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ボクのお正月

07年01月04日

No.295

正月3ケ日が終った。今日から仕事始めという人が多いであろう。しかし、今日明日働らくと6日からまた3連休である。だから4、5日に有給休暇をとると暮れの29日から11連休となる訳である。わが国も休日が増えたものである。今日は私が小さかったころの正月の様子を書いてみたいと思っている。わが国の移り変わりを時には活字にしておくことも意味あることだろう。私がこれから述べる正月は、新潟県十日町市というごく田舎で零細な絹織物業を営んでいた家の正月風景である。時代は昭和20年代である。

もういくつ寝るとお正月」という小学生唱歌がある。本当に正月が来るのが待ち遠しかった。それは子供だけではなかった。大人にとってもそうだったと思う。3日も仕事を休めるのは、盆と正月しか本当になかったのだ。昔は本当によく働いた。私の家では休みは月に1日だったような気がする。それも第1日曜日というように決まったものではなかった。電休日というのがあり、その日が休みだった。電気がこなくなるのである。電力不足からでなく、電柱・電線などの保守点検のためだったのではないかと思うが確かなところは判らない。必ずしも日曜日と決まっていなかったような気がする。電気がこないのだから、工場のモーターが回らないから織機が動かない。従って休みになるのである。

わが家には15人くらいの家族と同じ数ほどの住み込みの従業員がいた。正月になると従業員の多くは実家に帰るのだが、中には帰らない人もいた。きっと家庭の事情があったのだろう。昭和20年代の終わりくらいまでは、まだまだ家族が食べれるということが大変だったのである。正月だからといって子供が帰ってきても十分なご馳走を作れない家もあったのである。正月が子供にとっても大人にとっても待ち遠しかったのは、正月になるとご馳走が食べれたからである。わが家は気のきいたおせち料理を作った訳ではないが、それでも母を中心に何人かの女性が懸命に正月料理を作っていた。膾(なます)、きんひら、金時、野菜の煮しめ、田作(ごまめ)、ゼンマイの煮付などけっこういろんなものがあった。

正月料理の極めつけは、なんといっても新巻鮭であった。私たちの地方では年取り魚と呼ぶ。わが家では新巻鮭の大きな切り身が一切れずつ与えられた。竹の串に刺していろりで上手く焼いたものである。竹の串の根元に名前を書いておいて、これを正月中少しずつ食べたものである。年に1度のご馳走である。しかし、景気が悪いと新巻鮭が鰤となり、もっと悪いと塩鱒になった。このように商売をしている家では、家業の按配が手にとるように分るのである。元旦にはお雑煮があり、餅を5ッ食ったとか、いや俺は8ッ食ったとか自慢しあったものである。とにかく食べるということが大変な時代であり、ご馳走を食べれることは正月の大きな魅力であった。

私たち子供はお互いの家に遊びに行ったり、来てもらったりすることも正月の大事な行事だった。菓子やミカンやピーナッツなどを用意して自分の部屋で賓客をもてなすのである。母が大福やきな粉餅などを作って振舞ってくれたのが嬉しかった。小学校高学年や中学生になると想いを寄せる女友達のところに遊びにいったり、来てもらったりしたものである。思春期のあわく懐かしい思い出である。私たちの地域は雪国なので、「お正月には凧あげて、駒を回して遊びましょ」ということはできなかった。こたつに入ってトランプや花札などをした。またその時々にいろんな話をしたものだが、何を話していたのか残念ながらまったく思い出せない。ごく他愛のないことを話していたのだろうが、なぜか楽しい思い出だけはある。

また1月15日は小正月といって、また少し正月らしき雰囲気になった。14日の夜はほんやら洞(かまくらのこと)で近所の仲間が集まって夜を過ごした。大人は仕事が忙しいので全部子供たちで作った。10人くらいがチームにならないと立派なほんやら洞はできない。誰かが自然とリーダーになり、そのリーダーの指揮のもとに3、4日がかりでほんやら洞を作り、14日夜には大人たちをお客として招待した。もちろんそのお客は手ぶらでは来なかった。最近でもほんやら洞を作っているが、全部が逆のようだ。大人が作り、子供たちに入ってもらう。その光景は昔と同じだが、中身はぜんぜん違うのである。これを過保護というのだろう。14日は鳥追い、15日はドンド焼き(賽の神という地域もある)だ。

昭和20年代や30年代前半のわが国は、まだまだ貧しかった。食べるものも現在に比べれば本当に貧しかった。また本当に良く働いたものである。いや働かなければ食べてゆけなかったのである。3日間も休めるのは、本当に正月と盆だけだった。ご馳走をいただけるのもそうだった。だから盆と正月が一緒にきたようだという言葉があった。最近では盆と正月がしょっちゅう来ている。これじぁ経済の成長率が少々下がったってしょうがないというものだ。これだけ休日があることは良いことのであるが、それを補ってあまりある質の高い仕事をしている自信があるといえる人は一体どの位いるのだろうか。忸怩たる思いがある人も多いと思う。これは日本の産業全体にいえることなのである。仕事始めの良き日にあたり、本年のご多幸をお祈り申し上げます。

それでは、また。

  • 07年01月04日 01時05分AM 掲載
  • 分類: 1.徒然

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