ればいいじゃないか。お金は私が払うから」と同乗を勧めたのですが、「いえ、それはいいんです。逮捕ではないんですから」といって、一人だけが私の左側に乗りました。

    彼らも状況が少し変だなと気付きはじめたようです。いままでに比べると態度がだいぶ丁寧になってきました。言葉使いも丁重になってきました。車がけっこう混んでいましたので、1キロ足らずの距離でしたが、10分以上はかかったのではないでしょうか。車中で、

    「君たちはいつもあんな風な職務質問をするのか? 日本という国も恐ろしい国になったもんだなぁー。困ったことだ」

    といいますと、

    「私たちは、この渋谷の治安を守らなければならないのです。拳銃を持っている者もいれば、薬物を持っている者もいるのです。ですから、職務質問をして未然に犯罪を防止しなければならないのです」

    というような趣旨の話をさかんにするのです。

    しかし、彼らをこれ以上責めても、悪いことをしているという認識がないのですから仕方がないと思い、私は取り合わないことにしました。彼らと30分ちかく押し問答する中で、彼らが今日私にしたことを正当な職務行為だと信じ切っていることがよく分りました。私がいくら彼らにいって聞かせても、彼らが私のいうことを聴かないことは明らかです。私は、このような職務質問をさせている警察署長に現状を話し、これを改めさせるために渋谷署に向かっているのですから。途中、私は、警察署にタバコ販売機があるかどうか聞きました。もしなかったら、タバコを買っていこうと思ったからです。丁度、タバコがなくなっていたのです。けっこう長引くだろうから、タバコはいるなぁと思ったのです。

  3. 車は、渋谷署に着きました。代金を払い、署内に入りました。私は、入り口の近くの部屋に案内されました。取調室ではないようですが、応接室としては味気ない小さな固いソファが一つだけ置いてある広い部屋でした。まずは、タバコを確保しようと思い、自動販売機はどこかと聞いたところ、買ってきてくれました。灰皿がなかったので、ここは禁煙かと聞くと、床に置いてある大きな吸殻捨てをもってきてくれました。ドアを閉めないので、出入りする人が見えます。

    タバコを吸って待っていると、何とか代理という人が出てきました。私は、署長としか話すつもりはなかったので、応対する人には興味ありませんでした。ですから、あえて肩書きには関心がなかったので、その警察官にも失礼ですが、申し訳ありませんが何とか代理としかいえないのです。

    私は、その何とか代理さんに「今日私が職務質問を受けたことで、署長にいいたいことがあるのできました。署長にお会いしたい。私は国家公安委員長をしたことがある白川勝彦です」と告げました。何とか代理さんは、私を知らないようでした。また、国家公安委員長というのもよく知らないらしく、都の公安委員ですかとか、国家公安委員ですかとかいって、何度も書きかえていました。「私が平成8年9月から翌9年9月まで、国家公安委員長をしていた白川勝彦だということ。その白川が署長にお会いしてお話したいので、取り次いでもらいたい」旨を丁寧に説明しました。

    よく分ったのか分らないのかしれませんが、その何とか代理さんは退席していきました。その代わり、今度は何とか課長さんという人が出てきました。張り切って出てきたその人には失礼ですが、私は署長と話すつもりしかありませんでしたから、その課長さんの肩書きにはまったく関心がなかったの、この人もまた何とか課長さんとしかいい様がないのです。その何とか課長さんは、何とか代理さんから変な風体をした公安委員長と称する者が来て、署長に会わせろといっているといわれて、こんなものは追い払わなければならないと思って張り切ってでてきたのだと思います。最初からいやに肩に力が入っていました。

    しかし、私が会いたいのは、署長だけですから、誰が出てきても同じです。私は先の何とか代理さんにいったと同じように、国家公安委員長をした白川勝彦であること、今日職務質問を受けたことで署長に話をしたいので、取り次いでもらいたいといいました。そしたら、その何とか課長さんの返答がふるっているのです。

    「国家公安委員長は、どうやって任命されるのですか。どういう仕事をするんですか」というのです。そんなことをどうして聞くのかと思ったのですが、要は私がかつて国家公安委員長をした白川勝彦だということを信じられないのでしょう。住所はどこですかとか、そのときの総理大臣は誰ですかなどと執拗に聞くのです。しかし、何とか課長さんがどう思おうと、私がかつて公安委員長をした白川勝彦であることは間違いない事実ですから、仕方ありません。

    彼が私をどういう素性の人物だということを知らなかったのか、あるいは、知っていてもこういう問題で署長に会わせることはできないと思ったのか不明ですが、とにかく、一向に署長に取り次ごうとしません。そして「もし、あなたが国家公安委員長をした人ならば、警察官を苦しめるようなこんなことはしないはずだだ」とか何とかいうのです。今度は、私が国家公安委員長をした白川勝彦であるかどうかが、押し問答の中心的なテーマとなりました。15分くらいこんな押し問答をしたでしょうか。しかし、要するに彼の言わんとすることは、署長には会わせる訳にはいかないということです。だったら、もうこの何とか課長さんと話をする必要はありません。

