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月刊日本 2007年5月号
自公“合体”政権批判(2)
野合ではなかった自社さ三党の連立政権
元衆議院議員・弁護士 白川 勝彦
にわか“改革者" の跳梁跋扈
平成5年6月衆議院は解散された。私は当時落選中の身だった。長い間待たされていた。前回の総選挙から3年4ヶ月も絶っていた。平成2年の総選挙は消費税選挙だった。今度は政治改革選挙だった。どちらも自民党公認候補の私には有利なテーマではなかった。しかし、私はこの選挙には自信があった。政治改革がテーマならば、政治改革のためにいちばん努力してきたのは自分であるという自負もあったし、このことを新潟4区(旧選挙区、現在はそのまま新潟6区となっている)の有権者は必ず分ってくれると信じていた。
この総選挙にいたるまで、長い間国民は選挙制度改革の議論につき合わされてきた。衆議院の選挙制度について、ありとあらゆる制度が議論された。そして選挙制度を変えないことには、政治改革は一歩も進まないというムードが世の中に蔓延していた。選挙制度の変更を主張する者は改革派、選挙制度の変更を主張しない者は“守旧派"とみなされた。少なくともマスコミはこの論調で押しまくった。
政界には、“にわか改革派”が跋扈していた。選挙制度の改革を口にする者は、改革派であった。それは、昭和43年から数年間、わが国の大学に跋扈した「全共闘」と同じであった。私は大学に入学した直後から学生運動に身をおいたが、圧倒的多数はいわゆる無関心層であった。私たちがどんなに運動に参加することを呼びかけても馬耳東風であった。まったく興味を示さなかった。ところが、これまで学生運動に無関心だった者がある日突然目覚めるのである。そして運動の先頭に立って、革命者然として叫ぶのである。ゲバ棒をもって闘争するのである。ゲバ棒で革命ができるのなら世話はない。
“にわか改革派”がどこかおかしいということを、賢明な有権者はすでに見抜いていた。私は選挙制度改革などということを少しも口にしなかったが、7万7,000票を獲得して最高点で当選した。私が過去取ったこともない高得票であった。
“革命”的状況の出現
選挙の最中から、自民党が単独で過半数を確保できないことは、専門家の中では十分に予想できた。しかし、自民党政権が崩壊すると考える人はそんなに多くなかったのではないかと私は思っている。私自身も、選挙後は自民党といくつかの政党が一緒になって政権を作ればいいと思っていた。その候補としての政党は、日本新党であり、新党さきがけであり、新生党であり、場合によっては民社党でもいいと私は思っていた。
自民党という政党を良く知っている者としては、一緒に政権を担当する政党がこれらの党であれば、政権運営にはほとんど支障はないという確信があった。だから体制崩壊という危機感などほとんど私にはなかった。多くの国民もそう考えていたのではないだろうか。自民党政権の崩壊となれば、わが国においてはそれはひとつの“革命”である。しかし、平成5年の総選挙を“革命”を引き起こす選挙だったと主張する者も少なかったし、そのように記憶している者もほとんどいないのではないかと思う。
“革命”は、選挙後におこったのである。細川護煕氏を首相とする非自民連立政権ができたのである。自民党に過半数を与えなかったのは、確かに国民の選択であった。しかし、選挙直前に50名近くの現職議員に離党されたのでは、自民党が過半数を獲得できなかったとしてもやむを得ない。
国民も新生党や新党さきがけや日本新党の候補者を自民党と完全に敵対する候補者と考えていなかったのではないだろうか。彼らは選挙制度については変更を主張していたために“改革者”とみなされていたが、いうならばそれだけのことではないか。自民党と違うのはそのことだけであり、他の問題については自民党と同根という経緯があったし、そこからくる安心感も選挙ではプラスした。その証拠に革命的状況を作りだした筈のこの選挙において、これまで自民党と対峙してきた野党第一党の社会党は大幅に議席を減らしている。自民党と激しく対峙してきた野党第一党が大幅に議席を減らす“革命”的選挙というものはないだろう。
