「リベラル」こそ、21世紀の政治理念
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「リベラル」こそ、21世紀の政治理念

1. リベラル派が死滅した自民党

<加藤騒動後の自民党>

加藤騒動がああいう形で鎮圧されその後の自民党の運営を見ていると、この党は完全に20世紀の政党であって、 21世紀の日本の政治をリードすることなどとうていできないということを国民の前に露呈したという感を強くします。新聞や雑誌および白川BBSの書込みや私がいただいたメールには、 1割くらいですがそれでも加藤氏を理解・弁護・擁護するものがありました。しかし、ああいう形で加藤騒動を鎮圧・収束した自民党そして世紀の内閣大改造をしたという森内閣を評価するものは皆無であることが、このことを雄弁に物語っています。

自民党という政党に21世紀の未来はないなどということは当たり前のことであり、くどくどと論ずる必要はないという方もいまや多いのではないかと思います。しかし、この政党が現に政権を担っている以上、なぜそうなのかもう少し詳しくみてみる必要がありますし、長年この党にいる者としてその責任があると考えます。やはり、自民党は日本の政治の現実なのです。このことを詳しく分析することが、21世紀の政治がどうあるべきか考えることにもつながります。

温泉旅館を経営している福島県のある方からいただいたメールによると、11月20日いよいよ本会議が始まる午後9時前から、お風呂場は完全に空っぽになったそうです。その旅館だけではなく、その温泉街のすべての旅館がそうだったとのことです。こんなことは滅多にないことだそうです。加藤氏の政治行動に、いかに国民の関心が高ったかが分かります。加藤氏の政治行動は、自民党政治を変え、日本の政治に大きな変革をもたらすものと、多くの人々がいかに期待していたかが分かります。このことを裏返せば、森内閣・自民党政治・自公保連立政治に国民がいかに辟易していたということです。自公保連立の3与党は、先に行われた総選挙で絶対過半数を獲得しました。それにもかかわらず、どうして現政権は国民からこのように嫌われるようになってしまったかということを、真剣に考えなければなりません。

森改造内閣新しい省庁編成にともなう世紀の内閣大改造があったにもかかわらず、その後の森内閣の支持率は少しも改善されていません。私が古賀幹事長の就任についてだけ触れて、その後内閣改造などにコメントをしなかったのもそんなことは政治的にはほとんど意味がないと思ったからです。私にとっては、正直いってコメントする気にもなれない馬鹿馬鹿しいニュースでしかありませんでした。それは多くの国民にとっても同じような思いがあったのでしょう。政治手法的には確かにいろいろと策は弄していますが、そんなことで国民の目は誤魔化せません。問題は、もっと本質的なところにあるのです。

自民党という政党は、いったいどういう政党だったのでしょうか。いろいろ問題はあるにせよ、これまで自民党は、すくなくとも「自由民主党」でした。すなわち、自由を守る党であり、民主主義を守る党であるとみずから国民に説明をしてきましたし、このことはそれなりにひとつの実態でした。しかし、総選挙の前ころから自由民主党ではなくて「不自由非民主党」になってしまったと、自民党のなかからさえいわれだしました。

野中幹事長がやったことは、そういわれても仕方のないことでした。彼が自民党の幹事長としてやった選挙戦術は、専門的にいうと滅茶苦茶なことでした。そして、自民党は総選挙で惨敗しました。それでも、彼の責任を追及する声は一言もありませんでした。こんなことは、これまでの自民党には絶対にありえないことです。自民党は、本当に不自由非民主党になり下がってしまったのです。若手の議員が「自民党の明日を創る会」を作って騒いで済まされる問題ではないのです。

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<二つの潮流と「有象無象派」>

もう少しこれを専門的に見てみると、こういうことになります。自民党という政党は、政治的には新保守主義といわれる潮流・リベラルといわれる潮流・政権党であればどうでもいい人たちの集合体でした。最後の政権党であれば政治的主義主張などどうでもいい人たちとは、政権に集まる有象無象(うぞうむぞう)のことですから、これを「有象無象派」ということにしましょう。

でもこの有象無象派って、洋の東西を問わず、昔も今も意外に多いのです。ですから本当はもっといい名前を付けたほうがいいのかもしれませんが、私の語彙力では、いまのところいい案がありません。しかし、どういう立派な命名をしたとしてもこの人たちが有象無象であることには変わりはありませんし、この人たちには政権を補強することはできても、政権を作る力などありません。そして、この人たちは、新しい政権ができればいの一番に現在の体制から逃げ出していく人たちでもあるのです。平成5年自民党が野党となったとき、私はそういう人たちをいやというほど見させてもらいました。

ですから、自民党を政治的に引っ張る潮流は、新保守主義とリベラルの二つの潮流ということになります。自民党のなかにもこの新保守主義的な考え方の人たちもいることはいます。中曽根元首相などは思想的にはこの考え方に近いのでしょうが、中曽根氏の場合この側面より自民党のなかにある国権派的保守 ─ 戦前からある古い保守の代表選手というイメージの方が強いですし、現在ではそこに政治的スタンスがあると思います。

どうしてこうなったかというと、新保守主義は政治的には小沢一郎氏率いる自由党がいまの日本ではこれを代表する形になっているからです。自民党の中で同じようなことをいっても、自民党が全体としてそのような主張をしない限り、政治的にはそのお株はひとつの政党を結成して主張している小沢氏に代表されることになるのです。これが政治力学というものです。各種の選挙で自由党がおおかたの予想に反してかなり善戦するのは、小沢自由党が新保守主義的な考えの人々の支持を集めるからです。

