楽足…足るを楽しむ
09年02月04日
No.1073
“知足”という言葉が、この数週間私の頭にチラついていた。知足とは「足ることを知る」である。その意はもちろん知っていた。笑らちゃたのは、知命と混同していたことである。“知命”とは、「吾れ十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず。五十にして天命を知る」の“天命を知る”である。知命と知足は字句が似ているが、それがごっちゃになるようでは白川も相当ボケてきたようだ(笑)。
人間、歳をとれば少々ボケる。そんなことは恥ずかしいことではない。知足と知命の出典を混同したとしても、そんなことは大した問題ではない。知足は分かっているつもりだが、最近私は“楽足”ということを考えていたのである。“楽足”とは、「足るを楽しむ」ということである。「足るを知る」と「足るを楽しむ」は似ているようだが、少し違うと思う。楽足は、知足より一歩高みの境地だと思っている。
ところで、知足の出典はいくつかある。「足ることを知る者は富めり。(知足者富)」は『孟子』33章にある。「足ることを知れば、辱しめられず。(知足不辱)」は『孟子』44章にある。「富は足ることを知るに在り。(富在知足)」は、『説苑』談叢にある。『菜根譚』後集21には、「足るを知る者には仙境にして、足るを知らざる者には凡境なり。(知足者仙境、不知足者凡境)」がある。
「足るを知る者には仙境にして、足るを知らざる者には凡境なり」を諸橋轍次の『中国古典名言事典』は次のように解している。
「心に満足を知っている者には、どんな境遇も仙境のように楽しいし、満足を知らない人間にとっては、どんなよい境遇でもつまらない境遇としか思われない。
人間の幸・不幸は結局足るを知るか知らないかにある。」
私たちが知足という言葉を使う場合、『菜根譚』の意で使っているような気がする。『孟子』の知足は、どこかで富を意識してような気がする。日本人が知足という場合、腹八分目で満足することをイメージしているようだ。『孟子』の知足は、本当は“腹いっぱい”食べたいのだが、仮に腹八分目しか食べられなくとも満足せよと言っているような気がしてならない。ここが中国人と日本人の違うところか(笑)。
日本人が知足という場合、そもそも腹いっぱいを求めないのだ。ここが重要な点である。あまりよく知らないが、茶道の“わび”とか“さび”はそもそも100%のものを求めようとしていないのだ。豪華な花よりも地にある花一輪を貴ぶのだ。私が楽足でイメージしているものも同じだ。腹いっぱいをそもそも求めず、腹八分目を良しとするのだ。ときには、腹七分目・腹六分目を良しとするのだ。そして、それを楽しむのだ。いま私の頭に去来している楽足は、そのような「足るを楽しむ」ということである。
それでは、また。