Due Process Of Law (その2)
08年06月07日
No.831
<永田町徒然草No.830からつづく>いつの時代でも、人間は幸福を求める。従って、いかなる政治思想も、国民の幸福について無関心ではあり得ない。しかし、自由主義の政治思想は、国民を幸福にすることを安請合いしない。そもそも幸福といっても一義的にいえないと考える。結果について責任をもたない者がいえることは、国民が自分の考える幸福を追求する権利を保障することしかない。
幸福の具体的メニューを描かないとなれば、国家ができることは国民が自ら考える幸福を掴む(=幸福を追求する)権利を保障することしかない。いかなる幸福を掴む権利かと深入りすれば、個人の価値観に介入することになる。個人の価値観に介入する場合、それは疑義の生じないものでなければならない。生命の保障、身体や精神の自由の保障、生命を存続させるための財産の保障、生命の世代的な維持(家族)の保障など、具体的内容において国民のほとんどの価値観からしても争いのないものとなる。これらは刑法に規定されることが多い。これに違反した場合、国民には刑罰が科せられる。
刑罰の本質については、刑法学者によっていろいろな考えがある。刑法は反倫理的・反社会的な行為の類型を規定したものと考える学者は、刑に規範性を求め罰・行刑(刑を執行する国の行為)は更生を目的にすると考える。平野龍一教授の刑罰観は、社会のルールを侵し他人に危害を加えたことに対するペナルティと考えた方が良いのではないかとする。若い頃はこういう考えをなかなか理解できなかったが、最近では刑罰の本質とはそういうものではないかと私は思うようになった。
国民の生命・身体の自由を奪うペナルティ(前者は死刑、後者は懲役刑など)としての刑罰について、憲法・刑法・刑事訴訟法などは厳格にその手続を定めている。国が刑罰を科す内容と手続を明確に規定している。 Due Process Of Law(法の適正な手続)は、刑罰に関することについて厳格に求められる。最近の刑法学者で Due Process Of Lawに異論を挟む者はほとんどいないであろう。 Due Process Of Law を考える場合、その原点は刑罰に関する手続にある。だから私は刑法や刑事訴訟法が好きなのである。
刑法や刑事訴訟法は、国がやれることと国がやってはならないことをきわめて具体的に定めている。国民は刑罰法規に違反することをやらない限り、国家から身体を拘束されたり刑罰を科せられることはない。刑罰法規で処罰されると規定されていないことを行った場合、国民は処罰されることはない。仮にそれが倫理的・社会的に非難される行為だったとしても、国家は処罰することはできないのである。ここに Due Process Of Law のポイントがある。
国家権力が権力者として権力を行使できるケースとできないケースを峻別する。それが Due Process Of Law の基本である。国家権力が権力を行使するケースを明らかにすることにより、国民がやっても良いことは明確になる。自由主義社会は、そういうことを原則として運営される。国民は国家が行えることと行えないことの原理原則を認識して行動するのである。そのことを「自由主義社会や市場経済社会は、原理原則を共通な準則とすることにより秩序を作ろうとする体制」と私は表現したのである。準則とは、「1 規則にのっとること 2 のっとるべき規則」(広辞苑)という意味である。上記の準則は、1の意味である。
自由主義の政治思想は、国家も国民も規則をお互いに守ることにより、国家や社会の秩序を作ろうとする。秩序は国家が権力で作るものだけではない。国民も秩序を作る責任と権利があるのである。秩序というと権力者が好んで使う言葉だ。しかし、秩序は国民にとっても重要なのである。安定した秩序の中で、国民ははじめて自由に行動できるからである。幸福の追求ができるからである。権力者の行動は、国民にとって秩序の重要な要素なのである。権力者の行動は、予測可能でなければならない。秩序を理由として権力が好き勝手なことを行うことは、国民からみたら秩序の重要な部分が安定していない国家社会ということになる。
ようやく本稿は Due Process Of Law の結論に近づきつつある。自由主義社会の憲法や法律や規則(およそLawと呼ばれているもの)は、国民が守らなければならないものだけではなく、国家や権力者も守らなければならないものということである。自由主義の政治思想は、この準則(上記1の意)を前提にして良き秩序が作られると考える。法とその執行手続を守る義務は、国家や権力者の方により強く求められる。歴史的に Due Process Of Law を考察すれば、それは国家や権力者の恣意的・専横的な権力行使を束縛するものとして発展してきた。
その発展の歴史は、アメリカの判例法の展開にみることができる。一つひとつの裁判で、当事者や裁判官が展開した論理と法的判断は説得力に富み、読む者の心を捉えて離さない。これらを読むと、法的判断も“具体的状況における具体的分析”であることがよく分かる。 Due Process Of Law は、ふつう「適正手続」と訳され、実際にそう使われることが多い。しかし、私はちょっと感じ違うような気がしてならない。 Due Process Of Law は、「デュー・プロセス・オブ・ロー」というか、どうしても漢字でいう必要がある場合は「法の適正な手続」といった方が良いと思っている。「その問題は適正に処理されている」などのように、わが国の権力者がいう「適正」はきわめて軽いからである。
Due Process Of Law は、自由主義社会におけるきわめて重要な理念なのである。 Due Process Of Law は、自由主義の政治思想が秩序をどのように形成するかということと密接に関連している。秩序の形成という国家や社会のダイナミックな活動についての基本的な理念なのである。“適正手続”というだけでは、その真の意味は伝わってこない。現に Due Process Of Law という言葉はいろいろなところで使われるようになったが、わが国で現実に使われる場合まことに素っ気なく味気ない。大臣や官僚が使う「適正に処理されている」との「適正」と同類である。今回はここまでとしておこう。
それでは、また。