総選挙の結果自民党は過半数に30議席ほど達せず、単独で政権を組織することはできなくなった。逆にいうと野党が結束すれば非自民連立政権を組織することが可能となったのである。自民党政権を倒すことは、昭和30年から自民党単独政権しかなかったわが国では、明らかにひとつの“革命”だった。
突如として“革命”的状況が生まれたのである。 ここで野党が結束して非自民連立政権を樹立しなければ、野党はその存在価値を問われることになる。また評判の悪い守旧派の自民党と組んでも何のメリットもなかった。非自民連立政権を作ることは、野党各党の存立にも関わる一大任務となったのである。
焦った細川首相と小沢一郎氏
このような“革命”的状況の中で、細川内閣は生まれるべくして生まれたのである。7党8会派は共同して細川内閣を作った。細川内閣を作る上で、新生党の小沢一郎氏が大きな役割を果たしたことは確かであろうが、過大評価することはできないのではなかろうか。あの状況の中では、非自民連立政権に参加しない度胸がある政党は共産党くらいしかなかったであろう。国民は自民党政権を打倒したかったのである。
7党8会派の連立に関する協定書は、あることはある。しかし、それにそれほど意味があるとは思えない。要するに非自民政権を作ることが目的であり、それを否定するものでなければ連立の障碍に基本的にはならなかったのである。そして政治的にみても非自民連立政権は、それなりに大きな意味をもっていた。国民もそのことをシッカリと理解し、細川内閣を圧倒的に支持した。
細川非自民連立政権の目的と存在価値は、それ自体にあった。だから細川首相も小沢氏もあまり焦る必要はなかったのかもしれない。しかし、両人とも自民党出身者であったために、自民党への対抗心が強すぎたのかもしれない。自民党政権に負けない政権を作ろうとしたのである。そうすると政策的に消化できないものが、7党8会派の間に生じてしまうのである。
前回書いたように、私は細川内閣に対峙しなければならない立場にあった。世論もマスコミも、細川内閣を圧倒的に支持していた。自民党はすでに崩壊過程に入っていた。自民党という政党は、政権党であるが故にひとつの政党にまとまっていただけなのである。その自民党から政権をとってしまえば、自民党はもたないのである。自民党の幹事長までやった小沢氏はなぜこんな単純なことに気が付かなかったのだろうか。
しかも小沢氏が7党8会派の政策協定をギリギリ詰めだしたのは、小選挙区制の導入を決定した政治改革法案が成立した後であった。小選挙区制の下における次の選挙を考えれば、野党が結束すれば自民党に勝つことはほとんど間違いないところであった。
このことは、逆の立場に立てばよく分る。平成7年10月私は、自民党が自社さ政権で政権に復帰した後に次の選挙を闘う総務局長に就任した。そのような状況でも自民党が総選挙で勝利することなどなかなか展望が開けなかった。もし、自民党が野党のままで総選挙を闘わなければならなかったとしたらそれは絶望的であったであろう。
政権欲は連立の重要なモメント
羽田連立政権の後に誕生した村山自社さ連立政権の場合は、細川非自民連立政権を作るほど単純でも簡単でもなかった。本格的な連立政権の難しさは、これを分析することによって明らかになる。
羽田内閣の成立直後、統一会派「改新」の結成に端を発して社会党と新党さきがけは非自民連立から事実上離脱することになった。羽田内閣は、組閣のその日から少数与党内閣となったのである。だからこれを倒すことは簡単であるが、これに代わる新しい連立内閣を樹立することは別問題である。確りとした連立の基盤がなければ、それは樹立できない。
自民党が政権を手に入れたいと望んでいたことは事実であった。しかし、自民党と連立を組もうなどという政党は正直にいって最初はいなかった。最大の難関は、連立を離脱した社会党や新党さきがけには、“政権に対する執着”というものがあまりなかった。連立を可能ならしめるモメントとして政権に対する執着というものは非常に重要なことなのである。
