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─古文書蔵─

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2006年11月2日
No.249

1年半ぶりの更新(その2)

  1. この永田町徒然草に改めて何かを書こうとすると、一体何から書けばいいのか迷ってしまいます。書きたいこと、また書かなければならないことが実にたくさんあるからです。しかし、ここはお許しをいただいて、まずは書きたいことから徒然に始めることにします。そうしないと更新が億劫になりますから。まだまだリハビリ中なのです(笑)。とにかくこのWebサイトをできるだけ動かすことが一番大切なことだと思いますし、それが結果としてアクセスする方々に対して少しでも応えることになると思います。

  2. インターネットに接続して今日で満1週間になります。かなり離れていたものですから、ネットサーフィンをしました。以前よくみていたWebサイトにはほとんどアクセスしてみました。その後も元気で活躍しているものもあれば、私のサイトとほとんど同じであまり動いていないものもありました。また今回初めてアクセスしたサイトもかなりあります。この1年半の間にさかんになったブログなるものは、まだシステムがよく分からず、あまり馴染めませんでした。今後の課題です。

    前号(No.248)で、「(この1年半の間)インターネットをみたいと思いませんでしたし、その必要もありませんでした」と書きました。しかし、ネットサーフィンをしてみて一番感じたことは、私がもっとも関心があるリベラルな政治的発言に久々に接することができたということでした。これが一番嬉しかったことです。また救いでした。いまや一般のマスコミではほとんどこうした言動に接することができなくなりました。わが国のマスコミ・ジャーナリズムは、右傾化していると同時に俗悪化しています。以前ではまともなマスコミが相手にせず、決して露出させなかった評論家や政治家がなぜか必要以上に私たちの目にとまるようになりました。私はテレビのスイッチを怒りをもって切ることが時々あります。

  3. 今回みさせてもらったWebサイトの中で一番驚いたのは、森田実さんのサイトのアクセス数でした。私がサイトを開設し一生懸命動かしていた頃は森田サイトと白川サイトのアクセス数はほぼ拮抗していたのです。私のサイトにアクセスする方の大半は、森田サイトをご覧になっておられることと思います。森田さんのホームページにあるアクセスカウンターは、本日345万余でした。私は以前から「森田実の時代を斬る」をお気に入りにいれておいて、ここからアクセスしていましたから(その場合はアクセスカウンターは動きません。これは私のサイトも同じです)、毎日相当の人がアクセスしているのです。

    森田さんは、毎日必ず更新しています。最近ちょっと思い詰め過ぎているんじゃないとさえ感じてしまうほど、日本の政治に警鐘を鳴らしています。論点も内容も極めて優れていると私は思っています。最近は、自公連立についても強い調子で批判しています。森田さんを最近テレビで見れなくなった理由がわかりました。自公連立を批判する自民党の政治家は、役職に就けません。自公連立を批判する学者・評論家は、テレビや新聞には出れないんです。創価学会の圧力もあるのでしょうが、マスコミの方が自己規制している方が強いんじゃないでしょうか。創価学会=公明党は、圧力などいまさら使わなくてもその存在自体がそういう結果をもたらしているのです。自公体制の定着化の意味はいろんな面で大きいんです。

    ブログなるものができたせいでしょか、掲示板が少し減ったような気がしました。その中で平成海援隊というサイトのDiscussion BBS政治議論室は、きわめて質の高い議論を展開しています。主宰者のイライカナイの人柄と努力のなせる業です。非常に地味なBBSですが、4年弱で9万近くのアクセスがあります。このBBSだけは、この1年半の間も漫画喫茶にいった際ときどき覗いていました。

    インターネット・カフェなどと呼ばれることが多くなりました。私が“漫画喫茶”に行くのは、週刊誌と好きな漫画をみるためです。コンピュータがみれるあの狭い席は、私の好みじゃありません。ですから私はオープンタイプの漫画喫茶に行くことが多いのです。単行本になっているような有名(?)な漫画をみるというのは、そんなに簡単なことじゃないのです。1回に4〜5冊読めれば上出来です。けっこうお金もかかります。漫画愛好家としては、貸し出しもしてくれる図書館があったらよいのになぁーと本気で思っています。

    閑話休題。このBBSとは少なからぬ因縁があります。私の旧WebサイトにあったBBSが陰湿な荒らしにあったため、私は煩わしくてこれを閉鎖しました。しかし、私のBBSのファンの皆さんが質の高いBBSが欲しいということで、ニライカナイさんが開設したのです。時々は荒らしらしきものもあります。それを招く原因が私にもあるようです。確信犯的な荒らしに付き合っていくというのは本当にたいへんなのです。政治家というか、選挙にでようとするものはなかなか荒らしをシャットアウトすることができないのですが、ニライカナイさんはそういう人じゃありませんから(といっても実は私はあったこともないのですが)、手際よく解決し、実にいい議論をしていると思います。私のサイトにBBSを設けるかどうかはまったく未定です。その間はぜひ平成海援隊のこのBBSで議論を交わして下さい。私も時々は書き込みなどをするようにしたいと思います。

  4. インターネットをやるようになって一番悪かったことは、どうしても夜更かしをしてしまうことでした(笑)。そのうちぜひ詳しく書こうと思っていることなんですが、この3ヶ月の間私はいたって健康な生活をしていたのです。その証拠に3ヶ月で13キロものダイエットに成功したのです!いろいろありますが、健康生活の基本はなんといっても早寝・早起きです。しかしこの数日は寝るのが午前2時、3時という日になってしまいました。これはイカンと思っても、なぜか夜更かしになってしまうのです。これは私だけなのでしょうか。日の高いうちからインターネットをみていると、なぜかこれでいいのかと思っちゃうのですよね。インターネットがまだまだ主流でなかったころの名残りなのでしょうか?今後インターネットと付き合うとしても、これだけは断固として慎まなければならないことだと思っています。

    タイピングの方は、この数日でかなり回復しました。以前ようにブラインドタッチで打てました。残念ながら数字はダメですが…。私はブラインドタッチでしか日本語のタイピングはできないのです。そういう風に仕込まれましたから。その逆にメールアドレスなどのようにアルファベットで打ち込まなければならないのはキーボードをみないと打てないのです。まぁ私の場合はその必要がほとんどありませんから、これはこれでいいと思っているのです。私は以前には単語登録をかなり活用していたものですから、新しいコンピュータに一つひとつ登録するのが大変です。しかし、せっかく登録してもあまり使わないものもけっこうありましたから、今度は頻度の多いものしか登録しないようにしています。

    ホームページのキャッチコピーは、ただいま思案中です。私は広報物などのキャッチコピーを非常に大切にしてきました。後援会のスッタッフや秘書から、こりすぎだといわれました。しかし、私はきわめて大切なことだと思っています。有権者の心をキャッチする言葉なのですから。昭和54年に初当選した時に使ったキャッチコピーは、

    「熱い ( ロマン ) 、汗する知性」

    でした。私がその後ずーっと企画宣伝をお願いすることになったある広告会社の企画マンが最初に提案したのは、「熱い魂、冴えた知性」でした。いま考えても私が辿りついた「熱い ( ロマン ) 、汗する知性」の方が絶対に優れていると思います。彼は私の政策秘書の田口君と仲がよく、この二人で政策や広報で私を支えてくれたのですが、二人ともガンで亡くなってしまいました。二人とも50代前半でした。お互い健康には気をつけたいものです。

