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災害と政治家(その1)次へ

  1. 今年は、多くの台風がわが国を襲い、また10月23日には新潟県中越地震が発生しました。新潟県中越地震の被災地は、私が政治活動をした地域であり、私はこの地域をもっともよく知っている者のひとりです。私はこの2週間被災地を回り、その被害状況を把握してきました。そして、この被害を克服し、どのように復興していくか、私なりの立場で摸索しています。こんな活動をしている中で、災害と政治家について改めて考えさせられました。

    災害が起きた場合、政治家が一刻も早く被災現場に入ることが求められています。台風被害や新潟県中越地震でも、小泉首相が被災地に入るのが遅かったとか、わずか数時間の視察で何が分るかといった非難がなされました。新潟県中越地震についていうならば、小泉首相の新潟入りは必ずしも遅いとはいえないと私は思いますが、小泉首相の視察の態度に問題があったという気がしました。被災地の視察は、選挙の応援とは訳が違うのです。被災者を見舞うということも大事な要素ですが、それは心からの見舞いでなければなりません。手を振ったり、選挙応援のように多くの人々と握手をするというのは、少なくとも日本人の普通のお見舞いの仕草ではないと思います。小泉首相のこうしたパフォーマンスに不快感をもったのは、私ひとりでしょうか。

    被災地の視察の最大の目的は、災害についての対策を策定するためです。視察にあたり、何処をみて、何が必要なのか実態を把握し、その対策を行なうのが政治家の任務です。本稿では、こうした問題を少し掘り下げて考えてみたいと思います。これは「そもそも政治家の仕事や任務とは何か」と、問うことにもなります。

  2. 災害とは、「異常な自然現象や人為的原因によって、人間の社会生活や人命の受ける被害」と広辞苑ではいっています。災害対策基本法では、災害とは「暴風、豪雨、豪雪、洪水、高潮、地震、津波、噴火その他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他その被害の及ぼす程度においてこれらに類する政令で定める原因により生ずる被害をいう」と定義されています。自然現象による被害を自然災害といいます。人為的原因による災害は、大規模な火事や爆発などです。昔は、何千棟の家屋が焼失する大規模な火災がありました。また、チェリノブエリの原子力発電所の事故などは、地震や台風にはない放射能汚染というという深刻な被害を与える大きな災害でした。

    台風や地震のように非常に広い地域に大きな被害をもたらす災害もありますし、大規模な火事や爆発または雪崩や土砂崩れや土石流のようにこれらに比べれば範囲は狭いものの壊滅的な被害を及ぼす災害もあります。災害という言葉は、人間の社会生活や人命に大きな被害が発生した場合に使われます。戦争などの場合も、人命が奪われ社会生活に大きな被害が発生します。こうした被害は戦災と呼ばれました。いずれにしても、多くの人命が失われ、建物や社会生活を支える道路などのインフラストラクチャーが破壊され、「平常の社会生活」ができなくなり、多くの人々が不便な生活を余儀なくされます。

    災害は、その多くの例はありますが、被害状況はその災害の原因や地域により異なります。従って、災害に対する対策も、先例は参考にはなるものの実際に災害に直面すると異なったことが必要となります。いわゆるマニュアルに従って災害対策を進めていけばいいということにはならないのです。しかも、その対策は状況に応じてその場その場で直ちに実行していかなければなりません。決断と実行が遅れれば、被害が拡大することも多くありますし、また被災した人々の苦痛を大きくすることにもなります。

    多くの人々の「平常の社会生活」が破壊されるということは、文明が発達すればするほど多面的かつ多方面に大きな被害がもたらされることを意味します。従って、その対策も多面的かつ多方面にならざるを得ません。文明の発達した社会は、一面からみると災害には非常に脆い社会なのです。このように多面的かつ多方面のあるゆる被害を総合的に把握し、その場その場で適切な対策を一つひとつ同時多面的に実行していくのが災害対策なのです。こうした困難な任務を行なうのが、災害対策の責任者の役割です。こうした役割を果断に果たすことができるのは、政治家しかいませんし、政治家にこそ、その役割が期待されているのです。だから、被災した人々は、首相や災害対策の大臣や知事が一刻も早く被災地を視察してほしいと望むのです。これは、正鵠を得た要望です。

  3. 災害対策を行なうのにいちばん大切なことは、実際に起こった災害の実態をまずよく知ることです。災害が大きくなればなるほど、その災害の実態を把握することは困難になります。例えば、阪神淡路大震災の時、地震の被害があれ程大きなものであることを政府の関係者が知るのに意外に時間が必要でした。被害の状況を報告しようにも報告する立場にいる人が被災し、また報告しようにも通信手段が壊滅的打撃を受け、報告できなかったのです。

