営業の自由に関する考察
08年07月14日
No.869
昨日はかなり暑い日だった。暑い中、お墓参りを兼ねてちょっと散歩した。汗がダラダラと流れた。久しぶりの散歩は気持ちがよかった。暑い暑いといっても、木陰の入れば涼しい。私はあまり地球温暖化・温暖化と騒ぐのは好きでない。どうやったら木陰が沢山あるような環境を作るかではないのか。樹木がある場合は、一定の条件で固定資産税を減免するというのはどうだろうか。まだ私案の試案であるが・・・。後は1日中部屋に篭って原稿を書いていた。本稿はその一部である。
「営業の自由」は、最も基幹的・根源的な基本的人権である。
日本国憲法は、自由主義を内外に闡明した憲法である。世界に冠たる自由主義憲法のひとつといわれている。自由主義憲法とは、わが国の統治と運営を自由主義の原理に基づいて行うことを宣言する憲法である。
自由主義による国家の統治と運営を考える場合、政治的・経済的・社会的・文化的な分野における原理原則をみなければならない。原理原則の基本は同じであり究極の理念は同一であるが、着目している国家や国民の利益に相違があるので、その現れ方は微妙に異なる。例えば、自由主義憲法の花形といわれる「人権規定」は、“個人として尊重される国民”(憲法13条)に対する刑事手続に関する保障規定であるばかりでなく、国家の政治的・社会的・文化的価値観に関係するものでもある。国民の価値観に介入しない(換言すれば国民の価値観の自由を保障する)自由主義の政治においては、きわめて例外的だが必要な規定である。
営業の自由を保障した規定は、自由主義社会における経済に関するものであることはいうまでもない。憲法29条の「財産権はこれを侵してはならない」との規定や憲法27および28条の労働基本権に関する規定も同様である。憲法25条1項の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とする生存権規定などは、わが国の政治と経済の運営の目的と目標を定めたものである。
いかなる政治体制においても、国民の経済的生存を確保することは重大な関心事である。自由主義国家と他の国家体制との最大の相違は、国家が国民の生活を即自的に保障していないことである。国家は国民に自由を保障するのだから、国民の生活や経済に対して基本的には直接責任を負っていないのである。生活保護制度も、基本的にはいまなおプログラム規定であると解釈されており、各種の制限が厳に存在する。国民は最低限度の生活ができないからといって、国に生活の保障を求めることは必ずしもできないのである。
自由主義国家は、国民の経済的な生存と生活に対して直接責任を負わない代わりに、国民に営業の自由を保障することによってその目的を達成しようと考えている。一見するとこれは非情であり無責任に思われるが、この原理原則は歴史的にも経験的にも成功してきた。第二次世界大戦後、経済運営に国家が権限もち責任を負う社会主義体制と自由主義体制は冷戦と呼ばれる激しい対決を繰りひろげてきたが、自由主義経済体制はその優位を示した。
自由主義国家であっても、国民の経済的生存を確保し経済の発展を期すことは国家運営の基本である。自由主義国家=自由主義社会は、経済の発展を国民の「営業の自由」を保障することにより確保しようとする。これは、国民の叡智と努力を信頼して、それに依拠して経済の発展を行おうという命運を賭けた選択なのである。国家が結果に対して責任を負うことなく国民経済が発展することなど、結果として与えられた奇跡に過ぎないのである。市場経済原理により経済の発展を遂げようとする国家の経済運営は、国家の命運を賭けた真剣勝負なのである。自由主義憲法における「営業の自由」の保障は、刑事手続における人権規定と同じ基幹的・根源的な規定であり、その制限は真に止むを得ない理由がある場合でなければならない。<以上>
それでは、また。