去華就実
08年11月10日
No.986
国会議員をやっていた時、どうしてもと色紙を求められる。書道など習ったことがないので苦手だったが、それでも已むを得ず書いた。どのみち政治家の書など大したものではない。所詮カナクギ流であるが、せめて字句くらいは気の利いたものを書かなければならない。私もいくつかの字句をもっていた。そのひとつに「去華就実」があった。
バブルの頃に私は好んで去華就実と書いた。株も不動産もやらない私にとって、バブル景気にはどこか違和感があったからだ。バブルはしばらく続いたが、結局は弾けてしまった。先生からもらった「去華就実」の色紙の意味が分かりました、とバブル崩壊後よくいわれたものである。世界同時株安と金融危機で世の中が不安になっているいま、去華就実を心がけることが大切だ私は思う。
去華就実の語意は、字句のとおりである。「華やかさを捨て、実に就け」という意である。「ケバケバしい華やかさから去り、実体のある確かなものを大切にせよ」ということである。昔から日本人は虚飾を軽蔑する気風があったのではないか。例外的に平安時代と江戸時代の一時期に“豪華絢爛”が尊ばれた時があったようだが、それは長く続かなかったと思う。長く続いた武家社会は絢爛豪華を本質的に好まなかったのではないか。いや武家社会にはそんな余裕などなかったのではないか。
仏教全体が絢爛豪華を嫌うかどうかについては自信がない。しかし、禅宗が絢爛豪華を好(よし)としなかったことは間違いあるまい。禅宗は武家の仏教であった。武家が絢爛豪華を敬遠しているのに、被支配階級が絢爛豪華という訳にはゆくまい。このことも関係しているのかもしれない。絢爛豪華はわが国ではあまり尊ばれなかった。文明開化により欧米の考えや way of life が流入してきた。資本主義化していく中で一定層の富裕層も生まれたが、彼らがケバケバしいことをすると“成金”と軽蔑された。
“成金”という言葉があまり使われなくなったのは何時ころからであろうか。そんなに昔のことではないような気がする。バブル現象がでてきた頃ではないだろうか。株や不動産で一攫千金に成功した人々が、絢爛豪華な暮らしを始めた。それが成金趣味とはいわれずに、一般の人々までもができるものならばそうしたいと思うようになった。クレジット社会が実所得がないのに“ミニ豪華絢爛”を可能にした。“虚飾”のミニ豪華絢爛の競い合いが始まった。虚飾のミニ豪華絢爛を可能にするために、バーチャル経済が発生した。
日本人の伝統的価値観からすれば、虚飾のミニ豪華絢爛は二重の意味で否定さるべきものである。虚ろな「虚飾のミニ豪華絢爛」を可能にするためのバーチャル経済などもっとも忌み嫌うべきものであった。しかし、アメリカ政府に追従する者たちが、“構造改革”と称してバーチャル経済体制をわが国にも積極的に導入しようとした。アメリカのバーチャル経済が崩壊するとわが国のバーチャル経済も同時に崩壊した。
このような事態の中でなされる“緊急経済対策”として、2兆円をばら撒くというのは如何なものであろうか。一時的かつ無価値な需要を喚起しようということではないのか。景気を刺激するためにただ需要を刺激すればよいというものではないだろう。不況になると内需拡大、内需刺激とよく言われる。しかし、政府が税金を使って内需を喚起する場合、政治的価値判断を加えなければならないであろう。有効需要の中から取捨選択をして施策を講じなければならない。
結論に入ろう。現在の経済状態・社会状態にもっとも求められるのは、バーチャルなものを捨て実体のあるものに就くことである。それは地味である。地についた生活などとよく言うではないか。地味――結構なことではないか。真面目にコツコツということだ。それでは楽しみがないではないかという御仁もいるだろう。そういう方々には「在素知贅」という色紙をプレゼントしたい。永田町徒然草No.272をクリックされたい。
それでは、また。