白川勝彦にみる「代議士の誕生」(後編)
08年08月21日
No.907
特異な選挙キャンペーン
<永田町徒然草No.906からつづく> 日本の選挙で“イメージ”ということがいわれだして久しいが、本格的になってきたのは、ケネディ対ニクソンの大統領選挙あたりからである。当初はなかなか日本の選挙にはなじまないかに見えたが、昭和40年、藤原あきに続いて石原慎太郎が参議院全国区で最高点当選を果たし、タレント議員のはしりを作ると同時に、石原のイメージ戦略が脚光をあびた。一瀉千里、それからはイメージ選挙はあらゆる工夫と努力の結果、制作物・話し方・書き方・テレビ・講演会でのジェスチュアにいたるまで計算され尽くしたイメージが生み出されてきた。そしていま、選挙といえばイメージというほど氾濫している。
白川の選挙運動を見ていると、こうしたイメージ選挙とはほど遠いものがある。選挙プロが参加しているわけでもない。制作物を広告代理店に依頼しているわけでもない。すべて白川とその同志たちの試行錯誤のなかから生まれてきている。しかし、よく考えて見ると選挙民に対して白川勝彦は、じょじょにではあるが確実に入り込んできた。白川は理解され、好感を持って受け入れられ始めたことは事実である。では、白川におけるイメージ選挙とは何か。
いままでの選挙では、まずキャッチフレーズを作り、それにあわせて候補者作りをしてきた。さらに、選挙民に対し作られたイメージを売り込んできた。白川の選挙では選挙民自身に候補者のイメージを作らせてきた。白川は運動のなかからこそキャッチフレーズは生まれるものであって、最初に作るものではないと考えていた。この違いが大きい。厚化粧した人は一見美しく見える。しかし笑えば小ジワが強調され泣けば化粧が落ちる。だから、ただ笑みを浮かべてうなずくだけ、相手から見れば何を考えているかまったくわからない。
素顔の人は、小ジワも見えるし、ソバかすもある。しかし、おかしいときは大声で笑い、悲しいときは大粒の涙で泣いても素顔、何の気どりも必要ない。そうしたつき合いのなかから相手がその人のよさを見出してくれる。これは、日常われわれが当然のこととして受け入れている事実である。それがいつの間にか選挙では、その反対のことが一所懸命に行なわれてきた。白川選挙キャンペーンは、その意味で従来のイメージ選挙を「裸の王様」と指摘している。
白川自身は、選挙にあたって考えたのは、選挙民が潜在的にどんな政治家を望んでいるかがいちばん重要であって、選挙民の多くが望んでいない者を出そうとすれば、そこに無理が生まれるといっている。「白川勝彦、30歳、東大卒、弁護士」これが最初から、最後までの彼の履歴書であった。むろん当選したとき、年齢は34歳になっていたが……。
「30歳」、若さ・行動力を感じさせる「東大卒」、単なる若さではない。知性、理性に裏打ちされた若さ、行動力であることを強調。「弁護士」社会人としてその基盤を築き、正義感を持ち、ロッキード事件に見られる政治の腐敗を正しうる人物であることを決定づける。これだけの事実を選挙民に示せば、あといかに自分は政治家としてふさわしいかをくどくど述べなくとも、選挙民は政治家として好ましい条件を持っている者とのイメージを自分のなかで作り上げる。
つぎに彼は、あらゆる演説で「リベラルな保守政治を作る」といった。聴衆は納得した顔をして帰るが2度、3度と聞かされると、「リベラルな保守政治とはどんなものですか」という質問となって返ってくる。いざ答えるとなると非常にむずかしい問題である。最後には、彼は「要するに、この白川がリベラルな政治家で、この白川がやる政治が、リベラルな保守政治なのです」とやる。なるほどと思うが、まだ十分納得いかない。新潟4区の白川を知るほとんどの人にとっては、いまでもこの「リベラルな保守政治」とはどんなものなのか、疑問として残っていることは事実であり、白川はそれでよいと考えている。
今後、10年、20年と白川とともに行動し、白川の言動を見つづけることによって、その回答を一緒に作ろうではないですかといっている。
この他にも白川にはむずかしい言葉が多い。「私は4区の良識でありたい」もよく使う。自分は非常識な人間であると思いたい者はいない。だから「4区の良識」とは何かという疑問が返ってくる。議論していると、彼のいっている「4区の良識」とは「日本の良識」のことであるのに気がつく。そこで「日本の夜明けは新潟4区から」と訴えていることの意味を理解する。選挙民の意識も新潟4区の政治だけではなく、日本全体の政治も考えなければいけないという気持ちになってくる。