政権に対する執着がない政党なんてあるのかと疑問に思う方も多いだろうが、それがけっこうあるのである。政権党というのは、いいことばかりではないのである。政権党である故の苦労もけっこう多いからである。政権に対する執着があるかないかは、その政党の支持者によるのではないか。
社会党や共産党の支持者は、自分の支持する政党が政権党になることを必ずしも望んでいないのであるから、その政党の政治家も政権に対する執着というものがあまり生まれないのである。一方、自民党の支持者は、政権党であるが故に自民党を支持しているのである。政権やその役職に執着しない政治家などとんでもないことなのである。だから自民党には政権に対する異常なまでの執着があるのである。下部構造(支持者)が上部構造(政党のあり方)を既定するということか。
経世会の自民党支配の秘密
社会党や新党さきがけの政権に対する執着は、自社さ連立を成立させるモメントにはならなかった。自社さ連立を成立させるためには、何らかの大義名分=目的が必要だった。
私は平成6年の初めころから、細川首相の1億円疑惑とは別に非自民連立政権の政治的体質を問題にしていた。私は非自民連立政権の内部にいた訳ではないが、非自民連立政権の政治的体質は問題の多いものだった。それは細川連立政権の最大の実力者であった小沢氏の政治的発想や手法に起因していたものと思われる。
私は自民党において長年にわたり経世会支配と闘ってきたが、それと共通するものがあった。小沢氏は、経世会が自民党を支配した手法で非自民連立政権を掌握できると考えていたような気がする。ここに小沢氏の大きな認識不足があったのではないだろうか。自民党を経世会の手法で支配できたのは、自民党の派閥や国会議員に政権欲があったからである。しかし、非自民連立政権を構成していた政党には、政権に対する執着がそれほどない政党もあるということに思いをいたさなかったのではないだろうか。
もちろん、社会党全体に政権への執着がなかったなどと私は思わない。政権欲旺盛な人もいた。それが社会党の中の争いとしてあったことは事実である。その人たちは、せっかく手に入れた非自民連立政権に固執していた。一方、社会党左派といわれる人たちには、政権欲というようなものはほとんどなかった。私たちが連立を模索せざるを得なかったのは、この人たちであった。
“一・一ライン”に対抗する自社さ連立
小沢氏と公明党の市川雄一書記長が非自民連立政権の中で大きな力をもっていた。このふたりによる非自民連立政権の運営は、“一・一ライン”などと呼ばれ、強権的な政治を代表する言葉となった。私たちは、この強権政治に対抗することを社会党や新党さきがけに訴えた。
しかし、社会党からみれば自民党も強権的な政党であるというイメージはあった。これでは、共同戦線がはれる筈がない。自民党がそうでないことを示す必要があった。それには自民党がいままでとは変わったことを表明する必要があった。その標語が“リベラル”であった。新自由クラブの代表を務めた河野洋平氏が自民党総裁であったことは、ある程度の説得力をもった。自民党のリベラル派は具体的な目標をもって結集した。新党さきがけの国会議員は自民党にいた時、私たちリベラル派と行動することが多かった。新党さきがけとの連携はそんなに難しくはなかった。
社会党と連立について協議する上で、憲法問題は避けて通れない課題であった。私たちは、正面からこの問題を議論した。自民党と社会党と新党さきがけの有志でつくった「リベラル政権を創る会」の設立趣意書で、この問題については次のように結論づけ合意した。
「日本国憲法の精神を尊重し、自由で公正な社会をつくり、市民参加を重んずる民主的な政治をめざす。」
自社さ政権は、“一・一ライン”に象徴される強権的な政治に対抗するために生まれた。その理念は、“リベラル”であった。リベラルというのは、ひとつの政治的価値観であり、少なくとも“非自民”ということよりは一歩進んだ連立であった。
