朝日新聞『ポリティカにっぽん』の記事
2月27日付けの朝日新聞の定期的コラム『ポリティカにっぽん』に私のことが大きく取り上げられました。ご覧になった方も多いとは思いますが、朝日新聞を購読されていない方も多いと思いますので、念のためここに掲載します。このコラムを書いた朝日新聞コラムニスト早野透氏は、これまで取材で2~3回くらい会ったことはありますが、そんなに親しくはありませんでした。でも私のことをずっと見ていてくださっていたのだと思うとうれしくなりました。政治家は、いつも誰かがちゃんと見ているのだということを肝に銘じて行動していかなければならないと改めて思います。
ちなみに、早野透氏は私とほぼ同じ年で、大学の同期生のようです。しかし、学生時代に面識はありませんでした。そんな関係でこの記事を書いてくださったわけではないのですが、私と同じ時代を生きてきたものとしてきっと同じような時代感覚があるのだと思います。私も早野氏も、中曽根大勲位などにいわせれば問題ある時代の教育を受けた「問題児」なのかも知れませんが、私たちは私たちで私たちの時代を真剣に生きてきたと自負していますし、そんなに問題児扱いされるいわれはないと考えています。
それよりも、これまで偉そうなことをいってきた中曽根大勲位や宮沢財務大臣が、保守政治家としてどうしても筋の通らない自公保体制を何もいわずに容認し、自公保体制を推し進めている輩(やから)に媚びをうり、議員や大臣の地位に恋々としているさまを見ると、正直いってこの人たちから私たちのことを云々してほしくないという気を強くしています。人間、晩節は大事にしたいものです。
「出る杭」白川氏の前途は
朝日新聞コラムニスト
早野 透
江戸時代の鈴木牧之の『北越雪譜』
(岩波文庫)は、越後・魚沼地方の冬の苦楽をつづった名著である。
「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水にそそぎ、雪上にさらす。雪ありて縮あり」
ここの名産は越後縮。往時は、嫁を選ぶにも機織りの技を第一、器量は次に考えた。今年、越後も雪が深かっただろうか。
もう自民党には未練はないと離党した白川勝彦氏の出身地は、魚沼地方の中心地、十日町市である。昨年六月の総選挙では、秘書の交通違反もみ消し事件などでミソをつけて落選、どうしているかと思ったら新党結成を宣言、今年七月の参院選比例区に立候補すべく走り出した。
「考えることは票とゼニ、政権にへばりついていればなんでもいいという有象無象の政治家ばかりの自民党になってしまった。そんな自民党に私が引導をわたす」
先週、東京で開かれた「囲む会」の様子を見れば、相変わらずのガッツである。
「旧新潟四区で初出馬から支援してきた」という十日町市の人たちも来ていて「全国で戦えますか」と心配していた。いや、ミソはつけたが白川氏の「戦うリベラル」のブランドは確かなものだろう。
リベラルの旗揚げ
「出る杭は打たれる。出ぬ杭は腐る」
地盤、看板、カバンなく三十歳で選挙運動を始め、保守系無所属として一九七六年の総選挙に割り込んで落選、七九年に当選するまでのてんまつを白川氏自身が書いた『新憲法代議士』(サイマル出版会)にはこんな言葉を記している。三つ子の魂か、その後の白川氏の航路は「出る杭」の連続だった。
憲法改正は必要ないと主張し、貸しレコード店規制は自由主義に反すると論じ、スパイ防止法案を批判して、そのつど自民党内で物議をかもした。白川氏は特別に激しかったけれども、自民党がこうしたリベラルの系譜を含んでいたことが自民党の幅を感じさせ、長く政権党たりえた一因だったろう。
九四年五月、国会近くのホールで「いま、強権政治と戦う」という集会が開かれたとき、白川氏が「伊達や酔狂で自由主義を唱えているんじゃない」とたんかを切り、新生党の小沢一郎と公明党の市川雄一氏のいわゆる「一・一ライン」政権を激しく弾劾したのを覚えている。
それからまもなく自民党は「自社さ」連立で政権に復帰して、時を経て連立相手は小沢氏の自由党と公明党に変わる。なんのことはない、白川氏が弾劾していたそのものと組んだのだから、こんだは白川氏は反「自自公」の「政教分離を貫く会」をつくってあれこれと異議を唱える。当時の自民党の野中広務幹事長らにはやっかいな「出る杭」であり続けた。
そして白川氏が若いころから兄貴分にしてきた加藤紘一氏の乱の鎮圧を見て、白川氏はこう結論づける。
「自民党は
1:新保守主義の潮流 2:リベラルの潮流 3:政権党であればどうでもいいという有象無象派、の集合体だった。加藤氏の敗北はリベラル派の死滅だった」
白川氏によれば、新保守主義は「むきだしの自由主義」であって、リベラルは「社会的公正を配慮する自由主義」である。というわけで、白川氏はついに自民党の外に「出る杭」を立てることに相成ってしまった。
足とネット武器に
で、白川氏は参院選比例区をどう戦うか。むろん全国を足で飛び回るだろう。もうひとつの武器はインターネットである。白川氏のホームページでは、「永田町徒然草」と題して随時、政治への思いを発信してきた。その面白さは政治家のホームページとして出色のものがある。
「インターネットで選挙を戦えないとしたら、ビジネスなどにだって使えないということでしょう」
と白川氏。ひとつの実験でもある。
先週末、新潟県に帰って長年の同志と語らった。
「この数日間はさすがにクタクタになりました。今日は久しぶりに選挙区の自宅で寝ます。庭は一メートル余りの厚い雪に覆われています」
ホームページにはこう結ばれている。「出る杭」白川氏、五十五歳。前途やいかに。
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