第3章
「平成革命」は必ずできる 1. なぜ革命でなければならないのか?── ●問題の歴史的背景 現在の日本に必要な変革は革命的なものでなければならない、と私は考えています。その理由は、現在の日本が抱える問題の歴史的背景にあります。 まず一つは、昭和20年代半ばからの日本は加工貿易立国という国策の下にどんどん外国に出ていった時代でしたが、いまは外国からどんどん日本に人や金や企業が入ってくる時代になったということです。 二つめは、いまの日本が直面しているテーマは、明治維新や敗戦後GHQ(連合国軍総司令部)が行った諸改革のように、「日本はどうやって食べていくのか」ということではなく、「先進国同士の生き残り競争にどのようにして勝ち残っていくのか」という質の違うことが問われているということです。 三つめは、資源の有限性や環境問題など、非物質的なものが意味を持つ時代になったということです。つまり、ハードだけでなく、ソフトを含めた全体の社会構造の優劣が問われているということです。 四つめは、現在は国と国とが競争する時代ではなく、新たなブロック化のなかでの競争の時代になったということです。 そして五つめは、これまで日本経済を支えてきた土地本位制が崩壊し、終身雇用制も崩壊しつつあるということです。 このような大きな変化が起きているなかで、何かを変えようというわけですから、それは革命的なものでなければならないということです。 ●本当に日本人は革命が嫌いなのか? 「日本人は革命が嫌いだ」とよく言われます。しかし、本当にそうなのでしょうか? 私は違うと思います。というのは、過去の日本の歴史のなかでも、幾度となく革命が行われてきており、そのとき民衆はその革命を支持してきたからです。 たとえば、戦国時代です。稀代の革命家である織田信長が出てきて、それまでの常識を覆して新しい世の中を築こうとしました。信長が本能寺で倒れた後、その志を引き継いだのが豊臣秀吉であり、徳川家康でした。この時代の話は、数年に一度必ずNHKの大河ドラマのテーマになっていることからすると、現在の日本人も決して革命が嫌いなわけではないのではないかと私は思うわけです。 明治維新については、多くを語る必要はないと思います。各地で内戦までやって徳川幕府を倒した明治維新は、革命以外のなにものでもありません。そして、幕末に各地で「ええじゃないか」という踊りが自然発生的に起こったのは、民衆が明治維新を支持していたことの表れだったと言えるでしょう。 それから、1945年8月15日の敗戦後、日本を占領したGHQの下で行われた諸改革の断行です。私はこれを以下で「昭和20年革命」といいます。これについては革命ではないという人もいますが、これは革命だったと私は思っています。何百万人もの国民が血を流して大戦争を行い、結果として敗れはしたけれども、戦後のいろんな改革はその結果として出てきたのです。 特に、日本国憲法の制定は、その最たるものでしょう。この憲法を改憲論者たちは押しつけられたと言っていますが、憲法制定議会がひらかれたときすでに国会議員だった早川崇氏から私が直接聞いた話では、少なくとも当時は押しつけられたなどという雰囲気はなかったということでした。つまり、その当時の日本人は、新しい憲法を支持していたわけです。 私は政治家や時の首相が何か問題があると「いまわれわれが直面している問題を解決するためには、明治維新、昭和20年に続く、第三の革命をしなければなりません」と言うのを、幾度となく耳にしてきました。 そのたびに、私は「あなた、本気でやる気があるのかね?」と思ったものです。本気で革命をする気もないくせにそんなことを言ったら、明治維新の志士たちや昭和20年革命の先達を侮辱することになるからです。 ●革命を阻害しているのは誰なのか? いつの時代も、革命を行おうとするときには必ずその革命を妨害しようという人たちがいます。そして、その妨害者はだいたい一部の特権階級なわけですが、ではいまの日本の革命を妨害しようとしている特権階級とはいったい誰なのでしょうか。 大地主でしょうか。それとも共産党が言うように、アメリカ帝国主義と独占資本なのでしょうか。私はどれも違うと思います。 現在、国家公務員は約110万人で、地方公務員は約320万人です。そして、公社・公団など特殊法人の職員が約六七万人います。これらを合わせた約500万人の「きわめて小市民的な特権階級(?)」が、革命を妨害しているのです。 現在の日本では、これらの「きわめて小市民的な特権階級」と、かなり豊かになった市民との敵対関係が起こっているということです。 ●日本に残された時間は少ない いまの日本には、あまり時間がありません。革命は急ぐ必要があります。 また、アジア諸国の成長ぶりも、一時ほどではないかもしれませんが、それでもやはりすごいスピードで成長していることは間違いありませんし、そのアジア諸国を欧米は自分たちの影響下に置こうとしているからです。 