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自民党を倒せば日本は良くなる─第5章「人間から出発する政治─私が歩んできた道」もご覧ください。
白川勝彦の「自分史」 |
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─短期集中連載─ |
最近、相前後して数人の方から、「白川さんの人物像を知りたいのだが、なにかいいものがありますか」というメールをいただきました。自由民主党のなかにいながら、自自公連立―自公保連立を批判するというちょっと変わったことをやっているものですから、その背景をもう少し知りたいということなのかもしれません。このサイトにも私の略歴・プロフィールはあることはありますが、とても人物像を知る手がかりになるものではありません。また、第三者が人物像を書いてくれるほど私は大物でもありません。さりとて、いま自分史を書く気持にもなれませんし、その時間もありません。こういうものは、やはりその時期というものがあります。 ただ、私が昭和53年にはじめて出版した『地方復権の政治思想』という著書の中には、自分史というものを入れておきました。これは、私というものを新潟6区(当時は新潟4区でした)の人々に知っていただくという実践的な必要があったからです。友人の勧めでこれを入れることにしたのですが、自分史という言葉は当時まだあまり聞きませんでした。いまは、自分史ブームだそうですが。当時は本を出すということ自体が大変なことでした。私の初めての著書も、清水の舞台から飛び降りる気持でで1万部刷りました。そして、本が完売したたときはホッとしました。もちろん、一般の書店売りなどはほんの数えるほどで、まだ小さい後援会を通じての販売でした。こんなことですから、この本は絶版になっておりますし、現物も私の事務所にもありません。 これは、33歳の私がそれまでの自分の歩んだ道を書いたものです。同じことでも、いま書けば違ったことや違ったいい方で書くでしょう。しかし、事実に変わりがあるわけではありません。自由主義政治家は、ドグマがあって行動している訳でもありませんし、自由主義政治とはそういうものでもありません。いうならば、自分という人間のすべてをかけて発言し行動しているといえます。そして、その発言や行動や経験が次の行動の原点になります。 ですから、自由主義政治家を理解するためにはその政治家がどういう人生を歩んできたのかということはたいへん必要なことなのかもしれません。そう考えて、少し恥ずかしいことやら書き加えたいこともありますが、あえて原文のまま掲載することにしました。私の事務所の女性スタッフが仕事の合間をみて打ったものを載せるものですから、著書では50ページ強ですが、数回になってしまうことはお許しください。 2000 (平成12) 年10月26日 |
自分史─その1 | |
プロローグ 機屋の9人兄弟の末っ子 成績はトップだったが… 自由放任の家風 愛情あればこその体罰 甥の死 強者と弱者の連帯感 松川事件との出合い 化学者を夢みた中学生のころ 家業が倒産する 家庭を支えた古風な母 ラジオ講座と高校進学 集団就職の仲間たち 人生を悩み考えるも楽し 潜水で50メートル泳ぐ |
自分史─その2 | |
高校時代のアメリカ旅行 受験勉強のタイム・スケジュール 守り地蔵に祈願してくれた母 受験勉強にも学問の魅力 人生論と恋 寮生活で社会主義思想に出合う 教育の機会均等のための寮運動 自分を犠牲にすることへのとまどい 留年そして司法試験 東大闘争で学んだこと 司法研修所に入所 弁護士になったけれど |
社会主義者や共産主義者には、理論家(理屈屋?)や信念居士が多いようです。社会党はだいぶあやふやな面がありますが、共産党になると理論学習や、共産党員としての倫理などをたいせつにしています。同じ理論書や教本を読むものですから、発言内容は同じだし、行動も似てきます。社会主義や共産主義者は、教典ともいうべき権威ある何冊かの本を読むことによって、おのれを律する理論や倫理を身につけることができます。そうして身につけた理論や倫理は、一般社会では通用しなくとも、その所属する党内や団体内では、権威をもって通用します。 しかし、自由主義者にはそういうことがありません。少なくとも現在の日本では、一つの教典に従えばこと足れりということはありません。自由主義者として、どうしても読まなければならない本はたくさんありますが、これだけ読んでおけば、だいたい大丈夫だなどというものはありません。自由主義者は、つきつけられた問題に対し、経験と信念に従って、おのれの良心に従って、対処してゆかなければならないのです。自由主義者は、全人格的判断を常に余儀なくされているのです。 これは厳しい生き方です。社会主義者や共産主義者のように、ある日突然、社会主義者や共産主義者になったり、ある日突然、それを止めたりすることはできないものです。 私はまだ、自伝を書くほどのものではありません。私は自由主義者です。私の政治に対する考え方や生き方は、33年という短い半生ではあるけれども、私にとってはかけがえのない私の人生の中で培われたのもです。 自慢めいた話として受けとられるおそれもあり、いわなくともよい自分の恥をさらすことになるかもしれません。