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 月刊日本   2007年4月号

自公“合体”政権批判(1)

保守の信義にも悖る公明党との連立

元衆議院議員・弁護士  白川  勝彦

名誉ある離党者第一号

平成13年2月4日、私は自民党を離党した。

平成5年7月の総選挙で自民党は過半数を失い、野党となった。それから平成6年6月、自社さ連立政権で自民党が政権に復帰する一年足らずの間に自民党を離党したものは数十名に及ぶ。

自社さ政権の首班候補として村山富市社会党委員長を自民党は党議決定した。議員内閣制をとるわが国では、首班指名選挙において誰に投票するかということは国会議員のもっとも重要な投票行動のひとつである。首班指名選挙において、所属する政党の決定に従わないということは、政党人としての資質を問われる問題である。政党にとって最も重い除名処分にされても仕方がない問題といわれている。これは、郵政民営化法案の比ではないのだ。

自民党の場合、首班指名選挙の一回目の投票で村山富市の氏名を書かなかった者が十数名いた。社会党からも多くの造反者が出た。その結果、一回目の投票で村山氏は過半数をとることができず、決選投票にもち込まれた。もし一回目の投票で村山氏の対抗馬であった海部俊樹氏が過半数をとっていれば、海部氏が首相になっていた。その場合、村山氏に投票しなかった者の大多数は自民党を出ていった筈である。

自民党も社会党も、首班指名選挙で党の決定に従わなかった者を処分しなかった。首班指名選挙で他党と連携していた海部氏本人すら、最初は離党する必要があるのかという雰囲気だった。しかし、それはないだろうということで海部氏は渋々離党した。

自民党にとって政権参加の意義は大きかった。自社さ政権は、最初は村山氏を首相とする以外に成立もしなかったし、運営もできなかった。従って、自民党単独内閣に比較すればいろいろと問題がなかった訳ではなかったが、それでも自民党からの離党はピタリと止まった。政権党に復帰した効果は絶大だった。

以後自民党はずーと政権党である訳だが、平成17年9月の郵政民営化法案をめぐる総選挙で離党する者がでるまで、政治的理由で自民党を離党した者は私以外にひとりもいなかった。私はかなり長い間孤高を守ってきた名誉ある自民党離党者第一号といってもいいのかもしれない。

離党届

私は、一人の自由主義者として昭和52年自由民主党に入党し、今日まで党の発展のために微力を尽くしてまいりましたが、公明党との連立・平成12年総選挙の戦略戦術・加藤騒動に対する対応などに象徴されるわが党の路線・運営は、独立自尊の精神を失い、自由主義を標榜する国民政党たらんとするわが党の本旨に悖(もと)るものであり、これを容認しこれ以上耐えることは、誇りある自由民主党党員としてもはやできません。

よって、私は、離党いたします。

平成13年2月4日

自由民主党新潟県第六選挙区支部長
自由民主党党員 白川 勝彦

自由民主党総裁 森 喜朗 殿

離党届にあるように、私が離党した理由のひとつは自民党と公明党の連立であった。他の理由もあるが、何といってもそのことが最大の理由であった。

私は自民党が公明党と連立を組むことに反対せざるを得ない深い理由があった。ひとつの理由は、公明党との連立は憲法20条が定める政教分離の原則に反するからである。しかし、もうひとつの大きな理由がある。「国民政党たらんとするわが党の本旨に悖(もと)るもの」という理由であった。ここのところはもう少し詳しく述べなければならないであろう。

私は自他ともに認める自由主義者である。だから自由主義を標榜する自民党に入党したのである。私が国政を目指して政治活動を始めたのは、昭和50年であった。その当時の政党の中で自由主義を党の基本理念として標榜していたのは、自民党しかいなかった。公明党ですら、「人間性社会主義」という意味不明な言葉を綱領の中で使っていた。

従って、自民党が真の自由主義政党であるかどうかは別にして、自由主義者である私が所属すべき政党は、自民党しかなかったのである。私も当時すでに30を過ぎていた。だから自民党の現状がどのようなものかはある程度知っていた。自民党の中で、自由原理主義者のような主張や行動をするつもりはなかった。しかし、不完全な自由主義政党である自民党を、真の自由主義政党に改革していくことは私の最初からの問題意識であったし、そのように活動してきたつもりである。

私は加藤紘一氏の引きで宏池会に所属することになった。昭和54年に衆議院議員に初当選したが、宏池会に籍を置いたためであろうか、党内の諸活動において自由主義者として行動するのに大きな障碍を感じたことはない。いろいろな問題がなかった訳ではないが、離党を考えたり迫られるようなことは一度もなかった。

保守は自民党のレゾン・デートル

私が、公明党との連立を「国民政党たらんとするわが党の本旨に悖(もと)るもの」と書いたのは、万感の思いを込めてのことであった。

公明党でさえ「人間性社会主義」と綱領に謳うほど、社会主義は国民の心のある部分を掴んでいたことなのである。そのような風潮の中で、自由主義を標榜するということは、自民党は社会主義を採らないという政治的旗印なのである。社会主義というと革命を国民は想起する。社会主義に対して自民党が自由主義を標榜したことは、政治的に保守であることを闡明(せんめい)することであった。「革新」と呼ばれた社会党・共産党などの野党ブロックに対して、自民党は「保守」をもって対峙した。保守vs革新は、55年体制のもっとも分りやすい政治的な構図であった。