    Webサイトのキャッチコピーも、サイト全体の内容と方向性を示すものですから、よくよく考えた上でいいものにしたいと思っています。しばらくWebサイトを動かしているうちに、自分なりの方向性がみえてくるでしょうから、その時点で決めた方がいいと考えます。ところで、どうでもいいことなんですが、いつ頃からキャッチコピーという言葉が使われるようになったんでしょうか。昔は(熱い魂、汗する知性の頃も)、キャッチフレーズといっていました。

    爽やかな秋晴れの日が続いております。今年の東京の夏は、ほんとうに雨がよく降りました。北海道からは初雪の便りもあります。このような爽やかな秋晴れも、また値千金。明日からは3連休。どうかよい連休をお過ごし下さい。私は今年1月に亡くなった姉(72歳)の一周忌があるため、郷里に久々に帰ってきます。懐かしい方々と久々に飲む約束もあります。「朋、遠方より来るあり、亦た楽しからずや」。行く方も楽しいのです。秋の夜長を美味しい郷土料理をいただきながら、気がおけない仲間で飲み談笑する。いまからわくわくします。

それでは、また。

白川勝彦

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2006年10月30日
No.248

1年半ぶりの更新にあたり

  1. 長い間、多くの人にご愛読いただいたこの永田町徒然草の更新は、実に1年半ぶりです。Webサイトを動かしていたころ、選挙などを目前にした忙しい時に更新がちょっと遅れると「便りのないのは良い知らせとご承知下さい」という常套句でお詫びしていたものです。しかし、1年半もの間、このWebサイトの目玉ともいうべき永田町徒然草を更新しないことが「良い知らせ」である筈がありません。事実この1年半、私はいろいろな意味で苦境のどん底で喘(あえ)いでいました。その喘いでいることを吐露することも大切なことなんでしょうが、他人に話せる苦悩=苦境などというものは、実のところ本当の苦悩=苦境じゃないと思うのです。少なくとも、私の場合はそうでした。

    だが、人生にゼロということはありません。マイナスはあっても、生きている限りゼロということはないと思います。この1年半の間に私が感じたこと・考えたこと・やったことをここで述べるとすると長くなりますので、今後おいおいと述べることにします。そうしないと、いつまで経っても更新できなくなりますから。

  2. 永田町徒然草No.240によれば、2005年3月10日時点でホームページのアクセスカウンターは117万とあります。本日の数字は、126万8217です。永田町徒然草を最後にupdateしたのは、2005年5月10日でした。その時の数字は憶えていませんが、118万か多くて119万と推測されます。そうするとこの1年半の間に、少なくとも8万のアクセスがあったことになります。通信料金は以前に比べて安くなりましたが、多くの方々がせっかく私のWebサイトを訪ねてきて下さったのにそのご期待に応えることができなかったことになります。Webサイトを開設している者として、まずこのことを深くお詫びいたします。

    しかし、ごく最近まではそのようなことには、とても思い及びませんでした。いや、そもそも私は、インターネットをみておりませんでした。選挙戦が終わり十日町市を引きあげる際、それまでインターネットに接続していたコンピュータ一式を持ってきたのですが、机の上においたまま、起動も接続もしないままほったらかしにしておりました。その間、インターネットをみたいと思いませんでしたし、その必要もありませんでした。

    今回、またこのようにインターネットに接続し、またWebサイトを動かそう思ったきっかけは、私の古くからの支援者を通じてある雑誌への原稿を頼まれたからでした。そこで、机の上に置いてあったコンピュータを起動させてもらおうと頼んだところ、私が十日町市から持ってきたコンピュータとディスプレーの機種が違うために、ワープロとしても使えないことが判明しました。どうしたものかと困っていたところ、ある人がこれを一式使ってもよいということで、今、この原稿を打っているコンピュータを与えられたのです。その方がセットにも来て下さったので、インターネットへ接続も一緒に設定してもらうことができました。私がインターネットをみるのは、実に1年半ぶりです。そうして、確認したところ、この1年半の間に少なくとも8万ものアクセスがあったことを知りました。ですから、その方々にまずお詫びをしなければならないと思った次第です。

  3. 久々にキーボードに触ると、確かに思うようにいきません。ですが、そのことはあまり心配していません。少しすればかなり回復すると思います。ただ、インターネットとどう付き合っていくか、Webサイトをどのようにしていくかということに、今の時点でこれといった基本コンセプトはありません。先ほど、この1年半の間インターネットをほとんどみなかったと書きました。それでも、日常の生活に困ったり、不都合を感じることはありませんでした。私は、自分のWebサイトを相当に気にする方だったので、むしろ解放感の方が大きかったのかもしれません。ですから、かつてのように「何かに追いたてられるようにWebサイトにのめり込む必要もないのではないか」という気がしてなりません。

    しかし、私はWebサイトをもっており、これに多くの方が現にアクセスして下さる ─ これは現実です。そして、私にも伝えたいこと・話したいことが少しずつ出てきました。だったら、せっかくあるWebサイトを通じてこれを発信していく。それはそれとして、大切なことなのではないかと思うようになりました。少なくとも、白川勝彦という人間が生きている証にはなるでしょう。人間生きている限り、自分が生きていることくらい自分に関心をもって下さる方には伝えたい。それは自然な気持ちでしょうし、恥ずかしいことではないと思うのです。

    今回、ボツボツでいいから、まず私が生きていることを、そして、その私がいま感じていること・考えていることを伝えたいたいと思い、Webサイトを動かしてみる気になりました。それ以外に、何の目的も意図もありません。焦らず、気負わず、肩に力を入れないで更新していきます。何しろまだリハビリ中ですから。ですから、アクセスする方も、あまり期待しないで気軽にお出かけ下さい。

  4. 私は万事完璧を期す方でした。ですから、Webサイトを動かすにあたってもホームページの表題やデザインや構成を改めたくなります。以前ならばまずこのことから始めたでしょう。いま皆さんが目にするホームページは、約2年前に十日町市長選挙に立候補することを前提にデザイン・構成したものです。しかし、思いたったが吉日。とりあえず、永田町徒然草だけを更新します。先ほども述べましたように、今回再開するにあたって、特別な目的や意図がある訳ではありませんので、キャッチコピーをどうするかだけでも大問題になります。これらを含めて、おいおいと決めていきたいと思います。しばらく時間を下さい。

    最後になりますが、私のコンピュータは動いていませんでしたから、Webサイトにあるメールアドレスに送っていただいたメールも、私はみておりません。いや、みることができなかったのです。今回インターネットに接続しましたので、みようとすればみることはできます。しかし、前にも書いたように、公開している私のメールボックスには、何の因果か知れませんが、大量の、しかも非常に重いメールが入ってくるのです。そのほとんどは迷惑メール以上のものです。今回、皆様からいただいたメールをみようとすれば、なにしろ1年半ですから、ダウンロードするだけで何日もかかるでしょう。その中で必要なものは、50件に一つあるかないかです。せっかくメールを下さったのに、これをみないことはたいへん失礼なことは、重々承知をしておりますが、メールボックスにあるすべてのメールを削除させていただきます。どうかお許し下さい。