しかし、あえて私は、私の思想と行動をより深く、より正しく理解していただくために、今日までの行きざまを記したいと思います。 1945(昭和20)年6月22二日、私は新潟県十日町市大字四日町に生まれました。もっとも当時は、まだ町村合併の前で、中魚沼郡中條村でした。9人兄弟の末っ子で、上の4人の姉とは腹ちがいでした。父理三朗は45歳、母サダは40歳のときの子でした。敗北の色濃かった戦況を転化せんということで、勝彦と名前をつけたということです。 私の兄弟姉妹は全部で9人ですが、男は兄の秀夫と私だけで、あとは全部女でした。そのため、大事に育てられたようです。 私の家は、機屋(はたや)とよばれる絹織物業者でした。祖父が創業し、父で二代目です。もっとも、祖父は糸の商いが主で、機屋としては父の創業といってもよいでしょう。織機が全部で13台、従業員2〜30人の、当時の十日町では中程度の機屋でした。 私が2歳のとき、父は天然痘で倒れ、高熱に冒されたため脳をやられ、死ぬまで機屋の主人として現役には復帰できませんでした。中小企業は、当主がおかしくなればおかしくなってくるものです。 父が病に倒れたとき、兄はまだ家業を継げる年齢ではなかったため、うまくはいかなかったようです。私が物心ついた1950〜51(昭和25〜6)年ころは、すでに家業は苦しかったようです。昭和33年についに倒産しましたが、それまでの間、家業が順調だったことはなかったようです。家業が苦しいということは、子どもながらによく理解できました。私の家は婿が中心でしたから、多少の遠慮もありました。父や母にあまえたりダダをこねたりしたことはあまりありません。 私が物心ついたころの家族は、一番上の姉がすでに嫁いでいましたから父母、七人の兄妹と婿の10人家族でした。このほかに、住込みの従業員が10人くらいいましたので、一つ屋根の下に、20人くらいが住んでいました。こういう環境で私は育ったのです。 貧しくとも人数が多い家庭は、活気だけはあるものです。従業員も家族も、同じように起き、同じ時間に食事をし、同じように団らんしました。住込みの従業員も、私にとっては家族と同じでした。従業員の方も、私を弟のようにかわいがってくれました。 私の生家は、祖父の代まで(明治の終りころ)、十日町地方で長く続いた神宮の家でした。江戸時代、神宮は、名字が許され、藤原の姓を名乗っていましたが、明治になったとき、白川と改めたそうです。いまでも、お札(ふだ)を刷る道具も残っていますし、神棚にはいろいろな神様がいっぱい祀ってあります。 そのせいか、家風は厳格でした。朝は六時といえば、たとえ子どもであっても起こされ、家中を全員で掃除し、それから朝食をとるのです。私も、5〜6歳のときから、毎朝、玄関の掃除をやらされました。それをしなければ、朝食は食べさせてもらえませんでした。もともと貧しい時代でしたが、従業員も家族も同じものを食べました。家族だけ特別においしいものを食べるということは、絶対にしませんでした。 貧しかったけれども、気位は高く、精神的なものはたいせつにしていました。神仏をたいせつにすることは徹底していて、子どもだった私も、毎朝かならず、神様と仏様には手を合わさせられました。そして、白川の家はちゃんとした家柄なのだから、他人様に笑われるような真似はしてはならないんだ、とよくいわれたものです。 私の母は農家で育ったものですから、言動に粗野で卑しいものがつい出てくることがありました。そうすると、婿をもらった2番目の姉ハルなどは、「困ったお母さんだ」と眉をひそめたものです。しかし、決して愛情のない家庭ではありませんでした。しつけについても厳しい家でした。たとえ子どもであっても、容赦はされませんでした。 ごはんの食べ方なども、厳格でした。ちゃんと正座して食べなければならず、ごはんを残したり、へんな音をさせて食べるとしかられました。食べ終わったものは、自分の食器を流し台まで持ってゆくことが義務でした。小さいときからそうしつけられたものですから、別に、厳しいとか辛いとかいう気持ちはしませんでした。 小学校、中学校、高校とも、学校の成績はよいものでした。小学校一年のときと高校三年のときは、クラスで一番になれませんでした。多分、残りの学年はクラスで一番であったと思います。「多分」というのは、私の小学二年のときから、優等賞というものが廃止されたために、クラスで何番であるかということは、明らかにされなくなったからです。 高校のときは、試験の成績がクラスで何番であるかということが成績表に書いてありました。高校一年と二年はトップでしたが、三年生のときはたしか三番目だったと思います。私は理科系進学コースのクラスにいましたが、物理と数Vは私の受験科目に関係なかったのであまり勉強をやらなかったため、クラスで一番にはなれませんでした。もちろん上位を奪われたのは、理科系進学の人によってです。 小学校一年生のときは、優等賞はあったのですがもらえませんでした。当時の小学校のことですから、試験などというものはあまりなかったと思います。私は、暴れん坊で、授業態度が悪かったので、きっと優等賞はもらえなかったのだと思います。優等賞をもらってこなかったので、姉たちに馬鹿にされたことを憶えています。 