自分史
─ その2
高校時代のアメリカ旅行
当時、小田実の『何でも見てやろう』というアメリカ体験記がベストセラーになりました。私も読みましたが、あまりおもしろくはありませんでした。しかし、ミッキー安川の『ふうらい坊留学記』という本は、おもしろく、アメリカへの私のあこがれをかきたてました。
アメリカは、戦後の日本にとってあこがれの国でした。AFS留学生の制度などもあり、少数の限られた人たちでしたが、けんめいにアメリカを学びとろうとしていた時代です。そんなアメリカに、ひょんなことから行けることになったのです。高校2年のときでした。ある日、英語の先生が私を呼びました。新潟県のロータリークラブで、高校生を1人だけアメリカに交換学生として派遣するが、十日町高校としてはお前を推薦するから、受けにいってこいというのです。英語は私の得意科目でした。しかし、まさか新潟県で1番になれるとは思っていませんでした。東京でさえ、中学の修学旅行で1度いったことがあるだけの私が、あこがれと未知の国、アメリカにいけるとは、最初はどうしても実感がつかめませんでした。
1963(昭和38)年の7月から9月までの2ヶ月間、アメリカに滞在しました。私はアメリカに着くまで、アメリカ人と英語で話したこともなければ、会ったことすらなかったのです。アメリカに滞在して思ったことは、アメリカという国は、とほうもなく豊かな国であるということの一言につきます。新潟県の片田舎の生活しか知らない高校生にとって、アメリカのロータリアンの裕福な家庭の日常生活や生活環境は、ただただ驚くばかりでした。
しかし、そうした物質的な豊かさがある反面、当時の私はすでに哲学的なものに興味を持っていましたから、アメリカ人の考え方や生活態度にはあまり哲学的雰囲気はなく、精神面において、それほど高等な国民ではないと思いました。
このアメリカ旅行を機に、私は政治を勉強しようと決意しました。アメリカはこんなに豊かなのに、なぜ日本は貧しいのだろうか、それは政治が悪いせいだ。いくら精神生活が豊かであっても、社会が貧しければ人は幸福にはなれない。アメリカのあまりの豊かさに対する反発から、私は政治家になって日本をよくするんだと、このとき固く決意したのです。
1963(昭和38)年といえば、いまとは問題にならないほど、アメリカはまだ遠く、偉大な国でした。私を政治の世界に導いた、アメリカ旅行という貴重な機会を与えてくれたロータリークラブに、私は深い感謝をしています。なかでも、私のアメリカ行きに対し、いろいろお世話いただいたのが、十日町ロータリークラブのロータリアン山内正豊さん(十日町新聞社社長)でした。そんな縁から、私が政治活動を始めるに際しては、山内さんに相談するとともに、後援会長をお願いすることになりました。
受験勉強のタイム・スケジュール
政治家になる。そのためには東大法学部にはいることが一番の近道だ
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そんな単純な発想から、私は東大法学部受験を決意しました。受かるか、受からないか、そんなことを考えてみても始まりません。とにかく、私はそう決めて、あとは努力するだけでした。こうして、受験勉強を本格的に開始しました。
それまでも、勉強は一応きちんとやっていましたから、学校での成績は悪くはありませんでした。とはいえ、東大受験のための実力としては、圧倒的に足りませんでした。
学校は3時10分に終わります。4時までに帰宅して、夜の12時まで勉強すれば、学校の勉強のほかに1日6時間は勉強できる。とにかく、それだけは勉強しよう。あとは、運を天にまかせるだけだと考えました。
私はタイム・スケジュールをつくり、それにしたがって生活を律しました。食事や風呂や休けいのために、2時間だけはとりました。残りの6時間をタイム・スケジュール通りにやれた日は○、半分以上実行できた日は△、全然やれなかった日は×と、暦に大きく書きました。最初のうちは○の日の方が少なく、△や×の日の方が多くなりました。自分はなんと意思の弱い男なんだろうと、自己嫌悪の念が生じます。これじゃだめだ、来週からはしっかりやろうと頑張ってみるのですが、また同じような結果がでます。自己嫌悪の念は、一層強くなります。