    インターネットの双方向性については、誰よりも知っているつもりですが、心無い者がいるためにその利点を活かせないこともあることをこの際知っていただければ幸いです。この点が解決できれば、またメールアドレスを付けるつもりですが、いまのところ妙案は思い付きません。従って、いまWebサイト上にあるメールアドレスにメールを下さっても、私には届きません。この点、ご承知おき下さい。

それでは、また。

白川勝彦

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2005年5月10日
No.247

戦いすんで、日は昇る

選挙後も五月晴れの爽やかな日が続いています。私は、選挙でお世話になった方々のところを、じっくりとお礼に回っています。ほとんどのお宅で、上がらせていただき、いろいろとお話しします。皆さん、残念だったと言われます。私は、熱心に応援した下さった方々の期待に応えることができず、本当に申し訳ないことをしたと思い、それが残念でなりません。昨年12月12日の出馬表明以来、私は全力で頑張ってきました。でも、私が直面した状況は、きわめて厳しいものでした。それでも、与えられた状況を私は現実として素直に受け止め、これをどう打開していくかだけを考え、行動してきました。そして、4月の中旬ころから、当初期待していた態勢がようやくできたのです。これならば何とか届くのではないかと思ったのですが、あと4〜5日足らなかったと思います。

『財界展望』6月号の原稿を書いたのは、4月10日でした。

「選挙だけは、フタを開けてみるまでは分からない。いかなる結果がでようが、候補者は従容として受け止めなければならない。結果が吉とならうが凶とならうが、十日町市長選にのぞんだことにいまの私にはまったく悔いはない。この戦いは、政治家としての私がどうしてもやらなければならないことであった。このことだけは確かである。」

と、私は書きました。この時点では、私は、今回の結果が厳しいものとなることを、ある程度覚悟していたのです。私の友人が心配をして、3回、世論調査をかけてくれたのですが、いずれも私の支持率は7%しかありませんでした。客観的にいえば、これでは勝つことはできません。誰にもいえる数字ではありませんでした。私は、世論調査の数字を重く見るほうです。でも、私は30年間にわたり十日町市で活動してきたので、市民の政治マインドを知っていましたし、ある程度の態勢ができれば、挽回することは可能だと考えていたのです。

しかし、私を支えていたものは、そんな戦術的なことではなく、新しく誕生する十日町市の厳しい現実でした。十日町市の地域経済・行政の状況・自然的歴史的政治的環境・政治基盤などは、極めて厳しい状況におかれています。政治基盤とは、地域住民が十日町市を自らの自治体と感じ、これを主権者としてどうコントロールしていくかという意思・態勢・能力など全般を指します。情報化社会ですから、地方のマスコミの果たす役割や質も問われなければなりません。これと関連して、有権者の政治に対する関心や投票にあたっての判断要素や行動様式も含まれます。

私は、人の政治行動を評価する場合、政治に対する問題意識や自主性や独立性などを、もっとも重要な要素として重視します。政治と金の問題だってあります。地方選挙でも、かなりのお金は必要なのです。私は、自らが困難な状況におかれている原因が、己の過去の政治行動に起因することは十分過ぎるほど自覚していました。しかし、一方では日本の社会全般にある政治基盤の荒廃も、大きな理由としてあると考えていたのです。政治家として「自分の生まれ故郷の十日町市くらいは、民主主義が躍動する地域にしたい ─ その責任が私にはある」と考えたのです。

私は、全力でこれらの課題に立ち向かいました。私たちの努力は徐々に実って、わずか半月で7%から19%の支持率までもっていくことができました。私が、あと4〜5日ほしかったというのは、気休めでも強がりでもないのです。十数回も自分の選挙を戦い、他人の選挙を含めれば何十回もこれを経験した者としての実感です。しかし、その4〜5日が足らなかったのも厳然たる現実です。私自身の能力の限界もありました。そのことだけが慙愧にたえません。私を信頼してくれていたサポーターの皆さんに深くお詫び申し上げます。しかし、サポーターの方々も、自らの活動の中で、今回の結果となった原因をそれぞれしっかりと掴んでいるようです。それらを持ち寄って、これからの十日町市のために何をしていかなければならないかを、お互いに色々と話し合っています。選挙は残念な結果に終わりましたが、十日町市における新しい政治の流れは、確実にできてきたと思いますし、これを確かなものにしていくことが、私に与えられた務めだと、肝に銘じています。

それでは、また。

20:10十日町市の事務所にて

白川勝彦

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2005年5月3日
No.246

進退は命に従い、栄辱は人に委ねる

  1. 今日の十日町市は、爽やかな五月晴れです。私の気持ちも同じように極めて爽やかです。私はこの半年間、合併して誕生する十日町市のあるべき姿、進むべき道筋、何をどのように整備していくべきか、発言し行動してきました。選挙戦を含め、私は与えられた条件の下で、全力を尽くしてきました。完全燃焼しました。昨日は、この間特にお力添えをいただいた方々に御礼の挨拶をしました。夜は、本部事務局の幹部の皆さんと反省会を兼ねた慰労会を行い、今日は一日、お休みをいただくことにしました。

    この1ヵ月間は、毎日朝5時半には起きていましたので、今日も朝早く目覚めました。でも今日は、疲れきった体を少し癒そうと思い、無理して何度もベッドで横になっていました。テレビも久々に見ました。尼崎での列車脱線事故は新聞で知っていましたが、詳しい事故の現状を、はじめて知ることができました。犠牲になられた方々のご冥福を、心からお祈りします。いまNHKでは、憲法記念日の特集番組で、各党代表者が憲法改正問題を議論しています。これを聞きながらこれを打っています。

    まず市長選挙の選挙結果をお伝えします。

    田口 直人 (旧川西町町長)
    11510票
    当選
    滝沢 信一 (旧十日町市市長)
    11048票
    村山 薫 (前会社役員)
    9099票
    白川 勝彦
    8339票
    樋口 利明 (前旧十日町市市議)
    3676票
    (有権者数52393・投票率84.85%)
  2. この結果の受け止め方は、人それぞれでしょう。ただ私は、私がおかれている状況をしっかりと知っておりましたので、素直に受け止めています。選挙の終盤で、私が期待していた態勢がようやく整ってきましたので、所期の目的を達することができるかもしれないと感じていましたが、あと4〜5日足らなかったということだと思います。

    私は今回の選挙戦の情勢は、的確に知っておりました。しかし、私たちの陣営の力・可能性も信じていましたので、最後まであわてることなく、冷静に一つひとつの活動着実に実行してきました。選挙の終盤では、1日に700〜800枚もの確認カードが選対事務所に集まりました。こんなことは「私が70%の得票をした衆議院選挙のときもなかった」と、本部事務局のスタッフがいっていました。

