早野: |
お生まれの新潟の十日町は雪どころ。どんなお仕事ですか? |
白川: |
もとは神官の家なんですね。私の祖父の兄が早逝したのですが、祖父には神官の資格がなかったんです。それで機屋を初めて、それを父が継いだ。「機屋で三代続く家はない」と言われるほど浮沈の激しい業界で、私が中学1年生のときに倒産したんです。 |
早野: |
生家は非常に古い家とか。 |
白川: |
あの当時、農家はほとんど茅葺きの家、私の家は「板屋」と言いまして板葺きの家。母屋は150年ぐらい経っているんじゃないでしょうか。周りにタコ足状に機屋の工場があるんです。織機が15台ほど、染色場や糸の撚り場もある。中堅規模の機屋でした。 |
早野: |
小中学校の頃は? |
白川: |
僕ら昭和20年生まれは1学年37人しかいないんですよね。戦後民主主義教育そのものでしたね。若い先生が理想に燃えて教壇に経っていた。 |
早野: |
本なんか読む子でしたか。 |
白川: |
いや、第一、あんまり本はなかったですね。学校が終われば仲間が集まって、空家を自分たちの小さな城みたいにして、束になって遊んでましたよ。 |
早野: |
スキーは。 |
白川: |
スキーも思うようにない、スキー靴もない時代でしたね。みんなで裏山に行ってスキーをやらせられるんだけど、もう冷たくていやだという印象しかないですね。 |
早野: |
倒産で急に貧乏に? |
v白川: |
私の物心ついたときから苦しいぐらいですから。私は9人きょうだいの末っ子。それに婿が一人入ってきて、その子供が3人で、家族が計15人なんですよ。ほかに住み込みの従業員が15人ぐらい。一つ屋根に30人が住んで朝ご飯など全部一緒です。私のおふくろは、要するに賄い婦ですよ。でっかい釜で炊いて全部食べちゃうわけですよ。飯の時間に行かなければ飯にありつけないんですよ。昼間になると、周りからさらに20人ぐらい通ってきます。 |
早野: |
ラジオなんかは? |
白川: |
山間で電波が悪くてラジオもほとんど入らない。だからストーブやこたつに集まって喋ることがいちばんの娯楽で、住み込みの女の人を中心にぺちゃぺちゃ喋るわけですよ。その輪の中に入って、大人の話を小さい頃から聞いていました。当時、自作農になった生年農業者が例えば育苗への夢を話していました。中学では野球部に入っていました。私の上の姉が「勝ちゃん、こういうことを知ってるか。教えてやろうか」と一種の家庭教師みたいなものですね。ですから、成績をずうっとトップでしたね。 |
早野: |
それで十日町高校に。 |
白川: |
僕らのころは、3分の1が集団就職、3分の1が地元就職、高校に行くのは3分の1でした。あの当時、奨学金は月1,000円だったんです。高校の授業料が800円。残り200円じゃなんともならんわけですね。僕が高校に行く昭和36年から特別奨学金制度ができて、その試験に受かると、3,000円もらえる。「あ、それなら親に迷惑かけないで高校に行ける。」と。僕と同じぐらいの成績で集団就職した人も多くいました。僕はたまたま特別奨学金をもらって高校に来て、本当に勉強が面白かったんですね。これは僕を社会的に目覚めさせたというか、「教育の機会均等」は、僕にとって絶対のテーマになりました。大学に入って、すぐ「希望者が全員入れる学生寮をつくってほしい」という寮運動を始めました。 |
早野: |
高校のとき「出会った本」は。 |
白川: |
僕の家はもともと神官だったもので、宗教だとか哲学だとかを大事にする家だったんですよ。人生とは何ぞやを考えたのが高校に入って間もなくの頃。倉田百三の「出家とその弟子」にいちばん影響を受けましたね。田舎だけど3軒の映画館があって、みんな見ていたんです。例えば中村綿之助の「親鸞」とか見た。僕は倉田百三、西田幾多郎の京大の哲学科に行こうと思ってましたね。
ところが高校2年のときロータリークラブで、新潟県から一人だけアメリカに1ヶ月留学させようというプログラムがあって、ロサンゼルスに行かせてもらいました。強烈なカルチャーショックでしたね。 |
早野: |
どんなショックです? |
白川: |
まさに豊かさの差ですね。東京にだって僕は中学校の修学旅行でたった1回行っただけ、それがアメリカのロータリアンの金持ちの家に泊められた。でかい家にプールがあって車が二台ぐらいあるなどと別世界のようでした。というあたりから政治を考えましたね。で、東大法学部を受験しよう、本気で勉強しなきゃいかんなと思いました。