しかし、ここであきらめてはだめだと思って、とにかく2ヶ月くらいやっているうちに、○の日の方が多くなるようになり、高校2年の3学期のころからは、○の日が週7日のうち5日くらいになったように記憶しています。
四当五落、こんなことが受験雑誌には書かれていました。4時間しか眠らないで勉強すれば合格するが、5時間も眠るようでは落第するというものです。私もその意気込みでやってみましたが、それは無理だし、無意味なことだと思いました。4時間しか眠らないのは結構だが、そのために残りの20時間、頭の回転が停滞してしまったのではなんにもなりません。
計画を立てるとき、最初から無理な計画を立ててもなんにもなりません。実行できなくとも当たり前なのですから、反省心もおこりません。そんなことより、本気でやる気ならば十分実行できる計画を立て、完遂することに全力を傾けるべきです。やれる計画だったのに、なぜ、完遂できなかったのかという反省の心は、実行可能な計画であってこそ、はじめて生じるものです。
私は勉強の時間割をつくるとき、日曜日は空白にしておきました。月曜日から土曜日まで計画どおり勉強していれば、日曜日は勉強しなくていいのだという計画を立てておくのです。しかし、やり残した日があったら、日曜日で、その不足分だけ勉強するのだと決めておくのです。最初のうちは、計画どおりやれない日が多かったので、日曜日も勉強しなければなりませんでした。しかし、だんだん計画どおり勉強できるようになると、日曜日は自由の時間が多くなってきました。
私は中学校のころから映画が大好きでした。映画監督になりたいと真剣に考えたことすらあります。受験勉強をはじめてからも、映画を見ることだけは唯一の娯楽なんだからと、週に2日の時間を決めて、必ず映画を見に行きました。
守り地蔵に祈願してくれた母
受験勉強を本格的にやるようになってからも、よく友だちの家に遊びにいったり、映画を見たり、家の仕事を手伝ったりしました。1週のうち、もともと勉強しなくとも良い日を1日だけとってあるのですから、別に遊んでいても、仕事を手伝っていても、やるべきときにちゃんとやっているのだから、心配や不安はありませんでした。
「勝ちゃんは遊んだり、家の仕事を一生懸命手伝っていても、東大に受かったんだからよほど頭がよかったんだ」
などといわれましたが、そんなことはありません。
学校で6時間、家に帰ってから6時間、1日あわせて12時間も勉強するということはたいへんなことです。それを実行したのです。
東大受験を決意した私は、母に頼んだことが2つあります。ひとつは、夜遅くまで勉強していると腹が減るので、夜食をつくってほしいということ。いまひとつは、冬の間、私が学校から帰るまでに、煉炭火鉢を用意して、部屋をあたためておいてほしいということでした。
1年半の間、母はこの2つをきちんとやってくれました。夜の11時半になると、母は起きて、夜食をつくって、12時ちょうどに私のところに持ってきてくれました。尋常小学校しか出ていない無学な母でしたが、東大受験というむつかしい目的に向って息子が必死に頑張っているのだということを知っていました。自分のできることは、おいしい夜食をつくってやることだけなのだということでやってくれたのでしょう。
ときには眠くなって、もう今日は早めに寝ようかと思うことが、何度もありました。しかし、それではせっかく起きて夜食をつくってきてくれる母に申し訳ないと思い、頑張りました。
「どんな勉強をしてるん?受かってくれればほんとにいいねえ」
夜12時まで一生懸命勉強している私を、母ははげましてくれました。母のつくってくれた夜食を食べながら、母と雑談をすることは、楽しい想い出です。
私が大学に入学してから知ったのですが、本格的に受験勉強を始めたときからの1年半、母は近くにある守り地蔵さんに、毎日合格を祈願にいってくれたそうです。私はそれ以後、なにか重大決意をして行動を起こすときには、守り地蔵さんに祈願してくれることを母に頼みました。
いまは亡き母ですが、こうしたことを通じて、母と私の間は、強い心の絆で結ばれていたのだと思います。
受験勉強にも学問の魅力
「受験地獄」、「灰色の高校時代」という言葉があります。勉強が嫌いな人ならばそれはそうかもしれませんが、私の場合は、あまりそういう気がしませんでした。受験勉強といっても、特別な勉強ではありません。しょせんは、各科目について本当の実力があれば、受験もそれで間に合いますし、試験自体、それを見ようという問題を出すのです。