兄や姉たちも、クラスで一番であったかどうかは知りませんが、みな成績はよかったようですから、たとえ、優秀な成績をもらってきても、特別にほめられるということはなく、へんな成績をとると馬鹿にされるだけでした。父も母も、勉強しろなどとは絶対にいいませんでしたが、勉強することがたいせつであることは知っていました。私の家は織屋と同時に、三反五畝の田と五畝の畑を耕作していました。この農作業を手伝うのは、子どもたちの義務でした。兄や姉の学校の試験の時期は、その義務を免除してやっていました。 上から4番目までの姉たちは、女学校に進学させてもらいませんでした。多分、当時は、そういう時代だったのでしょう。しかし、5番目の姉から下は、家は苦しかったのですが、高校は出させてもらいました。当時としては、高校に進学する人のほうが少なく、私の家のような経済状態でしたら、ふつうは進学させてもらえなかったのです。私の家には、多少苦しくとも、本人が進学したいといえば進学をさせる、そういう家風があったようです。兄と何人かの姉は、大学にもゆきたかったようでしたが、それは家が苦しかったので断念させられたようです。ですから、9人兄姉のうち、大学にいったのは私だけです。私のひとつ上の姉は、通信教育で大学卒業の資格をとりました。 私の兄姉は、みな知的好奇心は強かったようです。2番目の姉ハルは、家業の機仕事がうまく、その教え方が上手で、従業員から尊敬されていました。3番目の姉キミは、文学少女で、短歌などがすきでした。4番目の姉サダは、母親が早く亡くなったので里子に出され、気持ちのやさしいひとでした。5番目の姉カズは、おませで明るい子でした。6番目は、兄秀夫で、弁護士になりたいというので、だいぶ大学に行く行かないでもめていました。英語が得意の兄でした。7番目の姉タカは、書がうまく、また、文学、詩歌がすきでした。8番目の姉マサイは、気持ちがやさしく、小さいときから学校の先生になりたいという夢をもった頭のよい姉でした。私は、この姉からずいぶん勉強を教えてもらいました。 私の兄姉のうち、誰かわからないことがあれば、兄姉同士質問しあい、知っているものが教えてやるということをよくしていました。もっとも、私は、兄や姉たちとはだいぶ年が離れていましたので、議論には加われませんでしたが、一日も早く仲間入りしたいと思えるような雰囲気のある家庭でした。 あの当時は、どこの家庭もそうだっかのかも知れませんが、親たちは子どものことをかまいませんでした。今日見られるような、教育加熱の時代からは想像もつきません。父兄参観日があるからといっても、私の両親などは一度も顔を出しませんでした。遊びにしろ、勉強にしろ、親が干渉することは少しもありませんでした。 工場も住まいも一緒の家ですから、大人たちの世界には、小さい時から興味を持ちました。撚系、精練、染色、製型、絣くびり、ざぐり、糸巻、機巻、管まき、織布、いろんな工程を経て、はじめて反物ができます。私にとっては、その一つひとつの工程がとてもおもしろく不思議でした。なぜ、こんなことをするのか、私はよく聞いたものです。工場で働くみんなは、よく説明してくれました。 昼休みや仕事が終わってから、工場の真ん中にある石炭のストーブを囲んで、従業員や兄姉たちがいろんな話をしていました。私もその輪の中に入って、わからないながらも、じっと耳をかたむけました。仕事の邪魔をすれば、もちろんしかられましたが、仕事の邪魔にならない限り、仕事を見たり、仕事場にいることをとやかくはいいませんでした。仕事の手がはなれたときには、いろんなことを聞いたり、いろんな話をしてもらうのです。大人たちの仕事の世界に密着して生活した子ども時代の体験は、じつに貴重なものだと思います。 私の姉たちは、学校を卒業すると、お嫁にゆくまでの間、家業の手伝いをしました。子どもながらに、自分も大きくなったら家業を継ぐものと思っていました。家が倒産せず、機屋をずっとやっていれば、いまごろ私は、十日町で機屋仕事をやっていたにちがいないと思います。 小学校のころ、私はよく先生になぐられたり、廊下に立たされたりしました。どうして立たされたり、なぐられたりしたのか、どうしても思い出せません。しかし、先生に対して怨みが残っていないということは、自分でもなにか悪いことをしたから、そうさせられたのだと思います。いわゆるピンタはもうありませんでしたが、先生がこぶしを固く握って、脳天のところでグリグリとやるのです。たいへん痛いものでした。 また、いまでも記憶に残っているのは、教材に使う5キロもあるゴム粘土を、頭の上にのせられて、一時間立たされたことです。首が痛くなって、これはこたえました。体罰がいいとか悪いとかいうつもりはありません。しかし、体罰を受けたからといって、それだけの理由があってするのなら、子どもは別にひねくれたり、先生を怨んだりしないということです。子どもには口でいってもわからないときがあるものです。そんなときは、体で教えるのです。 授業中は怖い先生であっても、放課後ともなれば、野球やドッヂボールをしていっしょに遊んでくれました。 小学校2年、3年と担任だった佐野金三先生、小学校4年のとき担任だった土佐弘先生は、いまでも強い印象となって記憶に残っています。2人とも独身で、宿直のときにはよく遊びにいったものです。