其の独りを慎む
07年06月17日
No.460
昨夜は友人と遅くまで飲んだ。彼は終電で家に帰った。今日は日曜日。特別のスケジュールはなかった。先週はけっこう忙しかった。仕事もそれなりにやった。何となくちょっと遊びたくなった。その時間から遊びとなれば、私には麻雀しかない。友だちがいつも麻雀をしているところに行って、仲間に入れて貰おうかと思った。若者たちでごった返す渋谷の街をぶらつき、しばらく開放感に浸った。しかし、私は意を決してタクシーを止め、家に帰ってきた。相当に飲んでいたので、バタンキューと眠った。そして先ほど目が覚めたところだ。
なぜ“意を決して”タクシーを止めたかだが、私にはひとつだけやらなければならないことがあった。本日の永田町徒然草をまだ書いていなかったからである。最初から麻雀をするつもりなら、あらかじめ今日付の永田町徒然草をセットして出かけて出かけたのであるが、そのつもりが最初からあった訳ではない。何となくたまには麻雀でもやりたくなっただけなのである。私にとっては麻雀は悪ではない。私の数少ない趣味である。私の人生における楽しみのひとつである。しかし、あの時間から麻雀をはじめれば、徹マンになることはまず間違いない。そうすると永田町徒然草のupdateはかなり遅い時間になってしまう。
永田町徒然草を毎日updateすることは、私が自らに課したことである。半年間それをやってこれた。最近ではまさに私の日課になっている。それ自体は、少しも負担ではない。そのためか、近ごろはアクセスが着実に増えてきた。ちょっとブレーク気味といってもよい。そうなるとアクセスしたその日付の永田町徒然草を読めるようにした方が良いと考えるようになった。新聞だって1日前の日付のものは、あまり熱心に読む気にはなれない。私のWebサイトには午前中に相当のアクセスがある。だから、できれば遅くとも午前9時ころまでにはupdateしたいと思っている。基本的に朝に弱い私なので、早起きして確実に書ける時間があるという自信のないとき、前日の遅い時間から書き始めて午前0時過ぎにupdateするようにしているのは、そのためである。そうすると早朝にアクセスされた方に、その日付の永田町徒然草を読んでいただけるのである。
私はこういうとき、「小人閑居にして不善をなす」という言葉を思い出す。小人である私は、暇になると碌なことをしない。私には多くの失敗談・碌でもないことをやってしまった経験がいやという程あるが、それは暇なときばかりだ。忙しいときには、そういうことはしないものである。だから、「小人閑居にして不善をなす」を、私は勝手にこう解釈してきた。小人というのは、別に不善をしたい訳ではないが暇になると碌でもないことしかできないのだ。それ故に小人と呼ぶのだ。従って、小人は忙しいことを怨んではならない。小人は忙しい方がいいのだ。英語には、The devil finds work for idle hands.(悪魔は暇人に仕事を見つける)という格言がある。まさにそのとおりだと思う。ちょっと自信がなかったので、諸橋轍次の『中国古典名言辞典』(講談社刊)で調べてみた。
小人間居して不善を為す。至らざる所なし。
小人間居為不善。無所不至。 (大学 傳6章)
君子とは反対に、小人は暇になると、ほしいままにどんな悪いことでもしかねないものである。
「其の独りを慎む」を参照。
その独りを慎む。
(君子必)慎其獨也
ひとりでいるばあい、すなわち他人が見てもいず、聞いてもいないばあいでも言行を慎み、みずからを欺かないようにする。これが君子の志すところである。
「闇室を欺(あざむ)かず」、「屋漏(おくろう)に愧(は)じず」もこれと同義である。
ふつう「小人閑居にして不善をなす」といわれるが、閑居ではなく「間居」というのが原典の用語である。間居とは、「人に目立たずに独りでいる」という意味だそうだ。私は「小人(しょうじん)」の反対は、「大人(たいじん)」だとばかり思っていたが、この場合は「君子」ということになる。小人間居して不善を為す、ということに力点があるのではなく、「(君子は)其の独りを慎む」というところが大切という気がする。そう、「他人が見てもいず、聞いてもいないばあいでも言行を慎み、みずからを欺かないようにする」ことは、なかなかできないことである。私が昨夜“意を決して”帰ってきたことなど、愧じなければならないのだ。まだまだ修行が足りない。喝!!
それでは、また明日。