    当選をした田口候補と私の得票差は、3171票です。ようやくできたムード・態勢で、あと4〜5日活動できれば必ずつめることができたと私は思います。しかし、その時間がなかったということです。逆にいえば、その態勢をつくるのが遅かったということです。これは、私の責任です。ですから、いろいろな困難な中、私の応援をしてくださった方々の期待に応えることができなかったことに本当に申し訳なく、心からお詫び申し上げます。(選挙についての詳しい分析は、後日書きたいと思っています)

  3. 選挙に立候補しようとする者は、何らかの目的をもっています。エントリーするだけでいいと考えている者もいないわけではありません。私が最初に衆議院選挙に立候補した時などは、最初はそんな考えでした。それでも達成しなければならない目的──目標数はありました。今回の市長選に出馬する決意をしたとき、私は当選し、新しい十日町市の舵取りになることを目的にしました。私と一緒に出馬を協議していた同志も同じです。そしてその目的を達成することは、十分可能性の高いことと、私も同志も思っていました。

    しかし、思惑や期待や予想と、現実はいつも違うものです。私たちの場合もそうでした。状況は予想をこえる悪いものでした。活動を始めてはみたものの、あまりにも困難な状況があるために、活動を行うこと自体に躊躇する人までいました。でも、どんなに困難な局面に直面しても、私の決意と確信が揺らぐことは、一度もありませんでした。私を、そして私たちの陣営を苦しめるそうした現実こそ、十日町市の問題状況だと私は思ったのです。政治基盤の荒廃は、十日町市でも私が予想する以上に進んでいたのです。

    十日町市は、私の国政選挙の地盤です。ですから、私はこの地域の政治基盤のありようを、ある程度知っていたつもりでした。私は、この地域の地方選挙に原則として関与しないことをモットーとしていました。従って、私が知っていたのは、国政の選挙における政治基盤だったのだと思います。十日町市の地方選挙の政治基盤は、私が考えていたよりも、そんなにレベルの高いものでなかったのかもしれません。

    でも私はそうしたものに迎合したり、妥協するつもりは毛頭ありませんでした。健全で肥沃な十日町市の政治基盤を育てることなく、十日町市の発展などあり得ないからです。私は、私を政治家として育ててくれた十日町市の有権者を信じていました。それは、どんなに困難な局面に遭遇しても変わらない私の信念でした。その信念がなければ、政治を行うことはできません。ですから、私は賢明なる十日町市民を信じて発言し、行動しつづけてきました。他陣営から見たら、一体白川は何を考えてあんなに多くの広報物を作り、配布をするのだろうかと怪訝に感じたと思います。

  4. 十日町市のおかれている状況、行政のあり方については、私の地元のことですからおおむね知っておりました。しかし、行政のトップになるつもりで十日町市の現状を改めてみると、かなり深刻なものが数多くありました。その中には、もっぱら十日町市の行政に責任があり、トップが決断さえすれば直ちに変えられることも、多くありました。私は十日町市の新しいリーダーとして、「これらに取り組み、市民の便益を図り、十日町市に希望の松明を灯さなければならない」と、思いは高まるばかりでした。この使命感が、どんなに困難な局面にあっても、私を支えてくれました。

    私心のない使命感があるからこそ、私はサポーターの皆さんに、選挙で所期の目的を果たすために、苦労の多い作業をお願いしました。多くのサポーターが私のお願いを理解し、必死に行動してくださいました。その努力が、私が状況おかれた困難な状況を少しずつ好転させ、最後は飛躍的に前進させてくれたのです。私のサポーターがいちばん望んでいることは私の当選ですから、遠慮をすることなく、もう少し率直なお願いをしておけば、今回のような結果にならなかったと確信しています。これは、私の状況判断の甘さと、リーダーとしての弱さでした。慙愧に耐えません。深くお詫び申し上げます。

    結果は私たちにとっても残念なものでしたが、多くの十日町市民にとっても、割り切れない気持ちが残るものだったと思います。今回の選挙戦は、好天に恵まれました。私は街頭演説で、「私は、今日のように、明るく爽やかで活気ある十日町市をつくります」と訴えました。今日も素晴らしい好天です。しかし、多くの十日町市民は、今回の選挙結果を「明るく爽やかな活気ある十日町市」が始まると受け止めていないでしょう。その最大の責任は私にあります。30年間政治家として育てていただいた十日町市民に、私は心からお詫びを申し上げます。

  5. いろいろな意味において、慙愧に耐えないことがあり、申し訳ない結果となりました。それでも冒頭にいったとおり、いまの私の心境は今日の天候のようにすがすがしいものがあります。与えられた条件の中で、やるべきことを全力を尽くしてやった ─ そんな満足感かもしれません。

    「進退は命に従い、栄辱は人に委ねる」

    私の政治の師・大平正芳元総理が好んだ言葉です。十日町市長選への立候補は、私に与えられた天命だと確信しています。そして、私が十日町市の発展のためにやらなければならないと思ったことは、どなたが市長になろうとも、やらなければならないことだと確信しています。十日町市は、私にとってたった一つしかないふるさとです。多くの十日町市民にとってもそうです。今後とも、唯一無二のふるさと十日町市の発展のために尽くしていく決意です。この思いを、昨日本部事務局の幹部の皆さんに伝えました。皆さん、私がそのような決意でいることを喜んでくれました。詳細は、連休明けからじっくりと話し合って進めていくつもりです。

    最後に、十日町市とは直接関係ない多くの方々から、今回の私の選挙に物心両面の大きなご支援をいただきました。深甚なる感謝と御礼を申し上げます。今後とも温かいご理解とご交誼を、心からお願い申し上げます。

12:10十日町市のアパートにて

白川勝彦

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2005年4月24日
No.245

今日からまたタスキをかけます!

  1. いよいよ今日、十日町市長選が告示されます。前号から2週間以上も間をあけてしまいました。申し訳ありません。今朝が、例によって最後の更新の機会ですので、前夜までに必ず書こうと思っていました。万全の準備をしてきたつもりですが、最後になると明日までにどうしてもやっておかなければならないことが次々と出てきまして、アパートの帰ってきたのは午前0時30分でした。Webマスターには朝、早起きをして午前8時までにupdateしておいてほしいとお願いしておきました。

    私は朝風呂に入るのですが、さすがにクタクタになったので、風呂に入り、心身ともに新鮮になってこの永田町徒然草を書いております。一昨日(22日)は、川崎二郎元運輸大臣・山本公一総務副大臣等をお迎えして、盛大な決起大会を行いました。男子三日会わざれば剋目してみるべしといいますが、皆さん素晴らしい応援の弁をしてくれました。またいろいろあったようですが、そこをおして来てくれました。友情に感謝する次第です。

  2. その模様を日々のアルバムでお伝えしたいと、いま、事務所でボランティアのスタッフが頑張っています。日々のアルバムもほとんど開店休業でした。せっかく手ぶれ防止付のデジカメも買ったのですが、この間私はほとんど一人で運転しながら十日町市を回っていたので、活動を伝えるいい写真が撮れなかったのです。感動的な場面はいろいろあったのですが、お伝えすることができずに残念です。写真の転送を私自身ができなかったこともあります。