  4. 「分った、もう、あなたに取次ぎは頼まない。直接私が面会を申し込む」といって、私はその部屋を出ました。別に制止はありませんでした。もし、私がそのまま警察署を出ようとした場合、彼らは制止したかどうか? それは分りません。制止はしなかったのではないかと私は思います。その証拠に、私についてきませんでしたから。何とか課長さんにしてみれば、なんとも得体の知れない人物には、早々に立ち去ってもらいたいというのが本音だったのではないでしょうか。しかし、今度はこっちがこのまま引き下がる訳にはいきません。何としても今日私が受けたことを署長に知らせ、このようなことが行なわれないようにすることが私に与えられた任務であると確信し切っているのですから。

    その部屋を出たところに、渋谷署のカウンターがあり、そこに「総合受付」というところがありました。そこで、署長への面会を申し込もうと思い、話はじめようとすると、件の課長さんはあたかも大事件のように「受付はあっちぃです、あっちぃです」といって、入り口のカウンターを示すのです。それなら、「総合受付」というのは一体何なんだといいたくなります。しかし今は、くだらないことでクレームを付けられることではなく、署長に面会することが先決ですから、入り口のカウンターで求められた申込書に必要事項を書いていました。すると、遠くのほうから大きな声で「白川先生!白川先生ではありませんか」といいながら、誰かが駈け寄ってきます。一体、どこのどなただろうかと思いました。

    「私は、昔、警察庁の政府委員室にいた○○です。いまここで副署長をしています」といって、私を先程の部屋に引き戻しました。正直にいって、私は彼を知りませんでした。彼が政府委員室にいたのは、平成7年までだそうですから、私が知らなくても不思議ではないのです。私が国家公安委員長を務めたのは、平成8年から9年ですから。

    事情は、すでに部下から聞いていたのでしょう。彼は警視庁の警察官ですが、警察庁に出向し、政府委員室という国会対策をするところに勤務していた関係で、私を知っていたのでしょう。人定ができた以上は、これはそれなりの対応をしなければならないので、出てきたのだと思います。その証拠は、「一体何があって、いま私がここにいるのか」ということについて、まったく質問がでなかったことです。そして、今日起こったことには多少問題もある、ということも承知していたのだと思います。

    この、人柄のよさそうな副署長は、政府委員室に勤務していた時や、私の国家公安委員長時代の話をし、私を誉めてくれるのですが、だからといって、私はそれに気をよくしてそのまま帰る訳にはいかないのです。私はまずお茶を所望しました。バカバカしい押し問答を相当長いことやっておりましたので、喉が乾いていたのです。お茶を飲みながら、私は改めて事の顛末を詳しく副署長に話しました。そして、これはよくないことなので、ぜひ是正しなければならないといいました。さらに、このことを署長にもちゃんと伝えるようにいいました。彼から特に反論はありませんでした。

    最後に、私は副署長に「現場にいた人でいちばん階級の高いものを呼びなさい」といいました。勘違いしたのか、 警邏 ( けいら ) の現場の上司と思われる警察官がきました。しかし、私は実際に職務質問した警察官に話したかったので、彼らの中で一番階級の高い者を呼びなさいと,、再び、いいました。4人組の中の一人がきました。君がいちばんの上司なのかと聞いたところ、階級は同じだが年齢が一番上だということでした。彼の上司には後ろで聞いてもらうことにして、彼と副署長に対して、私はこういいました。

    「今日の職務質問で一番問題だったことは、ズボンのポケットの中のものを見せなさいといって、ズボンの上から強く触ったことである。見せる見せないは、あくまで私の意思でやることであって、これを強制する権限は、君たちにはない。『怪しいものがないのなら、見せてもいいじゃないですか』と君たちは執拗にいったが、それは根本が違うのだ。自由主義社会というのは、国家からの自由も、できるだけ保障する社会なんだ。私は自由主義者として、そういう社会を作ろうとして努力してきたのだ。怪しいものを持っていないのなら、見せなさい。見せられないということが、怪しいものを持っているからじゃないかと疑うことは、とんでもないはき違いなのだ。ここのところを、よく分ってもらいたい」

    「君たちの中では、一体、誰が一番の大将なんだ。誰が現場において臨機応変な措置をすることになっているんだ。犯罪の現場だろうが、今日のような警邏であろうが、一つひとつの現場は、決してマニュアル通りにはいかないのだ。そこで、経験と臨機応変さが必要になるのだ。私は国家公安委員長時代、これからは“はぐれ刑事純情派”の藤田まこと(正式には、安浦刑事)のような刑事を大切にしていかなければならないといい、そのよう制度を作らせた。それは、そういうことをいいたかったのだ。それなのに、今日の君たちの対応は一体なんだ。石頭すぎる。副署長、これは、このような編成で警邏させる方に問題があるんじゃないかな」…などなど。

    例によって、私の長演説に付き合ってもらうことになりました。しかし、私を長い間事実上拘束し、また私の名誉をいささか傷つける行為をしたのですから、このくらいは我慢してもらっても罰は当たらないでしょう。そして、最後に私はこう付け加えました。

    「今日、私が体験したことは、私のウェブサイトに書くつもりだ。君たちもインターネットを見るんだろう。どう書くか、ぜひ見てもらいたい」

    副署長は『今日のことはこれ限りにしてほしい』と頭を下げました。人のいい彼には申し訳ないことですが、私はこれには応ずることはできませんでした。私の体験は、貴重であり、また空恐ろしいことであり、こんなことを野放図にしてはならないと思ったからです。これは、もう私の不動の信念となっておりました。そして、まだ風邪気味でちょっとしんどいのですが、かなり長文のレポートを認め、ささやかではありますがこれを公にしました。