    私は、阪神淡路大震災が起こった時、アメリカのサンフランシスコにいました。アメリカのテレビでも神戸で地震が起きたことは報道されましたが、その規模や被害状況などは詳しく報道されませんでした。現地の領事館に問い合わせてみても、詳しい状況はほとんど把握していませんでした。もちろん日本への電話はまったく通じませんでした。大至急日本に帰ってきたのですが、あれ程の大震災だということを知ることができたのは、宿舎のテレビをみてはじめて実感できました。空港に着き、航空会社の人に聞いても、成田から東京への車中で秘書や運転手に聞いても、話はまったく要領を得ないものでした。6000人もの死者がでた大地震だということを多くの国民が知ったのは、地震発生からかなり時間が経ってからだということを聴きました。

    今回の新潟県中越地震の発生時には、高校の同級会があったので、たまたま震源地に近い十日町市におりました。それでも、十日町市の被害の状況を掴むのはなかなか難しいことでした。幸いにも十日町市の場合、道路の破損はそんなに激しくなかったために、山間部を除き市内は自動車で回ることができました。私は自動車で行ったものですから、その自動車で十日町市や中魚沼郡を運転して回り、被害に遭った建物などを観て、また多くの人々の話を聴いて十日町市を襲った地震の実態をはじめて把握できました。しかし、後で知ったことですが、これも表面的なものに過ぎませんでした。特に建物の被害などは、素人目の外観的な被害状況とは著しく異なるものでした。

    このように実際に起きた災害の実態を知ることは、そんなに簡単なことではありません。その災害が大きければ大きいほど、その実態を把握するのは困難となります。テレビやラジオなどは、災害を伝える優れたメディアではあります。しかし、災害が大きい場合は、その現場に行くことができなくなります。ですから、その現場の映像や状況を伝えることができないのです。災害に限らず、私たちはテレビで世界中で起こった災害や事件の実態をいながらにして全部知ることができるという錯覚に陥りがちですが、大きな災害の場合、これは間違ったものになることを注意しなければなりません。

    ですから、災害が起こった場合、政治家が災害の実態を把握するために災害の現場を視察するのは、極めて大切なことです。それも、早ければ早いほど適切な対策を打つことができます。災害が起こった時、現地で緊急の災害救助や災害対策を行なうのは、市町村長です。市町村長は、現場にいて、災害の実態を最も的確に把握し、それに基づいて、様々な、いま現実に必要な指示を出し、対策を施すことが可能な立場にあります。災害の規模が都道府県全域に及ぶような場合には、都道府県知事が各市町村長と連携しながら、その先頭に立つ必要があります。さらに災害がいくつか都道府県にまたがる場合には、総理大臣が災害対策の先頭に立つ必要があります。

    通常の災害は、市町村単位かいくつかの市町村にまたがる地域で起こる例が圧倒的に多いのです。都道府県全域やいくつかの都道府県にまたがる広い地域に災害が起こる例は極めて希な大災害ということです。台風などは、日本列島の半分くらいに襲いかかります。警戒は全国的に行なわれなければなりません。しかし、大きな被害を蒙るのは、すなわち台風よる災害が発生する地域は、市町村単位かいくつかの市町村にまたがる地域です。従って、災害の現場で実際に災害対策を執らなければならないのは、市町村長です。新潟県中越地震は、新潟県全域に大きな衝撃を与えましたが、大きな災害を受けた地域は新潟県の3分の1くらいの中越地域でした。

  4. このように実際に災害が起こった場合、その最前線で災害対策を行なうのは被災した地域の市町村長なのです。市町村長は、政治家です。政治家として災害対策に臨まなければならないのです。しかし、市町村には権限や財政に限りがあります。ですから、都道府県や国の援助が必要なのです。都道府県知事や総理大臣などが災害の現場を視察するのは、何を都道府県や国として災害対策を行なわなければならないのかを決めるためです。それも政治家としての視点をもって行われるものでなければ、価値がありません。

    そのひとつに被災された人々を見舞うということもあります。しかし、それは主たるものではありません。政治家は、神様でも仏様でもないのです。冒頭で小泉首相の新潟県中越地震の視察に苦言を呈したのは、そうした理由からです。総理大臣が現地を視察した結果、国として何をやるということを明確に住民や市町村長に伝え、被災した人々に勇気や希望を与えるものでなければなりません。それが政治家の任務なのです。残念ながら、今回の小泉首相の視察に際しては、そのようなものはありませんでした。

    平成9年1月、ナホトカ号(ロシア船籍のタンカー)が日本海で遭難しました。積んでいた原油が流出し、福井県から秋田県におよぶ広範囲な日本海沿岸に漂着し、海岸は真っ黒な原油に覆われ、磯には原油がへばり付いていました。日本海の汚染が心配され、沿岸漁業は壊滅的打撃を受けました。多くの市町村では、多数のボランティアの手で漂着してきた原油を海岸から汲み上げ、また岩にへばり付いた原油を手作業で取り除いていました。いろいろな方法が試みられたのですが、結局はこれしか有効な手立てはありませんでした。