文章にも漢字や難語がやたら多い。彼はそれへの問いを待っている。そして徹底的に話し合う。自分の考えをいい尽くす。あとの判断は相手にまかせる。人によっては彼の話は荒っぽいという。当選後も何人かの新聞記者がそういっていた。しかし彼は、常に相手が疑問、反論してくるのを待っている。そこで話し合ってその荒っぽい話のキメを細かにうめていく。能力がないのではなく、おしきせの論理的に完璧な話を好まないのである。多くの違う意見を聞きうる可能性を大切にしている。「へつらわない、気どらない、ありのままの自分を見てもらって判断してもらうんだ。それで相手がいやといったら仕方がない」これが彼の人生哲学である。これだけ赤裸々に自分を出して見せたのだから、あなたがたが白川勝彦という人間のイメージを作ってくれ、それが政治家として好ましいものだ、だから投票してくれということである。
どうどう2位で初当選
中央政界に親分と頼む人もなく、中央からのタレント、有名人の応援もいっさいなし、弁護士報酬と地元のカンパのみ。ガリ版刷りのビラとポスター、準備期間は正味1年2ヶ月、永田町と霞ヶ関の違いもよくわからない。「泡沫」候補は、昭和51年12月5日投票のいわゆるロッキード事件選挙で、大方の予想をはるかに超える30,385票を獲得、次回の有力候補となった。当選まであと一歩のところまできた。
翌朝からマイクを持って街頭に立った白川には大きな自信があった。彼はこの敗戦で3点について反省をしていた。1つは政治家としての進路でわかりやすさを出せなかった。第2は中央とのつながりが弱かったので話が抽象的になった。第3に上越地区での組織作りが不備であった。この3点を解決して、いままで通りの運動をやれば勝てるという自信である。
わかりやすさを出すために、彼の生いたち、政治へ進む動機、政治家として何をやりたいかをまとめて『地方復権の政治思想』という著書を出版、約1万部を売り、資金の1部にあてたが、好評で白川を理解するバイブルとして回し読みもされた。
選挙の前に、誘いを受けた新自由クラブ幹部と積極的に会い議論して、思想的には共鳴するが方法論、体質において納得できない面があるとの結論で、自民党入党を決意、進路を明確にした。紆余曲折のすえ入党、派閥は白川のあおりを受けて落選した大竹太郎が引退することもあって、大竹の属する中曽根派とまず接渉があった。白川自身は「リベラルな保守政治を作る」というなかでのリベラル派として、新自由クラブ、自民党では大平正芳を考えていたので大平と一度会って話したいと考えていた。
大平内閣が誕生する前、加藤紘一衆議院議員(山形2区選出)に会い相談した。まもなく大平内閣が誕生し、それから半年、内閣官房長官になっていた加藤紘一から呼び出しがあり、上京するとその日のうちに大平総理に会わせるといわれ驚いた。お互い一回目で同志の誓いをし大平派入り、鈴木善幸の指導を受ける。
当時、白川はこういっていた。「回数としては中曽根さんと会った方が多いが、中曽根さんより大平さんが自分に対していいイメージを作ってくれたんだなあ」と。
昭和54年8月8日、「8・8集会」白川勝彦後援会、勝友会の大会が上越市で開かれた。前回破れて2年8ヶ月、精力のほとんどを上越地区に注ぎ込み、後援会作りをやった成果を問う日であり、秋口に予定されている選挙を占う上で重要な集会である。大きな集会として初めて中央からの応援をえた。大平派幹部で元外務大臣の宮沢喜一、内閣官房副長官の加藤紘一。会場は超満員、壇上まで聴衆があふれ入れない人まで出た。
白川は壇上で「血も汗も涙もわかるみんなの政治、代議士になってもえばらない」と訴えながら、前回まったく票の出なかったこの地区で、これだけの動員ができたことに感謝していた。前回の白川の善戦で、上越地区の青年が既存の政治家組織の圧力をはねのけて、白川陣営に参加してくれた。その成果が現われた。今回、十日町地区はほとんど同志にまかせっきりで、白川自身は上越地区に全力投球した。それだけ十日町地区の団結はかたまった。
前回破れて反省した3点をいちおう納得いく形に収めた。しかし、現職組に邪魔をされ公認をとれず、保守系無所属としての立候補を余儀なくされたが、勝負はついていると確信していた。昭和54年10月17日、白川はトップに2,320票と迫る、66,428票でどうどう第2位で当選した。
初登院の日、衆議院の門の前に地元から同志代表が約50人、街宣車で乗りつけた。車体の横には「熱い魂(ロマン)、汗する知性」と太書きされていた。白川の四年間の運動の総決算として生まれたキャッチフレーズである。(敬省略)
<おわり>