  5. 「白昼堂々、4人組が!」などと大仰な見出しにもかかわらず、こんなことに過ぎないのか、大騒ぎする程のことじゃないではないか、という人もおられるかもしれません。しかし、私が経験したような状況の中で、私と同じ行動を取れる人が、果たしてそんなに多くいるでしょうか。私は弁護士です。私は政治家です。私は国家公安委員長をしました。また私は熱烈な自由主義者です。そんな私だから、ここで詳しく書いたような行動を取れたのだと思います。

    私は自慢話をしているのではないのです。自慢話なら、もっと別の行動でなければなりません。非礼かつ無法な4人組をちぎっては投げ、ぶっ飛ばしたというような話でなければなりません。実際のところ、あまりにもしつこいものでしたから、突き飛ばして4人組の囲みから脱出しようと何度も思いました。しかし、そんなことをすれば彼らの思う壺だと思ったから、やらなかっただけです。私は狡猾だっただけなんです。考えてみれば、こんな意地悪な人物に目を付けてしまった4人組こそ、災難だったのかもしれません。

    警察官に取り囲まれ、見せろ見せないなどといって揉み合う姿は、決して格好いいものではありません。東京の繁華街ですから、顔見知りの人はあまりいませんが、それでも、私と知った人がいたかもしれません。名誉な光景では決してありません。だったら、素直に彼らのいうことを聞いていればいいじゃないかという人がきっと多いでしょう。確かに、そうしても私は困るようなものを持っていた訳ではありませんから、直ぐに無罪放免になっていたかもしれません。しかし、自由主義者の一人として、それだけは絶対に認めることはできません。

    いずれにしても、私と同じような行動を取れる人の方が少ないと思うのです。それが彼らの狙いで、職務質問ということで、本来は許されないことを平気でドンドンやっているのでしょう。テロとの戦争また治安の維持ということで、こうしたことが平気で罷りとおる社会的風潮だと思います。アメリカでは、9 ・11以降、アラブ系の人々などに対して、憲法で保障された人権をまったく無視する違法なことが行なわれていると聞いています。何でもアメリカ追随の日本ですから、こうなっても不思議ではないでしょう。しかし、そんなことは、絶対に許してはならないのです。

  6. 最後に、今回は事実関係を中心としたレポートで終えます。私としては、できるだけ忠実に私が体験したことを書いたつもりです。別に誇張をしなくても、十分に問題のある(私にいわせれば、違法な)職務質問でした。しかし、私は一方の当事者です。しかも、かなり緊迫した状況の連続でしたから、客観性を欠く惧れはあるでしょう。ですから、私は、もう一方の当事者である4人の警察官に、釈明なり、反論の機会を保障します。若い警察官ですから、インターネットくらいは見れるでしょう。また、私は今回のことをウェブサイトで書くからとちゃんといっておいたのですから、見ているでしょうし、見ていないようじゃ困ります。

    私が書いた事実に釈明なり、弁明や反論があったら、Eメールで私宛てに送ってくれれば、そのまま掲載することを約束します。もちろん、それに対する私の再反論の権利は当然のこととして留保します。また彼らの上司であり、直接の責任者である渋谷警察署長の釈明や反論も同じです。さらには、今回の私のクレームをどう受け止め、どのような措置をとったのか、これはぜひお伺いしたいところでもあります。

    「好きだから 正義で守る この街を」

    警察官というのは、名刺を出さないんですね。私が会った全部で8人の警察官の中で、私に名刺をくれたのは副署長さんだけでした。彼が私にくれた名刺にある標語がこれです。警視庁全体のものか、渋谷署だけの標語かは知りませんが、おおいに結構なことです。

    しかし、正義とは何か。ここで問題にされたのは、Due Process Of Law という考え方なのです。法の適正手続きなどと訳されますが、本来の意味はちょっと違うような気がします。国民の生命・身体・財産などに対する強制力の行使は、法が定める正当な手続きと方法に基づいて行なわれなければならないという、かなりポヂィティブな意味をもっている概念で、アメリカ法のもっとも基本的な理念のひとつです。

    勝てば官軍とか、結果良ければすべて良しとか、長いものには巻かれろなどという言葉がある日本では、これは、なかなか理解されない理念です。しかし、わが国が自由主義の国であるならば、絶対にないがしろにしてはならない理念なのです。今回私が遭遇した警察官には、この理念に対する理解がまったくないと断ぜざるを得ません。だからこそ、私は空恐ろしいことと思ったのです。

    Due Process Of Law は、正義です。特に警察権力の行使は、絶対的にDue Prcess Of Law の精神に基づいて行なわれなければなりません。わが国の警察権力や国家権力には、彼らが思っている程の信用は、ないのです。ですから、殊のほか Due Process Of Law が求められるのですが、その自覚がもっともないのが警察官であり、検察官であり、官僚です。ですから、ちょっと油断するとわが国は、警察国家になり、官僚王国になってしまうのです。「権利のための闘争」…ドイツの法哲学者イェーリングの有名な言葉です。この“権利のための闘争”というビヘイビィアこそ、自由主義者としての私の発想と行動の原点です。

    「好きだから 正義で守る この国を」

    以上の言葉で本稿を締め括り、とりあえず筆を措きます。

23:50東京の寓居にて

白川勝彦

イェーリング Rudolf Von Jhering 1818-1892
歴史法学の立場からローマ法を研究、さらに法を社会における目的や利益の観点から分析・研究する必要性を説いたドイツの法学者。主著“ローマ法の精神”“権利のための闘争”“法における目的”等。法は究極的に個人の権利を保障するものであり、権利とは利益であると考えて、その基本的な部分の考え方を「権利のための闘争」という言葉によって表わした。「法の目的は平和であり、それに達する手段は闘争である」 (ダス・ツィール・デス・レヒト・イスト・デア・フリーデ,ダス・ミッテル・ ダーツー・デア・カンプ) [読んでいたところへ戻る]

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2004年11月11日
No.221

白昼堂々、4人組が!

