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目次


自民党を倒せば日本は良くなる
プロローグ──私が自民党を見限った理由(わけ)

●自民党離党、自公保体制打倒の戦いへ

2001年2月5日、自民党幹事長室に出向き、この離党届を私は二田孝治副幹事長に手渡し、23年間いた自民党に別れを告げました。

自民党改革のためにやるだけのことをやり、また考えるだけ考えたうえでの離党ですから、感傷的なものは正直いって何もありませんでした。

これまでも、私は厳しい自民党批判をしてきましたが、これからは内なる戦いという、わかりにくい戦いをしなくてすむという解放感さえありました。

ただ、参議院比例区に立候補して全国を舞台にして戦うというこれからの私の行動が、ゼロから出発した私を6回も衆議院議員として当選させてくださった、新潟六区の支持者の皆さんの意に背くことになるのではないかという気持だけは、最後まで払拭できなかったことも事実です。

しかし、もはや後戻りはできませんでした。

サイは投げられたのです。

こうして、自民党離党、新党結成、参議院選挙に参戦して自民党・自公保体制を倒すという、私の戦いの火ブタは切って落とされたのです。

●加藤騒動の鎮圧で自民党リベラル派は死滅

自民党を離党して、新党を結成する──実はこの結論と決断は、2000年11月の初めにはすでに固まっていました。

ごく少数の1~2名の友人には決意を伝えてありましたが、誰に相談することもなく自分自身で腹を固めました。もちろん長年政治行動をともにしてきた加藤紘一氏にも、相談はしていませんでした。

そして、あと3日もすれば新党立ち上げの発表ができるというときになって、あの加藤騒動が起こったのです。マスコミでは「加藤政局」という表現を使っていますが、私はあえて「加藤騒動」という言葉を使います。なぜなら、あの行動は、加藤氏の思惑をはるかに超えて、加藤氏が自民党に引導を渡すかどうかという行動だったからです。

私には、加藤氏の気持が痛いほどわかりました。加藤氏が最後までブレないで断固として突き進むこと──ただそれだけを願っていました。たとえ不信任決議案が否決される結果になったとしても、国民は圧倒的に加藤氏を支持することは明らかですから、永田町の論理だけでなく国民のレベルで判断してほしい──。加藤氏はそれができる政治家であると信じていました。

温泉旅館を経営している福島県のある方からいただいたメールによると、11月20日いよいよ衆議院本会議が始まるという午後九時から、お風呂は完全に空っぽになったとのことです。その旅館だけでなく、その温泉街のすべての旅館がそうだったといいます。こんなことは滅多にないことだそうです。

これは加藤氏の政治行動に、きわめて国民の関心が高かったかという証拠であり、加藤氏の政治行動は、自民党政治を変え、日本の政治に大きな変革をもたらすものと、いかに多くの国民が期待していたかということです。

裏を返せば、森内閣・自民党政治・自公保連立政治に、国民がいかに辟易(へきえき)しているかということです。したがって、加藤氏が自壊しなかったら、日本の政治はあの時点で大きく変わっていたことは明らかだと思います。

しかし、加藤騒動は鎮圧され残念な結果に終わりました。私は虚脱感に襲われ、しばらくの間、なかなか立ち直れませんでした。食欲さえなくなったほどです。

加藤氏の決起は、自民党リベラル派の決起でした。これが殲滅(せんめつ)されたことによって、自民党は政権党でありさえすればいいという、有象無象派の集団に完全に成り果ててしまったのです。加藤氏の決起を見るも無残に鎮圧した自民党は、リベラルなものを期待してこれまで自民党を支持してきた人たちからも、完全に見放されたと思います。

その後の、自民党のみならず宏池会のメンバーたちの、加藤氏に対するなぶり殺しといえるリンチを見たとき、私は自分の決断が間違っていなかったことを確信しました。

「自民党には何の未練もない。加藤氏ができなかったことを自分がやろう」

私の決意と闘志はいっそう高まりました。

●新党結成に寄せられた熱いエール

2001年2月22日、私は都内で記者会見を行い、15ページに掲げた新党結成宣言を発表しました。党名については、3つの案のなかから一般公募で決めることにしました。

私が自民党を離党し、新党を結成するとの報道が2月初旬になされて以来、全国から寄せられたエールは私の予想をはるかに超えるものでした。私は、いかに自民党・自公保体制に対する国民の嫌悪感・不満が強いものであったかを、改めて知らされました。と同時に、私の決起は間違っていなかったと確信しました。