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<殲滅(せんめつ)された自民党リベラル派>

では、もう一方の自民党の政治的潮流であるリベラルを代表する政治家とは誰でしょうか。古くは石橋湛山元首相であり、また近年では大平正芳元首相であり、そして現在のリベラルな政治家の代表は加藤紘一氏であったわけです。加藤氏が自民党の政調会長・幹事長としてマスコミで述べたことや実際に政治的にやったきたことは、リベラル派の面目を代表するに遜色のないものでした。

ここで改めて私のいうリベラルの定義をしておきます。リベラルとは、社会的公正を配慮する自由主義ということです。これに対して新保守主義とは、自由主義の原理原則を忠実に実行していこうという考え方です。私はこれを分かりやすくいうために「むきだしの自由主義」といっていますが、どちらにも共通している点は自由主義ということです。

このリベラルの潮流は、加藤氏が政治的に代表していました。民主党の鳩山代表などは好んでニューリベラルという言葉を使っていますが、政治的には日本のリベラル派を代表していません。それは、民主党という政党が自由主義を代表する政党と国民には受け止められていないからです。国民は細かい政治的な理屈は分からなくても、リベラルが自由主義のひとつの考え方であることをしっかりと知っているのです。

かつての社会党と一緒になって作った民主党は、本質的に自由主義政党たり得ないことを国民はしっかりとみているのです。現に民主党は、多くの地域で労働組合の支持を受けています。労働組合の支持がなければ、民主党は鳩山代表がいくら労働組合にたよらない政党を目指すといっても、現在の議席すら獲得することはできないでしょう。ここに鳩山氏がどんなにリベラルという言葉を使おうが、政治的には現在のところリベラルを代表する政治家となっていない理由です。

加藤騒動は、本人が意識したかどうかは別にして、自民党のリベラル派の決起だったのです。そして、加藤騒動の鎮圧は、自民党のリベラル派が有象無象派に無残に敗退してしまったことを意味しています。自由を愛する国民の多くは、実は自民党のこの人たちに最後の期待をしていたのです。ですから、加藤氏の行動にあれだけの期待が集まったのです。この人たちの期待を、加藤氏も自民党も完全に裏切ってしまいました。

自民党のリベラル派を支持していた層は、政治的・経済的・社会的には良質といわれる人たちでした。加藤騒動の鎮圧は、この人たちをも鎮圧してしまったことを意味しています。加藤氏をはじめ同氏と行動を共にした人たちは、自民党のなかでこれからも改革を目指して政治活動をするといっています。しかし、自民党リベラル派をこれまで支持してきた人たちは、今回の一件でその大半は自民党を支持することをやめるでしょう。

国民は、そう何度も自民党の誤りを許すほど寛容でなくなったし、自民党もかつての絶対的権威をいまの日本ではもうもってはいないのです。そう思っているのは、自公保連立政権にどっぷりと漬かっている理想も誇りもない有象無象派だけなのです。

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2 「有象無象派」が跳梁跋扈(ページ末の意味説明へリンクちょうりょうばっこ)する自民党

<かつての英雄たちの現況>

森内閣に対する国民の支持が極端に低いのは、森首相のいってることややっていることがあまりにも無内容であるということだと思います。しかし、これは森首相に限ったことではなく、現在の自民党全体にいえることです。自民党には、本来この政党を政治的 ・思想的にリードすべき新保守主義の潮流もなければ、リベラルな政治的潮流もなくなってしまったのです。そうするとこの政党には、政権党であればなんでもいいという有象無象派しか残っていないということになります。また、現在の自民党をみているとそういう感を強くします。かつての英雄たちも、有象無象派に屈し完全に堕ちてしまいました。

たとえば、河野洋平外務大臣。この人に、かつての新自由クラブを率いたときの希望や迫力を国民は感じることができるでしょうか。また、この人の外交に河野イズムみたいな何かがあるでしょうか。なんだか分からないが自民党有象無象派にただ忠誠を誓い、じっとしていればひょっとしたら首相の座が回ってくるかもしれないことを期待しているだけの物待ち顔な姿しか感じることができません。

宮沢喜一初代財務大臣ですか。これはもうこれだけが生きがいとしか見えません。この人は生涯大蔵官僚でいたい人と私は前から思っていましたが、本当にそうなってしまいました。しかし、この人の希望をかなえるために、大蔵省が最後の最後までこだわっていた国の財政健全化という目標はズタズタにされ、国民の方がこのことを心配するようになってしまいました。これを大蔵省の堕落といわずしてなんというのでしょうか。大蔵省は、省はじまって以来の堕落のなかで、その幕を閉じました。

橋本元首相なども、ここでどうして大臣などを引き受けたのか、私にはまったく理解できません。橋本元首相の再登板ということも、現在の自民党の人材不足では十分あり得るのではないかと私は思っていました。しかし、橋本内閣時代の政策を総否定した内閣に一閣僚として入ったのでは、森内閣が頓挫しても、そのアンチテーゼとはならないじゃないですか。どうしてこんな簡単な理屈が分からないのでしょうか。この人には、政治的な側近といわれる人がまったくいないということでしょう。きっと、有象無象派に「閣内にいれば、森内閣がダメになったときあなたがいちばん首相になる公算が高い」とでもいわれたのではないでしょうか。この他にもいくらでもコメントできる人はいますが、コメントするだけの価値のない人たちですから、これくらいにしましょう。