おやつを買って待っていてくれ、暗室で写真の現像などするのを見せてくれたり、学校にある天体望遠鏡で、月を見せてくれたりしました。教科書では月の表面にデコボコがあることは知っていましたが、実際に天体望遠鏡を使って、自分の目でそれを確認する感激はすばらしいものでした。 先生に対する尊敬や親愛の念は、こんなことを通じてはじめて生まれるのだと思います。佐野先生にしろ土佐先生にしろ、「自分は愛情を持って子どもたちに接しているのだ。だから禁止されている体罰の方がききめのあるときは、それを使ったとしても、子どもたちだって、きっとそれをわかってくれるだろう」という自信があったのではないでしょうか。佐野先生は、いわゆる代用教員で、土佐先生は新潟大学を卒業したばかりの新任教員でした。小手先の教育技術ではなく、体ごと心でぶつかる教育でした。サラリーマン化した現在の先生には、そういうことは期待できないのでしょうか? 2番目の姉の次男に、恒夫という子どもがいました。いっしょに住んでいたので、その子守りをよくさせられました。私が小学校4年生のときのことです。夏の大掃除の日、私は恒夫の子守りをいいつけられました。そして、私がちょっと目を離したすきに、恒夫が汚いバケツの水を飲んだような気がしてならないのです。そんなことがあった日から、恒夫は疫痢になり、やがて死亡しました。 私は、自分の不注意で恒夫を殺したのだという気がしてならず、恒夫のことを思い出すたび、罪悪の念にかられて仕方ありません。 恒夫の死に対する罪の意識。これは私の少年期、青年期を通じて、ひとつの暗い影を落としました。いつも、その罪の意識に悩まされているわけではありませんが、突然、そのような意識が生じ、私を悩ませました。恒夫の死は、私にとって、はじめての身近なものの死でした。高校時代から、私は宗教や哲学に興味をもちましたが、ひとつの大きな理由は、私にはこのような罪の意識があったからです。 私の義務教育の期間は1952(昭和27)年から1961(昭和36)年までの9年間でした。教育の基本理念は、民主主義ということで、非常に徹底していました。 体が大きいとか、勉強ができるとか、スポーツがうまいとか、ただそういうことだけでは、決してクラスの中で尊敬されませんでしたし、先生も高い評価はしませんでした。そういう子どもを少々押さえつけてでも、勉強の遅れた子や体力の弱い子を伸ばそうという教育でした。私にとって、授業は退屈で、つまらないものでした。しかし、そうだからといって、よそ見をしたりすればしかられます。 現在、学校の授業から落ちこぼれる子が多いことが問題となっていますが、少なくとも私たちの時代は、そういうことはなかったと思います。たとえあったとしても、その率は非常に少なかったと思います。 どちらがよいか。非常にむつかしい問題です。ただ、私たちの時代の教育のよさは、勉強ができるからといって、スポーツがうまいからといって、得意になったり、いばったり、増長したりしてはならないことをよく教えこまれたと思います。人間は、能力にはいろんな違いはあるけれど、みな平等なんだという気持ちをたたきこまれたと思います。 勉強のできない子、体力の弱い子を、みんなで引っ張りあげて行くことがたいせつで、先に行きたくても待っていなければいけない ── こう教えこまれたと思います。だめなやつは放っておけばよいのだということで、どんどん先に行ってしまうことは許されませんでした。それだけに、できる子はできない子ができるようになるために努力するし、そのかわりできない子にはできるようになるために努力することを要求しました。 私は政治活動をはじめてから、それと同じような気持ちをときどき持ちます。いや商売の都合があってとか、やれ私はむつかしいことはわからないのでとか、やれ、将来困るとかいう弱音に接します。私だって政治活動をするについては、いろんなことを犠牲にしてやっているんです。みんなが自分の都合ばかりいっていて、政治をよくするためにやらなければならないことをやらなかったら、一体、日本はどうなるんだ。俺だってぎりぎりのところでがんばっているんだから、あなただって、少しは社会や日本のためにがんばってもらいたい。学生時代や社会にでてからのいろいろな活動の中で、そして現在の政治活動の中で、そう思うことはよくありました。 私は弱者だけが保護され、そのために強者が犠牲になる社会は嫌です。さりとて、強者が能力や力にまかせて、弱者を押さえつけるという社会も嫌です。強者は弱者の立場を理解し、応援もするが、弱者も泣言をいうのではなく、強くなる努力をする ── そういう連帯感のある社会でなくてはならないと思います。そういう努力をお互いにすることが、まず基本であって、なおかつ生じる矛盾や問題は、さらに理解を深めることによって解消していく。それが自由主義社会です。 少々行き過ぎのきらいはあったかも知れませんが、戦後の民主教育の基本は誤っていなかったと思います。 私がまだ、小学校のころです。十日町の祭りに行ったとき、「無実の人が死刑にされようとしています」と叫んで、署名を呼びかけている人たちがいました。私は、子どもながらにそれはたいへんなことだと思いました。わずかの小遣いの中からパンフレットを買い求め、帰ってきて一生懸命読みました。それは、松川事件の被告たちは絶対無罪であるというパンフレットだったのです。