自社さ政権は、事の経過をよく知らない人たちから“野合政権”と激しく非難された。だが実際に自社さ連立を成立するために努力した者には、それは的外れの非難や批判であり、あまり痛痒は感じなかった。政策的な乖離も、リベラルという価値観があればだいたい埋めることはできると考えていたし、また実際にそうなった。
私たちは、社会党が日米安保条約や自衛隊や国歌国旗について党内の了承を得ることができるのか不安であったが、村山首相は見事に解決した。一方、自民党がリベラルな路線を歩めるかどうかも心配であったが、リベラルな路線から自民党が逸脱した時に連立は崩壊し、再び野党に転落するのだという緊張感があった。
自社さ政権の意義
連立政権にとって、政策調整は最大の問題である。ある党にとってどうしても納得できない、妥協できない問題が生じた場合には、連立離脱ということが生じる。この緊張関係があるかないかでその連立の質が決まる。細川連立内閣では、非自民政権というだけで歴史的・政治的価値が十分あったのだが、そこに政策の一致を強引に持ち込もうとしたために社会党や新党さきがけの連立離脱を招いてしまった。
自社さ連立政権は、強権政治を終らせる目的があったが、このことはあまり国民には理解されなかった。従って、具体的に政策を実現してゆかなければ、国民の理解と支持は得られなかった。その政策調整の中心的にいたのが、加藤紘一自民党政調会長だった。
自社さ政権の政策協定はあった。しかし、そこにすべての問題が書いてある訳ではない。また政権には、処理しなければならない問題が次々と突きつけられる。“リベラル”という基本的価値観はあるもののいろいろな問題を具体的に処理するとなると難しい場面もあった。自社さ3党の政策担当者は、時間と労を惜しまず政策調整を行った。被爆者援護法の制定や水俣病問題の最終決着などは、このような努力の結果なされたことである。
私は、自社さ連立政権が果たした役割は実は大きいと思う。それまで自民党と野党第一党である社会党の間には理解や妥協ができない根本的な違いがあると多くの人々が思ってきた。しかし、日米安保も自衛隊の問題も相対的な違いであり、調整や妥協が可能だということが判ったことである。ある事柄が、調整可能な問題なのか、それとも調整不能な問題なのかは、非常に重要なことなのである。そのことが見決められれば、政治の場における不毛な対立を防ぐことができる。
自民党と社会党の合同?
平成8年1月5日、村山首相は辞任した。前年の10月、自民党の総裁となっていた橋本龍太郎副総理・通産大臣が首相に就任した。自社さ連立政権とはいえ、自民党にとっては2年半ぶりの悲願達成であった。
自民党から首相は出せたものの、橋本内閣の基盤が自社さ連立であることに何の変化もなかった。そして1年半後には、新しく決まった小選挙区で行われる総選挙が控えていた。前年行われた参議院選挙で、自民党は新進党に比例区で3議席少ない15議席しかとれなかった。自民党にとって厳しい選挙になることは明らかであった。
一方、社会党の中も揺れていた。村山氏が辞任した理由のひとつが党内の路線問題であったといわれている。自民党でさえ次の選挙は厳しいのであるから、社会党にとってそれは一層深刻であった筈である。そんな中で、きわめて限られた範囲であったが、自民党と社会党の合同・合併ということが話題になった。私は選挙担当の総務局長として、積極派だった。
それは、選挙を考えれば、そうでもしない限り自民党勝利の展望が開けなかったこともあったが、本当の理由は別のところにあった。自民党は国民政党だというが、労働組合の支援を全然もたない国民政党などというものはおかしいという考えからであった。確かに社会党を支持してきたのは、総評といわれる労働組合連合だが、そういう組合のある企業の経営者が上手く付き合ったいるのだから、自民党がそうした労働組合と上手く付き合っていかなければならないと思っていたからである。
私は本気で話したのだが、自社さ連立に積極的だった社会党の国会議員にも残念ながらこれは受け容れられなかった。
こうして橋本首相を擁して、自民党は単騎で来るべき総選挙に臨むことになる。
(次号に続く)