日本がいまここでモタモタしていると、完全に欧米から取り残されることになってしまうだけでなく、アジアをブロック化して欧米に対抗することもできなくなってしまうのです。 日本は閉鎖国家としての時代が長かったために、国際国家としてはまだ赤子のようなものです。また、言葉の壁や社会科学・人文科学の遅れなどがあることも事実です。だからといって、日本が国際国家に成長するのを待っていたら、それこそ完全に日本は世界から取り残されてしまうことでしょう。 だからこそ、多少痛みを伴っても、ここは一気に大胆な変革=革命を断行しなければならないのです。 ●平成革命の必要性と可能性 ロシア革命の主導者であったレーニンは、革命が起きる条件として、三つのことを挙げています。 まず一つは、民衆がもうこの体制では嫌だと思ったときです。二つめは、体制のなかにいる人自身が、この体制では民衆を支配できないと思ったときです。そして三つめが、革命を企画・立案し、実行に移す党や人物がいることです。 これをいまの日本に当てはめてみると、この三条件すべてに当てはまります。これまでも一番めと二番めの条件は揃っていましたが、三番めの条件が欠けていました。もちろん、これまでにも革命の必要性を訴えた人はいましたが、それは言葉だけで、本気で革命を起こそうという気持に欠けていたのです。 しかし、もう大丈夫です。私、白川勝彦が立ち上がりました。私が信頼に値する人物かどうかは、本書を読んでいただいてから、皆さん自身の目で判断していただければと思います。私は本気で革命をやるつもりであり、やり遂げる自信もあるということです。そのために、私は自民党から飛び出し、戦いを始めたのです。 もはや、この国は革命でしか救うことができません。リフォームではダメなのです。革命でなければいけないのです。そして、それをやるのが政治家です。革命とはまさに政治そのものだからです。官僚や学者や評論家にはできません。 現在、日本には約700人の国会議員がいますが、私の知る限りでは、本当に政治のことを理解し、そして革命を指導できる政治家は少ないのが実情です。しかし、真の革命家がたった一人でもいれば、世の中を変えることはできます。革命とはそういうものです。 2000年11月の加藤騒動で、国民の多くはこの国の将来に危機感を持っているということが明らかになりました。国民は「選挙」という平和的に革命を行うシステムを持っています。さらに、行動する力もあります。それは、長野や栃木や千葉の県知事選挙、東京二十一区の衆議院補欠選挙の結果を見れば明らかです。 あとは、行動を起こす勇気だけです。私は、多くの国民が勇気を持って立ち上がり、行動してくれるものと信じています。 2. 破壊と建設のビジョン── ●建設のためには破壊が必要 「革命」をめぐる破壊と建設の論争は、古くて新しいテーマです。 多くの革命家は、まず破壊を主張してきました。そして、多くの革命家は、破壊の途中で倒れてきました。だから、革命とか革命家と言うと、どうしても「破壊」というイメージが拭い去れません。 ある体制を倒し、新しい体制をつくりあげる仕事に従事したのは、実は破壊段階では中堅もしくは端っこや片隅にいた人が多かったのです。破壊と建設は別の能力だと言う人もいますが、私はそうは思いません。ある体制を倒そうと思った人が、実は新しい体制についても良き建設者になれるのだと、私は思っています。 残念なことに、革命というのは難事業であったために、その途中で多くの優秀な人材が倒れました。革命が成功したとき、どちらかというと凡庸な革命家が生き残り、そのため多くの革命がその理想を全うし得ないで来たことも確かです。 そういう意味で、革命がシナリオどおりに進むことは少なかったと言えます。実際、革命がその理想から離れたものになった例も数多くあります。 しかし、一つだけ言えることは、破壊が徹底したものであればあるほど、建設はうまくいったということです。したがって、革命を本当に成功させ、革命がその理想を実現させるためには、古い体制をできるだけ完全に壊すことが必要であることだけは確かなのです。 ●平成革命は建設のためにやる いま、私たちがやらなければならない平成革命は、私たちが理想としている世の中をつくるために、どうしても必要不可欠だから行うのです。私情や私怨に基づくものではないことは言うまでもありません。また、いま自公保という体制のなかにいる人たちを敵にするものでもありません。私たちは、その体制のなかにいる大多数の人たちをも含めて、国民の利益を守り、日本の未来をつくるために、平成革命を行おうとしているのです。 私たちがやろうとしていることは、それが官僚組織のことであれ、経済システムの問題であれ、本来ならばそのなかの人たちが自己改革としてやってこなければならなかったことが多いのです。しかし、日本という社会全体に自己改革を行う力がなくなっていくなかで、それぞれの分野で行うべき改革が先送りされてきました。