これを読んだ私は、日本はおそろしい国なんだと思いました。それが、松川事件との私の出合いでした。 新聞やラジオに松川事件のことがでてくると、私は一生懸命見たり聞いたりしました。そして、松川事件が被告全員無罪の判決で結着がついたとき、涙がでるほどうれしかったことを思い出します。首切りということを知ったときもこわいことだと思いました。首切りとは、本当に人の首をきることだと思ったのです。しかし、生身の人間の首を切るのではないということを知ってほっとしました。 一つ上の姉が、「勝ちゃん、まだ、戦争は終わっていないんだよ。中国やソ連とは仲直りしていないんだから、いつ戦争が始まるかも知れないんだよ」というんです。多分、ソ連や中国と平和条約を締結していないことを、姉がどこからか聞き込んできて、面白半分にそういったのだと思います。日本はもう絶対に戦争はしないんだ、平和な国なんだということを信じていましたから、びっくるするやら、たいへん恐いことだと心から思い込み、泣き出したことを憶えています。 小さいときから、日本はもう絶対に戦争はしないんだ、日本は平和国家なんだ、公正な裁判が行われる国なんだ ── と子ども心にたたき込んでおくことは、たいせつなことだと思います。民主主義思想、平和主義の思想、自由主義の思想は、理論ではないのです。それは人間の本能的な次元にまで植えつけることによって、はじめてその目的を達成することができるのです。私は、小さいときから、正しい政治教育をしなければならないと思います。そして、それは憲法に基づいて行われなければなりません。 偏向教育が問題になっています。まさか社会主義社会万才と教える先生はいないと思いますが、私の知るところでは、現代の社会や憲法の原則を懐疑的に教えるということはあるようです。ある程度、批判能力が出てくる高校生くらいになれば、現代の問題点を指摘することもよいでしょうが、小学校や中学校までは、断定的に憲法の理念を教えるべきだと思います。そうでないと、真に自由主義的、民主主義的な心は育ちません。 私の卒業した四日町小学校は36人の少ないクラスでしたが、中條中学校に進むと2クラスになりました。中條小学校を卒業してきた生徒といっしょになったのです。違う学校の生徒といっしょになるということは、ずいぶんと緊張するものでした。 中学に入り、どのクラブに入ろうかと、2〜3ヵ月考えた後、私は野球部に入りました。運動クラブにはいると勉強ができなくなると思って、少し躊躇したのですが、大丈夫とわかったので、入部することにしたのです。私の小学校時代のごく親しい友だちもいっぱい入りましたので、野球部を選びました。 練習は3年間一生懸命やったのですが、運動神経がなかったのか、ついに1度も選手として出場することはできませんでした。でも、野球はすきでした。私はスコアラーに命ぜられ、一生懸命スコアの書き方を研究しました。野球部の監督柳一郎先生は、私のスコアブックをたいへんほめてくれました。 吉沢和子先生(国語、数学も教えてもらいましたが、数学はあまり得意ではなかったようです)、生越智好先生(国語と社会)、林先生(数学)、桜沢先生(音楽)、三上先生(美術)、……みな一流の先生でした。受験の心配など少しもないのですから、先生が得意としているところは、高校程度の高い内容のものを教えてくれました。 中学校の学科ともなると、相当むつかしいところまで知らないと理解できないことが多いのです。先生が本当によく理解していないと、わかりやすく教えることができないのです。一流の先生でないと、生徒がほんとうに理解できるような教え方ができないのです。受験というようなことをあまり考える必要もなかったので、先生がたは自分の得意のところになると、かなり時間をオーバーしてよく教えることができたのだと思います。 私は野球部とともに、科学部にも入っていました。5人くらいの部員がいましたが、熱心な部員はいなく、たよりになりませんでした。科学が好きで、熱心だったのは栗林辰男君です。彼は野球部にも入っており、野球部の方では2年のときから正選手として出場していました。 当時の理科実験室には、器具も薬品も少なく、理科の授業でもあまり実験はやりませんでした。しかし、科学部に入ると、かなりいろんな実験をやらせてもらいました。私は化学がすきで、栗林君といっしょに、学校の授業ではやらない実験をずいぶんとしました。教科書や本に書いてある通りにやるのですから、その通りの結果が出て当然なのですが、やはり、本物の二酸化炭素や酸素や水素を作り、においをかんだり、燃やしたりすることは感激でした。私は、何事につけても、自分でやってみなければわからないという信念を、かなりかたくなに持っています。人生についてもそうです。そういう実証主義的な側面は、科学部の実験で身につけたのだと思います。 私は、図書館にある化学に関する本はほとんど読破しました。化学の法則を知っていると、いままで不思議であったことが全部説明できるのです。そこが楽しいのです。また伝記にでてくる化学者の一生は、ロマンにみちた魅力あるものでした。私は化学者になろうと思いました。科学に関しては、中学のうちに、少なくとも高校の化学程度までのことは知っていました。一つ上の姉が、当時高校に在学していたのですが、化学については彼女と対等に議論することができました。 