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桜木・考

13年03月23日

No.1561

東京の桜は、いまが盛りである。4月に入れば、桜の花は見られなくなるのではないか。東京には、いやに桜が多い。自然の植生では、桜がこんなに増えはしないだろう。桜に因んだ詩歌は、山ほどある。文学文芸評論家に語らせたら、幾晩でも語りそうだ。それほど、日本人は桜が好きなのである。だから、桜を至るところに植えるのである。しかし、普段は桜があることさえ忘れている。桜の木は、春の一瞬だけ、その存在を強烈にアピールする。

本日の話は、桜の花ではなく、桜の木についてである。花がないときの桜の木は、ごく普通の木に過ぎない。若葉の美しさからいえば、私はモミジの方が美しいと思う。街路樹などとしたら、イチョウの方が人気があるのではないか。街や庭の緑としては、常緑樹の方が、圧倒的に多く植えられている。花と緑ためだけならば、こんなに多くの桜の木を植える必要はないと、私には思われるのである。

花は桜木、人は武士。こういう言葉があるくらい、パッと咲き、十日もすれば素直に“普通の木”に戻る桜が、日本人は好きなのであろう。今日あたりは、私の住いの近くにある十数本の桜が咲き誇っている。1年中あんなに派手に咲いていられたら、確かに“くど過ぎる”と思う。十日間くらいだから、桜が強烈にその存在をアピールしても、多くの人々はこれを愛しみ、感じ入るのである。この世は、桜だけでは済ないのである。

話はガラッと変わるが、人の存在・生き方も、同じような気がする。長い人生には、桜花爛漫のような時もある。しかし、桜花爛漫の人々や人生だけでは、それは“くど過ぎる”のではないか。目立つことなく、ひっそりと、だが(したた)かに生きている人々は、桜の木と同じなのだと、私は思っている。桜の木は一斉に咲くが、世の人々の桜花爛漫の時は、バラバラである。桜花爛漫の人々を羨む人は多いが、その人にも、人が羨むような桜花爛漫の時があった筈である。

私にも、桜花爛漫の時があった。その回数は、人より多かったかもしれない。いっぽう、艱難辛苦の時も多くあった。ひょっとしたら、また桜花爛漫の時が来るかもしれない。しかし、桜花爛漫の時が来なくても、私は、人生を怨もうとは思わない。ただ生きているだけでも、満足している。私には、私だけが知っている桜花爛漫の時があったからである。それだけで、生きてきた価値があるではないか。私は、そう思っている。決して、強がりではない。

それでは、また。

  • 13年03月23日 09時24分PM 掲載
  • 分類: 1.徒然

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