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<出鱈目からはいい結果はでない>

こんにちの自民党は、政権にしがみつく哀れな政治家の集団となってしまいました。この国をどうしようという理想や誇りのない集団ですから、将来のヴィジョンというものが少しも感じられなくなってしまいました。将来に対する責任やヴィジョンがないものですから、やることといったら、国民に媚びることしかできません。

私が1997(平成9)年自治大臣のときの国・地方を合わせての公債残高は450兆円前後と記憶していますので、この3年間で約200兆円の公的債務をふやしたことになります。国家経営であろうが、会社経営であろうが基本は同じです。出鱈目をやっていい結果がでてくるなどということは絶対にないということです。1998(平成10)年夏以降の約2年半の間、政府のやってきたことは出鱈目な政策です。やけっぱちの出鱈目な政策で日本が救われるなどということは、金輪際ありえないことです。どうして、こうなってしまったのか。

自民党が出鱈目なことをするようになった政治的背景に、公明党との連立があると思っています。公明党との連立は、自民党が絶対にやってはならない政治的なケジメのひとつでした。自民党が、その生き方も違えば考え方も体質も異なる公明党と連立を組む、さらに選挙まで一心同体となって戦うということは、自民党としての理想も誇りも失うということです。

政党や政治家にとっていちばん大切なことは、理想であり志です。これを見て国民はその政党や政治家を支持するのです。自民党としての理想や誇りを捨てた政党に国民の支持が集まるはずがありません。いくら権力を使って支持を繋ぎとめようとしても、そんなことで支持を繋ぎとめることができるのは政権に群がる有象無象でしかありません。そんな人たちだけにしか支持されない政党や政治家に未来などあろうはずがありません。こんな簡単な理屈に反する出鱈目が、公明党との連立だったと私は思っています。出鱈目をやっている自民党にいい結果を期待することなど、木に登って魚を求めるの類です。

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<八方塞がりの自民党>

現在の自民党にとっていまいちばん大切なことは、どういう基本理念に立って、どのような政策を忠実に行うかということを国民の前に明確に示すことです。このことを避けて弥縫的な対策をいくらとっても、ますます国民から見放されるだけでしょう。いま自民党は、深刻な危機にあります。リベラルの旗こそ、いま自民党が高く掲げるときなのですが、加藤氏の決起をあのような形で始末してしまいました。自民党は、リベラルという旗を当分の間使うことはできません。さりとて、新保守主義の旗を持出したくても、こちらの方は小沢自由党にすでに持っていかれています。

残念ながら、自民党は政治的には完全に手詰まり状態なのです。政治というのは難しいようで実は簡単なのです。ひとつの政権や政党が国民の支持を得て強くなっていくのは、政治的理念をはっきりと掲げ、その理念に忠実に政策を立てて実行していくことなのです。この単純なことを実行することしかないのです。しかし、意外に難しいことなのです。現在の自民党には、もっとも基本的な点において政治的に立ち直る要素はありません。少なくともこの1〜2年間の自民党がやってきたことを全否定するだけの勇気がなければ、現在の八方塞(ふさ)がりの状況から脱却することはできないでしょう。

八方塞がりの自民党が、これからどうするのでしょうか。私にはだいたいの予想ができます。現在の体制が行き詰まると、弥縫的な目先だけ変えた次の体制を作る。それがダメになったら、また次の体制を作る。いちばん考えられるのがこういうことです。現在の自民党には、思い切った自己改革をする力もなくなってしまいました。河野洋平総裁案や橋本元首相再登板などです。

しかし、いよいよ万事窮した場合、いちかばちかの奇策をとるかもしれません。小泉純一郎総裁案、ひょっとすると田中真紀子総裁案だってあると思います。その場合、一時的には人気を博すことは予想できますが、果たして現在の自民党にそれだけの度胸があるでしょうか。また、このふたりに現在の自民党を本当に変えてゆくだけの思想的にしっかりしたものがあるのかどうか、実は定かではないのです。森首相がダメになったら、誰かに変えればいいと簡単にいわれていますが、ポスト森もそんなに単純な問題ではないのです。

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3 野党が抱える矛盾と課題

これまで自民党をいろいろな角度からみてきました。自民党には、残念ながら21世紀の希望を髣髴とさせるような状況も政治家もいません。それでは、野党の方をみてみましょう。

<基本がハッキリしない民主党>

民主党Webサイト野党第一党である民主党ですが、まず、この党について指摘しておきたいことは、先の総選挙で129議席しか獲ることができなかったことです。小選挙区制の下では、野党第一党というのはある程度の議席を確保して当然なのです。平成8年の総選挙で、新進党は300の小選挙区で 96議席を獲得しました。しかし、民主党は先の総選挙で小選挙区で80議席しか勝っていません。この一点をみただけでも、民主党の野党第一党としての力量はかなり弱いということが分かります。比例区の議席数も大切ですが、政権を獲る力・組織力・政党としての迫力は、やはり小選挙区でどれだけ勝てるかがメルクマールです。

