東京だョおっ母さん
13年11月12日
No.1619
島倉千代子さんが逝去した。75歳だった。私は、美空ひばりさんの熱烈なファンだ。島倉千代子さんが嫌いな訳ではないが、特に意識する歌手ではなかった。しかし、逝去の報に接し、いろいろな想いが心を
中学校の私の学年は、2クラスあり、約100人の同級生がいた。卒業した同級生のうち、東京に集団就職した同級生が、約3分の1。地元で就職した同級生が、約3分の1。高校に進学した者も、約3分の1だった。地元に残る私たちは、集団就職で東京に行く同級生を皆で、田舎の小さな駅で見送った。東京には、修学旅行で一度行ったことがあるだけだった。その東京で就職する同級生の生活がどのようなものかは、田舎に残った私たちには想像すらできなかった。
『東京だョおっ母さん』が大ヒットしたのは、昭和32年であった。私たちの同級生が集団就職する4年前のことであるが、私たちの地域では、集団就職で東京に行った人が多くいた。だから、島倉千代子さんのこの歌の重たさが、まだ子供であった私たちにも十分に理解できた。実際に集団就職で東京で働いていた若い人たちには、特別の感慨がある曲だったのであろう。
東京だョおっ母さん
作詞・野村俊夫 作曲・船村徹
久しぶりに 手を引いて 親子で歩ける うれしさに
小さい頃が 浮かんできますよ おっ母さん
ここが ここが二重橋 記念の写真を撮りましょうね
やさしかった兄さんが 田舎の話を聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ おっ母さん
あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも
さあさ着いた 着きました 達者で永生き するように
お参りしましょよ 観音様です おっ母さん
ここが ここが浅草よ お祭りみたいに 賑やかね
島倉千代子さんのデビュー曲「この世の花」は、昭和30年。私が10歳の時であった。しかし、私はこの歌を鮮烈に憶えている。私の実家は絹織物業者であり、若い女性従業員が沢山いた。彼女らが仕事をしながら、競うように口ずさんでいたからである。貧しい時代ではあったが、若い女性はいつの時代も、美しい憧れを持っていたのだ。戦後の明るさもあった。いまの若い女性が唱っている歌がどのようなものか、残念ながら私には語る資格がない。
昭和62年に発売された「人生いろいろ」は、聞いたことはあるが、真面目に(!?)聴いたことがなかった。小泉純一郎首相が、国会で「人生いろいろ、政治家もいろいろ」と答弁した記憶があるくらいだ(笑)。今回改めて、真剣に聴いた。非常に深い詩で、これを熱唱する島倉千代子さんの映像を見て、哀悼の意を禁じ得なかった。島倉千代子さんのファンでなくても、心に沁みつく歌をもつスターというのは、ある時代を心で歌っているのだ。
柄にもなく島倉千代子さんのことを書いたのは、時代を共にするスターがいたことを大切にしたいと思ったからである。私からみたら信じられないような、右翼反動の政治を推し進めようとする安倍首相とその仲間は、同じ時代を生きてきたのだが、どのようなことに感動し、何を為そうとしているのだろうか。彼らは、同じ時代を生きている国民の生活と心を己のものとして、政治をやろうとしているのか。頭の中の妄想に、とり憑かれているのではないのか。
それでは、また。