    しかし、最大の理由は、別にあります。このところ何回か書きましたように、私は政治の場面においてインターネットが果たす役割について、かなり醒めた見方をしているからです。十日町市という限定した地域における選挙だからではありません。日本では残念ながら、どんな選挙においてもそうだろうと思っているのです。その大半の責任は、政治家側にあります。また、行政にもあるでしょう。このように、多くの有権者が候補者について関心をもつ選挙期間には更新できないのですから、政治家のWebサイトは、結局のところ気の抜けたビールのようなものです。そのことについては、「総務省との喧嘩の顛末」に書いてありますので、ここで述べません。

    また、それだけでなく、有権者側にも、責任の一端はあるのではないでしょうか。政治的な掲示板をみると、このことを感じざるを得ません。私も、かつてこのことを嫌というほど経験しましたし、3回の選挙でもこのことを痛感しました。でも、インターネットの世界だけで政治の基盤が荒れているのではなく、日本の政治全体の基盤が荒廃しているのですから、仕方ないのかもしれません。

  3. 私はこうした考えをもっていますが、インターネットをないがしろにするつもりはありません。

    「たとえ夕べには枯れる朝顔に水をやる心を大切にしたい」

    私の政治の師・大平正芳氏が好んで使った言葉です。今回の選挙では、私はインターネットと自然体で付き合おうと思っていました。ですから、これまでと比べるとちょっと更新が少なかったのだと思います。このようにご理解ください。

    毎日毎日が忙しい日々でした。また状況がそんなに変わるわけではありませんので、そんなに書くことがなかったことも事実です。街宣車に乗ったのは、3月31日からでした。やはり私にとっては街宣活動が原点です。いくつかお伝えしたいことがあったのですが、いまここで書くには時間がありません。後日にすることをお許しください。

    その時々の心境は、白川勝彦後援会ニュースの「郷土への手紙」に書きましたのご覧ください。そしていよいよ告示を迎える現在の心境は、「明鏡止水」です。全力を尽くして準備してきました。そして、やるべきことは全部やってきたつもりです。そして今日から、タスキをかけて全力で戦うつもりです。選挙はいつも真剣勝負です。選挙に大きいも小さいもありません。

  4. Webサイトでカンパのお願いをしたところ、おおぜいの方々からご協力をいただきました。厚く御礼申し上げます。

    「白川など、金が詰まっていずれは降りるだろう」

    と、他陣営から笑われました。確かに私は個人的には無一文になりましたが、私が命を賭けて選挙に立候補するならば、資金的にこれを支援して下さる方々がいれば、私に金があると同じだと、私は思っています。政治は公のものです。その政治を資金的に支えるのも、公のことだと私は考えてきましたし、そのような方々の支援で、私は政治活動を行うことができたのです。私は幸せ者だと思っております。その代わり、政治は誠心誠意やってきたつもりです。今後ともこの姿勢だけは貫きます。

    1〜3まできて、この4の分量が明らかに足りません。だいたいのバランスを考えて書いてきたので、もう少し書きたいことがあるのですが、明日からはハードなスケジュールをこなさなければなりません。昨日の疲れも吹き出てきました。この辺で休ませてもらわないと、今日がつらくなります。自然体でインターネットとつきあうということでお許しください。

    それでは、また1週間後に。

02:10十日町市のアパートにて

白川勝彦

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2005年4月8日
No.244

新十日町市誕生の感慨

  1. 前号で、

    「新しい十日町市の誕生とその前途に対しての感慨は、 一入 ( ひとしお ) のものがあります。本来は、記念すべきこの日にこそ述べたいことがあるのですが、いかんせん多忙で、書きあげることができませんでした。数日の間に必ず書きあげ、ここに掲載しますので、お許しください」

    と書きました。数日間ですから、英語でいうとseveral、5〜6日くらいは大丈夫と思っていたのですが、その期限も過ぎたようです。とにかく、無茶苦茶に忙しい毎日です。もっとも、今ごろ暇のようでしたらダメですよね。このところの常套のお詫びの言葉となりましたが、便りのないのはいい知らせですから、お許しください。

  2. 新しい十日町市の誕生の感慨の第一は、旧東頚城郡松代町・松之山町が今回の合併で十日町市になったということです。私は、1975(昭和50)年に衆議院選挙に出馬したときから、

    「十日町市、中魚沼郡、松代・松之山は、わが地元」
    と訴えてきました。後援会組織もそのように作りました。しかし、いくら私がそう考えても、松代・松之山の方々はそう簡単には受け入れたくれませんでした。昭和51年の最初の選挙から、十日町市・中魚沼郡では私はトップの得票をしましたが、松代・松之山では共産党候補のちょっと上の得票しかできませんでした。私が松代・松之山町でトップの得票ができるようになったのは、5回目の選挙からでした。そのために、私は大変努力しました。今回の合併で松代・松之山が旧十日町市といっしょになって新しい市を作ったのです。感慨 一入 ( ひとしお ) のものがあります。

  3. 今回の合併で心残りなのが、中魚沼郡の川西町・中里村が合併に賛成したのに、中魚沼郡津南町が合併に賛成しなかったことです。中魚沼郡は、津南町一町だけの郡になりました。私は何も「大きいことはいいことだ」などと考えてはいませんが、十日町市地域の大合併に津南町が加わらなかったということは、多くの住民が不自然に思っています。新しい十日町市と津南町とは、いろいろな面で不可分一体のところがいっぱいあります。いずれにせよ、新しい十日町市は津南町といろいろな面で協力していかなければなりません。私は津南町との合併は、新しい十日町市の課題として、今後とも真剣に取り組んでいかなければならないと思っています。

  4. いずれにしても、新しい十日町市が誕生しました。私が長年地元としてきた地域が、行政的にはひとつになったのです。そして、私はその市の舵取りとなるべく、いま懸命に努力しています。運命的なものを感ぜずにはいられません。

    出発の時間がきました。もっといろいろなことを述べたいのですが…。最近アップした、財界展望白川勝彦後援会ニュースなども、どうぞあわせてご覧下さい。

それでは、また。

07:10十日町市のアパートにて

白川勝彦

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2005年4月1日
No.243

祝・新しい十日町市

本日、新しい十日町市が誕生しました。心からお祝い申し上げます。

新しい十日町市の誕生とその前途に対しての感慨は、 一入 ( ひとしお ) のものがあります。本来は、記念すべきこの日にこそ述べたいことがあるのですが、いかんせん多忙で、書きあげることができませんでした。数日の間に必ず書きあげ、ここに掲載しますので、お許しください。

今日、十日町市は快晴です。今日から街宣活動を始めます。私も今日から街宣車に乗ります。時間がきましたので出かけます。

08:10十日町市のアパートにて

白川勝彦

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2005年3月23日
No.242

暑さ寒さも彼岸まで

豪雪の地、十日町市でも彼岸を過ぎましたら、急に春が感じられるようになりました。今週の月曜日(4月21日)、白川勝彦後援会の有志による政策パンフ配りが行われました。上越地区の同志も友情参加して、総勢100名による十日町市街地へのパンフ配りです。当日朝、目を覚ますと雨でした。どうしてこういう日に雨なんか降るんだと天をいささか恨みました。そうこうするうちに雨が雪となってきました。これは、きっと天が私に試練を与えているんだと覚悟しました。ところが時間が経つにつれ、天候が回復してきたのです。9時半に出発式を行ったのですが、このころはすっかり快晴となりました。気温も汗ばむほどでした。同志の皆さんは、絶好の春日和の中、重い政策パンフをたづさえて、十日町市内に散っていきました。天候に恵まれ、十日町市街地の1万戸に3時間くらいで配布し終えました。白川軍団のこの機動力は衰えていませんでした。同志の皆さんに心から感謝申し上げます。