  1. 被災地の視察から東京に帰ったのは、今週の月曜日の午後でした。風邪気味だったので、すぐ東京に帰ることにしたのですが、帰る途中から容態は悪くなるばかりでした。風邪薬を飲んで、厚着をしてベッドで寝ることにしました。しかし、一向に治まる気配はありませでした。だんだんひどくなるばかりです。これは仕方ない、いい子になって寝るしかないと覚悟しました。1日も休めば治るだろうと思ったのですが、なかなか治らず、丸4日寝てしまいました。

    休んでいる間も、ニュースだけは見ました。新潟県中越地震の余震はなかなか収まりません。イラクでは武装勢力の掃討と称して、多数の市民がいまだ生活している、ファルージャへの総攻撃が始まりました。いろいろなことがありましたが、パレスチナ人民のカリスマであるアラファト議長の危篤、そして死亡の報道。平壌ではじまった日朝実務者協議 ── 記者団の同行が認められなかったために詳細は分りませんが、事の性質上、あまり成果は期待できそうにもありません。中国船籍と思われる潜水艦の領海侵犯。ただでさえ冷え切っている日中間の政治的関係に、悪影響を及ぼすことが懸念されます。思うように風邪が治らないので、イライラしているところに、こんなニュースばかりですから、本当に憂鬱な気分になってしまいます。

    これらのニュースは、本来ならば、その一つひとつにそれ相当のコメントを加えなければならない重大な出来事です。しかし、体調は依然としてすぐれません。また、もう少し事態の推移を見守りたいものもあります。ですから、今回はこれらに対するコメントはあえて一切せずに、今日私が体験した空恐ろしいことを、皆さんにお知らせします。

  2. 今朝、午前6時過ぎに私は目覚めました。体調はいくぶん昨日よりは良いものの、依然として本調子とはいえない状態でした。昨日の夕食から何も食べていなかったので、お腹が空いていました。食べるものは食べないと風邪も治らないので、家内が用意してくれたお粥を食べました。食欲はありましたし、美味しくいただけました。デザートにみかんをふたつ食べて、もう一度ベッドに戻りました。例の朝の散歩は言うに及ばず、いくつかある、本当は急いでやらなければならない仕事すら、とてもできる状態ではありませんでした。

    昨日もほとんど寝ていたのですが、ベッドに横になるとまた眠れるのです。これが病気ということなんですね。4時間くらいぐっすり眠りました。10時ころ目が覚めました。また、下着がびっしょりと濡れていました。これを脱ぎ捨て、新しい下着を身に付け、外出着に着替えて、私は渋谷に向かいました。3日間も風呂に入っていないので、髪は乱れていまし、髭ものびていました。ですから、普段は地下鉄ですが、むさ苦しい格好なので、タクシーで行きました。どうしても今日中に振込んでおかなければならないという用件があったからです。

    タクシーを降り、2箇所の金融機関に寄り、私は渋谷に来た用件を済ませました。熱のためでしょうか、すごく喉が渇いていました。バニラシェイクを飲みたくてなって、馴染みのモスバーガーに行こうと、歩いているその時でした。何処となく、きたいかつい格好をした4人組に、いきなりグルリと囲まれました。私は、反射的に両手を入れていたベストのポケットから手を出し、身構えました。私の手には、タバコとライターが左手に、右手にはライターがありました。4人組はズボンのポケットを中のものを見せてくれ、財布を見せてくれというやいなや、私のズボンのポケットの上を強く触ってくるのです。一瞬何が起きたのか、状況を把握するのに時間がかかりました。私が4人組の襲撃を受けたのは、ハチ公前交差点から100メータ―くらい道玄坂を登った広い歩道で、通行人も多いところでした。

  3. 白昼堂々、突然4人組にグルリと囲まれ、いきなりズボンのポケットの中にあるものを見せろといわれて、ズボンを強く触られたのです。私は腕に自信にあるわけではありませんが、お前たち一体何なんだ、冗談じゃないといって突き飛ばすなり、ぶん殴りたくなりました。でも、幸いにも私は冷静さを少し残していました。それをやったら、彼らの思う壺だと瞬時に判断する思考能力が、働いていたのです。

    そうなのです。私を白昼堂々襲ってきた4人組は、警察官だったのです。少しむさ苦しい格好だということは、私は自覚しておりましたが、だからといって警察官の職務質問を受けなければならない状況ではないということは明らかでした。それも質問などというものではなく、いきなり4人にグルリと取り囲まれ、ズボンの左右のポケットを、そして財布の入っているズボンの後のポケットを、4人の屈強な男に、交々強く触られたのです。彼らが制服を着ていなければ、反射的にこれを突き飛ばすなり、殴り飛ばすなりして、私は自分自身を守ったでしょう。しかし、この自然な行動を私がとれば、彼らが、待ってましたとばかり公務執行妨害で私を逮捕することは、火を見るよりも明らかです。私は、弁護士である自分に戻っていたのです。