私が選択した入試科目は、英語、数学、国語、日本史、世界史、生物、化学の7科目でした。たとえ、入学試験がないとしても、学問をやろうという以上、このくらいの科目についての知識を持っておくことは最低限必要です。とくに私は、政治を勉強する目的を持っていましたので、あらゆることが興味の対象となりました。本来の学問と受験勉強は、まったく異質の勉強ではないと、私は確信しています。
私は東大受験を決意し、そのために本当の実力をつけようと思って勉強しました。こうして、勉強することのおもしろさをはじめて知りました。学問というものは、やればやるほどおもしろいものです。人は学問により新しい世界を知り、社会や人生を深く理解することができます。少ない勉強量で効率よく受験を乗り切ろうなどという怠惰な考えは、学問をしようという態度とは、およそ無縁な考えです。本来、そういう考えの人は、高校や大学に入ろうと考えること自体がおかしいのではないでしょうか。学問しようという意思も目的もない人が、進学だけを考えるから、受験地獄だなどと感じ、受験テクニックを追い求めるのです。
人生論と恋
“生きる”ということの意味を考える
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これは、高校時代から今日まで、一貫して私の人生の大きなテーマです。友人を求めることも、恋人を見つけることも、このテーマを抜きにしては考えられません。
情熱を持って人生を生き抜こうという態度のない人とは、私は真の友人にもなれなかったし、恋人とすることもできませんでした。高校時代、私は数多くの女性と友達づきあいをしてみましたが、人生に対する態度や考え方において、共鳴や相通じるなにかを感じとれたのはごく少数でした。当時の高校生の恋愛は、プラトニック・ラブ以外のものではありませんでした。私は、精神的ななにかを抜きに、人と深くつきあうことができないタイプでしたから、とくにプラトニックな恋愛になるのは、やむを得なかったのかもしれません。
高校生ともなれば“性の悩み”も重大なテーマです。高校生の分際で性交渉を持つことなど、当時は考えられないことでしたので、恋愛とセックスは、無関係だったといってもよかったと思います。
高校時代の私は、勉強、スポーツはもちろんのこと、友だちと論じあったり、映画を見たり、いろいろと将来を思索したり、生き生きとした生活だったと思います。なにをやっても楽しかったし、また、興味も持てました。それらのすべてが、人生の勉強だと思えました。人生を情熱的に精一杯生きることの充実感を、高校時代に知りました。
その後の人生で、壁にぶつかったり、生きる自信をなくしたりしたことが何度もあります。しかし、そんなとき、
「お前はまだ何にもわからなかった17〜8のときでも、あんなにがんばったじゃないか。あの当時にくらべれば、いろんな勉強をし、状況もよくなっているのに、なんでそんな弱音を吐くんだ、しっかりしろ」
と、自分にいいきかせてがんばりました。
高校時代の真剣で必死だった生き方は、その後の悩み多き青春を生きるときにも、私に大きな自信を与えてくれました。
寮生活で社会主義思想に出合う
東大に入学して一番うれしかったことは、いろんな問題について真剣に話し合える仲間が多数いたということです。東大には学生寮がたくさんあり、私は、一高時代から名高い駒場寮に入りました。寮生750人の、全国一のマンモス学生寮です。駒場寮は、昔から自治意識が強く、大学から補助金はでましたが、運営はいっさい寮生がとりしきっていました。寮付属の食堂の経営までやっていたのです。
駒場寮のいまひとつの特色は、サークル制の部屋割でした。気の合ったもの同士でサークルをつくり、そのサークルでひとつの部屋をとるのです。ひとつのサークルとなるためには、最低でも5人いないと部屋をひとつ確保することができません。空手同好会や野球同好会など運動クラブ系のサークルと、そうでないサークルに大きく分けることができます。私は、いままであったどのサークルにも肌がなじめず、友だちをみつけて、「平和研究会」というサークルをつくりました。平和問題を研究し、実践しようということで、結成したサークルです。しかし、この平和研究会は、もともと政治意識のあるものだけでつくったサークルで、学生自治会や寮自治会、生協など、すでに各自いろんな分野で活躍していました。ですから、平和研究会そのものとしては、特別な活動はありませんでした。