平成になって、はじめての豪雪の冬でした。ですから、市長選そっちのけで私は雪のことを書きました。日々のアルバムも雪の写真ばかりで、Webマスターに怒られてしまいました。でも雪だけは、その時に伝えておかないとなかなか理解してもらうことが困難なのです。地元の人々でさえ、豪雪の時はあんなにクドくのに、雪が消えると豪雪対策の話などしてもあまりのってこないのです。でも、地球温暖化などといっても、豪雪は必ずきます。ですから、ちゃんとした対策をしていないとその時になって困るのです。

「暑さ寒さも彼岸まで」といいます。お彼岸もすんだことですから、これからは雪の心配はないでしょう。市長選の告示も一ヵ月後に迫りました。これからは、雪の話ではなく、市長選のことや十日町市のことをどんどん発信していきます。3日前からPCがウイルスにやられてしまい開くことができず、永田町徒然草を更新することができませんでした。インターネットでWebサイトみなければ生活がどうこうということはありませんが、寝る前に日頃みているWebサイトを開くというのは、もう私の習い性になっています。なんだかおかしな感じがした数日でした。

今日は、選挙戦に向けての書き物をしていました。そのちょっとした間に、これを書きました。それでは、また。

17:30十日町市のアパートにて

白川勝彦

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2005年3月15日
No.241

はばたけ!十日町市。         
          偉大なる郷土へのすじ

  1. 合併して新しく誕生する十日町市の市長選に、出馬の決意を表明して以来早いものでもう3ヶ月が経ちました。選挙の大小を問わず、選挙というものは厳しいものです。ですから、私は、いわれない誹謗や中傷・心ない仕打ちに対して、反論もしなければクドきもしなかったのです。選挙とは、こういうことを乗りこえて勝利を ( つか ) むものなのです。いまや政治家は侮蔑の対象ですが、では一般の人がそれだけの苦労や修行をしているかといえば問えば、これを肯定できる人はそんなにいないでしょう。

    私は長い間政治を職業としてきた者ですから、政治家を擁護したり弁護するすつもりはありません。同じ政治家同士で話すときは、私の経験を例にあげて、励ましたり ( さと ) したりします。でも一般の方々にいいたいのは、あまり度をこした政治家いじめは、決していい政治家を育てることにはならないということです。ときにはいじけた政治家を生む原因にもなります。いい政治家を育てるということは、子供の教育と同じだと思います。政治家を甘やかす必要はまったくありませんが、いい政治家を育てるためにどうしたらいいか考えながら、批判や試練を与えてほしいと思います。国家やそれぞれの地方には、やはりいい政治家がいなけえば、困るのは最後は結局国民や住民なのですから。

  2. さる3月8日、来るべき市長選に臨む私の政策を記者発表しました。3ヶ月間地域を回り、多くの人々のご意見を聞きながら練り上げてきた政策です。かなり長いものになりましたが、なぜその政策が必要なのか分かってもらいたかったのと、できるだけ具体的に書きたかったからです。抽象的なことならば、だれでも書けます。役人に書かせれば、政策などそれこそ馬に食わせるほどつくります。そういう政策は、これまで私はいやになるほどみてきました。

    今回発表した私の政策のタイトルは、

    “はばたけ!十日町市。         
             偉大なる郷土への道すじ”

    としました。
    ビジョンという言葉を使わなかったのは、高齢化の進む十日町市ではビジョンという言葉を知らないお年寄りもいるとの意見があったからです。政治はすべての人々に分かりやすい言葉を使わなければならないからです。

    もう一つの理由は、ビジョンという言葉があまりにも安易に使われすぎているからです。商店街活性化ビジョンなど、これまでに嫌というほどみてきました。商工会議所や商工会などがコンサルタント会社にお金を払えば、こんなものはいくらでも書いてくれます。でもそれで活性化した商店街などは寡聞にして知りません。ビジョン倒れという言葉は、けっこう普通の会話にも出てくるじゃないですか。

    30年間政治の世界にいた者として、また私が隅から隅まで知りつくしている新しく誕生する十日町市に関する政策ですから、詳細かつ具体的でなければならないと思ったからです。他地域の方には具体的地区の政策はちょっと分からないところがあるでしょう。それは仕方ありません。でも具体的地区の具体的施策を明らかにしなければ、政策の本当の中味は分からないのです。

    本当は、ここで書いたことよりもやりたいことはまだまだあるのです。でも、現時点で実行できる自信のないものは、あえて載せませんでした。ここに載せたものは、すぐに実現できることや着手できること、ある程度の歳月をいただければ実現できることだけです。政治家──しかも執行権のある首長の政策は、そういうものでなければならないと私は思います。

  3. ところで、最近私は、「わが国の国民が“地方(田舎)に住むことの素晴らしさ”に気づくのは、そう遠いことではないだろう」という気がしてならないのです。これは、政治家としての勘です。現にいろいろな分野でその徴候があります。ですから、この際地方は田舎であることに誇りと自信をもって、田舎に徹することも戦略として考えなければならないのではないかと思うのです。

    しかし、地方に住む人が不便な生活を余儀なくされるということあってはなりませんし、社会資本の遅れた不便な地域では、都会暮らしになじんだ人々は住めないでしょう。田舎であることを大切にしながら、利便性やアメニティを大切にした街づくり・集落づくりが必要なのです。ここから先は、専門家にいろいろと案を練ってもらう必要があります。

    それにしても地方はいろいろな可能性を持っています。私が日々体験する若干の例をあげます。まず第一に皆さんの家の立派なことです。表はそんなに立派そうでなくとも、中に入ると本当にすごい家が多いのです。十日町市ではまだ土地はそんなに高くはありませんから、家の方に多くの資金を費やすことができるのでしょう。こういう立派な家にお邪魔したとき、「私がこういう家を建てたら、白川はどこから変なお金を貰ったのだ!といわれるでしょう」といいます。ゴージャスな家は少ないですが、実に堂々とした立派な家がたくさんあります。こういう家に住むことは、人生にとって非常に大きい意味をもっていると私は思います。

    次にすごいことは、十日町市はお米がおいしいことです。私も皆さんからもらった魚沼産コシヒカリを毎日食べています。私は和食党ですから、原則としてご飯です。おかずはいろいろと変わりますが、必ずご飯をいただきます。そのご飯が日本一おいしいということは、日本で最高の食事を毎日しているということです。人間は食わなければ生きていけません。その三度の食事が、日本一おいしいご飯をいただけるということは、きわめて幸せなことです。それを超えたものがあるとさえ感じています。