そうこうしているうちに、参議院の自民党を文字どおり牛耳っていた村上正邦参議院自民党議員会長がKSD疑惑で逮捕され、愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」とアメリカの原子力潜水艦との衝突事故で、トンチンカンな対応をした森首相に対する国民の非難は高まり、森首相の命脈は尽きました。

また、3月5日に野党が提出した内閣不信任案に対する与党議員のわけのわからない対応も、国民の失笑と不信を買うものでした。森首相の退任に至る経過や手続きも緊張感を欠くもので、普通の日本人には何とも意味不明な言葉が多く、田舎芝居そのものでした。

自公保体制は、世紀末に咲いたあだ花であり、この体制を打倒しなければ、日本の経済的危機や閉塞感に覆われた社会状況を打開することはできません。多くの国民もそのように感じているものと思います。

●平成革命で日本の未来を切り拓く

党名は公募の結果、

「新党・自由と希望」──別名「リベラル市民」

と決定しました。

この本は、「新党・自由と希望──結党宣言」で述べていることを敷衍(ふえん)するものであるとともに、どうしたらそれを実現できるかという戦略を明らかにしたものです。

私は、いま日本の政治を、根本的に転換する必要があると思っています。それなくしては日本の未来はありません。このままの政治を続けていけば、その先には間違いなく「日本の沈没」が待っています。

私は、この政治の根本的転換を「平成革命」と呼んでいます。なぜ平成革命がいま必要なのかということや、平成革命の中身と戦略戦術については、以下の章で詳しく展開してあります。

“灯台下暗し”とはよく言ったものです。私はこれまで自民党を改革するために、誰よりも自民党を冷静に客観的に見、かつ、厳しく批判してきたつもりですが、やはり、自民党のなかからしか見ることができていなかったということを、この本を書き進むなかでしみじみと感じさせられました。自民党を離れ、これを対象化してみると、自民党は実にお粗末な政党であり、憐れみさえ感じたほどです。

「池に落ちた犬はたたけ!」とは毛沢東の言葉ですが、日本人のマインドは「池に落ちた犬はたたくな」であると言われています。しかし、自民党・自公保体制が国民の自由を脅かし、自立した真面目な国民を抹殺しようとしているとき、自民党・自公保体制の本質を冷徹に分析し、これとの戦いの戦略を示し、勝利への道筋を明らかにすることは、自由を愛する真の自由主義者の使命だと確信して筆を進めました。

この本のなかには、世間のおおかたの常識を覆すことが随所にあるはずです。これは、私が自民党を「自由民主党」の名に恥ずかしくない政党にするために、23年余にわたって体当たりの実践・戦いを続けてきたからこそ、会得できたものであると自負しています。多くの学究者が見落としてきた問題にも、鋭く迫っていると考えています。

この本を多くの人々が手にし、瀕死の重症にあえぐ私たちの日本を立て直す戦い(平成革命)の意義とその道筋をご理解いただければ、これに過ぎる喜びはありません。

「始めようと、しがらみを断って、旅立つ人間」──それが真の自由主義者です。

何よりも己自身のために。そして、私たちの日本のために!

新党・自由と希望 代表 白川勝彦


離 党 届

私は、一人の自由主義者として昭和52年自由民主党に入党し、今日まで党の発展のために微力を尽くしてまいりましたが、公明党との連立・平成12年総選挙の戦略戦術・加藤騒動に対する対応などに象徴されるわが党の路線・運営は、独立自尊の精神を失い、自由主義を標榜する国民政党たらんとするわが党の本旨に悖(もと)るものであり、これを容認しこれ以上耐えることは、誇りある自由民主党党員としてもはやできません。

よって、私は、離党いたします。

平成13年2月4日

自由民主党新潟県第六選挙区支部長
自由民主党党員  白 川 勝 彦

自由民主党総裁 森 喜朗 殿


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