言葉で行う戦争
09年02月25日
No.1093
今日未明、ホワイトハウスで麻生首相がオバマ米大統領と会談した。“得意の英語”を喋られた麻生首相はご満悦であった。しかし、だ。
私はまだそんなに古い人間だと思っていないが、日米関係が話題になるとき多くの識者やマスコミが“日米同盟”という言葉を安易に使うことに、どうしても違和感をもたざるを得ない。日米友好関係では、なぜいけないのであろうか。かつては少なくとも“日米同盟”などという表現は用いなかった。「日米関係はバイタルな二国間関係である」という表現を用いたのは、大平正芳元首相である。
日米同盟という表現を使う人は、日米関係が非常に大切であることを言いたいのであろう。しかし、なぜ“同盟”という表現を用いなければならないのであろうか。一部の人々は、日米関係は軍事的に特別な関係があることを言いたいのであろうが、日米安保条約が締結されてからすでに半世紀以上になる。東西冷戦の時代、世界の国々は東西陣営のどちらかに組み入れられた。戦後、わが国が西側陣営に入る選択したことを非難するつもりはない。現実にはそれ以外の選択はなかったのであろう。
日米安保条約は変則的ではあるが、間違いなく軍事的条約である。だから日米同盟という言葉を使うことは間違いでないのだろう。しかし、東西冷戦の真っ最中でも日米同盟という言葉はほとんど使われなかった。東西冷戦が終焉したころから、日米同盟という言葉が一部の人々から意識的に使われるようになった。彼らにとって“バイタルな二国間関係”だけでは都合が悪かったのだろう。バイタルな二国間関係というだけでは、日米安保条約が怪しくなってくることを懼れたのであろうか。
私は日米安保条約が現に存在していることを否定しない。日米安保条約は日本とアメリカの関係を特別なものとしている。しかし、東西冷戦が終焉したにもかかわらず、日米同盟をことさらに強調するのは如何なものであろうか。軍事的同盟というのは、武器をチラせかせるものである。だが、それは現在の国際情勢の中でそれほど意味のあるものなのか。少なくともこれからは武器をチラせかせることなどお互いに止めるようにしなければならない。それが21世紀の課題であることは確かであろう。
“同盟”という言葉は、当事者間の緊密な関係を強調することよりも、他者を特別に意識している。敵を意識しない同盟関係など現実には存在しない。日本と中国の関係がバイタルな二国間関係であることは誰も否定しないであろう。日米同盟がある以上、“日中同盟”は果たして存在可能のであろうか。良好な日中関係を模索する上で、日米同盟をことさらに強調することは少なくとも賢明ではないであろう。外交は“言葉で行う戦争”である。外務省の役人までもが不用意に“日米同盟”という言葉を乱発することに私は疑問を感じる。
それでは、また。