そして、社会全体が可逆性と変革能力を失い、口を開けばため息をついて「閉塞感」という言葉を連発するようになってしまったのです。 ぼやきや不平不満を言うだけでは現実は少しも変わらない、というのが私の生き方です。現実に不平や不満があるのなら、そう思った人から立ち上がってこれを変えていく努力をしよう、というのが私の生き方でした。たとえ、それが世の中を半歩進めるだけの小さなものであっても……。 ●新しいビジョンは戦いのなかから生まれる! 私たちがいま、活力ある希望に満ちた21世紀の日本をつくるために何が必要かということは、学者や評論家に机の上で考えてもらって決めることではありません。 新しい建設のビジョンは、実は現状について何が問題かを徹底的に批判し、分析するところから浮かび上がってくるのです。また、そのようなものでなければ、現実を変えるビジョンにはならないと思います。 わが国では、いまビジョンがないというのが一つの流行話になっていますが、私は新しいビジョンと称されるものを見るたびに、こんなものでは世の中を変えることは決してできないだろうと思ってきました。 本当に新しいビジョンというものは、現状に対する徹底した分析と戦いをしている者のみが、初めて提起できるのだということを、私たちは知らなければなりません。 若い政治家のパンフレットや政治的な書き物などを見ていると、夢を書くことがビジョンだと勘違いしているふしがあります。しかし、そんなもので世の中が良くなるはずがありません。 現状のどこに問題があって、どうすればその問題が解決できるのかを考えることが、実はビジョンなのであって、現状を離れたところで「あれもしたい、これもしたい」と言うのは、少年の夢のようなものなのです。 ●日本経済の立て直しは急務 バブル崩壊後、10年以上にわたって不況が続いていますが、この間不況対策として数百兆円もの予算を投入したにもかかわらず、この2,3年の経済状態は明らかに異常です。日本経済の崩壊とさえいわれる危機的状況です。 巨額の景気対策にもかかわらず、なぜ日本経済は回復できないのでしょうか。それは、根本が間違っているからです。ときにはまったく逆のことに、莫大な予算を投じてさえいます。これでは治る病気も治らなくなります。 たとえば、政府が遅ればせながらIT革命の先頭に立つと言って、別枠の予算まで取って鳴りもの入りでIT革命を進めると言っています。IT革命によって、日本経済はよみがえると言っています。 しかし、「ちょっと待ってくれよ!」と私は言いたくなります。 IT革命というのは、より高度なネットワーク社会をつくるということです。では、ネットワークとは、いったいどういうことでしょうか。 ネットワークとは、網(ネット)の結び目が一つの拠点となって、網の糸目の部分を使って縦横無尽に動き回って機能する(ワークする)状態をさすのです。ネットワーク組織の対立物は、ヒエラルキー組織です。上命下服によって動くピラミッド型組織です。 ネットワーク社会は、自由主義体制の下でのみ機能し、花開くのです。全体主義体制は、ネットワーク社会を許容するはずもないし、ネットワーク社会は全体主義体制を必ず崩壊させます。 1988年に出版した『網の文明』(文藝春秋)という本のなかで、私はこのことを指摘し、21世紀を展望して「高度情報立国」をめざすべきだと提言しました。そして、10年遅れて皆がこのことに気づいたのですが、すでにアメリカにはずいぶんと水をあけられてしまいました。 日本経済の諸問題は、所詮自由主義的に解決するしかないのです。それだけが最終的な解決策なのです。仮にそれが辛かろうが苦しかろうが……。 自公保体制は、それ自体が政治的には全体主義的であり、自由主義と逆行するばかりでなく、これを抹殺しようとしています。その自公保体制と癒着した、これまた非自由主義的・統制的発想しかもち得ない官僚組織が志向する日本経済の方向や当面の景気対策は、問題の解決を先延ばししているだけでなく、やってはならないことさえ莫大な予算を使ってやっているのです。 このところを正しく理解し、真の日本経済の立て直し策を明らかにするために、もう一度、基本論をおさえてみたいと思います。 3. 革命の基本思想── ●政治思想としての自由主義 自由はいらないと言う人は、ほとんどいないはずです。ほとんどの人が自由を愛すると言います。そして、現在の日本は、かなり自由のある国と言っていいでしょう。 しかし、このようなことは自由主義とは必ずしも直結するものではありません。社会主義社会の人たちも自由を望みます。そして、国民に比較的自由を認める社会主義国もあれば、国民の自由を一切認めないというか、厳しく規制する超独裁的な社会主義国もあります。社会主義国といっても、多少の違いはあるのです。 自由主義の政治思想というのは、一つの社会統治のものの考え方、思想です。ですから、自由主義(主義すなわちイズム)と言うのです。 