    私は、私のズボンのポケットを上から強く触ろうとする彼らの手を払いながら、大きな声でこういいました。

    「君たちは何で私のポケットの触るのだ。何で君たちにポケットのものや財布を見せなければならないのだ」

    彼らの中でいちばん歳をくった男がいいました。

    「あなたは、いま手を入れていたチョッキのものは、見せてくれたじゃないですか。怪しいものをもっていないのならば、ズボンのポケットの中のものも見せなさい。なぜ、見せられないのですか。見せなさい。財布を出しなさい」

    そういいながら、執拗に私のズボンのポケットに触ってくるのです。私はだいぶ冷静になってきました。この手を払いのけることは正当防衛的な行動ですから、公務執行妨害にはなるまいと思いながら、強く払いながら大きな声でこういいました。

    「私は、見せる気がない。何で財布まで見せなければならないんだ」

    それでも、この4人の警察官は、ズボンのポケットの中を見せなさい、財布を見せなさいといって、私を取り囲み、そこを動こうという私の自由を完全に奪っているのです。そして、こりもせずに何度も何度もズボンのポケットの上を強く触り、中のものを確かめようとするのです。『何で触るんだと詰問すると触るのは職務質問として許されているんだ』と開き直るのです。

    正確な時間はこういう状況ですから分りませんが、おそらく3〜4分くらい揉み合い、いい合いました。私はこういうことをしながらも、極めて冷静になってきました。そして、本当に空恐ろしいものに遭遇した自分に気付きました。私は弁護士ですし、また国家公安委員長をしましたので、職務質問の有用性も問題性も、よく知っています。しかし、いま私が受けていることがこの職務質問であるとしたならば、これは空恐ろしいことであり、曖昧に済ますことはできないと思ったのです。怖いというのは、警察官が怖いということでは、もちろんありません。こんなことが職務質問として行なわれていることが、空恐ろしく思えたのです。こんなことは許されてはならない、ここはじっくり勝負しようと、私は考えはじめたのです。今度は「こっちの方が執拗に食い下ってやろう」と覚悟を決めました。

    私は、なぜ私のポケットの中を見せなければならないのか、何度も何度も聴きました。彼らの答えは、「怪しいものがないのなら見せてください。見せられないのは、怪しいものをもっているからじゃないですか」というのです。「なんで私の体に触るんだ」と聴くと、触るのは許されているというのです。いくら見せなさいと言われても、見せるつもりは、私にはもう、まったくありませんでしたし、身体検査的に私の体を触ることは、職務質問としては許されないと思いましたので、これも、絶対に許すつもりはありませんでした。

    「ポケットの中の物を見せなさい、財布を見せなさい。なぜ見せられないのですか。ますます見なければなりません。体に触るのは、許されているのです。弁護士さんに相談するという人もいますが、弁護士さんに警察官にいわれるとおりにしなさいといわれて、皆さん協力してくれるんですよ」

    こんなことをいいながら、彼らは少しも態度を変えないのです。囲みを解こうともしません。正直いって私の我慢も限界に近づきつつあったのですが、無理してこの囲みを解こうとすれば、彼らが公務執行妨害として私を逮捕することは明白でした。人通りのある中、こんなことを10分以上繰り返しておりましたが、埒があかないことは明らかでした。彼らの言葉や行動は、棒を飲んだようにまったく変わらないのです。

    私は、別にズボンの中に何も怪しいものなど持っていませんでした。家の鍵と小銭が入っていただけです。なぜ財布を見せろといったのか理解に苦しみますが、財布には4万ちょっとの現金と免許証と病院の診察券、それにパスネット(地下鉄のプリペイドカード)があるだけです。また、先ほどの振込みの控もありましたが、別に、見られたからといって困るほどのものでもありません。ですから、私が素直に見せれば、それで終ったかも知れません。また、それで終らせるのが賢明なやり方かも知れません。しかし、私にとって、これはもうそういう問題ではなくなっていたのです。こんなことがまかり通っていたのでは、自由も人権もあったものじゃないと私は考えていたのです。彼らも、よりによって変な人物に関わってしまったものです。

  4. 人通りの多い渋谷の歩道で、「見せろ、見せない。触るな、触るのは許されているんだ」ということを15分くらい繰り返していました。遠巻きに時には人垣もできましたが、それは近くの信号待ちの時間だけでした。皆、関わり合いたくないのでしょう。本当は、誰のために鐘が鳴るなんですがね。

    さて、どうやって局面を変えようかと思ったのですが、彼らの言動は何度もいうようにまったく変わらないのです。局面を変えることは、極めて難しい状況でした。ですから、私は、ひとつのカードを切ることにしました。

    「私は弁護士だ。いま君たちがやっていることは、警職法では許されることではない。私は君たちのやったことを署長に訴えなけれならない。だから、まず君たちの認識番号を押さえておかなければならない。君たちの認識番号を書く。私はいまボールペンを持っていないから、貸してくれ」