鳩山党首Webサイトなぜ、民主党は小選挙区で80議席しか獲れなかったのでしょうか。民主党は、自民党が公明党と連立を組んだこと、すなわち政教分離違反を選挙戦で攻撃しなかったからだと、私は思っています。総選挙の前に鳩山代表や菅政調会長が政教分離問題に触れたところ、党内から即座に非難の声が上がりました。私たちが平成8年の総選挙の際に政教分離問題を争点にしたとき、自民党内にもそのような動きがなかったわけではありません。しかし、私たちはこれを無視しました。

それは、創価学会=公明党との戦いを回避して、全体として自民党が勝利することはできなかったからです。一部の選挙区事情で、全体の戦略を変えることはできません。それが選挙というものです。この点、民主党は甘かったのだと思います。民主党は、いったいどのくらいの選挙区で創価学会=公明党の協力が得られたのでしょうか。ゼロとはいいませんが、ほんの一部であると思います。

国民のほとんどは、公明党の連立参加は憲法20条の「いかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならない」という政教分離の原則に違反すると考えているのです。この問題を争点にしないことなど、私にいわせるならば、本気で選挙に勝つ気があるのかとさえ思われます。民主党をはじめとする野党は、確かに自公保連立反対といいはしましたが、自公保連立の何が問題なのかハッキリといわなければ、自公保連立を本当に批判したことにはなりません。

さらにいうならば、民主党や連合幹部の発言には、自公連立には反対だが民公連立なら構わないという風に受け取られる発言も結構ありました。そんなバカな話はありません。それでも、公明党と連立した自民党の背信に抗議の意味を込めた票が、民主党に相当に流れていることは事実です。これから民主党がこの問題をどのように主張するのか、私は注意深くみていきたいと思っています。

いずれにしても、このことに象徴されるように、民主党のいうことやることには、万事にわたり確たるものを感じることができません。それが国民からみると、民主党はいまひとつハッキリしない ─ 頼りないという印象になるのだと思います。民主党がこのような行動様式からなかなか脱しきれないのは、旧社会党のメンバーが党内にかなりいるからだと思います。また、労働組合の支援なくしてこの党が存立しえないからだとも思います。

労働組合というのは、ハッキリいって自由主義 ─ リベラリズムを本当の意味において理解できないのではないかと、私は諦観にも似た思いをもってみています。民主党が自由主義政党になりきれるかどうかは、意外に深刻な理論闘争をしなければならないのだと私は考えています。民主党が自由主義政党にならない限り、この党の未来はなかなか開けてはこないと思います。なぜならば、国民は自由主義を望んでいるのですから。

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<その他の野党について>

その他の野党として、衆議院の議席が 22の自由党、 20の共産党、19の社会民主党があります。3党あわせて61議席です。ちょうど民主党の半分です。この3党についてひとことずつコメントしたいと思います。

自由党Webサイトまず、自由党ですが、名前が示すとおり自由主義を標榜する党です。どちらかというと、新保守主義的な自由主義を掲げる政党です。小沢党首の性格でしょうか、非常に理論的であり、かつ行動は急進的です。どちらかというと、自民党のヌエ的なところに飽き足らない自由主義者や国民の支持を受けています。現在の日本に、このような考え方もそれなりにあるのは事実であり、そういう面ではこの政党が各種選挙でおおかたの予想に反して善戦するのは、それなりの根拠がってのことです。本当は、もっと議席をとってもいいのかもしれません。しかし、新保守主義的な政治理念を支持する国民は、現在の日本では10〜15パーセントくらいなのではないか、と私は思っています。

共産党Webサイト共産党ですが、政党としてはいちばん長い歴史があり、あまりにもいわく因縁が多くある政党で、とてもひとことでコメントすることなどできません。あえてひとつだけあげれば、新体制になるのを契機に、路線面や政策面でかなり大幅の変化をしたようですが、実際の政治行動がどのように変っていくのかを見ないと、評価はまだできないように思います。ただ、議席数は少なくとも、政党としての組織力は公明党と同じように抜群にあることを、この党の新しい政治行動や政界再編成をみていく場合に忘れてはならないと思います。

社民党Webサイト最後に社会民主党ですが、組織としてはそんなに大きなものがついていないにもかかわらず、各種選挙でこれまたおおかたの予想をくつがえして善戦するのは、ひとつは土井党首のイメージ・知名度と旧社会党の政治理念をいちばん忠実に主張しているからだと思います。55年体制が約半世紀続いたのですから、旧革新の支持者の中には民主党には移行できず、社会民主党を支持している人がそれなりにいるというのは、当然といえば当然なことなのではないでしょうか。ただ、このような支持者がこの党を支えているとすれば、この党の前途は、そんなに明るいものではないと考えます。

いずれにしても俗ないい方をすれば、野党とはいうものの自民党よりかなり右の自由党、民主党よりかなり左の社会民主党と共産党なのですから、野党4党の共闘はかつての野党共闘にくらべれば、大変なことは大変です。このことは、加藤騒動のとき内閣不信任案を提出することには共闘できても、それから先はなかなか一緒に行動することができなかったことをみても明らかです。これからある各種選挙では、野党が反自民もしくは反自公保の旗を立てさえすれば、敵失に支えられてかなり善戦するとは思います。さりとて野党全体に21世紀の希望を感じさせるような雰囲気や政治家があるかといえば、かなり好意的にみてもそのような感じはしません。野党にも、かなりの手詰まり感があります。