「いかなる悪い政府も、無政府状態よりましである」という、イギリスのカムデン卿の有名な言葉があります。政治というものの本質をついている一つの真理です。すなわち、政治というのは、一つの秩序をつくる人間の営みなのです。どうしたらいい秩序ができるかという思想・哲学を政治思想・政治哲学と言うのです。 自由主義の政治哲学は、国民を自由に活動させることがいい秩序をつくることにつながる──政府は社会や国民を完全に管理することなど本来できないのだから、そのような無駄なことはやめて自由に活動させること以外に方法がない--その方が結果としてはコストもかからず、いい秩序をつくることができるのだという政治に対する考え方なのです。 このような政治哲学ができたのは、人類の長い歴史のなかでは、ごく最近のことです。17世紀ごろ、イギリスで初めてこのような政治哲学が生まれました。 しかし、当時そういう主張をする人ですら、まだイギリスを構成するすべての国民を自由に行動させるところまでは、実は考えていませんでした。 ブルジョアというのは、経済的地位に着目した呼称でした。このブルジョアと呼ばれる人たちの自由を認めさせること。それが国富につながるということを理論づけたのが、アダム・スミスでした。 アダム・スミスの『国富論』は、自由主義経済体制こそ最も発展する調和のとれた経済的秩序をつくることができるのだ、という自由主義の古典中の古典です。 ●社会主義思想が生まれた理由 自由主義経済体制は、中世の経済体制に比べると明らかに生産力を発展させ、「国富」をもたらした反面、競争社会の結果としての不平等を至るところに引き起こしました。 産業革命によって工業化が進み、労働者階級が大量に生まれたことは、資本家階級にとってはいい制度でも、労働者階級にとっては必ずしもいい制度ではなかったのです。 このような現実のなかから、いろいろな考え方が生まれ、それらが最後に集約されたのが社会主義という政治思想であり、経済思想でした。 これを精緻(せいち)な理論にしたのがマルクスでありエンゲルスでした。マルクスの社会主義思想に基づく世界最初の社会主義革命を成功させたのが、ロシアのレーニンでした。1917年のことです。 ●自由主義と社会主義との激烈な戦い このように社会主義思想は、自由主義体制のなかから生まれたものです。しかし、社会主義思想は、その最初から自由主義体制と戦う理論であったため、生まれたてのときから自由主義体制の支配者からは厳しく弾圧されました。 特に、世界で初めて起こったソ連邦に対する他国の恐怖は大変なものでした。それは何も自由主義体制の国だけではありませんでした。たとえば、当時の日本──どう考えてもまだ自由主義体制の国とはいえない実態の国でしたが──ソ連邦に対しては大変な脅威をもったものとみえて、第一次世界大戦終了後も、数年にわたりシベリアに軍隊を派遣して干渉を加えました。 そして、第二次世界大戦を契機に、自由主義陣営と社会主義陣営の対立は決定的になりました。世界はアメリカを盟主とする自由主義陣営と、ソ連邦を盟主とする社会主義陣営に大きく二分されたのです。 このイデオロギーの対立は冷戦と言われ、単なる思想的対立というレベルではなく、軍事を伴う総力戦でした。いつ世界大戦が起きても不思議はないという緊張したものでした。 それゆえに、冷戦は単なる思想的対立・政治的対立にはなり得ませんでした。自由主義陣営に属する国には、とても自由主義国とは言えないような国も多々あったわけですが、アメリカとしては、反共でありさえすれば自由主義陣営の仲間とみなし、経済援助や軍事援助をしてこれを支えたのです。 同じようなことは、社会主義陣営についても言えます。社会主義経済体制をとっていない国でも、ソ連(のちには中国を含む)に対して友好的な国は社会主義陣営の国として、ソ連や中国から軍事的・経済的援助を受けたのです。 ●自由民主党が成立したきっかけ 東西両陣営の激しい対立は、わが国の政治にも大きな影響をもたらしました。 第二次大戦後、アメリカの占領下に置かれた日本は、実際問題として東西両陣営のどちらに属するかを決める自由はなかったと私は思います。しかし、間接統治方式をとったアメリカとしては、西側陣営に属することを決めたのは、あくまで日本国民の意思・選択であるということにしなければならなかったわけです。 そのような主張や役割をもった政党が、自由党や民主党やその他の保守政党と呼ばれる政党でした。昭和20年代の保守政党の変遷はめまぐるしく、とてもここで述べることはできませんが、最終的には、自由党と日本民主党に集約された両党が合併してできたのが自由民主党です。昭和30年代のことです。 自由民主党成立の直接のきっかけは、実は、右派社会党と左派社会党に分かれていた社会党の合併でした。西側陣営に属することに反対していた両党の合併は、当時のわが国の支配層とアメリカには、大変な恐怖だったのだと思います。