    こういって、私はタバコの包み紙に4人の認識番号を控えました。彼らは素直にボールペンを貸してくれ、番号も見せました。

    「それでは、渋谷署に行こう。しかし、私はいま風邪をひいていて、いままでほんとに寝ていたんだ。歩いていくのはちょっとシンドイので、タクシーで行く。君たちも乗っていいから、一緒に行こう」

    こういって、タクシーを拾うために反対側の車線に行くために、近くの信号に渡ろうとしたのですが、4人組はこれを体を張って妨げるのです。そして、ここじゃなんですから、交番に行きましょうとさかんにいうのです。私は別に彼らと話すつもりもありませんでしたし、彼らと話しても何にもならないことですから、まったくとり合いませんでした。ですから、状況は先程とまったく変わらないのです。

    今度は、「渋谷署に行く。署長と話をする」と私がいい、「交番に行きましょう。交番で話を聞きましょう」と警察官が答えるといういう押し問答を同じ場所でまた10分くらいしたでしょうか。そうこうしている時、私は顔見知りの人を見かけましたので、ちょっと呼びました。彼は来てくれてました。私は事の次第を話して、「私が警察署へ行こうというのに、彼らが納得しないんだ。どう思う」とあえて周りの人にも聞こえるように大きな声でいいました。そして、数人が見ていることを確認して、私はタクシーを拾うために囲みを振り切って道路を渡りました。タクシーを拾って警察署に行くために多少強引に4人組の囲みを破っても、公務執行妨害で逮捕することはできないと状況と証人を作っての行動でした。

    とにかく20分くらい同じ場所で4人にグルリと囲まれていた状態から、私は道路の反対側に移ることがようやくできました。しかし、4人の警察官が私をグルリと取り囲んでいるという状況はまったく変わりません。私には、逃げるつもりなどまったくありませんでしたが、タクシーを止めてこれに乗り、渋谷署に行くということは、4人に行動で完全に阻止されていました。また、私が彼らの職務質問から解放され、自由にどこかに行くことができなかったことはいうまでもありません。

    さて、これから先、この一件がどうなったと思いますか。一気に書き上げるつもりで向かったのですが、けっこう長くなりました。私の風邪はまだ治っていません。書くのが少しつらくなってきましたし、こんなことでせっかく治りかけている風邪が、また、ぶり返しても困りますから、明日以降の執筆として、今日はこのくらいで休みます。お許しください。

23:50東京の寓居にて

白川勝彦

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2004年11月8日
No.220

災害を考える

写真 10月31日 ガラス入替作業の手伝いをする白川 説明「たまたま通りかかった十日町市のカジュアルショップで、店舗のショーウインドーの大ガラス2枚のはめ込み作業をお手伝い。前日までは通行人に危険が及びそうで、シャッターも開けられなかったといいます。」

土曜日の午後7時30分から翌日曜日の午後8時まで、NHKが「NHK24時間キャンペーン〜被災者の声・いま私たちができること」という番組を24時間半ぶっ通しで放送しました。民放では24時間番組が放送されますが、NHKがこうした企画をし、放送することは極めて異例のことです。今年わが国を襲った台風では200人以上の方々が亡くなりました。新潟県中越地震では今日現在で39人が死亡し、いまなお数万人に方々が避難所生活を余儀なくされています。ですから、私はこうした企画を評価します。どんな番組なのか見極めたくて、24時間番組の大半をみました。

新潟県中越地震の被災地では、いまなお余震が続き多くの人々が避難所生活をしているために、このウエイトが圧倒的に多い番組となりました。これはやむを得ないことであり、また被災地の住民の一人としてありがたいことでしたが、台風災害についても改めて知ることができ、災害ということを考える上で非常に参考になりました。10月20日から3回にわたり掲載してきた「テレビ雑考」の観点からいえば、いろいろと注文をつけたいことはありますが、今回はその志を多としてあえて何も申しません。

ただ気になるのは、こうした番組に多くの視聴者がどう反応したかということです。NHKは、視聴率など気にせずにこういう番組を放送してもいいと私は考えますが、この番組の視聴率はやはり気になります。災害というものに対する国民の関心がどのくらいかというひとつのバロメーターになるからです。後日、この点はぜひ調べてみたいと思っています。

さわさりながら、この番組があまりにも長いものですから、この番組をみながら「災害と政治家」という小論を認めました。これは、新潟県中越地震の現場を回りながら私自身がずぅーと考えてきたことでした。これをまとめて書くいい機会だと思ったからです。テレビを見ながらの記述ですし、出先での作業ですので、不十分なところが多々あります。しかし、多くの人々が災害というものに関心をもっている時に読んでもらった方がいいと考え、あえて掲載することにしました。ご一読いただければ幸いです。

02:10長岡市のホテルにて

白川勝彦

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2004年11月4日
No.219

ブッシュ再選に思う

  1. 民主党のケリー大統領候補が選挙結果の最終的確定を待たずに敗北を認め、ブッシュ大統領の再選が事実上確定しました。これからの4年間、世界の超大国アメリカの舵取りを、再びブッシュ大統領が担うことになりました。世界の多くの良識ある人々の圧倒的多数は、ケリーの当選を望んでました。また、アメリカの良識ある人々も、未だ準戦時下といってもいい状況の中で、イラク戦争の大義のないことを訴え、戦争を遂行しているブッシュ大統領に肉薄するところまで追いつめました。その勇気に、私は心から敬意を表します。アメリカの良心、いまだ健在なりとの想いを新たにしました。