その証拠に、自民党の中で自由主義者であると明確にいう者は多くはなかったが、自分を保守主義者といわなかった政治家に私はお目にかかったことがない。また自民党の支持者もそうだった。国民は自由主義と社会主義の違いで政党を選択するよりも、保守か革新かで政党や政権を選択したのである。

自民党が長い間衆議院で過半数を確保できたのも、保守であることの安心感がそれを可能にしたと私は考えている。自民党は自らを国民政党といってきたが、国民政党たる自民党は間違いなく保守政党であったからこそ多くの国民の支持を得てきたのだ。だから保守であることは、自民党にとってレゾン・デートルなのである。

それでは、保守とは何か、保守政党とはどういう政党のことをいうのかというと、これはまたけっこう難しいのである。ここではその論述は避けることにする。極めて大雑把にいうと、保守とは形而上的な理論や主義で現実問題を律しようとするのではなく、現に存在している現実を大切にしながら問題を漸進的に解決しようという政治的なビヘイビィアだと私は考えている。現実からより良い未来を希求する考え方・ビヘイビィアといってもよい。

保守の矜持とは?

保守は、イコール自由主義ではない。自由主義が起こした革命がフランス革命であり、アメリカ独立革命戦争である。しかし、ロシアなどごく特殊な国を除いて、社会主義・共産主義は保守でない。保守は主義・イズムではないので、理論ばっていない。人間と人間との関係や、地域や歴史や現実と人間の関係を大切にする考えである。

長い間自民党の国会議員として生きてきた私は、間違いなく保守であった。極めて俗っぽいいい方をすると、信義や義理や人情を大切にする生き方を大切にしてきた。わが国の保守は、そういうものを大切にしてきたし、自民党は主義・イズムではなくそのようなものを絆として政治的に結合した集団であった。公明党との連立は、保守政党として最低限守らなければならない信義や人情に悖るもの、と私は考えざるを得なかったのである。

政権にありつくために、また政権を維持するために、自由主義者としての誇りだけでなく保守としての矜持をも捨てた自民党に私は何の未練もなかった。というより、そのような政党に安穏と所属していることに私は政治的罪悪感すら感じずにはいられなかったのである。

マスコミの大半が新進党勝利と予測

思い出してほしい。平成8年10月に行われた総選挙は、自民党と新進党の命を懸けた政治決戦だった。旧社会党の多くは民主党から立候補したので、自民党と新進党の戦いは新進党の中心にどっかりと座っていた創価学会・公明党との戦いとなった。自民党は、政治評論家俵孝太郎氏が書いた「新進党は創価学会党である」という論文やジャーナリストの内藤国男氏の書いたビラを配って対抗した。要するに新進党の創価学会党性を突き、自民党は政教分離の必要性を徹底的に訴えたのである。

自民党を支持する宗教団体は多くあった。自民党は保守政党であるからそれはごく自然なことなのだろう。宗教団体は経済的な団体などと違って予算を伴う政策的要望などをあまりしない。せいぜい宗教団体に対する課税の特別措置を求めるくらいなものである。宗教団体に対する課税の特別措置といっても、それは他の公益的な団体(社団法人や財団法人)と同じように扱うというだけのものなのである。宗教に公益性があるとの考えからである。

しかし、公明党の政権参加となると、宗教者や宗教団体にとって話は別になる。政教分離は、宗教者や宗教団体にとって最重要な問題であった。

野党やマスコミは、政教分離の問題をそれほど重要とは考えていなかった。細川非自民連立政権以後も、反自民の風潮は依然として強かった。自社さ政権を作って自民党は政権に復帰したが、総選挙では新進党に敗北して再び野党に転落するとの見方が大半だった。

私は平成7年11月から加藤紘一幹事長の下で、来るべき総選挙の候補者選定を主任務とする総務局長に就任した。その総選挙は、小選挙区制で行われる初めての選挙であった。平成7年夏に行われた参議院選挙では、新進党が比例区で第一党となった。比例区では新進党18議席に対して自民党15議席であった。新進党強しとみた有望な新人候補は、雪崩をうったように新進党へ走った。

壮絶なバトル

私が総務局長に就任した時点(平成7年11月)で、300の小選挙区で自民党の候補者は200人しか決まっていなかった。これに対して新進党はすでに230の小選挙区で候補者が決まっていた。

あらゆるデータを使って選挙結果を予測しても(それが総務局長の最大に任務である)、新進党に勝てるという予想は出なかった。マスコミ等も同じような予測をするのだが、ほとんどが新進党が勝つと予想していた。また世論一般の見方もそうだった。

