自由主義を宣言した昭和憲法
13年05月19日
No.1774
前号では、昭和憲法が制定された理由と経緯を詳しく述べた。その施行の日から昭和憲法は、わが国の最高法規となった。統治権の行使は、これによってなされ、これによらなければ行使できなくなった。
しかし、1952年4月28日サンフランシスコ講和条約が発効し、わが国が独立して主権を完全に回復するまでは連合国の軍事占領下にあった。昭和憲法を超える権力として、連合国総司令官という超権力があった。ポツダム宣言により、これに従うことが義務付けられていた。この例外はあったが、それ以外は占領下を含めてわが国のすべての法秩序の頂点に昭和憲法がたつことになる。
すべての政治権力を驥足し、法秩序の頂点に君臨する昭和憲法の基本的原則はいかなるものであろうか。多くの学者は次の三原則を挙げる。
- 国民主権
- 基本的人権の尊重
- 平和主義
国民主権を言葉として明言している条文はないが、憲法全文の「ここに主権が国民に存することを宣言し」とか、第1条の天皇に関する条文で、「(天皇の)地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とある理由に憲法上の争いはない。「大日本帝国は、万世一系の天皇これを統治す」(第1条)と明治憲法が規定していた天皇主権は明らかに否定され、わが国の主権は国民が持つことになった。
基本的人権の尊重とは、単に人権は守られなければならないとするだけでなく、わが国の統治は自由主義的政治原理に基づいてなされなければならないことを規定していると私は思う。基本的人権を定めた各条文は、共産主義や社会主義の政治原理に基づいた統治を行おうとすれば、明らかにこれと抵触する内容を多く含む。昭和憲法は、国際的にみても当時としてはもっとも自由主義的な憲法であったと思う。護憲の立場に立ち、その先頭にたってきた日本社会党や日本共産党は社会主義や共産主義を指導理念とする政党である。これらの政党が憲法を守れという時この点が重視されなかったことは仕方がないことであるが、護憲論の広がりという面においてマイナスとなったことは事実として率直に認めなければならないと思う。
平和主義とは、憲法前文と第9条に規定されている内容を指す。私は第98条の「日本国が締結した条約および確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」(いわゆる条約遵守義務)なども加えてもいいのでないかと考えている。締結した条約を守らなかったり、確立された国際法規を無視したりすると紛争が発生し、戦争が起こる原因となるからである。
「基本的人権の尊重」が意味するもの
上にのべた原則は、昭和憲法の三大原則と呼ばれている。この三つの原則に優劣はないといわれている。それはそれでいいのだが、わざわざ第97条で、
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は過去幾多の試練に堪え、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」
と規定していることを考慮すると、基本的人権の尊重にいちばん重点があると考えていいのでないかと私は思っている。繰り返しになるが、昭和憲法は自由主義を定めた憲法であり、それは国の統治も自由主義の政治思想に基づいて行わなければならないことを含んでいると私は考える。
自由主義的統治には、確立された諸原則がある。三権分立はその代表である。政治権力の一極集中は独裁政治を招き、結果として国民主権や基本的人権を危うくするという歴史の教訓があるからである。昭和憲法は三権分立を定めているが、自民党(近年では自公両党)によるによる政権運営が続いているため、政治権力の一極集中が事実上起こっている。主権者である国民が思いを至さなければならないことだ。憲法は、政治行動のあり方まで書くものではない。
国民主権は、基本的人権の尊重を達成するためにも必要不可欠なことである。国民主権とすることがポツダム宣言に文言として明記されていなかったために、終戦当時の政府関係者が「国体の護持」すなわち天皇主権は必ずしも否定されていないと考えた。しかし、「天皇は神聖にして侵すべからず」とする憲法のもとで基本的人権が守られることは実際問題として無理である。基本的人権の尊重は、完全無欠などと到底いえないが熱い血の流れている一人ひとりの人間を大切にするという思想である。神でも仏でもない、ましてや皇帝や王や国家などというものではなく、不完全極まりない生身の人間に最高の価値をおくという思想である。