駒場寮は、大きな部屋に5〜6人が雑居するのです。間仕切りもなにもない部屋なので、本立てで、仕切りらしいものはできますが、とても1人静かに勉強や思索をするということは望めません。部屋には、常時、だれかが遊びに来ていますから、とてもにぎやかです。こういうことに耐えきれなくなって、寮を出て下宿する人もでてきました。私はもともと大所帯のところには慣れていましたし、人と話し論じ合うことが大好きだったので、いっこうに苦にはなりませんでした。むしろ、寮生活の良さ、楽しさを満喫していました。
田舎の、保守的な家に育った私にとって、なんといっても驚異だったのは、社会主義的思想・人物との出合いでした。東大はむかしから、学生運動の盛んなところです。活発な運動をしているのは、社会主義思想を理念とする団体やサークルがほとんどでした。社会主義思想といっても、学生団体のものですから、頭でっかちの地に足がついたものとはいえないものでした。しかし、それだけに、かえって強烈な影響をうけました。
マルクスやレーニンのことは、歴史上の人物として知っていましたが、その理論や思想に接するのは初めてでした。最初は、学生運動家諸兄の理論や行動や心理は理解できませんでしたが、しだいにわかるようになってきました。私は、マルクスやレーニンの本をむさぼるように読みました。日本における社会主義革命の可能性は、現実問題として考えられないことは、直感的に感じましたが、社会主義理論の体系と現実への厳しい大胆な批判については、おおいに興味を感じました。
ソ連、中国という世界の2つの大国を動かしている社会主義理論や思想に対し、一部の学生のように、あんなものはくだらん、さわらんほうがよいということで、関わり合わないわけにはゆきませんでした。良い悪いは、喰うか喰われるかのギリギリの思想的対決をした後でなければ決めてはならないと思い、その後、私は、社会主義理論の勉強を一生懸命やりました。
私は、主義や主張については、とことん納得がゆかなければ採用しないし、そのかわり、ひとたびその主義や主張が正しいと確信したならば、どんなことがあっても信念として守る、主義とか主張とはそういうものだという考えがありました。ある日突然、なにかにとりつかれたように、社会主義者になるという一部の学生運動家には、どうしても相容れないものを感ぜずにはいられませんでした。
自分の体験や経験に照らし、得心がゆくまでは常に批判的に見る、私はそういう態度を持って、社会主義理論を学習し、社会主義者と自称する学生と接してきましたので、最終的には、社会主義者とならなかったのだと思います。だからといって、右翼的思想だったわけではありません。若者の1人として、現実の社会の矛盾に対し、憤りや疑問はおおいに持っていました。そのひとつが、教育の機会均等ということでした。
教育の機会均等のための寮運動
学問をすればするほど、私はいままで知らなかった新しい世界を知ることができ、社会や人生をより深く理解することができました。それは生きる喜びを深め、人生にかぎりない興味と意欲をかきたてました。このような実感は、大学に入学し、優秀で気のおけない友を得ることによってますます大きくなりました。
人間の天賦の才能を開化させ、人生に生きがいを与えるもの、それは教育であるという信念を私は持つにいたりました。こんな喜び、こんな生きがいを、私だけのものとしておくことは許されるだろうか、そんな気もしました。私は、確かに努力をしたし、それに運も良かったのです。能力があっても、家庭の事情で進学をあきらめ、いま、それぞれの職場で苦労している友だちをいっぱい知っています。彼らも、その職場でそれぞれの生きがいを、それぞれの社会で見つけているだろうか。もし、私がいま経験している、この大学生活の喜びを体験したならば、やはり私と同じ感激を持つにちがいない
── そう思いました。