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4 自らの力を意識する無党派の動き

<政治を変えつつある無党派の動き>

現在の国民の政治的動向を注意深く分析してみましょう。国民の自由に対する欲求はますます強いものになってきています。価値観の多様化は、政治・経済・社会のあるゆる分野で、いまや当然のこととなっています。価値観の多様化とは、それぞれが違った価値を主張することであり、自由化の裏返しです。政治の場合、この現れ方がたいへん難しいことは事実です。政治の場合、ある程度のボリュームにならないといくら個性を主張したくても実際には無視されてしまうために、非常に現れにくいのですが、明らかにその兆候はでています。

福田栃木県知事私は、東京21区の衆議院補欠選挙と長野県と栃木県の県知事選挙に、それをはっきりとみることができると思っています。なかでも、私は栃木県知事選を特に注目しています。栃木県は、いわゆる保守王国です。ここであまり知名度もなくマスコミもほとんど取り上げなかった福田候補が当選したということは、自分が支持する政党がどういおうが、イヤなものはイヤとして県民が自由に投票したということです。

東京21区や長野県知事選のように、あれだけマスコミが大きく取り上げると、ふつうはマスコミが注目した候補が勝つものなのです。栃木県知事選挙の場合、マスコミは必ずしも福田候補のことを大きく取り上げませんでした。したがって福田候補が当選する可能性があるということは必ずしも県民の情報としてはなかったわけですが、イヤなものはイヤと考えて行動することは、保守王国といわれる栃木県ではひとつの革命的な現象といっていいと思います。ここにハッキリと大きな政治の自由化の波を感ずることができます。

当選した川田氏この数年間自民党本部で選挙実務に携わってきた私がいちばん関心を払ってきたのは、無党派という存在でした。無党派を完全に反対に回したら、都市部であろうが地方であろうが、選挙に勝つことなど絶対にできません。無党派はその名が象徴するように、必ずしもひとつの主義・主張をもっているわけではないのです。しかし、私は無党派を無色透明な存在と考えてはならないといつも考えてきました。基本的には反自民の傾向が極めて強いのです。ですから、少しでも気を抜いたり自民党が奢ったものを選挙戦で感じさせると、この層は完全に反自民となってしまうのです。逆にいえばこのことに注意することによって、無党派の支持を得ることはできなくとも少なくとも敵に回さないことはできるのです。

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<無党派の新しい動きと政治的傾向>

この無党派にも、わずかこの1年で明らかな変化がでてきていることを私は肌で感じます。無党派が無党派の力を意識しはじめてきたということです。無党派が無党派として固まりだして、主張し行動しはじめたということです。もしこのことが本当に現実となったら、いまあるどの政党も太刀打ちできません。なぜなら、無党派こそいちばん数が多いのですから。この無党派を組織することができる政党や政治家がいたら、その政党や政治家はたちまちのうちに大きな政治的勢力をつくることになります。ただし、それはきわめて難しいことですが。先にあげた3つの選挙では、それを見事に組織する候補者がいたということです。

もう少しこの無党派について見てみましょう。無党派はけっして政治的に無色透明ではない、と私は思っています。最近の自民党は別にしても、私たちリベラル派が自民党の主流であったときでさえ、無党派は自民党には非常に厳しい態度をとっていました。自民党が現在のような奢り高ぶった政治をしているならば、無党派が反自民となることは明らかです。

もうひとつハッキリといえることは、無党派は反自公保だということです。自公保ブロックがどんなに無党派の歓心を買おうとしても、それは無理でしょう。無党派は、本質的に創価学会=公明党に嫌悪感・拒否感をもっているのです。このことは、公明党が政権に参加して1年以上経つのに、自公保連立に対する評価が相変わらず厳しいことをみれば明らかです。

無党派の政治的傾向でいちばん強いのは、自由ということだと私は考えています。政治的行動にあたって、政党や組織に拘束されたくないという人たちだと思っています。実はこれは無党派に限らず、自民党支持者にだって同じような傾向があるのです。自民党支持者だからといって、自民党が決めた候補者なら誰だって投票してくれるかといえば、決してそんなことはないのです。だから私たちは、自民党支持者が自信をもって支持できるいい候補者を選定するのに腐心しました。いい候補者を選ぶことに成功すれば、その時点で選挙は半分勝ったようなものです。そのような候補者がいない選挙では、どんなに努力してもほとんどの場合徒労に終わりました。

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<無党派が求める政治的自由とその可能性>

田中康夫氏Webサイト・プロフィルページ(公式サイトへリンク)なぜいま、ことさらに政治の自由化などということをいわなければならないのでしょうか。新しい憲法ができて民主主義ということが定着したようでも、国民からみたら本当の政治的自由はなかった、という思いを多くの国民がもっているからではないでしょうか。確かに選ぶ自由はそれなりにあったとは思います。会社・労働組合・業界団体・強権的地域コミュニティーなどいろいろなものが介在して、それぞれの政党や候補者への投票を組織しましたが、それでもごく一部の例外を除けば投票の自由だけはありました。しかし、それは選ぶ自由でしかありません。政党が政党の都合や利益で候補者を選定し、こうした候補者の中から選択することしかできないとき、国民は真の政治的自由を感じることができなかったのだと思います。