そこで自由党と日本民主党を合併させる必要が出てきたのです。 自由党や日本民主党のどちらも、必ずしも明確な主義主張をもってでき上がった政党ではありません。中選挙区制というなかで、主義主張で分かれるというよりも、選挙区の事情で自由党から立候補したり、日本民主党から立候補したりすることが、ごく普通のこととしてありました。 ただでさえ主義主張が明確でなかった自由党と日本民主党が合併したことにより、自由民主党はいっそうあいまいな主義主張をもった政党になりました。 あいまいなというより、ほとんど理念や主義のない政党として生まれたと言っていいと思います。自由民主党に所属する政治家の共通点といえば、(1)西側陣営に属すること=日米安保条約を認めること、(2)政権党に属していたい、ということくらいのものです。 これまで私は自民党のことを厳しく批判してきましたが、そのルーツはそもそもその誕生にあると言ってもいいのかもしれません。 このような自民党の最大の役割は、選挙で社会党などの野党に勝って、西側陣営にとどまることでした。しかし、それは世界全体が東西に分かれて激しく戦っている時代には、政治的には大きな意味を持っていたと言えます。 ●冷戦の終焉とともに終わった自民党の役割 1989年にベルリンの壁が壊され、第二次大戦後約半世紀続いていた冷戦は終わりました。これにより、冷戦時代、西側陣営に属することを最大の使命としていた自民党の役割は、意味をなさなくなりました。 極端な言い方をすれば、それだけを最大の目的とした自民党は、存在理由を失ってしまったといっても過言ではないわけです。 少なくともこのときから、自民党は自らの存在価値を別のところに求めなければならなかったのですが、共産主義・社会主義体制が崩壊し、自由主義が勝ったということに酔いしれ、本来自分たちがなさなければならないことに思いをいたさなかったのです。現在の自民党の体たらくを見ていると、改めて「勝ってカブトの緒をしめよ!」という諺(ことわざ)が思い浮かびます。 4. 平成革命の条件と必然性── ●日本国憲法は「昭和20年革命」によって生まれた 私は弁護士です。ですから当然、司法試験の受験のときに憲法を勉強しました。憲法は私の特に好きな科目でした。私が自由主義者として自己を確立するうえで、憲法や刑事訴訟法の勉強は大きな役割を果たしました。 現在の日本国憲法は、手続き的には1889年に制定された大日本帝国憲法の改正手続きにのっとって改正され、成立したことになっています。しかし、憲法学者の多数意見は、それは手続き的な体裁であって、帝国憲法の基本原則を革命的に変更する改正は、憲法論としては改正の範疇(はんちゅう)に入らないというものです。 すなわち、日本国憲法と帝国憲法は、形式的には連続性はあるけれども、実体的には連続性はない。実質は革命によってまったく新しい憲法が制定されたと見るべきだというものです。私もこの考え方をとります。 ●革命によってしかなし得なかった戦後の変革 太平洋戦争に負けた日本が、アメリカの占領下において行った数々の変革は、諸外国ならば革命によってしかなし得なかったことが数多くあります。 その第一は、新しい憲法の制定です。世界でも高い評価を受ける自由主義憲法の制定です。 第二は、農地解放です。当時の文献を見ると、農地解放をしなければ社会主義革命を唱える勢力から日本を守り切れない、といった占領軍の分析が随所にあります。当時極めて貧しかった日本、特に農村において農地解放をしたことは、社会党や共産党の大きなターゲットを失わせるものでした。 第三は、男女同権だと思います。 その他にも天皇制の改組、財閥解体、内務省の解体、教育改革など革命政権でなければとうていなし得ないような大改革がGHQの命令によって次々と実行されました。日本共産党が一時GHQを革命軍と呼んだのもうなずけます。 よく「現在の自由は、自ら勝ち取ったものではなく占領軍によって与えられた自由である」というような言い方がされます。それはそうなのですが、勝ち取った自由であろうが、与えられた自由であろうが、自由は自由じゃないかという思いが、私にはあります。昭和20年革命の限界を指摘する論述は山ほどありますが、私が言いたいのは、もっと根本的なところなのです。 ●「昭和20年革命」は道半ば 日本人にもなじみの深い中国の革命家・毛沢東の著作は、マルクスやレーニンのものに比べると比較的読みやすくて理解しやすいものでした。 学生時代、私は毛沢東の著作をかなり読みました。毛沢東は、その運動論のなかで次のようなことを述べています。