アメリカはケネディ大統領の時代でした。ビバリーヒルズに住んでいたので「マリリン・モンローが死んだ」というのでマリリン・モンローの家まで見に行ったことを覚えてますよ。 |
早野: |
大学は一気に受かっちゃった。 |
白川: |
山間だから旺文社のラジオ講座も満足に入らないんですよ。十日町高校でトップだって東大なんて受かるものじゃないと思っていたけども、とにかく相手が見えない。その不安感が強かったですね。自分はどこを走っているんだろうか。一人でマラソンしてるみたいで辛かったですね。 |
早野: |
東京ではどこに住んで? |
白川: |
東大の駒場寮です。 |
早野: |
いきなり学生運動? |
白川: |
もとは神官、機屋という保守的な家に育った人間が大学に入ったその日から、もう裟婆じゅう、真っ赤っかみたいな世界です。たまたま「寮の自治が侵されている」なんていう緊急集会がありました。細かいことは何も知らないんだけども、「自治というのはいちばん大事なことだ。これはなんとしても守らなきゃいかんな」と演説をしたのが原因で、入ってまだ2ヶ月も経たないのに「寮の副委員長になれ」なんて言われてね、なりました。
寮委員会といっても炊事や下水だとかの面倒をみる雑用係です。ところが、駒場寮には、全国学生寮自治連合というのがあって、国立大学には希望者全員が入れる寮をつくってほしいという運動に力を入れていたんです。これが「教育機会均等」の運動です。「原潜寄港反対」のデモとか、あんまりそういうのは出なかったです。僕の学生運動はむしろ寮運動だったんで、人が言うほど過激じゃないんですよ。
豊島寮の委員長なんて2回ぐらいやったかな。「水洗トイレが詰まったぞ!」「風呂のお湯が出ないぞ!」なんていうと委員長自ら直したり。あるいは労務対策。寮が雇っている従業員と一緒に観劇に行ったりしました。そういう意味では村長さんみたいな役割ですな。 |
早野: |
寮に何年いたんですか。 |
白川: |
駒場寮に2年。豊島寮に4年。国立大学にはほぼ希望者全員が入れるほどの寮ができた頃には、日本が豊かになりすぎちゃって、寮に入らない人が多くなっちゃってね、いまどういうふうになっているか。こどものころの我が家も集団生活、大学では、駒場は800人の寮、豊島寮は300人。大勢で生活するのが当たり前になっていたんで沈思黙考、孤独に本を読むという環境ではないんです。 |
早野: |
でもあのころの学生運動だと、いろいろ左翼文献を読みませんでしたか。 |
白川: |
周りにそういう人が多かったから、人が読んでいるというものはみんな読みましたよね。「共産党宣言」なんか読むと、共産主義なんてそれまで僕の中では一切ない世界だったから、これもカルチャーショックでしたね。ただ、正直言ってわからなかった。、1年生や2年生では。わからんながら「資本論」までいちおう読んだんです。
そんなことばっかりやっているものだから、あまり就職する気もなかったんです。「あれっ、卒業したらどうするんかな」と僕は四年の秋頃になって気がついて、そしたら兄が「まあ、お前は会社員になるために大学に入ったんじゃないんだから、別に、1年ぐらいでいいから、そのかわり司法試験を受けろよ」と言われ、司法試験の勉強を始めたんです。一年留年して翌年受かりました。みんな「法律はむずかしい」と言うんだけども、いままで読んだ左翼文献に比べれば法律なんて簡単じゃないかと思いました。訳が悪いせいもあるけど、マルクスもエンゲルスもレーニンもむずかしかった。それに比べたら法律の本なんてすとん、すとんと入ってきました。 |
早野: |
法律学とか政治学では。 |
白川: |
司法試験で憲法や刑事訴訟法を勉強したときに、僕は自由主義思想に目覚めたわけですよ。共産主義とは別に、これはこれで一つのものの考え方として体系的にあるじゃないかと。「国富論」だとかルソーだとか、自由主義の文献もかなり読みました。 |
早野: |
一方で、大学紛争も激しくなっていたでしょう。 |
白川: |
運良く司法試験に合格したころ、大学紛争が始まりました。僕はいわゆる暴力は使わないというところにいて、2回ぐらい僕は逃げ遅れちゃってゲバ棒で袋叩きにされましたよ。僕はそのとき思ったんだけどね、「ゲバ棒というのはあんまり強くねえんだな」と。ゲバ棒が何本か折れてるんですよ。そのころの傷がひたいに残っていますが。学生運動をやっていた連中は何か革命が起きたみたいな気持ちになっていたんですが、しかし外へ出ると、ぜんぜん東大闘争なんて関係ないでしょう。どうも学生たちの運動というのは、やはり限界があるんだなあと思いましたね。
