太平洋戦争末期に
09年08月06日
No.1249
1945年8月6日、広島に原爆が投下された。沖縄でのアメリカ軍との地上戦が終結したのは同年6月23日。私の生まれた日の翌日である。太平洋戦争の終盤、日本はどんどん追い込まれていた。そんな中で生まれた色の黒い痩せた猿のような赤ん坊に、“勝彦”という名前が付けれれた。いろいろな想いを込めてその名が付けられたのだろう。
いまなお世界の各地で戦争や内乱が起こっている。その映像を私たちはよく目にする。その映像の中にいたいけない子供たちが多く出てくる。人間の子供は数歳までは自力で生きていけない。親が戦争で傷付き倒れれば、死が待っているのだ。新潟県の片田舎に戦火は直接は飛んでこなかった。農村地帯だったので最低限の食べる物はあったようである。40歳の母親はきっと身を削って私の命を育んだのだろう。
私には4~5歳くらいまでの記憶がほとんどない。物資はきっとギリギリのだったのだろう。そのギリギリの中で私は育った。きっと泣き叫んで足らざることをアピールしたのであろうが、その記憶がないのだから何が足りなかったのかも分からない。私は物にあまりこだわらない。物欲がないのかといえばそんな訳でもない。しかし、ある物がないからといって惨めだとは、あまり思わない。最低限の物の中で成長してきたからなのだろうか。
在素知贅。私にはそれほど特別なこと、難しいことだとは思えないのである。“在素知贅”については以前述べたことがあるのでリンクしておく。「2050年にはCO2の排出量を80%削減する」などという声明がいろんなところで行われているが、ギリギリの中で育ってきた私たちの経験が必要になってきたのではないか。二言目には“世界で一番の省エネ技術”と言うが、農地と資源の乏しい狭い国土で生きていくために日本人が必要に迫られて培ってきた way of life こそ、これからの人類に寄与できるものがあるような気がしてならないのだ。
それでは、また。