昭和20年革命は、GHQの開明的で理想主義的な改革者が、その理想を実現するために実験的にやったものだというのは、そういう側面があったにしても、全部が全部そうだったとは思いません。 農地解放は、放置すれば社会主義革命の引き金になると危惧(きぐ)したGHQが、必要に迫られて断行したのだと私は思っています。そういう意味では、当時の日本に、内在的な革命を求めるエネルギー・運動があったのです。このことはきちんと評価しなければならないと私は思っています。 しかし、昭和20年革命は、GHQの強い力でなされたことは間違いありません。昭和の初めごろから始まった戦時体制を確立するために行われた弾圧で、革命勢力や改革勢力がほとんど殲滅(せんめつ)されてしまったのですから、社会的不満が鬱積(うっせき)していたとしても、極めて現象的なところでは運動できたとしても、社会全体の革命を行うには内在的な力は不十分であったと言ってもいいと思います。 したがって、昭和20年革命は、昭和20年に始まり、昭和25年ころに終わったと言っても過言ではないと思います。 ●半世紀の間に蓄積されたエネルギー 与えられた自由であれ、勝ちとった自由であれ、自由は自由じゃないかと私は述べました。これと同じように、いかなる原因によって、またどのような力によってなされた革命であれ、新しくできあがった体制は、一つのエネルギーをもって自己増殖します。 私は昭和20年革命によってできた自由主義体制は、間違いなく確実に成長し、純化してきたと思っています。日本という国が、これだけの自由主義体制をとったことは、過去にはもちろんありませんでした。そのなかでアダム・スミスの『国富論』ではありませんが、国富は確実に蓄積され、世界の奇跡と言われる経済発展をなし遂げてきたのです。 これは前にも述べたとおり、自民党の政策が良かったからではありません。昭和20年革命によって、日本が自由主義国家として新しく出発したからです。 ですから、私から見たら、どう考えても右翼反動の考えしか持たない自民党の政治家が、
というような演説をしているのを同じ席で聞くとき、虫酸(むしず)が走りました。 しかし、不思議なことに、こういう威勢のいい演説をしている政治家が、1993年7月の総選挙で自民党が野党になったとき、いの一番に自民党から当時の政権を持っていた細川政権側へと走って行ったのです。 ●今こそ真の自由主義革命を 昭和20年革命によって、わが国は自由主義国家として新しく誕生し発展を遂げてきたのですが、最大の不幸はその新しい体制の政権党が不十分な自由主義政党=自民党であったことでした。 もし、自民党が自らを自由主義政党として純化する努力をしてきたならば、日本はさらに発展してきたでしょう。特に、バブル崩壊後、このような停滞はしていなかったでしょう。自民党は曲がりなりにも自由民主党ですから、自由主義にまったく反することはやりにくかったし、自民党のなかに自由主義を正しく理解し実行しようとする政治家もいました。 わが国の不十分な自由主義体制を正しく認識し、これを改革する努力を昭和40年代ごろからもっと進めていたならば、今日のような閉塞(へいそく)感が社会のあらゆる分野に浸透するような日本にはきっとならなかったに違いありません。 一度走り出したら汽車は止まりません。戦後一貫して政権を担当してきた自民党がどのような政党であれ、憲法によって規定されたわが国は、確実に自由主義体制の国として発展してきました。国民も政治的・経済的・社会的に自由主義体制を担い、推進する力を蓄えてきました。それが体制というものが持っている力、エネルギーというものです。 いまこの国の政権を担当している自公保体制は、極めて非自由主義的であり、全体主義的政権と言っても間違いないと私は思っています。しかし、上部構造である政権がそのようなものであっても、まだ下部構造は変わっていないばかりではなく、間違いなく自由主義体制としてのエネルギーを内側に抱え持っています。そして、全体主義的政権というくびきから解き放たれることを望んでいます。 ここにわが国の不幸があると同時に、可能性と希望があるのです。今度こそ、昭和20年革命の延長線上で、第二の自由主義革命を始めなければならないのです。それを私は「平成革命」と名づけているのです。 5. 何をどう変えるのか?── ●国民が感じている閉塞感といらだち 政治に限らず、いま何かの問題を私たち日本人が語るとき、「閉塞感」とか「閉塞状況」 1945年から今日まで、わが国は決して順風満帆に来たわけではありません。昭和20年代~昭和30年代半ばまで、日本経済は決して順調に発展してきたわけではないのです。 私が池田勇人首相の「月給倍増論」を耳にしたのは、中学生のときでした。子供ながらに「10年間で月給が倍になったら素晴らしいことだ。そんなことが本当にできるのだろうか?」と思ったものです。 多少なりとも物心がついたのは7~8歳のころです。それから10年近く世の中の動きを子供ながらに見てきたわけですが、私が育った新潟県十日町市という小さな町では、驚くほど緩慢にしか経済は成長していなかったと思います。 それでも大人たちは、閉塞感などという言葉を使いませんでした。貧しいなか、乏しい資金や資材を使ってたくましく建設をし、いろんな分野で果敢に挑戦していました。