東大紛争のため僕らは3月に卒業できなかったんで中退して司法研修所に行くか、6つきに卒業してから行くか、しかし東大だけ特権のようなのはいやで、僕はもう一年大学に残って翌年行ったんです。そのとき僕は山ほど本を読みましたね。もう1回、マルクスやエンゲルスやレーニンを読むと、こんどはわかりました。レーニンの史的唯物論はおもしろかった。マルクスの「資本論」も最初の「商品」の分析、いまでも通用する立派な経済論文だと見ていますよ。あそこが「資本論」の命で、後半は希望的観測や思い込みが入ってきている感じがしました。 |
早野: |
それで心のなかに自由主義が膨らみつつあったわけですね。 |
白川: |
というよりもね、僕はやっぱり憲法の勉強をしているときでしたね。宮沢俊義さんの有斐閣の「憲法」の本。この本の「抵抗権」の章がいちばん好きでした。この本は10回くらい読みましたが、あの「抵抗権」のくだりにくるとうれしいんです。そうか左であろうと右であろうと全体主義から人間を、個人の尊厳を、国民を守るのがいまの憲法なんだと。幸いにもそういうふうな国に生きているんだから、おれは自由主義者として生きたいなと。 |
早野: |
それで白川さんの最初の著作が「新憲法代議士」になるわけですね。 |
白川: |
文学書というのは本当に10冊ぐらいしか読んでないんですが、そういうのを読むたんびに僕は人生が変わるから、山ほど読めないんですよ。
「若きウェルテルの悩み」を読んだときは、「そうだ、こんな学生運動なんてくだらない。やっぱり恋なんだ!」と思ったりしてね(笑)。「戦争と平和」の映画を見て原作を読めば、やっぱり感化されちゃってほかのことができなくなる。ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」とか「魅せられた魂」なんか読むと、それに感激しちゃって。混乱はあっていいんだ、本当の調和は混乱を通じてしかできてこないんだ、僕のやっていることはむちゃくちゃだけど、小さくまとまらなくていいんだ、その中から本物がじわじわと出てくるんだと。世界の古典は自分を虜にして、自分を変えちゃうから、そんなに山ほどは読めませんでした。
いま僕がやっていることに矛盾はあるかも知れん。しかしその矛盾を恐れちゃいけないんだ、その混乱に耐えながらやっているうちに、必ず最後で一つの調和が出てくるんだ、それは政治活動を始めてからもそれでいいんだという考えでしたね。世の中は自由主義から見ても、いろんな問題点がある。私は不平不満を言う人間でありたくない。自分のやれるところから、たとえ半歩でも、この世の中を多少でもよくしたいなというのが私の政治の世界に出る動機ですね。 |
早野: |
弁護士をやって30歳で旧新潟4区から出馬すべく選挙運動を始めたんですね。選挙に出る前に田中角栄さんを訪ねたとか。 |
白川: |
もう総理は辞めてました。まだロッキード事件が出る前でした。自由主義をいう限りは最終的には自民党から出るしかないな、と思って、郷土の先輩である田中先生ぐらいのところには仁義を切るのが保守政党であり、自民党の義理だろうなと思って行っただけであって、4区には田中派の人がいましたから応援してもらえるなんて思っていなかったけども、田中角栄さんは実におおらかでしたね。
彼は彼なりに戦後民主主義の中で生まれてきた政治家だと思うんですよ。ただ、角栄さんの場合は金が使えた時代、使うことが許された時代で、われわれとは違いますよ。30年間かかって角栄さんたちが逞しく生きてきた結果、いろいろなものがプロダクトされたわけですな。それを享受しながら育ったわれわれが考える戦後の民主主義というのは、イコールじゃないと思うんですね。
それからずっとたって、新潟県の国会議員の忘年会をやろうというので、角栄さんは自民党籍がなかったけども当然呼ばれたわけですね。角栄さんと飲んだのは初めてなんですが、「白川な、周りのやつがおまえのことをガタガタ言うけど、おれはおまえのことなんか何とも思っていないからな」なんて言うんですよ。白川は角栄批判してとんでもないやつだと言われたりしていたんですよ。ところが角栄さんはその席で同じことを私に3回言った。「もう先生、そんなに言わないでもわかっていますよ。私は私なりに田中先生を理解しているつもりです」「そっかそっか、それでいいんだ。おまえはおまえでやればいいんだ」と言っていました。あんな頭の回転の速い人が3回も同じことを言うのは奇異に思いません?果たして年が明けてまもなく角栄さんは脳梗塞で倒れました。 |