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小渕前総理の死を悼む

―いくつかの忘れえぬ想い出

透明スペーサー小渕前総理は、5月14日午後4時7分逝去されました。衷心より追悼の誠を捧げ、心からご冥福をお祈り申し上げます。

透明スペーサー本日午後2時30分から青山葬儀所で行なわれた密葬に参列し、いま帰ってきたところです。青山葬儀所の周囲は、いままさに萌えるような新緑でした。道半ばにして非業の死をとげられ、いまあの世へと旅立たれた小渕前総理のご冥福を改めてお祈り申し上げます。本日の密葬の行き帰り、小渕前総理とのいくつかの懐かしい想い出が去来し、人の世の儚さを禁じ得ません。

透明スペーサー何といっても最も鮮烈に思い出されるのは、小渕前総理とともに行った先進リゾート地視察の旅でした。あれは確か昭和62年の夏だったと思います。小渕前総理が会長、私が幹事長をつとめていた「大規模リゾート建設促進議員連盟」は、世界の先進リゾート地を視察することになりました。それは、フランスのニース(カンヌ、モンテカルロ)、ランゾドック・ルシオン、スペインのコスタ・デル・ソル、アメリカのマイアミ、オーランド(ディズニーワールド)、パームスプリングスの6地区を視察する約2週間の旅でした。団長はもちろん小渕前総理でした。千鶴子夫人もご一緒でした。団員は総勢10数名でした。長い視察旅行でしたので、書きたいことは山ほどありますが、長くなりますので割愛させていただきます。ただ小渕前総理にとってもこの視察旅行は特別に想い出が深かったらしく、その後別の会で一緒になったときも、何度も何度も小渕前総理の方からこの視察旅行の話が出ました。

透明スペーサー小渕前総理は、私と同じく郵政政務次官をつとめられた関係で、郵政行政には特に深い関心をもっておられ、また、郵政事業懇話会会長も長い間つとめられました。私も郵政行政には長い間取り組んできた関係でご一緒する機会が多くありました。

透明スペーサーその中で、いま思い出すと忘れえないのが第2次マル優戦争のときのことです。あれは、昭和59年の12月だったと思います。貯蓄優遇政策として、銀行などの預金や郵便貯金の300万円までは利子所得を非課税にしていたのですが、これを原則廃止しようという方針を大蔵省が打ち出したため、天下分け目の第2次マル優戦争となったのです。

透明スペーサーこの第2次マル優戦争のいよいよ終盤に開かれた郵政事業懇話会の総会の席でした。この郵政事業懇話会の会長に就任してまだ間もなかった小渕前総理が、会長として断固戦うという大演説をしているとき、急に胸の痛みで絶句され、うつ伏せになってしまったのです。私は、その真ん前にいました。2~3日は休まれましたが、小渕前総理は検査器具などを付けたまままた戦列に復帰され、老人や社会的弱者には引き続き存続また自由化資金の創設など、大きな成果を残して第2次マル優戦争は終結しました。これが小渕前総理の最初の心臓発作とお聞きしております。今回斃れられた脳梗塞も、小渕前総理の心臓疾患に誘因があったといわれております。そのことに想いをいたすとき、このことは忘れられません。

透明スペーサーこの外にも、平成8年の衆議院総選挙の選挙対策本部で、小渕前総理は常任顧問、私は事務局長でした。50~60回も会議を共にしました。このときの想い出もたくさんありますが、割愛させていただきます。

透明スペーサー小渕前総理と私の関わりは、主としてこの3つを通じてでした。それはかなり濃密なものだったと思います。しかし、自由民主党と公明党との連立の問題については一度もお話をさせていただく機会はありませんでした。それが悔まれてなりません。その機会は、永久になくなりました。

透明スペーサー小渕前総理のご冥福をお祈り申し上げ、筆をおきます。透明スペーサー合掌

16:30透明スペーサー議員会館にて

名前「白川勝彦」毛筆体画像透明スペーサー透明スペーサー

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