終「戦後」か、敗「戦後」か?
07年02月07日
No.329
千葉県船橋市にお住まいのT・Oさんから、次のようなメールをいただいた。
「拝啓 貴ホームページにより「憲法改正問題講座」の開講を知り、『月刊マスコミ市民』を昨年度11月号よりのバックナンバーを含め購読を開始しました。通算457号は昨日配達されました。今年一杯続くであろう講座の終わりまで通読することを楽しみにしております。
それとともに「創価学会化した自民党」も興味深く拝読しております。与党の甘みを経験した公明党の現在は結党時の新鮮さを失い、ただただ自民に擦り寄り平和と福祉の党変じて自民亜流に成り下がっており、庶民の期待を裏切り続けております。権力は腐敗しており、国務大臣柳沢の失言も、与党が衆院三分の二を占有する油断と驕りが齎したものと信じております。本人は苦学生とのご紹介がありましたが、学生時代はともかく人生の苦労は避けておられたのではないでしょうか。
「次回のテーマは、戦後わが国のあり方をかえた基本的人権である」の文章に触発されメールを差し上げる次第です。
「戦後」と「基本的人権」、これは斬っても切れない言葉です。このホームページの筆者は「戦後」という言葉をどのような気持ちで使っておられるのだろう? 終「戦後」なのか敗「戦後」なのか。誰が最初に使ったのか「終戦」という言葉の持つまやかしと曖昧性、それは「基本的人権」なる言葉と語義は明快ながら存在があやふやであることにおいてまことに好一対ではないか。
「終戦」というまやかしの言葉に騙されている我々は「基本的人権」なる言葉の真の意義をまだ手にしていないのではないか。終戦とともに米占領軍が力で与えようとした(現在の対イラク同様)民主主義は形だけのものではないのか。
たまたま手許に元毎日新聞記者・藤田信勝氏(故人)の『敗戦以後』があります(初版1947年複刊2003・02・24)。朝日の書評には「個人の自覚を伴わない民主主義は本物ではなく『日本人が理性と自立精神を獲得するためには、まだまだ高い授業料を払わねばならぬのかも知れない』とも書き残した」とあります(朝日夕刊2003・02・24)。
現在ある政治的、精神的、倫理的混乱は全てこの敗戦を終戦といいくるめたことにあると小生は考えています。つまり日本国民は真摯に現実と相対することを拒んだのです。経済的優位への自信がこうじ傲慢となり、敗戦の劣等感を覆い隠したのでしょう。今もって日本人は民主主義を自分のものにしていないというのが小生の現在の心境です。 不一」
私の返信のメール: 「拝復 ご丁重なるメールありがく拝受いたしました。私の戦後はもちろん「敗戦後」です。このことは憲法改正問題講座-2の「ポツダム宣言受諾と昭和憲法の制定」で詳しく述べております。
ところでいただいたメールですが、重要な視点でありますので永田町徒然草で紹介したいと思っております。 <中略> 宜しければメールでお知らせ下さい。以上、率直な要望ですが、ご検討の程よしくお願い申し上げます。
向寒の砌、健康にはくれぐれもお気をつけ下さい。 不一」
T・Oさんは72歳とのこと。私より10歳も先輩である。このような大先輩が私のつたないWebサイトを読んで下さっていることに恐縮するとともに感激した次第である。O・Tさんが紹介された元毎日新聞記者・藤田信勝氏(故人)の「個人の自覚を伴わない民主主義は本物ではなく『日本人が理性と自立精神を獲得するためには、まだまだ高い授業料を払わねばならぬのかも知れない』とも書き残した」との言葉は重い。またT・Oさんの「今もって日本人は民主主義を自分のものにしていないというのが小生の現在の心境です」との言葉も重い。今後とも一生懸命にこのような大先輩の批判にも耐えうるものを発信してゆかなければならないと肝に銘じた次第である。
それでは、また。