秋葉原の通り魔事件
08年06月09日
No.833
こういう日は、永田町徒然草を書くのがつらい。アクセスする方としては、昨日の秋葉原の事件について白川がどう考えているか知りたいという気持ちは痛いほど分かる。もちろん私としてもそれなりの考えはある。しかし、事実関係はまだほとんど判らないし、世論は激昂している。この種の事件の法律的問題点は、意外に少ないのである。でも、事件直後にそんなことをいっても世論は冷静に受け止めてくれない。
まず今回の事件の犠牲者に深い悲しみを込めて哀悼の誠を捧げたい。私は秋葉原に滅多に行かないが、私の姪っ子は秋葉原で行政書士の仕事をやっている。彼女が犠牲者になった可能性はあり得る。この事件が渋谷で起こっても少しも不思議でない。そうだったとしたら、私が犠牲者になる可能性はグッと高まる。こういう通り魔的な事件の犠牲者になる可能性は、すべての国民にあるのである。だから“深い悲しみを込め”て哀悼の意を表したいのである。
いまの時点では、犯人の人間像がほとんど判らない。それがどのようなものであったとしても、今回の凄惨な犯行が許される筈もないし、同情できるような事情や理由がある筈がない。刑法の責任能力が認められる場合、極刑は免れ得ない。犯行は白昼堂々おおぜいの人の目の前で行われた。刑事事件としてそんなに難しい争点はない。問題はこういう事件を政治的にどう捉え、どう考えたらよいのかということになろう。
この種の事件は、社会事件として取り扱われる。しかし、いわゆる事件物ではないのだ。政治的にどう考えたらよいのか、政治としてはどのようなことが大切なのかを問わなければならないのである。体制側の人間は、「だから治安が重要なのだ」というだろう。秋葉原は、渋谷と並んで警察が最も職務質問を“熱心に”行う所である。しかし、治安の確保のためと称して行われる職務質問がこういう事件の前では無意味であることは明らかであろう。だから問題はそんなに単純ではないのだ。
秩序について
自由主義の政治思想は、国家も国民も規則をお互いに守ることにより、国家や社会の秩序を作ろうとする。秩序は国家が権力で作るものだけではない。国民も秩序を作る責任と権利があるのである。秩序というと権力者が好んで使う言葉だ。しかし、秩序は国民にとっても重要なのである。安定した秩序の中で、国民ははじめて自由に行動できるからである。幸福の追求ができるからである。
永田町徒然草No.831「Due Process Of Law (その2)」で私はこう述べた。今回の件でいえば、もし犯人のこれまでの日常生活の中に今回の犯行を予兆するようなことがあったとしたら、上記の私の言を思い出して欲しい。世界の警察の模範といわれているロンドン市警察(スコットランド・ヤードと呼ばれる)は、この数年間に私の知っているだけでイスラム原理主義者の大規模なテロを2回も未然に防いだ。
ちょっと変わっていると手当たり次第に職務質問するわが日本の警察が、テロを未然に防いだことなど聞いたこともない。秋葉原は職務質問銀座である。頂いたメールでそのことは自信をもっていえる。しかし、そんなことは今回のような事件を防ぐために何の意味のないことを教えてくれている。私が受けたような職務質問を体験した者は決定的に“警察嫌い”になってしまう。市民の信用と協力が得られない警察は無力である。警察の力だけで治安が守れると考えることなど、間違っているし思い上がりである。
それでは、また。