自由主義の法思想の世界では、神も仏も皇帝も人間を介してはじめて存在する。アプリオリに絶対的な価値をもつ神も仏も皇帝も法学的には存在しない。これを認めれば、宗教裁判によって火炙りの刑も認められることになる。あのジャンヌダルクやガリレオのように。
戦争は、究極の人権侵害をもたらす。いかなる高邁な理屈をつけようと、戦争で人権が侵害されるのはか弱い一人ひとりの個人である。戦争を遂行する権力者ではない。これはブッシュ大統領が自由のための正義の戦争と称したアフガン・イラク戦争でも少しも変わらなかった。
何百万、何千万の血が流された戦争の反省にたって、戦争放棄の規定が設けられた。世界で初めてのたった一つしかない条文である。これを幼稚な理想主義と嗤うことは簡単である。しかし、命懸けでこの理想を追求しようという悲壮な決意をもつ者を平気で嗤う者に、いかなる悲壮な決意があるというのか。その者にいかなる理想があるというのか、それを聴きたい。理想のないところに進歩は絶対にない。
リベラルを規定する憲法
昭和憲法が自由主義的憲法であることは基本的には争いはない。しかし、昭和憲法は自由とともに平等ということも重視している。その代表的条項が第25条である。
- すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
- 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」
自由とともに平等を重視していることが、昭和憲法の20世紀的なところである。単純にいえば、自由の概念と平等の概念は対立・矛盾する。しかし、この相対立するものを同時に追求せよというところが、20世紀の自由主義憲法という所以である。
アメリカ憲法やフランス憲法ができた18世紀には、まだ社会主義思想も社会主義国もなかった。しかし、1917年にソビエト社会主義連邦共和国が誕生し、社会主義が目指す理想をまったく無視して自由主義を論ずることも、自由主義の理想を語ることもできなくなった。憲法は現実の政治を抜きに語ることはできないのだ。
古典的な自由主義は、いうまでもなく自由放任である。夜警国家観である。この時代の政治的要求は、王や皇帝の権力から国民を自由にすることだった。レッセ・フェールである。しかし、自由放任では、社会的不平等が生じ、それは自由主義体制そのものを否定しかねない。構造的な不平等を放置していたのでは、自由主義の存立それ自体が危うくなる。自由とは一見矛盾する社会的公平の確保を自由主義憲法が掲げるのは、自由主義を永久に存続させるための内在的要請なのである。
現代においてリベラルと呼ばれる政治的潮流は、単なる自由主義をさすものではなく、「社会的公正を重視する自由主義」をさすものと私はとらえている。昭和憲法の制定で大きな役割を果たした連合国総司令部民政局には、リベラル派と呼ばれる者が多くいたといわれている。そのリベラリストたちが、昭和憲法にその理想を託したことは疑いのない歴史的事実だと思う。
だから、昭和憲法は、リベラルな憲法といっても過言ではない。それを可能にしたのは、第二次世界大戦終了直後の世界的潮流であったのだろう。戦争の最後通告というべきポツダム宣言に明確な政治的メッセージがあるのもその証左であろう。
「健康で文化的な最低限度の生活」は、わが国の労働運動や社会運動を指導するキーワードであった。1950年(昭和25年)には生活保護法が制定された。朝日訴訟を持ち出すまでのなく、「最低限度の生活」の内実は決して十分なものではなかったが、同法2条が「すべて国民はこの法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護を無差別平等に受けることができる」とその権利性を規定していることは高く評価していいと思う。