そうなると自民党を伝統的に支持してきた各種団体も従来のように自民党を支援してくれなかった。自民党の支持団体の多くは、政権与党である自民党の利用価値を忖度するのであり、総選挙で野党になる可能性のある自民党を従来どおりには支援してくれなかったのである。

都市部などでは、新進党に参加した旧政党の得票を合計すると自民党が前回の選挙で獲得した得票の3倍から4倍もあるというがほとんどだった。このような情勢の中で自民党は戦わざるを得なかったのである。

自民党のひとつの看板は、村山首相の後を受けて平成8年1月首相となった橋本龍太郎氏であった。橋本氏は平成7年10月に自民党総裁になっていた。もうひとつの有効打が、政教分離を訴えることであった。創価学会や公明党に対して、国民は不信感と猜疑心をもっていた。新進党と創価学会の関係を批判することは、ボディ・ブローとして着実に浸透していった。

この活動の先頭に立ってくれたのが、宗教団体であった。宗教団体はわざわざビラを作成したり、内藤氏のビラを購入したりして配布したのである。ビラ配りといっても選挙戦が近くなると、創価学会員に取り囲まれるという激しい活動であった。

総選挙では200以上の小選挙区で、自民党と新進党は文字通り激突した。激戦区では、自民党の候補者が街頭演説をはじめると創価学会・公明党の支持者がこれを取り囲んで街宣車を叩いたり、罵声を浴びせるなどした。まさに壮絶なバトルであった。

公明党との連立を図った小渕首相

私は単に総務局長という立場だけでなく、党の中枢でこの新進党との戦いの指揮をとった。広報や組織などの担当者はいたが、最初の小選挙区制の選挙であったので皆各自の選挙に精力を割かざるを得なかった。私は比例区から立候補することになっていたので、選挙での当落の心配はなかった。

結果として広報や組織の仕事も「白川、頼むぞ」と頼まれて、私がやらなければならなくなったのである。また党を預かる加藤紘一幹事長は、私を全面的に信頼し仕事をやらしてもらえたので、私はもてる力のすべてを傾注することができた。私はここで政権をとるという総選挙のすべてを指揮するという大変だが貴重な経験をすることができた。

平成8年10月20日に行われた総選挙で、自民党は239議席を獲得した。一方、新進党は156議席であった。自民党は、少なくとも新進党との戦いには完勝したのである。私はこの選挙の功績が認められたのか、自治大臣・国家公安委員長に任命された。

平成10年夏の参議院選挙で自民党は予期せぬ大敗北を喫し、橋本首相・加藤幹事長が引責辞任をし、平成10年7月小渕恵三氏が首相となった。その小渕首相が公明党との連立を最初に口にしたのは、平成11年の夏ころであった。

公明党との連立は翌年の9月に行われた総裁選挙でも争点になった。小渕首相に対抗して立候補した加藤紘一氏と山崎拓氏は公明党との連立に反対したが、小渕首相が再選された。平成11年10月5日自民党・自由党・公明党の連立内閣が発足した。自自公連立内閣と呼ばれた。あの新進党との激しいバトルを展開した総選挙から3年も経っていなかった。いうまでもなく自由党も公明党も、先の総選挙で新進党の中核的メンバーによって組織された政党である。

私が「自公合体政権」と名づけた理由

小渕首相が公明党との連立をいい出したとき、自民党はこれにはかなり反対すると私は思っていた。だが自民党の中で公明党との連立に反対する者は意外にも少なかった。もちろん強く反対する者もいたが、大勢にはならなかった。私は失望した。

その理由のひとつは、対抗馬として加藤・山崎氏が立候補したものの、小渕氏の再選はほぼ確実視されていたし、現にそうなった。自民党の国会議員というのは、大勢順応派が多いのである。もうひとつは、創価学会を中心に据えた新進党と戦った平成8年の総選挙が、自民党にとってあまりにも厳しかったからだと思う。公明党と連立を組めば創価学会と正面から戦う必要はなくなる、と自民党の多くの国会議員は考えたのだろう。

このことは理解できない訳ではないが、それではあまりにもご都合主義ではないかと私は思った。また保守政党としての矜持や生き方を放擲するものではないかとも考えた。この当時、自民党を支援してきた宗教団体は公明党との連立に反対して行動を起こしたが、多くの自民党国会議員はこれを無視した。信義を貫くといつもいっていることに悖るのではないかと私は思ったが、そんなことに耳を貸す議員は少なかった。

普段は偉そうなことをいっている自民党国会議員の多くはこんなものなのである。公明党との連立成立後も、私は数少ない同志と共に「政教分離を貫く会」を作り反対していったが、私が平成12年6月の総選挙で落選したためにその後どうなったかのか知らない。いまでは、公明党との連立に反対したり、これを批判することは、自民党ではタブーである。このタブーに触れると私のように創価学会から徹底的に攻撃されることになる。

自自公連立は、自公保連立を経て自公連立となり現在に至っている。この自公連立政権を私がなぜ「自公合体政権」と命名したのか、それは他の連立政権との違いを検証しながら次号で述べる。

(次号に続く)

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