私はそういう時代に育ち、貧しかったけれどみんなが懸命に生きていた時代をなつかしく思い出します。 若干の危惧(きぐ)がないわけではありませんが、私はわが国の国民が怠惰になり、チャレンジ精神を失ってしまったとは思いません。 多くの国民がいろんな分野で閉塞感、先づまり感を持つのは、日本という社会が国民の努力によって変わらないということへのいらだちだと思っています。わが国は自由主義社会であるにもかかわらず、一人ひとりの個人の努力が大きな意味を持たないような状態になってきているからです。 ●社会システム全体にしなやかさを取り戻す 共産党を除く全党が推薦する知事候補を、圧倒的な大差で打ち破った田中康夫長野県知事の、「しなやかな県政を実現する」という言葉が県民に歓迎されたのは、田中氏が作家だからいいキャッチ・コピーを考えたからではなく、わが国のあらゆる分野にある病理現象を“頂門の一針”のごとく突いていたからです。 そうなのです。わが国は「しなやかさ」を失ってしまったのです。硬直してしまったのです。モビリティを失ってしまったのです。個人の努力ではどうにもならないマス社会になってしまったのです。かつて流行った難しい言葉で言えば、疎外現象があらゆる分野で定着してしまったのです。 自由主義社会とは、競争社会でもあります。勝負の社会です。 しかし、仕事の分野や社会の分野では、結果が決まっているということが多すぎるのでしょう。でき上がりすぎてしまって、新しいものが入り込む隙間がなくなったのです。 この10年間、新技術の開発やベンチャー企業の育成ということが産業政策の目玉にいつも挙げられていますが、あまりベンチャー企業が育ったという話を聞きません。 私は1994年~1995年までの1年半、衆議院の商工委員長を務めた経験もあって、通産省(現・経済産業省)には政治家として他の人よりは一定の発言力がありました。それゆえ、ベンチャー企業や新技術をもった企業を、私たちがつくった制度で多少は応援できるのではないかと思って、役所に紹介したことが何度もあります。しかし、通産省や中小企業庁から返ってくる言葉はいつも「残念ながら基準に合いませんでした」という返答でした。 そもそも頭の堅い、商売というものを知らない官僚に、ベンチャー企業の育成とか新技術の開発とかを任せることが無理なのかもしれません。 ●自由な競争で産業を活性化させる 建設業界、銀行業界、鉄鋼業界、新聞業界、レコード業界など、日本には○○業界と呼ばれるものが数えきれないほどあります。自民党の団体総局長のとき、こんなところにも業界団体がつくられているのかと驚いたことがずいぶんありました。それぞれの業界の発展のために、そのようなものは必要だと思います。 しかし、日本の○○業界のリーダーたちの資質が問題だと、私は思っています。その業界や分野で成功した人たちというのは、つい保守的になりがちです。それは人間の性(さが)として仕方がないことですが、問題はその人たちのものの考え方なのです。 自由な競争によって激しい戦いがなされていない限り、その業界は成長が止まるものだということが理解できないリーダーが多くいます。業界の秩序が乱れることを恐れて秩序をつくろうとするわけですが、それは自由主義の立場で言うと、決して好ましい秩序ではないことが多いということをわからないリーダーも結構いるのです。 そういう秩序づくりに、官僚たちは介入したがります。もちろん官僚の介入できない分野もありますが、介入できるところには、官僚はハイエナのごとく群がってきて、自分たちのコントロール下に置こうとします。 こうなったら、もうその業界は最悪です。自由主義的思想をしっかりと会得したリーダーが、社会の各分野でリーダーにならないと、わが国の「しなやかさ」はとり戻せないのです。 ●今太閤=田中角栄首相の誕生の背景 私は、わが国のあらゆる分野の組織が硬直化してしまったのではないか、という思いを、 その証拠を一つだけ挙げるとしたら、私は田中角栄氏が国民の圧倒的支持を受けて、首相になったことを挙げたいと思っています。当時ですら国民は、佐藤栄作首相に代表される官僚政治に愛想を尽かしていました。佐藤首相の後の首相として、もし日本にエスタブリッシュメントと呼ばれる人々がいるとすれば、その人たちのなかではだんぜん福田赳夫氏を首相に推す人が多かったと思います。 それを反映してか、自民党の国会議員のなかでも最初は福田氏の方が有利と伝えられていました。しかし、福田氏はアッという間に自民党の国会議員のなかでも、国民世論の上でも田中角栄氏に逆転されてしまったのです。 私は当時、司法研修所を出て、実家でブラブラしていました。決して自民党支持者ではありませんでした。いまで言う無党派でしょうか。それでも新潟県人ということを抜きにしても、田中氏に日本の首相になってもらいたいと思っていました。私の周りにいた自民党支持者のなかでは、田中氏の支持は圧倒的でした。 