修辞的でないフレーズ
09年01月22日
No.1060
昨日、私はオバマ米大統領の就任式をライブで観た。そもそもアメリカの大統領の就任式の全部を見るのは初めてである。まず私が最初に感じたことは、アメリカが共和国だということであった。就任式は紛れもなくひとつの式典(セレモニー)なのだが、セレモニーを取り仕切る者がいない。わが国であればその役割は天皇の筈であるのだが…。
宣誓式にはひとつの型があるようだが、宣誓に立ち会う牧師も大統領が指名するらしい。宣誓の後に披露された独唱と四重奏も特に決まったものではないようである。アメリカ大統領の就任式はたぶん60回くらい行われている筈だが、これが100回になっても全部が型にはまることはないのであろう。いかにも自由な国の“自由”な就任式という感がした。
注目の就任演説が早口なのに驚いた。同時通訳も早口だったので、あまり厳粛な演説という気がしなかった。予備選と大統領選の時のオバマ候補の演説はもっと分かり易かったし、ゆっくりとしていた。昨日の夕刊に就任演説の全文が載っていた。丁寧に全文を読んだ。かなり難しいことをいっている。深く考えれば、けっこう意味深長のことを述べている。問題は修辞的に述べられているのか、政治的な意味を込めて述べているのかが重要である。それはこれから徐々に明らかになるであろう。
「なぜ60年足らず前に地元の食堂で食事をすることを許されなかったかもしれない父親を持つ男が今、もっとも神聖な宣誓を行うためにあなた方の前に立つことができるのか。」
このフレーズは修辞的に挿入されたものではないと思う。オバマ米大統領は参加した多くの黒人、マイノリティそして白人に心を込めて語ったのだと私は思う。就任式に参加した多くの黒人たちの表情に私はいちばん注目した。その晴れやかな表情がいちばん感動的だった。オバマ米大統領を含めて…。それはライブで見ないと分からない。ホワイトハウスへのパレードは眠り込んでしまったので、見なかった。午前7時半に目覚し時計で起こされ、私は慌しく外出した。
それにしても日本のほとんどの報道が“黒人初の大統領”と頻繁(ひんぱん)にいっていたのが耳障りだった。そんなことは敢えていわなくても誰も分かっている。日本人は、敢えていわなくても良いことは口にしないという美徳をもっている筈だ。「60年足らず前に地元の食堂で食事をすることを許されなかったかもしれない父親」ということが重要なのである。それは黒人だけではなかった筈である。黄色の肌をもった人間も同じような屈辱を味わったのである。
前大統領夫妻がヘリコプターで郷里に去って行くのを新しい大統領夫妻が見送るセレモニーがあることは初めて知った。前大統領は早々に送り出し、新しい大統領の権力行使を容易にするためのセレモニーなのであろうか。2期8年以上の権力の存在は一切拒否するのである。普通はその逆になりがちなのだ。いかにもアメリカ的なところである。
それに比して、わが国も首相は権力に恋々としている。2011年に消費税を上げたいのであれば、選挙に勝って堂々と行えば良い。それしか方法はない筈なのだが、なんだかゴネている。自公“合体”政権の議員たちは、早々に送り出す勇気もないようである。だったら国民が早々に送り出すしかない。麻生首相が先送りしたくても、その時はそんなに先のことではない。
それでは、また。