私が国会に出てからは、あまり注目されていなかったが毎年1兆円を超える生活保護費が予算に計上されていた。近年生活保護世帯が増え、受給者も増えている。生活保護にあてられる予算も増えているが、その運用に強い不満が出されている。憲法改正を口にする人々はおおむね生活保護制度に敵意を持っている人が多い。それは財政難という理由だけでなく、こうした考え方=社会的公平の確保ということに対する憲法上の深い意義を理解していないからであろう。
新自由主義を掲げるネオコンといわれる人たちの主張には、「新」などと形容するに値する何らの価値観・思想性もない。アメリカの時の政権に盲従することしか知らないわが国の政治家たちの政策により、社会的不平等が拡大している。リベラリズムを正しく解しない結果である。社会的公正・公平を重視しない自由主義者は、実は自由というものを本当に大切にしているのではないと私は考えている。
「自由・平等・博愛」を地で行く
いずれにしても昭和憲法の制定は、わが国のあらゆる分野に革命的変化を生じさせた。昭和憲法施行以前から、GHQの指令により昭和憲法を先取りする形で、新しい秩序が作られていった。軍隊の解体、政治犯の釈放、思想・表現・出版の自由の保障、国家神道の禁止、天皇の人間宣言などなど。しかし、新しい憲法価値観の全面的・体系的実施は、やはりその施行を待つ必要があった。
基本的人権を保障された国民のエネルギーは、政治・経済・社会・家庭のあらゆる分野で変革を行った。自由がまったく奪われていたことに対する反動もあったであろう。また戦前の秩序の中心にあった絶対主義的神権天皇・軍隊・財閥の崩壊により、わが国の支配層が統治に対する自信を失っていたことも大きな原因としてあったと思う。
大衆の巨大なエネルギーは、時として大きな社会的混乱をもたらすものだが、わが国の場合いまイラクで見られるような大きな混乱や無政府状態は生じなかった。連合国が間接統治方式をとったこととわが国の統治機構がそれなりにしっかりしていたためであろう。
同時に国民を自由にしたからといって、直ちに秩序が崩壊し無政府状態になるものではないという自由主義の本義に思いをいたさなければならない。自由主義の政治思想は、権力が強権的に秩序を作らなくても、試行錯誤はあるが国民は自由の中で必ずより立派な調和・秩序を作るものだという信念である。何か問題が起きると取締りだ、対策だといって、しゃしゃり出てくる政治家や官僚にはこの信念と辛抱がないのだ。
敗戦直後のわが国は、窮乏していた。戦争にすべて財貨を費やしたこともあるが、世界でも稀にみる大地主制の下で国民の大半を占める小作農民の貧困は構造的なものであった。財閥の存在は、フランス革命で大きな役割を果たしたブルジュアジーといわれるような資本家も育てていなかった。国民経済を支える層は脆弱で貧困は深刻であった。
これまで厳罰に処されていた社会主義思想が自由になった。社会党や共産党などの政党も活動を始めた。労働運動もわが国の歴史の中で初めて本格的に展開され、農民運動も活発となった。貧困に喘ぐ国民は、自由とともに平等を求めて戦いを始めた。それを放置すれば社会主義的革命に転化する様相を帯びていたという見方もある位だ。
これを懸念したGHQは、社会主義革命を想起させるような大胆な農地解放を政府に迫った。農地解放により、わが国の農民の大半を占めていた小作農(水呑み百姓と呼ばれていた。本当に貧しく農民でありながら耕作する米を食べることがままならなかった)は、自作農となった。耕作面積は少なかったが自らの土地を手にした農民の生産意欲は高まり、生産性が上がり、経済的に安定していった。国民経済の底上げは、わが国のその後の経済発展の下支えをすることになる。
最後に当時の社会的状況に触れておこう。総動員体制の下で深く組み込まれていた戦争態勢から解放されたこと、戦争の犠牲者が多くいたこと、共に貧困であること、大家族制や地域社会のつながりが強かったことなどさまざまな要因が相まって、人々の間には連帯感があった。いや連帯感を持たなければ生き抜くことができなかったのかもしれない。優れた映画や文学が生まれたのは偶然ではないと思う。
冷戦構造の下で、その後のわが国の政治も憲法も紆余曲折を余儀なくされる。しかし、戦後の数年間は貧困と占領下にあったが、「自由・平等・博愛」を地でいくような熱い時代があったことを私たちは忘れてはならないと思う。
* この小論は月刊誌『リベラル市民』の平成19年1月号に掲載されたものである。