私の家は貧しかったけれど、父母や兄姉の温かい理解がありました。また、月8,000円の特別奨学金をもらうこともできました。授業料が安い国立大学に運良く入れ、生活費が安くあがる学生寮に入れたからこそ、こうした大学生活の喜びを知ることができたのです。このうちどれかひとつでも欠けていたら、私は大学生活の喜びを知らない人生を過したにちがいありません。
家庭の貧富、それが教育の機会均等を実質的には妨げ、人間の天賦の才能の開化を阻む、それは残酷な社会的不正義といえます。私は、本能的にそう思いました。
国立大学の授業料などは、たいして高いものではありません。学生生活を送るための生活費(食費、住居費、衣服費、交際費など)が負担できないのです。これは、私立大学も国立大学も変わりありません。教育の機会均等を経済的に保障するためには、この生活費相当分を安くすませることを考えなければなりません。そのためには、学生寮を多くつくり、この学生寮に対し、政府の補助金をいっぱい出してもらうことは現実的な対策のひとつです。私の親しい先輩たちが中心となって結成しつつあった、全国学生寮自治会連合(全寮連)が訴えていた「希望者全員が入れる民主的学生寮をつくれ!」というスローガンは、私の心を強くとらえました。
私のいとこが東大に入り、この運動に参加していた関係もあって、私も自然とまきこまれていきました。全寮連は前からあったのですが、3.4年間、崩壊状態にあったのを、再建しようということで、その事務局が駒場寮にできたのです。私はビラ刷り、封筒のあて名書き、ポスターづくりといった、学生用語でムスケル(筋肉という意味のドイツ語で、肉体労働のことをいう)を一生懸命手伝いました。
私はまだ、学生運動のことはよくわかりませんでしたが、ムスケルが終わったあと(ふつう午前2時か3時となります)、皆で食事にゆき、いろんな話を聞くのが楽しかったのです。全国から集まった、経験を積んだ学生運動家は、能弁で、かつ、有能な人ばかりでした。私は、深く尊敬しました。全寮連の主力活動家は、共産党系の人が多かったのですが、理論闘争ばかりしている学生自治会の活動家にくらべ、理論や発想が地についていました。
このようなところに出入りしていたので、大学入学から2ヶ月後、私は駒場寮の副委員長に選ばれました。駒場寮の寮生数は全国1ですから、全寮連の会合にでても、発言力は非常に大きいのです。私は対外活動を担当する副委員長でしたので、いろんな集会や会議に出席させられ、とにかく発言をしなければならない機会が多かったので、勉強もせざるをえませんでした。
以来6年間、私は都寮連(東京都学生寮自治会連合会)、全寮連書記局、東大豊島寮委員長などを歴任し、寮生活の向上、発展のために、いささかなりとも寄与することができたと思っています。
自分を犠牲にすることへのとまどい
あまり学生運動をはげしくやると、就職や将来に傷がつくといわれていました。そのため、学生運動には興味や関心はあっても、躊躇するという傾向がありました。大学卒業後、大蔵省に入り、いつか政界へ打ってでるという官僚出身政治家のパターンを知っていた私にとって、自分があまり深く学生運動にのめり込むということは問題だと悩みました。
しかし、いま目の前につきつけられている問題を避けて、いつ来るかわからない将来のために、生活や勉強していてよいのだろうか。そんな生活態度でいては、たとえ“政治家”となっても、また、さらにその先のことを考え、保身を第一とし、結局はたいしたことはなにもできない“政治屋”になるのがオチだろうと考えました。なによりも、目の前の問題
── 教育の機会均等を実現するために寮運動に参加する ──
を避けてはならないと決めました。
将来の学生のため、よりよい教育環境をつくることに努力することに抵抗はありませんでしたが、私も1人の学生でした。自分の学生生活も豊かで実りあるものにしたいという希望はありました。寮運動にのめり込んでしまうと、とても学校の勉強どころではないのです。
いつの時代でもそうですが、自分に直接関係あることには積極的に行動する人は多くいても、そうでないことに積極的に参加してくれる人は少ないものです。活動家の不足は、活動家に必要以上の負担をかけ、それにおそれをなして、また、活動家になり手が少なくなります。こういう悪循環をなくそうと努力をし、多少は改善もできました。私自身に関しては、勉強の時間はなかなか取れるというわけにはゆきませんでした。しかし、寮運動で身につけた考え方、心構え、組織の運営の仕方、……は、現在の政治活動にずいぶんと役立っています。
