公(おおやけ)とは何か。
06年12月20日
No.282
教育基本法と防衛省設置法が可決成立した翌日の朝日新聞朝刊の見出しである。ここでは両法案の是非については書かない。興味ある方は、教育基本法については永田町徒然草No.254、防衛省設置法については同No.265をご覧いただきたい。ここで論じようとすることは、個と公の関係である。「『個』から『公』重視へ」という見出しは、「個」と「公」が対立することを前提としてはじめて成り立つ。多くの人々が、朝日新聞と同じように個と公は対立するものと考えている。果たしてそうだろうか。
基本的人権の大原則は、憲法11条である。
第11条【基本的人権の享有】国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に保障される。
一方、侵すことができない基本的人権に対する制限するものとして、憲法12条と13条がある。
第12条【自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止】この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第13条【個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉】すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
侵すことができない永久の権利として保障されている基本的人権を制限できる憲法の「公共の福祉」とはいったい何をいうのかということは、憲法上の大問題である。公共の福祉を理由に法律などで安易に基本的人権を制限すれば、明治憲法が法律の範囲内でしか基本的人権を認めていなかったために実質的には基本的人権などなきに等しい状態になってしまったのと同じになってしまう。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」の条文の中で、留意しなければならないのは「最大の尊重を必要とする」という文言だと私は思っている。
要するに、「公共の福祉」ということを安易に使ってはならないということである。憲法を最初から尊重する気風のない自民党ばかりでなく、権利は認めるが濫用は許されないということは一般的によくいわれることである。安易にこういうことをいうと戦前と同じようになってしまうのである。最近では、テロ防止というとなんでも許されるようになっている。危険な兆候である。憲法を厳格に解すれば、原則的には基本的人権を制限することはできないのだ。何をさすのか実体が必ずしも明らかでない国家とか社会とか治安とか善良な風俗などを理由に、基本的人権を制限することは憲法の理念に反するものなのである。
そうすると憲法がいう公共の利益は、もっと具体的かつ一義的で争いがないものである必要がある。そこでいわれるのが、他人の基本的人権という概念である。基本的人権の名において行われるある者の行為が、他の人の基本的人権を侵す場合はこれを制限しなければならないという考えである。Aなる基本的人権とBなる基本的人権の衝突を調整する概念として「公共の福祉」を考えなければならないという考え方である。公共=公を国家とか社会などという多義的で争いのあるものと考えず、個人として尊重されなければならない他の人間の基本的人権を具体的に想定するという考えである。Aなる人物の基本的人権を保証した場合、BもしくはB……Zの基本的人権が侵害されることはないのかということを具体的に考え、比較考量せよということである。公共=公も、実は個人として尊重されなければならない「個」と考えなければならないのだ。
こういう考えをすれば、国家や権力者の恣意で基本的人権が実質的に侵害されることを防止することができる。このように公共=公は、個と対立するものではなく個の人権そのものなのである。常にこのように考えないと公共=公の名において、基本的人権は制限され戦前と同じになってしまう。「忍び寄る警察国家の影」は白川サイトの最大のヒット記事だ。最近の職務質問はもう明らかに基本的人権を無視したものだ。テロ対策・治安維持ということでイケイケドンドンで行われている。テロ対策・治安維持というのは、抽象的かつ多義的なものだ。それに対して執拗な職務質問は具体的な個人の人権と名誉を損なうものである。個人の基本的人権を本気で尊重する気がない者がいう公共の福祉=公なるものは警戒した方がいい。
それでは、また。