    このことは、ブッシュが勝利した地域とケリーが勝利した地域を地図に落としてみると、歴然としているように思われます。ブッシュが勝利した州は、農村地帯や伝統的に保守色の強い州がほとんどです。それは、わが国で自民党が勝っている地域を彷彿とさせるほど、似通っています。アメリカの権力を支えている基盤も、わが国の権力を支えている基盤も、そのようなものだということを、私たちはこの際はっきりと認識しておく必要があります。

  2. しかし、今回の大統領選挙が次のような状況で行なわれたことを、私たちは知らなければなりません。現在のアメリカでイラク戦争を批判するということは、私たちが考えるよりはるかに困難だということです。アメリカは現に多数の軍隊をイラクに駐屯させ、いまなお戦闘が展開されており、アメリカ軍に多くの死傷者がでているのです。

    アメリカにとって、イラク戦争はまだ終っていないのです。アメリカは、いまだ準戦時下なのです。どこの国でも、戦争遂行中は理屈を抜きに愛国心が高揚し、時の政権を批判することはタブーです。アメリカとて、その例外ではありえません。

    フセイン政権が倒れ、イラク戦争が一段落したといっても、いまなおイラクでは反米武装勢力の抵抗はやまず、多くのアメリカ人が戦闘の中で戦死しています。自国民が現に戦死している中で、その戦争を批判することは、政治的には非常に難しいことなのです。

  3. 戦争の当事者ではないといっているわが国でさえ、イラク戦争を冷静にみることがいかに困難かは、識者といわれる人々の言動をみれば明らかです。残念ながら、日米同盟の重要性という訳の分らない観念に囚われて、自衛隊派遣の是非を正面から議論する勇気さえなく、ただ現状を追認しているのが実態です。

    現在の憲法では、わが国が他国に戦争を仕掛けることはあり得ないことですが、仮に現在のアメリカのような状況におかれたとするならば、今回のケリー陣営のように、これを政治的に明確に批判する勢力が果たして現われるでしょうか。私は悲観的にならざるを得ません。大勢迎合、政権迎合、無批判なヒステリー的政治行動、俗物的政治家に対する迎合などを、私は30年間の政治生活の中で、嫌というほど見せ付けられてきました。

    これは日本人の国民的習性だという人もいますが、私はわが国の政治家・ジャーナリスト・知識人の批判精神とリーダーシップの欠如だと思っています。ロシア革命の中で、インテリゲンチャと呼ばれる人々が生まれました。わが国には、真の意味でのインテリゲンチャが少ないのです。また日本の知識人といわれる人々が、ロシアのインテリゲンチャと呼ばれた人々のような生き方をしてこなかったのです。真のインテリゲンチャでありたいと、私は若い頃から願っていましたし、今も、そう思っています。

  4. アメリカの大統領選挙の結果は出ました。これからの4年間、世界はブッシュ大統領の好戦的政策に、また振り回される惧れがあります。そして、わが国の俗物的政治家や知識人が、確実に元気付くことでしょう。無批判なアメリカ追従政策が、わが国の基本政策として蔓延(はびこ)っていくことでしょう。

    しかし、残念ながら、それは世界を平和にすることにも、わが国を真に豊かにすることにもならないでしょう。力が支配する世界にしてはならないのです。連帯感の欠如した、殺伐とした日本にしてはならないのです。博愛の精神と良識が支配する世界と日本をつくらなければならないのです。わが国は、その先頭に立つことにより、国際社会で名誉ある地位を占めなければならないのです。

    秋、ますます深まりゆく今日この頃です。昨日、大統領選挙の結果がなかなか出ないので、近所を散歩しました。まだ蟲の声がしました。でも、それはかしましい蟲の音ではなく、秋のあわれを感じさせる、寂しいものでした。私たちが今日思う感慨は、このような蟲の音なのかも知れません。しかし、この蟲の音は絶やしてはいけないのです。そのことを肝に銘じました。

    ケリー氏と彼を支えたアメリカ国民に、心からの敬意を表します。

    地震で被災したわが郷里には、冷たい雨が非情に降っています。今日、私はまた郷里に帰ります。田園将に蕪せんとす、です。

03:40   東京の寓居にて

白川勝彦

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2004年11月2日
No.218

香田さんの殺害と地震

  1. 新潟県中越地震の視察で奔走している中、イラクで香田さんが人質になったとのニュースに接しました。でも、私は朝早くに出かけ、夜遅く寝るところをみつけて寝るだけの生活でした。ですから、その後の状況がどうなのか、政府がどのような対応をしているのか、詳細に知ることができませんでした。そして、10月31日(日曜日)の朝、テレビを捻ると香田さんが殺害されたとのニュースがすでに流されていました。最初からあまり楽観的な見通しにはなれなかったのですが、結果はあまりにも悲惨でした。斬首という現代の日本ではちょっと想像することさえできない残酷なものです。

    翌日の新聞をみると、当然のことながら、いろいろな視点からの社説や解説がありました。それらをすべて読んだ訳ではないので、いまあえて論評を加えるつもりはありませんが、私がみた限りの論説に完全に欠落していた視点だけ、指摘しておきたいと思います。それは、この永田町徒然草でも『財界展望』の「日本を斬る」でも何度も指摘していたことですが『イラク戦争はまだ終ってはいない』ということです。イラク国内の治安が悪く、テロが続発している状況を形容詞的にいっているのではありません。戦争法理によっても、国際条約的にいっても、イラク戦争はまだ終っていないのです。

