タブー…!?
09年12月11日
No.1365
普天間基地移設問題がいま国政の最重要課題のように連日報道されている。この問題に関する各論者の発言はちょっと冷静さを欠いている。“唯米論者”は、やはり日本のあらゆるところに蔓延(はびこ)っているようだ。
だが、唯米論などほんのこの半世紀、わが国に蔓延していた考えに過ぎないのである。“鬼畜米英”という時代もあった。最近では中華思想の裏返しのような考え方もある。外交の基本も、独立自尊でなければならない。幸いにもわが国は1億2000万余の人口を擁する。独立不羈で存立可能の国なのだ。
いつも言っているように、私は反米ではない。どちらかと言えば親米なのであろう。一方で、私には強いアジア志向がある。アジア志向ではあるが、親中という訳ではない。とてつもない人口と最近ではわが国の経済規模を超えるようになったが、中国という国を客観的にみる目を持っているつもりだ。中国べったりという考えには違和感を禁じえない方だ。“独立自尊”というのがリベラリストの生き方だと考えている。外交に関する考えもそうである。
第二次大戦後、世界は冷戦となった。わが国は西側陣営に属した。その中で日米安保条約は結ばれた。自民党はそれを是とする政党であった。私も自民党の国会議員を長くやった。自民党の国会議員は、日米安保体制を擁護しなければならなかった。それだけに日米安保体制を冷静に見詰めなければならない立場にあった。しかし、唯米論者やアメリカ万歳という人たちに与することは、私にはできなかった。独立自尊という考えが、どうしても邪魔をするのである(笑)。
冷戦構造の中で構築されてきた日米安保の現状は、早晩見直さなければモノであった。自公“合体”政権にそれは無理であった。従米主義が蔓延していたからである。従米主義者たちの主張は、もうひとつの“イズム”なのだ。凝り固まっていて客観的・批判的に物を見ることができないのだ。冷戦構造が崩壊すれば、日米安保体制も当然のことながら変容を余儀なくされる。そこで困った彼らが編み出した政治的用語が“日米同盟”だったのである。
防衛に関する事は、とかく絶対化されやすいものである。軍事に関する本当の機密は、軍関係者だけが保有しているものである。だから防衛・軍事に関することは、自由な議論や批判にあまり馴染まないのだ。それをよいことにして軍事関係者という特権階級が生まれる。彼らの特権を“事業仕分け”することは、難儀なことである。これは有能で力のある政治家がやらなければならない仕事だ。一昨日グアムの米軍施設を視察した北澤防衛大臣の顔は、もう政治家のものではなかった。
こういう状況であるから、“日米同盟”という呪縛を解いていくのは難しいのである。一刀両断という訳にはゆかない。また一刀両断で決めるべき問題でもない。広く国民も参加して議論し、解決していかなければならない問題なのだ。そのためにはどうしても時間が必要である。これを“迷走”と言いたい者には言わせておけば良い。
防衛は国の基本である。だからといって、防衛について国民が自由に批判的に議論することを妨げる理由とはならない。自由主義社会には、タブーがあってはならないのだ。
それでは、また。