    三食ご飯だと少しヘビーにもなりますので、私は10年くらい前からそばを食べれるときはそばを食べるようにしてきました。これはいいことだと思っているのですが、十日町市はそばがこれまた最高に美味いのです。十日町市の「へきぞば」は、最近全国的に有名になりつつあります。へぎそばという言葉を耳にされた方は多いと思います。へぎそばの「へぎ」とは、そばをいれる入物のことです。わんこそばというのもありますが、あれも入物からきた名前ですよね。十日町市のそばは、つなぎにフノリを使います。ですから、フノリそばといった方が正確なのかもしれません。この十日町市のそばが、これまた本当に美味いのです。ですから、ダイエットのつもりでそばを食べてもつい食べ過ぎてしまうのです。この3ヶ月間で2〜3キロ私は太ってしまいました。

    どこの地方・田舎でもそれぞれ自慢の美味しい食べ物があると思います。それもそんなに高価でなく。これは文句なく素晴らしいことのひとつだと私は思います。人間は食うために生きるにあらず。そのとおりです。でも食べなければ生きていくことはできません。毎日美味しい食事がいただけるということは、人生にとって大きな意味のあることだと感じる今日この頃です。

  4. 久々にグローバルとはいいませんが、地元に関係ない問題についてちょっとのべます。

    「ちょっと異常なほどの過熱報道のライブドアとフジサンケイグループの紛争に、ひとつの結論が出されました。…(中略)…(いろんな論点からとりあげられましたが)実は私がもっとも分からないのは、なぜマスコミがライブドアとフジサンケイグループの争いをこれだけ報道したかという点なのです。日本放送がライブドアに買収されることが、日本にとって20日間(くらいでしたか)もトップニュースで報道するほどの価値のある大問題なのでしょうか。もしそれが表現の自由や国民の知る権利に関することならば連日トップニュースでもいいのですけど。

    このような視点からこの争いを取り上げ、一定の論陣を張った新聞社やテレビ局がありましたか?テレビを見ている時間がないので知っている方は教えてください。自分の会社が同じような目にあったら大変だという危機感からなんでしょうか。それにしては少なくともM&Aの対象にはまずならないNHKまでも一生懸命に報道していたような気がするのですが…。近鉄の買収問題で話題となったライブドア=堀江氏を取り上げると視聴率が上がるんですかね。…(後略)」

    これは、かつての白川BBSのファンの皆さんが、リベラルな意見をいえるBBSが欲しいというので立ち上げた掲示板 ──「平成海援隊BBS(http://www2.realint.com/cgi-bin/tbbs.cgi?Hkaientai)」に、私が3月13日に書込んだ文章です。日本のあらゆる分野で右傾化が進んでいますが、司法の分野も例外ではありません。ですから、この前のような乱暴な職務質問だ平気で横行するようになるのです。「普通のリーガルマインドからいえば、(フジサンケイグループの)増資・新株割当は違法ですよ。でもわが国の司法もだいぶおかしくなっていますから、ライブドア-が提起する仮処分申請に対する判断は安心できません。政治がおかしくなるとすべての分野がおかしくなるのです。」(2月26日の書込み)と悲観的な気分でいたのですが、世論の雰囲気に裁判官が逆らえなかったのだと思います。少なくともインターネットの世界は、圧倒的にフジサンケイグループを非難するものが多かったですね。

    今回の争いは、私にとってあまり興味が注がれる問題ではありませんでした。商売の世界の話であって、政治家が口を出す問題ではないと感じました。堀江氏は、商売人であり、経済の世界では革命児なのかもしれませんが、国民の生活レベルの話(すなわち政治の世界)ではいわれる革命児でないような気がします。本当は政治的・社会的に革命的なことをやってほしいのですが…。それから、ジャーナリズムの質の低下を今回ほど感じたことはありません。私がのべたとおり、今回の一件は、所詮マスコミ業界の問題に過ぎないのです。自分たちの業界の問題をあたかも天下の一大事のように報道する感覚には、首を傾げざるを得ません。この間も、政治的にもっと大切な問題がいろいろとあったのですから。ジャーナリズムは、森羅万象に対して、もっと広い視野と深い洞察力を常にもたなければなりません。

    久々にちょっと長めのものになりました。それでは、また。

07:30十日町市のアパートにて

白川勝彦

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2005年3月10日
No.240

唯我一人のみ能く救護を為す

昨日の朝、ホームページのアクセスカウンターが117万を超えていました。忙しさにかまけてあまり更新をしていないのに、毎日多くの方々がアクセスしてくださること、本当に恐縮しています。言い訳けではないのですが、便りの無いのは良い知らせとご寛恕ください。事実、毎日多くの方々にお会いし、温かい激励を受けて元気で頑張っています。

私は毎日を感動・感謝しながら、人生を教えられながら活動しています。これまで自分の選挙を11回、他人の選挙ならば数え切れないほど戦ってきました。でも今回のように魂をゆすぶられ、人の世の素晴らしさに感激をしながら、選挙を戦ったことはありません。ひとつは、私の本当のホームグラウンドでの選挙だからでしょう。いくら地元といっても、人口5万ちかくの市で70%以上とる国会議員はあまりいません。

もうひとつは、私自身の若干の心境の変化もあるでしょう。私はこの4年半の間に3回も地獄を見ました。いくら自分が正しいと思っても、またどんなに努力しても、自分の思うようには世の中は動かないこともあることを思い知らされました。ですから、いま目の前におきていることをありのままに受けとめればいいいのだし、それを前提に自分のなすべきことを決めればいいと思っているからです。そう思うと、いろんなことがありますが、あまり腹も立ちません。

「今比の 三界 ( さんがい ) は皆是れ我が ( ) なり。その中の 衆生 ( しゅじょう ) ( ことごと ) く是れ吾が子なり。 ( しか ) も今比の処は ( もろもろ ) 患難 ( げんなん ) 多し。 ( ただ ) 一人 ( いちにん ) のみ ( ) 救護 ( くご ) ( ) す」

── 妙法蓮華経譬諭品第三

我とはお釈迦様ご自身を指します。最近、この経文が無性に頭をよぎります。もちろん私にはこの世の 患難 ( げんなん ) を救うことなどできませんが、私の生まれ故郷の十日町市の政治の課題ならば、誰よりもその問題点を知っており、また、どうすればいいかも、誰よりも分かっているつもりです。そうでなければ、30年間もこの地で政治をしてきたことにはなりません。

どんなにつらいこと・信じられない目にあっても、この自負だけは少しも揺るぎませんし、使命感は高まるばかりです。さる3月2日に行われた“白川勝彦サポーターの集い”は、こんな私に大きな勇気と力を与えてくれました。この様子を日々のアルバムで紹介したかったのですが、写真の送信に若干の難儀があって、やっと今日updateできたところです。暇だったときに、もう少し写真のことを勉強しておけば良かったと、反省しています。でも、それはデジタルカメラからのダウンロードや送信のことであり、写真を撮ることではありません。自分の活動している姿を自分で撮ることはできません。私が写っていない写真はなかなかいいと、Webマスターからときどき誉められています。

昨日、十日町市の政治課題についての私の考え方と政策を記者発表しました。近日中にこれを掲載します。地名などは市外の人にはわかりにくいところもあると思いますが、私の「偉大なる郷土を創る」ということが具体的にはどんなことをいうのか、その考え方を分かっていただければ幸いです。

それでは、また。

00:10十日町市のアパートにて

白川勝彦

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2005年3月1日
No.239

朋、遠方より来るあり!

