「晩○」・考
07年08月24日
No.528
昨朝は、少しひんやりとした外気が開けっ放しの窓から入ってきた。それで目が覚めた。東京では実に久しぶりのことである。例の“あさよん”で気象情報をみると東京でも雨が降るという。期待して雨の降るのを待っていたら確かに雨がパラパラと降ってきた。しかし、ほんのパラパラで雨は終ってしまった。“おしめり”ともいえないような雨だった。
古舘伊知郎の『報道ステーション』の気象情報で、東京における8月の降雨量は例年の1%しかないという。0.5mm以上の雨が降った日は昨日を含めて2日しかなく、総雨量は1.何mmだという。午前中に仕事が済んだので、午後から例の散歩に出かけた。炎天下の散歩に励んだ者にとっては、ちょっと張り合いのもてない散歩であった。散歩の最中にいちばん注意したのは、どのくらいのお湿りがあったのかということだった。若干の痕跡はあることはあるが、植物に影響を及ぼすようなお湿りがあった証拠はなかった。
昨日散歩しながらほんの僅かではあるが、すべて葉が落ちてしまった街路樹と枯れはじめた生垣を目にした。いずれも人が管理している街路樹と生垣であるから、水をやっていればこのようなことにはならなかったであろう。動物を虐待すると法律に触れるというが、植物をほったらかしにしてもそのようなことはない。樹木を愛(め)でるということは、わが国の良き伝統ではないのか。愛(め)でるとは、慈しむこと・愛することであろう。植物はものをいわないが、このように雨が降らなければ水をやるのはごく当たり前のことだと思うのだが……。
昨日散歩しながら考えた。「晩春」とか「晩秋」という言葉は耳にもし、目にもとまる。しかし「晩夏」とか「晩冬」という言葉はあまりお目にかからない。言葉それ自体はあるのだろうと思い、広辞苑で引いてみた。
ばんか【晩夏】①夏の末期。②陰暦六月の異称。<季・夏>
陰暦6月というのが太陽暦では何月何日から何月何日までになるのか私は知らない。そこで陰暦(旧暦)変換プログラムで今日が旧暦(陰暦)では何月何日になるのか調べたところ、7月12日になるのだそうだ。ということは、陰暦6月はもう過ぎたということである。②の晩夏はもう終っているということだ。①の「夏の末期」とはいつ頃のことをいうのだろうか。この暑さ真っ盛りのいまを「夏の末期」とはいかにもおかしい。これを要すると晩夏とはいつ頃なのかハッキリしない。だから日常、晩夏ということもあまり使われないのであろう。
ばんとう【晩冬】①冬の末。②陰暦一二月の異称。<季・冬>
ついでに晩冬も調べてみたが、以上のとおりである。これではいったいいつ頃のことをいうのか分からない。そこで先の変換プログラムで旧暦12月1日が今年ではいつになるのか調べてみたら来年の1月8日だという。晩冬とは、1月上旬から2月上旬ということだ。いちばん寒い頃である。こちらの方は晩夏よりはなんとなく実感があるような気がする。
「晩夏」や「晩冬」ということはあまり耳にしないが、「晩春」や「晩秋」は私たちがごく普通に使う。散歩をしながら、なぜなのだろうかと考えた。晩春とか晩秋というとき、いま過ぎ去ろうという春や秋を愛おしむ感情があるような気がする。日本人は春や秋を愛する。それが過ぎ行く春や秋を惜しむことになる。夏だって好きだという人も多いのではないか。私などもそのひとりだ。それなのに晩夏とあまり言われないのは、やはり今回のように激しさがあるからであろう。
春や秋は夏や冬のように激しさがない。春や秋は、万民に優しい。どうもそこのところが夏や冬と違う。しかし、最近では花粉症などで悩まされる人が多くなった。花粉症の花粉が飛ぶのは、晩春なのであろうか。そうすると晩春という言葉もいずれなくなるかもしれない。それはそれとして、「晩年」という言葉が頭を交錯した。人生の盛りを過ぎた人の残りの人生を指す言葉なのであろうか。こちらの方は、過ぎ去ろうとしている人生に対する限りない愛惜が感じられる。
ところが、最近では医学が進歩して人生がそう簡単には過ぎ去らなくなってきた。人生の盛りを過ぎてからの期間が非常に長くなってきた。だから晩年の過ごし方が、大きな問題となってきている。これは猛暑の中で考えられるほど簡単な問題ではない。ただ私のサイトの隠されたテーマが老後とか余生であることだけは確かである。従って、この問題にはいろいろな角度から真剣に論じていくつもりである。これは、日本の政治の課題でもあるようだ。
それでは、また明日。