春に想う。
09年04月11日
No.1137
春めいてきたかと思ったら、一足飛びに初夏のような陽気が続いている。私の部屋から見える木々も一挙に新緑となった。私は新緑の季節がいちばん好きだ。決して美しくは見えないオブジェから新緑が芽吹いてくる。そして木々はバランスを整えたオブジェとなる。落葉樹はこのように生きたり死んだりしている。日本人はそこに“もののあわれ”や弥栄(いやさか)を感じる…。
一昨年の参議院選挙の勝利以後、民主党を中心とする野党は勢いづいていた。夏の樹木のようであった。そして、そのまま葉を繁らしていた。しかし、冬はやはり来た。吹き荒(すさ)ぶ寒風に晒され、一度は散らなければならない葉は吹き飛んでしまった。美しく見えた樹木は、不細工なオブジェに変わった。冬来たりなば、春遠からじ。生きてさえいれば、万物に春の恵みは必ず来る。
吹き荒ぶ寒風に晒されたのは民主党だけではない。国民にもこの冬は厳しかった。多くの人々が職を失い、給料を減らされた。学費の支払いが困難となり、学校をやめた学生も多くいた。多くの大学生がこの4月から就職活動を始めた。どこも狭き門だ。このままでは“大学は出たけれど…”ということになりかねない。若者が希望を持てない国が、栄えたためしはない。私が生きた青春時代、貧しかったが先行きだけは明るかった。
小沢事件以来、麻生首相や自民党・公明党の面々がいやにハシャいでいる。やけに元気そうだ。こういうのを“いやさかえ”というのだろうか。昨日、戦後最大規模の経済対策を発表した麻生首相の顔相は実に卑しかった。本当に“百年に一度の経済危機”ならば、これに対する対策は挙国一致でなければ成し遂げられないであろう。与党も野党もない筈だ。野党が反対する筈がない。しかし、麻生首相は自分たちにしかできないとやけに意気込んでいた。要するに魂胆が卑しいのだ。人間40を過ぎたら自分の顔に責任をもたなければならない(リンカーン)。
機会があったら、「北風と太陽」について論じてみたい。それでは、また。