馬子にも衣装、では困るのだ。
09年09月12日
No.1287
今朝もけっこう早く起きた。パソコンも開いていたのだが、思いが千千(ちぢ)に乱れてなかなか永田町徒然草が出来上がらない(笑)。別にうつ状態になっている訳ではない。論ずべきテーマがあまりにも多いからである。自公“合体”政権の大敗の原因は実に単純である。民主党圧勝の原因を解明することもそんなに難しいとは思わない。
しかし、今日の事態がどう展開していくかとなると極めて難しい。放っていても現実は次から次へと進んでいくが、少しでも望ましい方向に進ませていくためには人が努力をしなければならない。私は楽観も悲観もしていない。それは、私が“政治の修羅場”に多少に立ち合い、その中で行動してきたからである。“修羅場”において、人は修羅となる。広辞苑で“修羅”を引いてみた。「阿修羅の略」とあり、いろいろなことが書いてあった。Wikipediaの阿修羅を貼り付けておいたので、興味ある方はご覧あれ。
政治の修羅場において、現実に少しでも建設的に参画するためには、強い情念と理念が必要である。情念や理念がない政治家は彷徨(さまよ)える葦でしかない。ところがこのような政治家がけっこう多いのである。自民党や公明党には、そういう政治家が多かった。政権与党にいると、葦のような政治家でも一端(いっぱし)の政治家のように振る舞える。政権にはそれなりの力があるのだ。馬子も衣装だ(笑)。
私が知っている民主党の政治家も、葦のような政治家はけっこう多かった。新しく当選してきたほとんどの民主党代議士のルーツを私は知らない。そのルーツを知っている人は、ほんの少しだけである。男子三日会わざれば“かつ目”して見るべし、との言もある。色眼で見ることは慎むつもりだが、政権党の政治家という衣装を纏(まと)っただけでは困るのだ。そんな化けの皮は3日もすれば剥がれてしまうのである。
大変革の時代には情念が必要である。確りとした理念も必要である。しかし、何よりも必要なのは、“平常心”である。どんなに狂喜乱舞していても、現実を客観的に見詰める力である。そのような力をもっている政治家だけが、奔流する現実に流されることなく新しい時代を創っていくことができるのだ。国会の中には狂喜乱舞している政治家が沢山いるが、世の中の人々はまだ至って冷静なのである。政治家は民衆を狂喜乱舞させてこそ本当の政治家なのである。“未だ道半ば…” である。
それでは、また。