したがって、私がいう政治の自由化とは、国民が自分たちの意に反する候補者を拒否し、これに対抗して自分たちの希望に添う候補者を担ぎ出して投票するということを意味します。しかし、実際には無党派が集まって協議することはなく、こうした雰囲気を感じ取った候補者やグループが決起することによって、この作業は行われることになるでしょう。それは仕方のないことです。でも、このような事例が多く成功することがこのような動きを誘導し、国民が自分たちの意に添う候補者を得ることはそんなに難しいことではなくなると考えています。

このような動きが次々とでてきて、これが定着したとしたら、これは明らかにひとつの政治的な革命です。各政党はよほどシッカリしないとこの自由化の波に呑まれてしまいます。各政党ともこの危険にさらされているのです。いま、この動きの最大のネックは、実際のところ政治資金だと思います。ある程度の規模の選挙となると、宣伝の費用がかなりかかるのです。問題はそれだけです。組織対策費などは、ほとんどかかりません。無党派は組織的な存在ではないのですから、そのようなものは本来的に必要ないのです。政党が無党派に比べて優位に立っているのは、ある程度の政治資金があるというくらいのことなです。

インターネットが普及したらこの問題はかなり解決しますが、その普及率はかなりのものでなければなりません。とても現在の普及率を前提にしてこれが少し伸びたくらいでは、まだまだ現実の選挙戦では強力なツールということにはならないと思います。しかし、それはもう数年という指呼の時間の問題に過ぎません。21世紀には、政治的な広報・宣伝における大きな障碍から、国民は解放されるでしょう。これは政治の自由化を私たちが考えているよりはるかに早いペースで進めることになるでしょう。

当分の間やはり大きな役割を果たすのはマスメディアです。マスメディアが国民の側が擁立した候補者をとりあげてくれれば、無党派はほとんどの選挙で勝利することができるでしょう。しかし、日本のマスコミは勝手気ままで、知名度のある候補者については報道するにもかかわらず、そうでないものは無視するという通弊があります。これはマスコミが政治的自由化をどう評価するかという見識の問題だと思います。この点においては、マスコミも政党と同じようにひとつの危機に晒されています。栃木県知事選などは、栃木県民が明らかにマスコミを凌駕してしまったのだと私は考えます。

無党派を中心に論を進めてきたわけですが、自民党にとっても民主党にとっても自由ということがいちばん大切な概念です。自民党や民主党が自由の側に立たないとしたら、このふたつの政党は存立自体が危うくなってきます。ですから、本当に自由であるかどうかは別にして、自民党も民主党も自由ということをいわざるを得ないわけです。このように考えると、21世紀の政治をリードするキーワード・理念は、自由─自由主義─リベラリズムであるということは明らかではないでしょうか。

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5 自由によって秩序をつくる ─ 自由主義について

<政治的な自由とはなにか>

これまで、各党や無党派の政治的性格をみてきました。自民党はいうまでもなく自由民主党ですから、自由ということを抜きにこの党の存在は本来あり得ないのです。自由党にとってもこのことは同じでしょう。民主党は、党名には自由ということは謳っていません。しかし、この党の誕生やスタンスからいって、自由ということを否定しているとは思いません。鳩山党首が自らの政治理念としてニューリベラルといっていることが、このことを物語っています。保守党が自由ということをどう考えているか、仔細に調べたことがありませんから私には分かりません。しかし、この党がどういう風に考えているか、あえて調べる必要はないでしょう。

共産党や公明党は、自由をどのように考えているのでしょうか。共産党は、共産主義を指導理念としているから共産党と名乗っているのでしょう。ですから、この党が自由についてどのようにいおうが、自由主義政党でないことをこの党自身が否定しないと思います。公明党は平和とか人権をさかんに強調しますが、自由主義政党でないことはこの党の成り立ち・性格・歴史からみて明らかだと思います。土井党首率いる社会民主党は、やはり、社会民主主義を指導理念と考えているから社会民主党なのでしょう。

無党派のもっとも基本的な属性は政治的な自由だと、私はいいました。自らが政治的に自由でありたいと願い現にそう行動をしている人たちが、政治的にいちばん大切に考える価値は自由だということは想像に難くありません。無党派は、その性格からしてひとつの理念や考えで統一されていないことはもちろんです。しかし、かつては特定政党を支持していた人たちが、現在では無党派となっていることを考えると、それが旧自民党支持者であろうが旧社会党などの革新政党支持者であっても、やはりいちばん基本的な政治的価値は自由なのではないかと、私は考えています。

私は、共産党や社民党が自由を否定しているなどといっているのではありません。いや、これらの党は時には自民党や自由党以上に自由の問題にこだわり、一定の役割をこれまでにも果たしてきたことを私は率直に評価します。たとえば日本の警察や検察の人権無視の体質が引き起こした冤罪事件などで、これと戦ってきた人たちを支えてきたのは旧社会党や共産党でした。これは、日本の自由主義者が決して忘れてはならないことだと私は思っています。自由のために戦うには、ある程度の組織はどうしても必要なのですが、日本の自由主義者はそうした組織をもたなかったために、現実には社会党や共産党にたよらざるを得なかったのです。

