Due Process Of Law (その1)
08年06月06日
No. 830
現在では Due Process Of Law という言葉は必ずしも珍しくない。しかし、30年ほどまえ私が司法試験の勉強をしていた頃、 Due Process Of Law (法の適正な手続)は法律家の中でもそんなに重要な概念と捉えられていなかった。私は刑事訴訟法を新進気鋭の平野龍一東大法学部教授の本で勉強した。だから、 Due Process Of Law を叩き込まれた。私はこの言葉が好きだった。このことについて最近新しいことに気が付いた。
それは永田町徒然草No.827「ガソリン170円の責任者!?」に「自由主義社会や市場経済社会は、原理原則を共通な準則とすることにより秩序を作ろうとする体制だからである」と書いたことから始まった。私の頭の中では明らかなコンセプトができ上がっていた。しかし、この表現では私の考えが理解して貰えなくても仕方がない。そこでわざわざ永田町徒然草No.828「永田町徒然草No.827の補足」を書いた。
あまりこういうことはしないようにしているが、きわめて大切なことだからである。ところがいま改めて読み直してみたが、これでもまだ私の考えは十分に理解してもらえないのではないか。少なくとも物価に関しては理解してもらえたと思う。しかし、 Due Process Of Law は自由主義社会の基本の問題なのである。リベラリストを自認する私としては、この際もう少し書かなければならない。“リベラル!!リベラリスト(自由主義者)”という大それたタイトルが付いているWebサイトなのであるから、もう少しお付合い願いたい(笑)。
政治思想は、どのような秩序をどうやって作るかという体系的な考えである。“どのような秩序を理想とするか”は、価値観の問題である。“どうやって作るか”は、方法論の問題である。自由主義の政治思想は、“どのような秩序を理想とするか”という点では他の政治思想に比べ寡黙である。というより、国家権力がある秩序を理想とし、政府がその具体的メニューを作ることに懐疑的でさえある。個人の尊厳に最大の価値をおく自由主義の考えによれば、国家権力が理想の秩序の具体的メニューを作ろうとすればするほど、個人の尊厳を侵すことにさえなると考える。自由主義の政治思想は、国民の価値観に関することについて謙抑的である。
自由主義の政治思想は、理想の秩序は国家が作るものでなく国民によって作られるものだと考える。正確にいうと、国家は国民すべての希望などを掌握する力もないし、国民すべてを把握して理想の社会を作り上げる力などないと考える。他の政治思想からみれば、自由主義の政治思想は無責任といわれるのであろう。しかし、自由主義の政治思想は、国民がその希望を実現することの邪魔をしないし、国家ができることとできないことを明らかにすることを自らに課す。全体主義国家は、国民に幸福を約束するが、国民の自由に無神経に入り込んでくる。自由主義国家は、国民の自由に介入することにきわめて慎重である。そこが“自由”主義といわれる所以である。
自由主義国家は、国民に幸福の約束を簡単にしない。そもそも国民の幸福といっても、国家が定める幸福を国民が幸福と思うかどうか定かではない。幸福という概念は、価値観を抜きに語れない。価値観に関して自由主義国家は謙抑的である。しかし、幸福は誰もが求めるものである。国民に幸福を責任をもって約束しない国家がやらなければならないことは、国民が幸福を掴むことを保障することである。政府にいわれなくても、国民は幸福を手にしようとする。そうだとするば、国民が自らの手で幸福を掴むことを可能にするしかない。
国民が自らの手で幸福を掴むことを可能ならしめる途はひとつしかない。国民の「幸福追求に対する権利」(憲法13条)を保障することである。国民の価値観に介入しないことを原則とすれば、残る途は幸福追求の権利を手続的に保障するしかない。このことついて憲法は、「生命、自由及び幸福追求の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(憲法13条後段)と規定している。“幸福追求の権利”。なかなか良い言葉ではないか。ネーミングからして、いかにも手続保障的な感がする。今日はここまでにしておこう。
それでは、また。