政治とは、本人の話だけではわからないもので、社会のために汗水を流すという活動を通じて、初めて体得できるものではないかと思います。自分なりに確信をもってやったことですから、私は後悔はしておりません。しかし、個人的には大きな犠牲を払ったことは確かです。
留年そして司法試験
大学4年の半ばになると、学生はそれぞれの将来のことが決まってきます。大学院に進み学究の徒を志すもの、司法試験をめざし法律家の世界で生きようとするもの、上級公務員試験に合格し官僚となろうとするもの、一般の会社に就職しようというもの、それぞれが真剣になります。一般の会社に就職しようという場合は、特別の準備が必要だというようなことはありませんが、それ以外の場合には、3年生のときから、それなりに準備しておかないと、希望を達成することはなかなかむつかしいものです。前述したように、私は政治活動に夢中だったために、将来の具体的な就職について頭の中になにもありませんでした。したがって、司法試験や上級公務員試験受験の準備はしていませんでした。そのため、どこかに就職しなければならないとしたら、一般の会社しかありませんでした。6月ごろから、就職のための会社まわりが始まります。私もいくつかの会社まわりをし、採用が決定されました。しかし、どうもサラリーマンになる気にはなれませんでした。
4年生の夏休みの間、私は将来のことをいろいろと考えましたが、政治の道以外に情熱を持てるものはありませんでした。そこで、留年をすることにしました。人生は、いろんな問題について決断を迫られることの連続です。小さな問題ならば、少々の妥協や誤った選択もそれほど人生に大きな影響をおよぼしません。小さな問題については、その場の雰囲気やなりゆきで即断即決することも可能ですが、良くも悪くも人生に大きな影響をおよぼす問題についてはそうはいきません。
私は、卒業後の進路について、納得がゆくまで徹底的に考え抜きたいと思っていました。よくよく考え抜いたのですが、私には結論が出せませんでした。だから、留年することにしたのです。無選択という選択をしなければならなかったのです。こうした選択も、人生にはときとしてあるのです。無選択という選択
── それは、人が考えるほど楽な選択では決してありません。
私の留年を認めてもらう条件として、司法試験を受けるように兄からいわれました。私も法学部の学生でしたし、なにかしながら、1年の間に将来のことを決めればよいのだからと思い、4年生の10月から、司法試験の勉強を始めました。法律はむつかしいといわれていますが、経済と政治に関する専門書を相当読んでいた私には、法律の本は、それほどむつかしいとは思いませんでした。法律の勉強になじむまで、少々抵抗はありましたが、勉強を始めて、2ヶ月くらいで、法律はなかなかおもしろいものだと思えるようになりました。
憲法、刑法、刑事訴訟法、労働法は、とてもおもしろかったし、興味もありました。私は、世界の憲法の勉強を通じて、自由主義思想の活力と、民主主義思想の具体的実行方法を知りました。刑事、刑事訴訟法の勉強は、人権の尊重のために、どのような方法が必要か、教わることができました。労働法と社会政策の勉強を通じて、労働者の権利の発展の歴史と、これからの資本主義経済のめざす方向を身につけることができました。わずか9ヶ月の勉強期間でしたが、一生懸命やったおかげで、幸運にも司法試験に合格することができました。
学生運動を一生懸命やっていたために、私が4年生の10月まで法律の勉強をしていなかったことは、周知の事実でした。それが、わずか9ヶ月の勉強で司法試験に合格したということは、ちょっとしたニュースとなりました。以後、それまで司法試験はむつかしいということで挑戦すること自体を躊躇していた友人たちの多くが、司法試験を受験するようになりました。まじめな動機と健全な感覚で、学生運動を真剣にやってきたものは、自分の小さな利益のためにガリ勉をしてきた人よりすぐれたものを持っているのです。私と一緒に学生運動をやってきた友人の中から、優れた法律家が多数生まれているのは、当然のことだと思います。
東大闘争で学んだこと
