『硫黄島からの手紙』を観た。
07年01月28日
No.319
日曜定番の政治番組を見ながら、これを打っている。今日は何があっても書かないつもりだ。人を批判することは事実を踏まえてちゃんとしなければならないからである。私は厳しいことを発言しているが、このことだけは心がけているつもりである。さて、今日は過日観た『硫黄島からの手紙』について述べる。政治的にみると凄いワンシーンがあった。
それは投降した2名の日本兵の拘束・見張りを命じられていた若いアメリカ兵が、たいした理由がないのにこの2名の捕虜を射殺したことである。戦時国際法からみれば、これは捕虜の殺害・虐待そのものである。日本軍の多くの兵士がこのために戦後処罰された。その多くは上官に命じられての殺害・虐待であったが、その故をもって許されることはなかった。フランキー堺が主演した『私は貝になりたい』という映画は、このことの非情さを訴えるものであった。大ヒットした映画であった。
『硫黄島からの手紙』は、アメリカ人のクリント・イーストウッド監督が作った映画である。日本もターゲットとしていると思うが、主なターゲットはアメリカや世界である。その映画であえてこのシーンを短いが鮮烈に入れたのは、正義の戦争をしたというアメリカ側にもこのような許されないことをしたんだ、ということを訴えているように私は思った。60年以上前の硫黄島の戦闘を例にあげて、イラク戦争でも同じようなことがなされていると訴えたかったのかもしれない。映画の思想性とはこういうことをいうのであろう。
この部分を除けば、この映画は日本軍の中の出来事を淡々と映し出している。あまり感情的にならずに事実を淡々と追っている。これが史実に基づくものかどうかは私は知らないが、それだけに観る者に与える印象は鮮烈であった。軍隊というものは、このように非人間的なものである。人間的な軍隊などというものは、現実的にはあり得ない。戦争というものが非人間的な行為なのであるから、その実行部隊である軍隊が人間的である筈がない。憲法改正で自衛隊を自衛軍にすることは、現状にあった憲法を作るだけだと軽く捉える向きもあるが、それは軍隊というものを知らない人がいうことだ。自衛隊は自衛隊であって、それ以上でも以下でもない。自衛隊を自衛軍にしたとき、それは軍隊になるのである。このことを述べると長くなるので、別の機会に譲る。
それでは、また。