学問することの楽しさは、未知の世界を知り、この世の出来事を解釈できることだと思います。だから、どんな分野でもよいから、その喜びを体験することだと思います。私の場合、化学を通じて学問することの喜びを知ったのです。 1958(昭和33)年、私の家は倒産しました。私が中学1年のときです。再建できない状態ではなかったのでしょうが、だめでした。父は自分の家業を兄に継がせたかったようですが、兄は大学進学の夢が捨て切れず、家業に身が入らない状態にいました。それまで経営にあたってきた義兄(姉の婿)は、自分が名実ともに実権がないのならば、もう頑張る気はないというのです。 倒産をめぐって、なんどもなんども、家族会議や親族会議がもたれました。義兄と兄のどちらも、自分が中心になってもう一度頑張ってみようという気にはならなかったので、ついに織機業は倒産 ── 廃業にいたりました。子どもながらにたいへん心配しました。もっと自分が大きければ、自分が再建してみせるのにと、幼いことが残念でたまりませんでした。 もともと以前から家計は苦しかったので、倒産したからといって、生活そのものはそれほど変わらなかったように思います。悲しかったのは、姉夫婦と甥姪が家を出ていったことと、従業員がいなくなったことでした。それまで、住込みの従業員を入れると、20人以上いた家族が、急に父と母、それに5人の兄弟姉妹の七人家族になってしまったことでした。7人家族といえば、決して少ない家族ではありませんが、それまで多かったので、そう感じられたのです。 家族は7人いても、父はちょっと正常ではなかったし、兄は倒産がもとでグレていて職業にはついていなかったし、私と1つ上の姉マサイはまだ学校でした。そのため、働くことのできるのは2人の姉だけでした。この2人の姉たちが家で出機を織ってお金を稼ぎ、一家の生計を支えていました。 家、屋敷、そして四反の田畑も抵当に入っていました。しかし、債権者の好意で使わせてもらうことができました。一人だけ強硬な債権者がいて、裁判沙汰や強制執行を受けました。 ある冬の日のことです。学校から帰ると、家中のもの全部に赤紙がはってあるのです。お金が払えないと戸や畳まで持っていかれるというのです。私ながらにたいへんなことだと思い、また、悲しくなりました。そのとき、母が、 「勝ちゃん。戸なんか持ってゆかれても、カヤを張れば少しも寒くないから、心配しなくてもいいんだよ」 といって安心させてくれたことを憶えています。カヤを張って寒さをしのぐ、母のたくましさにつくづく頭が下がりました。 一家離散という最悪の事態も、一時は考えたこともありましたが、債権者の好意と叔父の援助で、なんとか避けることができました。 姉2人の稼ぎしかないのに、その中から借金の返済までもしなければならなかったのですから、生活はほんとうに苦しいものでした。高校1年生だった一つ上の姉は、高校をやめなければならないという状態だったのです。しかし、父や姉が、高校だけはなんとしても出してやると頑張ったので、やめずにすみました。 そのかわり、高校生の姉も中学生の私も、家の仕事は一生懸命手伝いました。機織りの手伝いであるくだまき、できた反物の配達、横糸の運搬などの仕事をやりましたし、母と姉と私の3人で田畑仕事も一生懸命やりました。家の仕事が忙しいときはクラブ活動も休むようになりました。 父が満足な仕事ができなかったのは病気のせいでしたから、私たち家族はあきらめていました。少しグレて仕事をしない兄については、不平、不満がありました。しかし、母は、いつまでも兄がそうはしていないだろうと、あまり気にしないようにたしなめました。兄としても悩んでいたのでしょう。結局、倒産後4年間、兄は仕事をする気が起きませんでした。 父も兄も仕事はあまりしませんでしたが、根が楽天的だったのかあまり悪びれた風もなく、明るい性格でした。母や姉たちもあきらめていたというのか、仕事をしないことそれ自体をあまり口にしませんでした。明日の生活に困っているのに、政治の話や文学の話は、父や兄のおかげで絶えることはありませんでした。そういう家庭の雰囲気は、私にとってせめてもの救いでした。私は貧乏ではありましたが、精神的に卑屈になることはありませんでした。政治や社会や人間の生き方などを、いろりにあたりながら夜遅くまで話してくれたのは、父や兄でした。それだけに、母の苦労はたいへんだったと思います。もともとたくましい、腹のすわった母でした。彼女は、不平、不満をめったに口にしませんでした。与えられた環境、条件の中を黙々と生きるタイプの女性でした。もし、こういう母がいなかったら、私たちの家庭はめちゃめちゃになっていたと思います。貧しいながらも楽しいわが家を支えてくれたのは、この母だからこそありえたのだと思います。 その後、兄も働くようになり、借金も完済し、私も成人しました。私が、「旅行に連れてゆこうか」、「小遣いをやろうか」といっても、母は、「いまのままでなにもいうことがない。そんな金があったら自分のために使え」というのでした。その母も、1977(昭和52)年10月、持病のぜんそくのため亡くなりました。71歳でした。母だけには健康で長生きをしてもらいたい、と思っただけに残念でした。しかし、ぜんそくの持病があったので、本人は、余命がそう長くないことを覚悟していたようです。