    当時、私は自治大臣をしていました。こうした現場を視察した結果、私は次のようなことを決めました。いまはボランィアの手によって漂着した原油を回収するしか有効な手立てがない以上、これを市町村の指揮の下で全力で行なってもらう。しかし、その作業に要する費用は、最後は自治省が負担する。だから、各市町村は全力で漂着した原油を回収してほしいということでした。正直にいって、その費用がいくら位になるのか、私にも事務当局にも分りませんでした。でも、もっとも費用を必要とする人件費は、幸いにもボランィアの手がいっぱいあるのです。後はボランィアがその作業をするために必要な器材などです。私は、自治省が負担できない金額ではないと判断して、こう決めたのです。

    漂着した原油を各市町村が必死になって回収作業している時、ちょうど予算委員会が開かれていました。私は、質問を受ける度に、

    「いろいろな省庁が対策をとっておられるが、現在はボランィアの手で漂着した原油を回収してもらうのが、もっとも有効である。その作業に要した費用で請求書をもって行く先がないものは、自治省で責任をもって処理する。だから、お金のことは心配せずに、いまは原油の回収に全力を尽くしてもらいたい」

    という答弁を何度も何度も繰り返し、自治省が金銭負担することが、テレビを通じて、現場で指揮をとっていた市町村長さんに伝わりました。ボランティアの手による回収はますます拍車がかかり、3月ころまでに見事に回収されました。その夏の日本海の海岸は、例年のようにきれいな海となり、多くの人が海水浴を楽しみました。

    後日談です。私は政治家としてこう考えました。漂着した原油は結局、人海作戦によって回収するしか他に方法はないのです。もし人件費を負担するとなれば、それは膨大になりますが、幸いにも、それはボランィアの手によって賄い得るのです。それがあるのに、その他の費用が心配なためにこれを動員できないとしたら、それは愚かなことです。しかし、市町村の財政は厳しく、市町村長さんは、この作業をする上で必要な費用を心配せざるを得ませんでした。

    数百億円は必要になるかもしれないけれでも、それは国が負担しなければならない。それが国の果たす役割だと、私は考えました。財政局長に「数百億円必要になるかもしれないが、大丈夫か」と聴きました。彼が「大丈夫です」というものですから、私は、こういうことを決めたのです。結果は、1年後に分ったのですが、78億円でした。

  5. 災害が起った場合、もっとも優先されるのは、人命の救助です。災害により人命が失なわれ、また多くの人々が障害を受けます。障害を受けた人々には、一刻も早く適切な治療を保障しなければなりません。また、多くの方が救助を待っておられます。救出が遅れれば、人命が失われます。またさらに、予想される災害を未然に防止するために、適切な対策を執らなければなりません。

    今回の新潟県中越地震での対策は、第一に、余震から人命を守ることであり、土砂崩れなどから人命を守ることでした。また、避難しなければならない人々に避難所を設け、食事や衣服などを確保なければなりません。ですから、災害にみまわれた現場が人命の救助や第二次災害を防止する対策に追われている場合は、災害地域を視察するにも、慎重でなければなりません。災害の現場には、政治家たちの視察に対応する手も惜しいという時もあるのです。

    阪神淡路大震災が起こった時、私は衆議院の商工委員長でした。電気やガスの供給は、通産省の所管です。まさにライフラインそのものです。ですから、商工委員会として一刻も早く現地を視察しなければならないと思ったのです。しかし、現地では電気やガスの復旧に関係者全員が努力しているので、視察は少し待ってもらいたいということでした。私たちは、10日後くらいにはじめて被災地を視察しました。それでも、道路は寸断されており、移動の大半はボートでしなければなりませんでした。現地が私たちの視察に「待ってほしい」といった事情が、よく分りました。

    しかし、このような切迫した事情のない場合は、災害の視察は早ければ早いほど良いことは、いうまでもありません。いくらテレビで現地の様子をみても、被災した人々の話を聴いても、災害の現場をみなければ把握できないことが、現地にはいっぱいあるのです。また、実際に災害対策を行なっている市町村長から、現場で災害の実状とその対策として求められることを聴取するのは、災害対策や復興対策をたてる上で、極めて有意義です。

    災害対策の諸施策・諸制度は、過去の災害で必要とされたものを法制化したものです。しかし、一つひとつの災害は、その被災地において違い、その対策も、現にある諸制度では救済できない“こと”が“もの”が必ずあるのです。その隙間を埋めてこそ、被災者に配慮した災害対策といえるでしょう。総理大臣などの決断でできる施策もありますし、新たに法律や条例で決めなければならないこともあります。そうした判断のために、政治家は災害を視察しますし、また、しなければならないのです。

    災害の現場は、戦場に似ています。戦場においてもっとも大切なことは、その現場における最高指揮者の行動を尊重することです。災害と戦いの中では、必要に応じて、条例や予算上の根拠がないことでも、これを行なわなければならないことが出てきます。時には、政治家として、敢えてこれを決断し、行なわなければならないのです。しかし、現状では、裁量をもって緊急に必要な災害対策を市町村長が執ることができないのが実状です。市町村長が裁量をもって災害対策を行なうことができるように、制度的に保障する必要があります。国や都道府県の政治に関わる者の視察は、この間隙を埋めるための努力であり、それを実現するものであってほしいというのが、災害の現場で戦っている市町村の切実な願いなのです。

  1. (つづく)

白川勝彦

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