天皇制の存続と官僚制
07年05月10日
No.421
私は大学4年の秋から一念発起して法律の勉強を始めた。当然のことながら、法律の勉強は憲法から入る。それまで政治活動をし政治の勉強をしていたので、憲法の本を読むことは楽しかったし面白かった。ほとんどの法学生が疑問に持つことだと思うが、昭和憲法が徹底した平等を定めていることと国民とは明らかに異なる地位にある天皇を認めることとの整合性だった。ほとんどの憲法の本は、その整合性を明快には述べていなかった。
憲法には論理的な整合性が求められることは当然だが、同時に憲法は政治的な法でもある。天皇制の存続が政治的に必要であるならば、法的な論理を超えて認められることは不思議ではない。しかし、天皇制の存続が政治的に必要だったということを本当に理解できるようになったのは、政治家になってから暫く経ってからだった。40歳前後だっただろうか。自由主義も民主主義も定着していなかった昭和20年代のはじめ、わが国の秩序を作り安定を図るためには天皇制を残すことは有用性があったのだ。そのことを私は否定しない。天皇制はその内実を根本的に変更されたが、その存続は次のような結果を齎したことを私たちは忘れてはならないであろう。
政治の最大の課題は、国家の秩序を作ることである。「いかなる悪い政府も、無政府状態よりましである」という、イギリスのカムデン卿の有名な言葉がある。政治というものの本質を衝いている。このことは現在のイラク情勢をみれば頷けるのではないか。すなわち、政治というのは、ひとつの秩序を作る人間の営みなのである。しかし、その秩序を作るということが実はいちばん困難なのである。被統治者の同意がなければ、平穏な秩序を作ることはできない。
国家としての秩序を作る責任は、主権者にある。明治憲法では、その責任は主権をもっていた天皇にあった。昭和憲法で主権者になった国民には、新しい憲法下における新しい秩序を作るという責任が生じたのであるが、天皇制が存置されたためにこのもっとも困難かつ重要な任務から解放されたのである。日本国民統合の象徴としての地位の昭和天皇は、“国民を統合する”という任務に専念した。昭和天皇の戦後の行幸は、戦争を阻止し得ず、多くの国民を戦死させ、国を荒廃させたことに対し責任を果たそうとする悲壮な決意さえ感じられる。昭和天皇のこうした活動は、主権者である国民の代表である政府がもっとも困難かつ重大な任務を果たしているように錯覚させることになった。
新憲法に基づく新しい秩序を作ることがおろそかになった。昭和憲法は、自由主義的憲法である。昭和憲法が理想とする秩序は、自由主義的な秩序である。自由主義的な秩序は、国民の自由闊達な活動を認めつつそれが自然調和的に秩序を形成するという信念と寛容と辛抱によってはじめて作られる。自由主義的思想が脆弱だったわが国で、このような自由主義的な秩序を作ることはそもそも非常に困難な課題であるのだが、天皇の存在と活動により“日本国民統合”という秩序が擬制された。そのために自由主義的な秩序を作るという命懸けの任務が国民や政府に迫られることはなかった。
自由主義政治思想は、“絶対者”を否定する。絶対者もたない国や個人が自律することは、口でいうほど簡単ではない。しかし、近代自由主義国は、“絶対者”なしで自律かつ自立しているのだ。それは何らかの政治的的価値観を見出してはじめて可能なことである。自律かつ自立している近代自由主義国家には、何らかの政治的的価値観がある。わが国にそうしたものがあるように感じられないのは、新しい憲法を作ったにもかかわらず、主権者たる国民と政府が憲法に基づく新しい秩序を作るという困難な作業をしてこなかったことに起因している、と私は考えている。
天皇制は残ったが、その内実は明治憲法とはまったく異なるものであった。天皇の言動が憲法の規定との関係で問題になったことはなかった。天皇および天皇家は憲法を遵守してきた。天皇制は、秩序を作るという意味では大きな役割を果たした。それは憲法が認め、かつ期待している役割である。私が問題にしたいのは、その結果として古い秩序としての官僚制がそのまま残ったことである。明治憲法下では、官吏は天皇の官吏であった。天皇の権限と役割が根本的に変わったにもかかわらず、わが国の官僚は古い官僚制にそのまま安住し、その権力をそのまま温存し、これを行使しその役得を保守してきた。官僚制の弊害のルーツは、ここにあるのではないかと考える昨今である。
それでは、また明日。