65歳くらいから、いつも、あと3年もいきられればいいんだがなどと弱気のことをいって、私たちを悲しませていました。 中学に入ると、英語という新しい科目がふえました。小学校にはない科目であったので、中学入学のときには、一番緊張を覚えた教科でした。だれにいわれたのかよく思い出せないのですが、とにかく私は、中学1年生の1年間、毎朝NHKの「基礎英語」という放送を一日も欠かさず聴きました。朝6時からわずか15分間の英語教育番組でしたが、これはその後の英語の勉強をしていく上での基礎を、しっかりと身につけてくれました。 私は「基礎英語講座」をまる1年間、一生懸命聴いたおかげで、以来、英語はもっとも好きで得意な科目となりました。 私は、勉強がおもしろかった。私の兄姉も高校に進学していたので、私も高校には進学したいと思っていました。しかし、家計の状態を考えると、高校進学はちょっと無理のような気がしていました。 ちょうどそのころ、特別奨学金制度ができたのでした。普通月額1000円のところを特別の試験をパスすると、月額3000円支給してくれるという制度です。当時、自宅から高校に通学するぶんには、月額3000円あれば、授業料、教材費ばかりか小遣いまでもまかなえました。私は先生に申し出て、この試験を受けさせてもらい、受給資格を得ることができました。 当時、中條中学から高校に進学する率は30〜40%くらいでした。高校に進学するのに、特別に裕福である必要はありませんでしたが、ある程度暮らし向きのよい家庭でないと進学するものではないという風潮がありました。本人に進学の意思があり、その能力があっても、家庭の事情で高校進学を断念するということは決してめずらしいことではありませんでした。昭和36年当時、新潟県の農村部における進学の意識は、そんなものだったのです。 私も、自分の家が倒産し、世間や親戚に迷惑をかけたことを知っています。私の家が迷惑をかけた親戚の子弟に、高校進学できなかった人がいっぱいいるのに、私が高校に進学するのには、抵抗がなかったといえば嘘になります。私も悩みました。しかし、私の父が、 「たしかにおら家は貧乏だし、世間に迷惑をかけた。しかし、なにもお前が悪いことをしたんじゃねえし、おらうちはお前の稼ぎをあてにしなければ食ってゆけねえわけじゃない。勝彦、お前高校へ行け」 といって、私を弁護してくれたのでした。出機を織って家計を支えていた3人の姉も私の高校進学には賛成でした。 私の進学した県立十日町高校は、200人くらい応募しても、ちょうど定員と同じくらいなので、不合格になるのは12.3人程度という高校でした。ですから、受験にはなんの心配もありませんでした。そして、高校入試の成績がトップであったということは、いろんな抵抗のあるところ高校進学を許してくれた父や姉の恩義に報いることができたと、たいへんうれしく思いました。 中学校の同級生にも、成績はよいのだけれど、高校に進学できない人がたくさんいました。勉強する気もないし、成績も悪いのに、家が裕福なので進学する人もたくさんいました。私は子どもながらに、家庭の貧富というものが、子どもの一生におおきな影響をもっていることをまざまざと知らされました。社会的平等 ── とくに教育の機会均等ということは、以後、私の本能的信念のひとつとなっています。 中学校を卒業した仲間のうち、3分の1が高校進学、3分の1が地元に就職、残りの3分の1が東京に集団就職しました。集団就職といっても、上京するときに集団して上京するだけであり、東京に着いてからの勤め先は、魚屋であったり、くだものやであったり、町工場といった小企業がほとんどです。 いままでの9年間、あるいは3年間、いっしょに机をならべていた仲間が、遠い東京に行ってしまうのは、たいへん寂しいことでした。集団就職列車が出発する朝、私は見送りにいきました。上京する友だちの両親、兄弟などの顔がいっぱい見えました。上京する友だちの中には、私のほんとうに親しい仲間であった人もたくさんいました。 「いいか、がんばらんだぞ。弱音なんかはいちゃだめだぞ。手紙を出すんだぞ」 と必死にいい聞かせる母親たちに対し、15歳のわが友は、 「大丈夫だて。心配すんな。かあちゃんこそ、しっかりするんだぞ」 と、つくり笑いをしながら、必死に応えていました。上京することの楽しさ、希望もあったでしょう。しかし、15歳のわが友の顔には、元気さとは別に、寂しさと不安があることも隠せなかったのです。 黒い煙を残して、集団就職列車は消えていきました。しかし、集団就職列車の悲喜こもごもとした光景は、いまも私の胸から消えません。 高校入学の試験がトップであったので、なにかと注目されたことは確かです。もとも勉強したくて高校に入ったのですから、入学後も勉強は一応、真面目にやりました。大学進学の希望はありましたが、国立大学でなければ、経済的理由で困難であると思っていました。東大受験ということも、意識はしていました。けれども、田舎の高校をトップで入ったくらいで、うぬぼれるなといわれそうで、だれにもだまっていました。しかも、東大受験の動機は、どうせがんばるのなら、一番難関といわれる大学に入ればそれにこしたことはないだろうという、きわめて単純なものにすぎませんでした。 そのようなつもりで勉強をはじめたら、東大に合格するということはたいへんむつかしいことであるということが、すぐわかりました。