日本のテレビはゲッペルスである
いつもながら鋭い政治評論をしている森田実氏のWebサイトに、またまた必読に値する評論が載っていました。党サイトの代表メッセージにも書いておきましたが、私は決してへそ曲がりではありません。でも物事を批判的精神をもってみる癖が常にあります。批判のないところに民主主義は成立しないし、私たちは真理に決して近づくことはできないと思っています。
新著『自民党を倒せば日本は良くなる』でも、今年の3月の時点においてこの数年の自民党について、客観的かつ徹底的な分析と批判をしました。そのときは、多くの国民がそのように思っていたはずです。この問題は、本当に解決したのでしょうか。本質的なことは、実は何も変わっていないのだと思っています。自民党の派閥に何か変化でもあったのでしょうか。橋本派・森派・堀内派という小淵・森政権を支えた派閥が、苦し紛れに窮余の策として小泉内閣を許容しているだけです。これらの点をしっかりと見なければなりません。
白川勝彦
2001.5.30
小泉超高人気をさらに煽るマスコミと報道のあり方
政治評論家森
田 実
最近、政界でよく聞く言葉がある──「日本のテレビはゲッペルス」である。野党幹部が発信源のようだ。一部のテレビ関係者には衝撃を与えているらしい。
ゲッペルスとは、NAVIX(講談社刊)によると、「ドイツの政治家。ナチ党の幹部。宣伝相としてマスコミ諸機関を掌握・操作して、国家総動員体制を築く。1920
年代前半に入党。宣伝部長となり大衆への宣伝活動を巧みに展開。最後までヒトラーの信任を失わず、ベルリン陥落直前に自殺」。
野党幹部のいう「日本のテレビはゲッペルス」は、「日本のテレビが政治権力による国民への情報操作の道具と化し、国家総動員体制づくりの尖兵になってしまっている」という意味である。マスコミへのきびしすぎる批判に感じられるが、政治権力者を応援しつづける“節度なき"テレビ報道への強い不信が示されている。
最近の日本のテレビは異常である。田中外相、塩川財務相が、国会で重大な失言をしたり、答弁を拒否したりしても、ほとんど批判しない。それどころか、テレビタレントをコメンテーターとして登用して小泉内閣を擁護する。小泉政権への批判者はテレビからきびしく攻撃される。明らかに度が過ぎている。
野党政治家の一部からとはいえ、「テレビは政治権力の手先」と言われるようになった最近の状況について、テレビ関係者はどう考えているのだろうか。テレビによる際限なき小泉政権賛美により、批判者は沈黙させられている。日本における政権交代可能な二大政党制は消滅の危機に立たされている。テレビ関係者はこれでいいと考えているのだろうか。
この話題を取り上げたのは、政治においてテレビの役割が巨大化していることを論じたいからである。
30年に及ぶ高度成長期とそれにつづく「失われた10年」と言われる不況期──この
40年間を通じて、家庭、企業などの社会組織が弱体化し、日本型集団主義は事実上崩壊した。この結果、大多数の日本人は、いい意味でも悪い意味でも、組織人ではなく「個人」となった。非組織的な個人はもっぱらテレビ中心のマスコミを通じて政治情報を得る。テレビを最もよく見、最も強い影響を受けているのは主婦層である。テレビの影響力拡大とともに主婦層が世論の中心を占めるようになった。
社会的影響力が強くなれば、社会的責任は巨大なものとなる。報道機関で働く者は、社会的責任を自覚するだけではなく、巨大な影響力に見合う倫理力と知力を身につけなければならない。それ以上に、巨大な影響力を行使する立場にある者は、国民社会に悪影響を及ぼさないよう配慮しなければならない。そのためには節度を重要視する必要がある。
小泉内閣は「ワイドショー内閣」と呼ばれているが、この言葉には、テレビのワイドショーが小泉内閣の最大の支持勢力であるという意味が含まれている。民放のワイドショーは競い合って小泉内閣の宣伝部の役割を果たしている。毎日毎日、小泉フィーバーを煽り立てている。
テレビのワイドショーの視聴者の大多数は家庭でテレビを見る人たち、とくに主婦層である。小泉内閣の高支持率を支えているのはこの人たちである。テレビの影響をとくに強く受けやすい層である。テレビが自らを小泉政権応援団と考えているわけではないだろう。多分「合成の誤謬」を犯しているのだろう。民放各社が同じことをしているため、影響が過度になるのである。
テレビは公正の原則を失ってはならない。テレビ側は善意でやっていると思っているようだが、結果的には政治権力の情報操作に利用されている。このことを自覚せず、無自覚に小泉内閣応援団のように振る舞っているとすれば、テレビの自殺行為になってしまう。無意識のうちにゲッペルスの役割を演じてしまうおそれのあることを自覚してほしい。
最近、私の言論活動に対しても、いろいろ批判や非難がきている。小泉首相と田中外相を少しでも批判すると、感情的反発が返ってくる。
私の言論活動の原点の一部を紹介して、批判者への回答にかえたい。五つの格言で示す。
「始め、われ、人におけるや、その言を聴きてその行を信ぜり。今、われ、人におけるや、その言を聴きてその行を観る」(孔子)
この言葉を私なりに翻訳するとこういう意味になる──昔、私は、人を評価するにあたって、彼の言葉を聴いて彼を信じた。しかし、今は、私は、人を評価するにあたって、彼の言葉を聴いたうえでその行動を見て判断する。
言葉だけで政治家を判断するのはよろしくない。行動を見なければならない──これは私の言論活動の若いときからの原点の一つである。
「愛してもその悪を知り、憎みてもその善を知る」(礼記)
たとえどんなに好きな人でも彼の悪いところから目をそらしてはならず、たとえどんなに憎い人でも彼の善いところを知るべきである──という意味。「是は是、非は非」と同じ意味である。これも若いときからの原点だ。
「正義の極みは不正義の極み」(キケロ)
極端は極端を生む、ということでもある。極端はよくない。中庸がよい。これも私の原点である。
「政治の目的は善が為し易く悪の為し難い社会をつくることである」(グラッドストーン)
政治家だけでなく政治を論ずる者にとっても、最も重視すべきは善の追求である。嘘をつくような政治家は、他の面でどんなに優れていても、決して許すべきではない、と私は考えている。
「弱きを助け強きを挫く」
この精神はジャーナリスト活動の原点でなければならない。ジャーナリズムは権力の手先になってはならない。弱き者の味方でなければならない。強者にゴマをすってはならない──これが私の一貫した立場である。
以上の五つの格言を守ることを、私は長い間、心がけてきた。今も努力中である。私はこの立場を小泉内閣を論ずる場合にも貫いているのである。
最後にもう一つ付け加えたい。「政権交代が日本を救う」──これは私の言葉。この意味は、自民党内の政権交代ではない。小泉内閣の登場は擬似的政権交代である。真の政権交代とは与野党間の政権交代のことである。 |