2月27〜28日静岡県焼津市の黒潮温泉に行って参りました。当日も翌日も天候に恵まれ、富士山も見えました。なぜ忙しいさなか温泉などに出かけたのかというと、2ヶ月以上も前から上越地区の白川勝彦後援会の皆さんから出席するようにいわれ、必ず出席させていただくと約束していたからです。約束は守られなければなりません。十日町地区の同志の皆さんにその理由を話し、快く送り出してもらいました。

午後4時半ころ、投宿先のホテルに着きました。上越地区の皆さんは、すでに到着して、ロビーにも何人かおられました。久々の出会いを、まず喜びあいました。何度もなんども、苦しい選挙戦を戦った方々ばかりです。何もいわなくとも、お互いの心は通じます。話を聞けば、上越を出発するときはすごい雪で、前日にも相当な雪が降ったそうです。大雪の新潟から、快晴の静岡県に来たのです。1日に両極端のところを旅すると、いまでは使われなくなりましたが「表日本」と「裏日本」という言葉を使いたくなります。

少し時間ありましたので、私も温泉に入りました。私は大の温泉好きです。温泉につかると、長旅の疲れが飛んでしまいます。お風呂でも、何人かの懐かしい同志の皆さんに会いました。まさに裸のお付き合いです。衆議院議員だった当時、私の後援会ではよく旅行会をやりました。1年間で3000人くらいが参加しました。その旅行会のほとんどに、私も参加しました。その頃も、時間があれば私も温泉に入っていましたから、こうした裸の付き合いをした方々は、かなり多くおられます。後援会の皆さんと政治家とは、このように実にいろんな形で結びついているのです。選挙になると、一般の方々からみると信じられないようなエネルギーを政治家の後援会が出すのには、こうしたベースがあるのです。

6時半から大宴会が始まりました。ご挨拶で私は、十日町市長選に出馬を決意した経緯、私の志すものをお話しました。複雑な気持ちの方もおられたとは存じますが、それを超えて私が政治的に元気になり、新しい戦いを始めたことを喜んでくださったことと思います。この4年間半の激流の中で、私にも同志の皆さんにもお互い本当にいろんなことがあり過ぎました。だから、それに押しつぶされずになんとか生き抜き、いまこうして元気にいること、そして新しい歩みを始めたことを素直に喜んでくださったのだと思います。そして皆さまから多額の陣中見舞いをいただきました。政治家として感激の至りです。

宴会の間、私はいつものように皆さんの席を回ってお酌をしたり、談笑しました。ほとんどの方々が、私のために選挙になると寝食を忘れて力強い応援をしてくださった方ばかりです。話は尽きないものがありました。皆さん、十日町市に知り合いがいるから応援にいきますといってくださいました。力強い援軍の到来です。2時間近く宴席を回ったので、さすがにしたたかに酔ってしまいました。宴会終了後、女性部の幹部の皆さんと2次会をもちました。上越の女性部は、私の選挙では特に大きな役割を果たしてくれたのです。話は尽きず、お開きになったのは12時少し前でした。

翌日、皆さんとお別れし、私は一路十日町市に帰ってきました。表日本は快晴でしたが、国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国でした。今週中は冬の天気がぶり返すようです。しかし、残る冬は、もう長くありません。

00:40十日町市のアパートにて

白川勝彦

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2005年2月19日
No.238

日本一の雪祭り

  1. 十日以上のご無沙汰でした。以前にも書きましたが、便りのないのは良い知らせですから、ご安心ください。毎日元気で頑張っています。私はいまできるだけ多くの方々と会い、お話することをいちばん大事にしています。そして、お話することも大事ですが、お話を聴くことをさらに大切にしています。1日に100杯近くのお茶やコーヒーをいただきます。これ、けっこうたいへんです。でも、いまの私にはいちばん大切なことだと思っています。ほとんどがこれまでの私の政治活動を支えてきてくださった方々です。こうした方々とじっくりとお話をするのは、久々のことです。肩に力を入れずに話をし、また身構えずにすべての話を聴くこととを心がけています。政治家にはこれって意外につらいことなのですが、ここが肝心なことだと思っています。このように多くのご家庭にお邪魔し、皆さんのお話をお聴きするとこれまでとは違った世の中がみえてきます。そして、政治がほんとうにしなければならないことが分かってきます。

  2. 前号は今年2度目のドカ雪のことを書きましたが、その後はあまり雪は降っていません。この2〜3日は、気温も比較的暖かく、雨の日もありました。積雪もかなり減りました。先週の土日は札幌の雪祭りでした。今週の土日は、わが十日町市の雪祭りです。今年で56回を数えます。十日町市の雪祭りは、日本で最初の雪祭りというのが自慢です。日本一古い雪祭りということになります。

    私は、“10の日本一”のある十日町市をつくろうと考えていますが、この雪祭りは日本一の歴史のある雪祭りです。大事にしていかなければならないと思います。昨日のNHKの朝のニュースでも大きく報道してくれました。地震にも負けないで雪祭りをするということを強調しておりましたが、しかし、十日町っ子の本当の心意気は、そんなことではないのです。日本一の豪雪地帯だけれども、雪などには負けないで、雪を楽しんでいこうということなんです。56豪雪は本当に凄いものでした。全県から重機などを総動員して市内の雪を処理しました。市民生活も生産活動も疲弊しました。この時、雪祭りを中止しようという雰囲気もでてきたのですが、こんなときだからこそ雪祭りをやろうということになり、盛大に挙行されました。あの雪祭りのことを、私は今でも鮮烈に憶えています。

  3. 今年の雪祭りは、規模としては、新潟県中越地震のために、かなり縮小されました。十日町市の雪祭りのメインイベントある雪上カーニバルがなくなりましたし、雪像制作への助成金も減額されました。このような行政当局の姿勢のために、いまいち例年の盛り上がりがありませんが、それでも、多くの市民は地震や豪雪などの負けないで雪祭りをやろうと頑張っています。

    昨晩、雪像を作った皆さんの慰労かたがた、十数か所の作品を見せていただきました。2度のドカ雪が降ったので雪は十分あるのですが、この2〜3日の暖かさと雨で雪像作りは、本当に苦労したそうです。でも、必死に努力して見事な作品を作っていました。敬意を表します。今日と明日は、いろいろなところでイベントがあります。私も童心に返ってこれらを楽しみたいと思っています。

    十日町地域では、雪祭りを過ぎれば雪も峠を越すといわれています。2度のドカ雪があったのですから、もう勘弁してほしいというのが本音です。3度目のドカ雪がこないことを念ずるばかりです。いずれにしても、冬は峠を越しました。冬が過ぎれば雪国でも遠からず春がきます。そして、今年の十日町市は、市長選挙と市議会議員選挙です。前に5月15日とお伝えした選挙日程が早まりそうです。忙しくなってきます。

    それでは、また。

00:10十日町市のアパートにて

白川勝彦

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