そして、1972年7月に田中氏が首相になると、「今太閤」ブームが起きました。まだ「閉塞感」などという言葉はいまほど言われたり、感じられたりしなかった時代ですが、これは何となくいろんな分野で固まり出してきた──しなやかさを失ってきた──ことを、直感的に感じていた国民の意識の表れであり、これを打破してほしいという欲求だったのだと私は思っています。当時、27歳の青年であった私も、弁護士という資格を持っているにもかかわらず、決して夢や希望を持つことができない青年でした。 ●田中角栄氏とともに夢を追った国民 田中首相の「日本列島改造論」は、全国的な土地と株の高騰を招きました。そして、インフレが起こり「狂乱物価」という言葉が生まれました。しかし、名目的な成長率は、7%から10%になりました。 インフレ率と名目成長率を考えると、実態はそんなに変わらないのですが、景気はすこぶるいいと言う人が多かったのは事実です。いまの言葉でいえば、バブルと言っていいでしょう。 戦後、日本は世界の驚異と言われる成長をしてきましたが、このときとバブルと言われた1989年からの数年間を除いて、このような異常な好況感を国民が感じたことはなかったのではないかと私は思っています。 「日本列島改造論」がいまで言えばバブルを招いたのは事実ですが、果たしてそれだけが原因だったのでしょうか。毛沢東ではありませんが、列島改造バブルをひき起こしたのは、国民のなかに内在的にそのような欲求があったからではないかと私は考えています。田中氏の「列島改造論」は、その引き金になったのだと思います。 戦争に負けた直後から1960年くらいまでは、あらゆる分野でまだ秩序と言えるほどのものができていなかったために、国民はそれなりに自由に自分の行動ができたのだと思います。しかし、優勝劣敗の結果、一つの秩序がしだいにでき上がってきました。 秩序ができることそれ自体はいいことなのですが、その秩序にしなやかさが失われ、新規参入者を拒否する体質が強くなると、その秩序のなかで満足する地位や状態にない人にとっては、その秩序は自らを疎外し圧迫するものになってしまうのです。国民の生活は確かに良くなっていましたが、一方では随所に国民は疎外感・圧迫感を持ち始めていたのだと思います。 国民は、もう一度自らを疎外し圧迫している秩序から解放されたいと思っていたところに、コンピューターつきブルドーザーと言われた田中角栄氏が登場してきたわけです。官僚政治家しか首相になれないという政界の常識を打ち破って首相になった田中氏に、多くの国民が喝采したのはこの破壊力であり、田中氏とともに自らの夢を追おうとしたのではないでしょうか。 これまでの経済常識では考えられないことが現実となり、国民はこれまでとは違った経済活動を始め出しました。戦後20数年かかってでき上がった秩序の、崩壊や破壊が起き始めたことは間違いのない事実でした。 それがもう少し続いていれば、間違いなく新しい秩序が生まれていたのでしょうが、ちょうどそれが始まり出したとき、第一次オイルショックが起きました。エネルギーの石油への転換を急速に進めてきたわが国の経済や国民生活は直撃され、失速してしまいました。田中氏とともに夢を追おうとした国民の挑戦もはかなく潰(つい)えてしまったのです。 ●バブル=夢をもう一度の懲りない面々 列島改造バブルが崩壊した後も、第二次オイルショックがありました。1978年のことです。さらに日本経済は苦境に立たされたわけですが、国をあげての省エネルギー政策が成功し、日本経済は再びたくましく蘇(よみがえ)りました。実質経済成長率も安定経済下においては、十分すぎる水準を確保しました。 そして、中曽根内閣の末期からバブルが始まり、竹下内閣のときバブルは絶頂期に達しました。竹下内閣がリクルート事件によって退陣したのは、バブルの崩壊を暗示するに十分なものでした。リクルート事件こそ、株の高騰がもたらした事件だからです。 このバブルをひき起こしたものは、いったいなんだったのでしょう。列島改造バブルは、政治的・経済的・社会的には、理論的にも実態的にも総括され清算されていたはずですが、実はそうではなかったからではないでしょうか。 第一次オイルショックで頓挫してしまった夢を、もう一度追おうとしたのではないかというのが私の考えです。ですから、賢明な人は列島改造バブルの経験に学び、舞い上がりませんでした。国民の多くはそうでした。しかし、一部の懲りない面々は列島改造バブルの経験に学ぶことなく、狂奔しました。 そして、自らが破滅するだけでなく、バブルに狂奔しなかった国民をも巻き込んでしまったのです。バブル崩壊後の景気対策のための莫大な赤字国債の発行、金融機関救済のための莫大な額の財政出動などは、歴史から教訓を学ばない愚かな行動のツケにしてはあまりにも重すぎます。 |
白川勝彦OFFICE
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