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<政治思想としての自由主義>

いま私が問題にしている自由とは、この日本をどういう指導理念で秩序づけていくかという意味での自由という考え方です。政治的な価値観としての自由です。自由によってひとつの秩序を作っていこうと考えるならば、そういう考え方を政治的には自由主義というのです。そんなことではいい秩序などできるわけがない、一定の国家的・社会的な管理・規制・統制がなければ理想的な秩序などできるはずがないという考えが、共産主義であったり、社会主義であったり、社会民主主義なのです。私はこういう考え方に賛成はしませんが、否定する気持はまったくありません。現にヨーロッパの半分くらいの国では、社会民主主義を指導理念とする政党が政権をとっているのですから、わが国でも自由主義に対抗するこういう考え方を支持する人がいるのは当然なことなのです。

社会主義的な考え方だけが、自由主義と対立しているわけではありません。自民党や保守勢力といわれるなかにも、自由主義と対立した考えをもっている人たちがいっぱいいます。国家主義的全体主義者といっていいでしょう。私は、こうした人たちをいっぱいみてきました。自民党にいるものですからヴェールを被ってあまり世間には目立ちませんが、私はこの人たちと同じ党にいることに違和感を感じたことが多々ありました。この人たちを見分ける方法は、いたって簡単です。「自由は確かに大切だ。しかし、行き過ぎた自由はこれを許すわけにはいかない。なんらかの規制は必要だ」といって、いったん認めた自由をすぐ規制したり制限することを主張する人たちは、だいたいそういう人たちと考えて間違いありません。

自由主義というのは、いい秩序というものは国や社会が管理や規制や統制をすることによっては決してできない ── 国や社会が定めたルールのもとで国民が自由に行動することによってはじめていい秩序ができるのだという、政治的な考え方です。政治的な考え方というのは、そもそも、問題があったときどういう原理・原則でこれを解決するかということなのです。自由を保障し、国民が自由な行動をしたことによって問題が生じたからといって、その自由を規制したり制限することによって問題を解決しようなどという考えは、そもそも自由主義とは無縁なのです。

自由主義だからといって、最初からルールのない競争や行動を認めているわけでは決してないのです。一定のルールのもとに自由な行動や競争を認めているのです。もちろん、そのルールが最初からあまりにも多くの制限があるようでしたら、自由主義を認めたことにはなりません。役人が作る制度・仕組みには、けっこうこういうものが多いのです。自由主義的手法でやると決めた以上は、公正な競争や制度とするために最初に定めたルールに違反しない限り、ある程度の混乱や問題が生じても、それは自由主義的に解決するしかないのです。自由主義にはその力があると信じて、良貨が悪貨を駆逐するのを見守る・支援するという考え方が自由主義なのです。

自由を求めることは、誰もが主張することです。しかし、ひとつの国 ─ ひとつの社会を自由という概念でコントロールしようということは、かなり違ったことを意味しています。自由主義は、国民やその社会の構成員を信頼して、一定のルールのもとに自由な行動を保障することによっていい秩序を作ろう ─ そのことによってしかいい秩序などできるはずがない、という考え方なのです。自由の本来的な意味において、自由主義者はある程度の摩擦・衝突・混乱を否定しません。自由な競争という自由主義のキーワードが、そのことを象徴しています。自由主義には相当の摩擦・衝突・混乱を克服する力がある ─ 少なくとも変な政治家や役人が考える規制や制限よりもはるかにマシだという強い信念を、自由主義者はもっているのです。

これまでみてきた自由を求める人たちは、その人たち自身の自由を大切に考えるだけではなく、細かい理屈や七面倒くさい理論は分からなくても、どこかでこのような考え方やフィーリングをもっているのではないかと私は思っています。もしそうでないとしたならば、この人たちは自分の自由だけを主張し、他の人たちの自由を顧みない、結果としてアナーキーな社会を容認する無責任な人たちということになります。かれこれ半世紀近く自由を求め行動してきたわが国の国民をみてきた私には、いま政治の世界で自由を求めている人たちが、そのように無責任でアナーキーな人たちだとはとうてい思えません。ここは、信頼してもいい ─ いや信頼しなければならないと、私は考えています。

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6 21世紀はなぜ「リベラル」なのか

<リベラルとはなにか>

これまでいろいろな角度から見てきたように、日本国民がいま現実に求める政治的理念 ─ 政治的価値観は、政治的にいえばリベラルであることは明らかです。これは、国民自身がリベラルという言葉を知らなくてもまた意識していなくても、政治的にいえばこうなるということです。リベラルということをもう一度きちんと定義しておきましょう。社会的公平を重視する自由主義のことです。セーフティ・ネットをきちんと整備している自由主義とです。

現代の自由主義を大別すると、自由主義でいくけれどもこのように社会的公平やセーフティ・ネットを重視する考え方とあまりこのようなことを重視しない考え方があります。前者が現在ではリベラルとかリベラリズムと呼ばれ、後者が新保守主義と呼ばれています。しかし、どちらも自由主義であることはまぎれもないことであり、リベラルな自由主義を主張するか新保守主義と呼ばれる自由主義を主張するかは、その社会がおかれている状況によって決められることだと私は思っています。

リベラルが主張する社会的公平やそのためのセーフティ・ネットをあまりにも重視しすぎると、確かに自由主義であるかどうかも危うくなってくることもあります。イギリス病などと揶揄されたかつてのイギリスなどは、そうした例のひとつでしょう。サッチャー首相が新保守主義を果敢に掲げて、イギリスの大改革をやったのはそういう事情があったからです。アメリカにおいても、リベラルと称される勢力のあまりにも放逸かつ怠惰な社会的動向があったため、またこれと期をいつにして長い不況が続いたために、レーガン大統領が新保守主義を掲げてアメリカの改革に果敢に挑戦しました。このふたつの新保守主義の改革は成功したと思います。