田舎の高校で成績が少し良いくらいでは、どうにもなるのもでないこともわかりました。そんなことからでしょうか。私はなんとはなしに、生きる目的、人生とはなにかということを考えるようになりました。高校1年の半ばころからのことです。 人はなんのために生きるのか。お前はなんのために東大受験を考えているのか。一体、お前という男はなにものなのだ ── こんな疑問が次々と生じ、私は人生や人間について考えはじめたのでした。しかし、哲学的思考や人生経験のない16歳の少年が、いくら悩み考えても、ただ苦しくなるだけで、またますます深みにはいりこむだけで、どうにもなりませんでした。 私はカソリックの教会に通うようになり、また、創価学会の人たちの話を興味をもって聞きました。とにかく、生きることの意味や目的を与えてほしかったのです。わからないながらも、西田幾太郎の『善の研究』や倉田百三の『愛と認識の出発』などを一生懸命に読みました。倉田百三の著書は、私に大きな共鳴となぐさめを与えてくれました。 しかし、だれの話を聞いても、また、だれの本を読んでも、白川勝彦という人間の生きることの意味や目的は、全然つかむことはできませんでした。私は、宗教や哲学に興味をもつようになり、大学の専攻もそういうものにしたいと考えるようになりました。哲学科としては、京大哲学科が有名でしたので、私はそこを志望することにしました。 なにごとによらず、時間がすべてを解決してくれるという発想が私にはありました。人生などということを、16〜7の自分がいくら考えてみたところで、数学の問題を解くようには答えはででこないだろう。だから、そういう問題は考えることは考えるが、たったいま結論がでないとしても仕方のないことなんだ。いまやるべきことは、そういう問題を解決できるような力をつけ、そういうことを考えられる場に自分をおくために努力することなんだ
──
そう私は考えました。自殺ということも頭にちらついたこともあります。しかし、そう考えることで、保留の時代に置きかえてしまいました。 友人、女性の友だち、学校の先生、友人の両親に対し、機会があれば、そして、かなり強引に機会をつくり、とにかく議論をしました。私の方で、まくしたてるという傾向が多かったのではないか、迷惑に思った人もかなりいるのではないかと、いま思い出すと恥かしくなります。人は、なにかのために生きなければならないんだ、目的のない人生は死んだ人生である、人が人生にかけるもの、それはなんであろうか ── そんなことを話していたと思います。 私の父や兄も、こういうテーマについて興味をもつタイプで、3人でよく議論したことを覚えています。 私は人と話すだけでなく、自分一人でも、ずいぶんと考えました。勉強が終わり、寝床に入ってから、いろんなことを考え、悩むのです。考えているうちに、寝付けなくなって、夜が明けるまで悩み、考え、また、夢がひろがるということもよくありました。日記も、このころはずいぶんと書きました。いま、読みかえすと、ずいぶん幼稚なことで悩んでいたと思いますが、自我にめざめた少年のぎりぎりの心情はよくわかります。 私は個々の人間の生き方に興味をもつと同時に、諸国民や民族の生き方にも興味をもちました。世界史の勉強は、私に、人間世界の壮大なロマンを抱かせました。とくに、アメリカの独立革命、フランス革命の時代は、興味尽きないものがあり、教科書や参考書だけでなく、図書館から本を借りてきてずいぶんと読みました。自由主義、民主主義の思想は、これらの勉強を通じ、しだいに、私の確信となって育ってきました。 高校時代の私は、勉強をしなければならないと思っていましたので、運動クラブには所属しませんでした。しかし、スポーツは好きだったので、自主的にやっていました。7・8・9月の3ヶ月間は、毎日、プールで800メートルはきちんと泳ぎました。水泳には、自信があります。 高校3年生のときでした。友人たちと一流の水泳選手でも50メートル潜って泳がないのは、息が続かないからかどうかという議論になりました。私は、あれは息が続かないからでなくて、スピードをあげるために潜らずに泳ぐのだと主張したのですが、友だちはなかなか承知しません。自分だって50メートルくらい潜って泳げるんだ、それじゃ、やってみたらどうだという、売り言葉に買い言葉になり、結局、私がやってみせるということになりました。そして、私が潜水のまま50メートル泳げたら、ラーメン2杯をかけるというのです。 それまで、私も50メートルを潜水のまま泳いだことはありません。夏が終わった山のプールは、そのまま清水をひき入れて貯水池として使われているのです。9月の水はとても冷たく、プールの底には泥も沈殿していました。昼休みの時間に抜け出して、挑戦したのです。この勝負は私の勝ちで、ラーメン2杯をいただくことになったのです。ラーメンで思い出しますが、当時はよくラーメン1杯おごるとか、ラーメン1杯かけるということが、ずいぶんと多くやられました。 水泳ができない期間は、マラソンをしました。1日4〜5キロは走りました。ですから、身体はいたって健康そのもので、これは勉強にも役立ちました。 |
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