司法試験の勉強がちょうど終わるころから、東大闘争が社会の大きな注目を集めるようになりました。東大闘争は、昭和43年の6月ごろ燃え始めたのですが、そのころからの1年間、収拾するまで、私も大学改革のために積極的に参加しました。
東大闘争は、医学部のちょっとした紛争が機動隊導入などを契機として、全学部に飛火したものです。もともとは、非民主的な大学運営を改善しようという大学改革運動だったのです。しかし、一部の暴力学生などの意図的な煽動で、安田講堂の攻防などという事態を招いてしまったのです。私は、大学改革をまじめに推進するという立場から、過激学生の動きには断固として対決する立場を貫きました。そのため、何度もゲバ棒で殴られたり、石をぶつけられたりしました。私の額の大きな傷は、そのときのものです。
東大闘争は、確かに大きな事件でした。局所的な政治事件としては、戦後の歴史に残るものとなるでしょう。しかし、事件の大きさの割には、それによって得たものは少なかったようです。
私はこの闘争の渦中にいて、多くの人々が群集心理によって、平時では考えられない行動をとることを知りました。開放的、積極的になるために、事態の改善に役立つこともありますが、同時に、冷静を欠く行動、無責任な行動も多くありました。大学入学以来、大学改革運動を一生懸命やってきた私には、それまで私たちの訴えになんらの反応も示さなかった学生が、ある日突然、革命家然として行動するのを見ると、これはあまり信用できないなと思えてなりませんでした。
大山鳴動して鼠一匹という感じがしないでもないですが、とにかく、東大闘争も、昭和44年4月ころにはひとまず収拾しました。卒業がストにより6月に延びたため、司法研修所入所がおくれ、私はさらに1年、大学に留まることになりました。東大闘争の反省と虚脱感もあり、この半年間は、読書三昧の退屈な期間でした。大学に6年もいたために、大学というところはきわめて退屈なところだと思うようになりました。議論ばかりで、実際の社会の生活とは関係のない生活は、つくづくいやになりました。
司法研修所に入所
1970(昭和45)年4月から1972(昭和47)年3月までの2年間、私は司法研修所に入所しました。司法修習生には、1人前の給料が支給されます。裁判官、検察官、弁護士となるためには、原則として司法研修を2年間受けなければならないのです。とくに、法律家になろうという決意があったわけではないのですが、自分が一生打ち込めるだけのこれといった職業も見つからなかったので、とりあえず司法研修所に入所することにしたのです。
長い間、政治活動の場に身をおいてきた私には、法律家の世界は非常に無味乾燥で、活力のない世界に思われてなりませんでした。ただ、法律家の世界ですばらしいことだと思われたことは、お互に冷静かつ真剣な議論をすることです。政治の世界の議論というものは、とくに左翼とよばれる人たちの議論は、政敵を論破するためにだけの議論が、際限もなく延々と続くのです。そういう議論を長く見てきた私には、冷静かつ真剣に、相手の主張にも耳を傾ける法律家の議論は、新鮮なものでした。私はだれの意見もまじめに耳を傾けますが、こうした態度を身につけることができたのは、法律家の世界で修行されたからなのでしょう。
司法修習生は研修所で勉強するだけでなく、裁判所、検察庁、弁護士事務所で、実際の事件を通じて法律の実務を学ぶのです。私は新潟地方裁判所に配属されて、実務修習をしました。新潟における1年半の実務修習は、忘れかけていた地方の良さを思い出させてくれました。また、当時、新潟地方裁判所に係属し、全国の注目を集めていた新潟水俣病公害訴訟に関係したことにより、公害の悲惨さを知り、公害の被害者救済のために、法律家が大きな役割を果していることを身にしみて感じました。
私が司法修習生であったころ、青法協(青年法律家協会)問題がさかんに取り上げられました。宮本判事補の再任拒否、青法協会員の裁判官任官拒否、福島裁判官に対する裁判干渉などがこれです。私が机をならべて勉強した裁判官志望の柳沢尚武君も任官を拒否されました。青法協という若い進歩的な法律家団体に対し、なぜ、こうも目くじらをたてる必要があるのか、私には理解に苦しむものがありました。
