驕りはないか(その2)
08年06月17日
No.841
岩手・宮城内陸地震が発生したのは、土曜日の朝であった。いつもいっているように土日はどうしてもアクセスが落ちる。しかし、この3日間アクセスが非常に多かった。“風が吹くと桶屋”云々ではないが、なぜ地震と白川サイトなのか。私にはどうしても分からないのだ(笑)。
アクセスの急増と岩手・宮城内陸地震は明らかに関係があると思い、2日間地震について書いた。読者に阿(おもね)るつもりはないが、できるだけ読者の関心のあることを捉えて政治を論ずるというのが私のサイトの基本スタイルである。私は昭和60年に国土庁の政務次官を務めた。それ以来、災害と政治についていつも考えてきた。私の関心は、どうしても大都市の地震対策になってしまう。死者・行方不明者が14万人を超えた関東大震災があった。そこにいまメガロポリスがある。この地震対策は本当に大丈夫なのだろうか。
この10数年間は景気低迷期といわれてきた。バブル崩壊もあった。この間にもメガロポリスの建物は高層化してきた。いわゆる超高層ビルの建設は一時ほど盛んでなかったが、建物は着実に高層化されてきた。専門家でないので関東の建設事情を数値で明らかにすることはできないが、東京の中心部をみただけでも建物の高層化は確実に行われた。超高層ビルが林立するというのではないが、10階建ての建物が数十階のビルに建て替えられたのである。
東京だから数十階建てビルの建設はそんなに目立たない。だが、その数は半端ではない。東京の建物は間違いなく高層化され、キャパシティは相当増えている。個々のビルの耐震構造は確かに施されているのだろう。しかし、都市の地震対策は、個々のビルの耐震構造だけではない筈だ。地震対策を少し勉強した者としては、どうしても不安は高まるのである。
昨日の永田町徒然草No.841の最後に、「自然の凄まじい力に人間が打克つことなど所詮できないのである。このことを知って、家作りや道路・施設を作る際の参考にすることである。私たちは驕ってはいないか」と私は書いた。少し分かり難いと思うが、私はこうしたことに警鐘を促したかったのだ。動かない筈の“大地”が動く地震がもたらす被害は、私たちの想像を超える。私たちや行政が考えている地震対策など所詮は空しい。それが私の諦観である。
私の考えは悲観的すぎるかもしれない。しかし、楽観的に考えて地震対策など大丈夫・安心してもらいたいといって、現在のような高層化を進めることは本当に正しいのだろうか。東京は高層化を進め、そのキャパシティを確実に増やしている。そのことにより地方は確実に疲弊している。都市と地方のあらゆる格差は、決定的になりつつある。こういう現実があるのに、東京の再開発に価値があるといえるのか。
与えられた諸条件を素直に受け止め“慎ましく”生きていくことが、日本人の way of life だったのではないか。そういうことを守っていれば、今日のような都市と地方の問題はこれほど深刻にならなかったと思う。そしていつかは起こる大地震における災害を、未然に防止する確実な方策ではないのか。ヨーロッパやアメリカの国づくりの方が、私たちよりはるかに“慎ましい”のではないか。そうだとしたら私たちは反省する必要があると思う。その想いを「私たちは驕ってはいないか」といったのだ。
それでは、また。