    戦争が終っていないということは、「イラク国民から見れば、“アメリカと一緒に軍隊を派遣している国は、敵国と映る”ということを、私たちは認識しておかなければならない」ということです。日本の自衛隊は、戦闘行為や治安活動をしていない。日本の自衛隊がやっていることは、人道的な復興支援にすぎないというのは、戦争ということをまったく理解していない、理屈なのです。占領統治の中には、当然のことながら復興も含まれます。わが国の自衛隊がやっていることは、まさに、この占領統治の一環としての復興援助なのです。戦争の一方の当事者からみれば、日本の自衛隊はまさに敵方でしかありません。そして、日本という国も敵方ということになります。日本人も敵国人とみられる、ということです。

    小泉首相は皮肉にもこのことを告白しました。「テロには屈しない。テロとの戦争は続ける」といいました。そうなんです。日本は戦争をしているのです。イラクへの自衛隊派遣は国際的にはそういう意味だということを、香田さんの殺害という厳然たる事実で、肝に銘じる必要があります。

    それにしても、戦争に直接関係ないひとりの青年を捕らえ、残忍な殺害行為に及んだ武装グループの所為は、日本国民やイラク国民の心を傷つけ、孤立化を深めるだけのものです。最後になりましたが、無念の最期を遂げた香田さんのご冥福をお祈り申し上げます。

  2. 昨11月1日は、やむを得ない仕事がありましたので、ちょうど1週間ぶりに東京に帰ってきました。家内に私が1週間みてきたことを話しました。家内は家内なりにお世話になった方々と電話で話をしていたようですが、私の話をきいて、改めてその被害の大きさに驚いていました。

    過去3回は被災地からのレポートでしたが、これは久々に東京で書いています。所用を済ませたら、また現地に行くつもりですが、「平常」ということのありがたさをつくづく感じます。私たちがごく当たり前に行なっていること、ごく当たり前に享受している便益(サービス)が、大きな災害となるとすべてすっ飛んでしまうのですね。それが「被災する」ということなのです。

    阪神淡路大震災が起きた平成7年、私は衆議院の商工委員長をしていました。ですから、現地を2回視察しています。今回の新潟県中越地震では、たまたま現地で体験しました。そして、この地域を誰よりも知っている者として、平常がどのように破壊されたか、つぶさにみることができました。また私は国土政務次官をしたことがありますので、災害というものをいつも考える習性が身についています。そんな観点から、これからの救援活動、そして災害復旧について、私なりの考えを訴えていくつもりです。

    新潟県中越地震は、その被害が大きかったために、いまなお全国の人々が大きな関心をもっています。しかし、余震が治まり、復旧が進み、時間が経過するに従って、その関心も少なくなります。だが、当面の復旧を終えたあとにこそ、被災地は本当の苦しみに悩まされるのです。

    今回の地震は、被災地に大きな打撃を与えました。10年以上続いた平成不況は、地方の活力を奪い、地方経済をメチャクチャにしていました。地方の衰退は深刻な問題でした。被災した地域もその例外ではありません。今回の地震は、このように体力が弱っていた地域に深手の打撃を与えたのです。昔ながらの商店街で商売をしていた多くの人々が、店舗をやられました。立て直さなければならない店舗がいっぱいあります。しかし、後継者がいない、年々閉鎖する店舗が増え、シャッター通りなどといわれている現状の商店街で、数千万円の投資をしてお店を再建するということは、そう簡単な問題ではないのです。一例をあげれば、こういうことです。

    「田園将に蕪せんとす」…まさにその通りです。地方再生のビジョンを示すことなくして、被災地の再建をすることはできません。いまの政治には、この地方再生のビジョンがないのです。だから、本格的な復興は、そう簡単な問題ではありません。被災地の本格的な復興・再建のためには、この地方再生のビジョンがどうしても必要なのです。ですから、私はこうした問題も含めて、これからも被災地情報を発信し続けます。それが、この被災地で長い間政治活動をしてきた私の務めだと確信しているからです。「誰がために鐘はなる」…日本列島は災害列島です。

  3. 今日がアメリカ大統領選挙の投票日です。今日の夜からいよいよ投票が行なわれます。今回の大統領選挙ほど、世界が注目する選挙はかつてなかったのではないでしょうか。イラク戦争のなせる業です。日本でも、今回ほどこの選挙にこんなに関心が持たれたことはなかったと思います。いままでは、経済戦争の上でどのような影響が出てくるかということが、主な関心事でした。でも、今回は違います。小泉首相の進めるアメリカ追随政策に、多くの人々が疑問をもちはじめました。ブッシュ大統領が再選されれば、この追随政策がさらに強まっていく。それに対する危惧を、多くの人が感じています。

    アメリカ人だけでなく、世界中の人々が投票すれば、ブッシュ大統領の再選はないとある番組でいっていました。きっとそうだと思います。しかし、アメリカ人以外に投票はできません。アメリカ国民がどのような選択をするのか、世界は固唾を飲んで見守っているというのが、今夜から投票が行なわれるアメリカ大統領選挙です。結果は、数十時間後に出ます。

08:10   東京の寓居にて

白川勝彦

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