“お先祖さま”・・・
08年08月12日
No.898
昨夜遅く私は郷里十日町市に着いた。いうまでもなく兄に代わってお墓の掃除をするためである。これまでも十日町に来た時は、お墓のお参りはしていた。今回はまず掃除をした上でお参りをするのだ。これまでとは決意が違うのである。私はそれほど信心深い人間ではないが、それでも先祖があるから私が生まれたことだけは確かだ。だから先祖は大切にしたいと思っている。
父や母は先祖なのだろうか。どうも私の感覚では、先祖の中に父や母は先祖の中に入っていないような気がする。父や母は先祖にしては身近すぎるのだ。父や母はいつも私の傍にいる。お盆やお彼岸だけの人ではない。私の家には仏壇がある。父や母はその中にいて、仏壇に手を合わせる時、私は父や母と心の中で対面している。父や母は、いつも私の心の中に生きている。しかし、父母の遺骨はお墓の中にある。どちらが大切かというと仏壇の中にいる父や母の存在の方が大きい。
私は祖父の顔を知らない。私が生まれる前に亡くなっていたからである。祖母は私が3歳の時に亡くなった。私は祖母が亡くなった日のことを鮮明に記憶している。祖母をお棺に納めてはならないと泣いたことも記憶している。その時おんぶしてくれた女(ひと)もハッキリと憶えている。しかし、祖母の顔も祖母から可愛がられたことの記憶がまったく無いのだ。人間の記憶というものはまったく当てにならないものだ。だから3歳くらいの子供さんが一丁前のことをいっても行(おこな)っても、その子供さんは全然憶えていないだろうと覚悟している。
私の家のお墓には、相当の方々の遺骨が埋葬されている。その一人に私が小さい時に赤痢でなくなった甥の遺骨もある。私が同じ時間を共に生きたのはこの3人だけである。あとは皆んな“ご先祖さま”である。肉体的・生物的には繋がりがあるが、“ご先祖さま”というのは精神的な繋がりは意外に少ないのではないだろうか。ということは、お墓参りは肉体的・生物的なルーツに想いを致すことなのかもしれない。なんだか少し難しくなった。まぁ、いろいろ考えるより、明日はお墓をできるだけ綺麗に掃除することに専念したいと思う。
それでは、また。