古い保守主義者は、左翼思想や左翼団体というものに、神経過敏症的なところがあると思います。思想の自由、結社の自由は、憲法が保障するもっともたいせつな基本的人権のひとつです。この憲法の大原則を損なうようなことは、どのような理由があっても許されません。左翼思想や左翼団体によって、社会の秩序や自由社会がおびやかされることを防ぐのは、健全な自由主義、民主主義の基盤を確立する以外に道はないのです。青年が自由にその活動をすることを阻害しておきながら、また、不公正を是正する努力をしないでおいて、左翼思想や左翼団体に対してだけ神経過敏になるのは、自由主義や民主主義に対して信頼がないからです。
私たち若い保守主義者が、健全な自由主義、民主主義を実践し、公正な社会を築くならば、圧倒的多数の日本国民は迷うことなく、自由社会を選択すると確信しています。ですから、左翼思想や左翼団体に対し、必要以上に神経過敏になる必要はないと考えています。こういうところに、新しい保守政治と古い保守政治の感覚のずれがあるのです。
弁護士になったけれど
1972(昭和47)年4月、司法研修所を修了しました。まだ、私は法律家として一生をすごすという決心がつかなかったので、裁判官、検察官、弁護士のいずれの道も選ばずに、しばらく故郷に帰ることにしました。兄の会社の仕事を手伝いながら、自分の郷土の現状をこの目で見てまわりました。
山間部の村の知り合いのところに泊まり、いろりを囲みながら、いろんな話を聞かせてもらいました。過疎のせつなさ、苦しさ、寂しさを、私は肌で感じました。また、かつては活力にみなぎっていたわが郷土のコミュニティは、経済的にも精神的にも、徐々に活力を失っている気がしてなりませんでした。大企業優先の産業構造は、経済力も人材も都市に集中させてしまったのです。そのツケが、地方に回されてきていることを肌で感じました。ちょうどこのころ発表された、田中角栄氏の『日本列島改造論』を読み、この人は日本の現実をよく知っている政治家だと思い、以後、私淑するようになりました。過疎の村の実態を肌で感じとっていないものに、あの発想は生まれません。私は、郷土再生の道をもっと勉強し、いずれは政治の道で郷土のために尽力したいと思ったのです。
このころ、私は交通事故にあいました。1972(昭和47)年8月15日のことです。猛スピードではしってきた後の車に追突されたのです。かなり重いムチ打ち症になり、以後4年間、後遺症に苦しめられました。ムチ打ち症のため、肉体的にも精神的にも軽度な労働以外につけませんでした。
まもなく、東京銀座の若林法律事務所に勤めることになりました。のんびりとした、あまり忙しくない事務所だったので、法律事務を学びながら、いろんなことができました。しかし、個別の紛争の処理だけを中心とする弁護士という仕事に、一生を捧げる気にはなれませんでした。そして、より社会的な問題に取り組みたく、転身をあれこれと考えて悩みました。結局、2年たらずで若林法律事務所を辞め、独立しました。1974(昭和49)年12月31日のことです。
「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、……」私は、論語のこの言葉が好きです。30まではすべて学ぶことが中心でなければなりません。いろいろと試行錯誤をくりかえし、自分の体験や苦しみを通じて、本当のことを身につけ、30になったら、断固としてそれらの学問や体験をもとにして立ち上がるのだ
── 私はこのように解釈し、実行しました。
こうして、改めて自分の30年の軌跡を書き記してみると、わが青春に対し愛惜の念を禁じえません。これといったものはなにもない人生ですが、私にとっては必死で命がけの青春でした。
青春とは、人生の模索をすることではないでしょうか。青春とは自分の一生を貫く人生観や哲学を身につけるときであり、自分の情熱のすべてを捧げられる職業、そして、一生の愛を捧げることのできる伴侶を捜し求め決めるときです。
私の青春は、私の一生の愛を捧げられる人生の伴侶を得ることはできませんでしたが、それ以外の目的はだいたい達成することができました。わが青春に想い残すことはありません。たくましい自由人の1人として、これからの人生を、大衆と結託した政治の復権をめざし、邁進することに捧げたい。わが青春の墓標に、こう刻み残そうと決意しています。
─
了 ─ |