日本でも新保守主義的な主張をする人もいますが、私は日本ではいま新保守主義的な動きはまだ必要ないし、歴史的にも日本の自由主義はまだそこまで成熟していないと考えています。もっと端的にいえば、いまわが国にある自由主義を阻害する要因は、そもそも自由主義以前の問題なのだと思っています。

リベラルが主張する社会的公平やセーフティ・ネットは、いろいろな分野で自由化をしたところ、いろいろな弊害がでてきたためこれを何とかしなければならないとして実施されたものです。日本で問題になっている諸問題は、本当はまだ一度も自由化されていないということに最大の問題があるからです。自由化をしてみてはじめてどのようなセーフティ・ネットが必要か明らかになってきます。そしてそのセーフティ・ネットが度を越してしまった場合、これをどう見直すかが新保守主義の課題であったからです。

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<リベラリストの挑戦>

日本の政界でリベラルということがさかんに膾炙された 1994〜5(平成6〜7)年ころ、当時社会党の救世主として期待されていた横路北海道知事 (現衆議院議員・民主党副代表)が、あるテレビ番組で「社会的公平・社会的平等を重視する考えを、アメリカではリベラルといい、ヨーロッパでは社会民主主義というのだ」といっていました。これを聞いた私は、社会党のホープといわれている人でもこの程度の認識しかないのかと、率直なところ愕然としました。ヨーロッパでもアメリカでも、リベラリストが頑迷固陋な古典的自由主義者と戦って、いろいろなリベラルな制度を作ったのです。この人たちは、いずれも烈々たる戦う自由主義者でした。

自由主義や自由化政策は、その本来的性格からいってどうしても不平等をもたらします。それはある程度どうしようもないことです。多くの自由主義者は、そのようなことを仕方のないこととして考えたのですが、それに対してこの問題を何とかしなければならないと主張し戦ったのがリベラルといわれる勢力 ─ リベラリストであったわけです。リベラリストが対峙した自由主義者を、私たちは現在では古典的自由主義者と呼んでいます。当時のリベラリストたちは、この人たちを保守主義者と呼んでいました。行き過ぎたリベラルな制度を見直して本来の姿にしようという主張をいま新保守主義と呼ぶのは、こんなところからきているのだと思います。

リベラリストたちは、自由主義の本来的矛盾である不平等という問題になぜ挑戦したのでしょうか。もちろん単純な正義感もあると思います。しかし、そうだとしたならば自由主義を諦めるしかありません。リベラリストが社会的不平等を問題にしたのは、この問題を完全に放置していたのでは自由主義そのものが危うくなってくるという、強い危機感だったと私は思っています。

国民が自由主義そのものを否定していなくとも、あまりにも社会的不平等が大きくなった場合、政治的には自由主義はもたなくなります。自由主義の本来的矛盾である不平等に、自由主義の本然の原則を守りながらこれが社会的な不公平にならないようにどうするか、これがリベラリストのテーマであり課題です。ただここで重要なことは、リベラリストたちは自由主義を否定はしていないということです。いや、熱烈な自由主義者であるということです。熱烈な自由主義者であるがゆえに、自由主義を政治的に崩壊させるような社会的不平等・不公平を看過しないところにリベラリストの真骨頂があります。このところを理解しないと横路さんみたいにリベラリズムも社会民主主義も一緒ということになってしまうのです。

自由主義を否定せず、自由主義の本来的矛盾である不平等という不公平感をなくするということは、決して簡単なことではありません。いや、非常に難しいことです。しかし、リベラリストたちはこの困難な問題に果敢に挑戦してきました。そしてそれは可能なことでした。社会主義者や共産主義者が偽善だとか不可能だといってきたこの問題をなぜリベラリストたちは解決できたのでしょうか。

それは、それぞれの国でやはり自由主義を支持する国民が多くいたからです。このことは、現在でも基本はまったく変わりありません。ソ連邦の崩壊ということに気を許して、自由主義が本来抱えているこの矛盾に目をつむると、自由主義体制に対する疑問や反対がいつ噴出してくるか分からないということを、自由主義者は決して忘れてはならないと私は考えています。

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<21世紀初頭の政治理念は、なぜリベラルなのか>

私は、21世紀初頭の10〜15年くらいの日本をリードする政治理念は、リベラルだと考えています。きっとそうなるでしょう。それは、日本ではまだあらゆる分野で自由化がなされていないためです。これからの日本の政治課題は、あらゆる分野の自由化です。これは裏を返せば、日本には政治的・経済的・社会的にまだまだ自由がないということです。現に自由を阻害している制限や規制や社会的因襲が数多くあります。しかし、それらはそれなりに自由競争の結果もたらされる不平等を阻止していることも事実です。自由化を進めることによって、このような不平等が顕在化してくることは避けられません。

くどいようですが、自由化をはかりながら社会的にたえられない不公平・不平等は回避する、というのがリベラルな考え方です。わが国の自由化政策は、すべての分野においてこのような仕組みをセットしながら進めていかざるをえないでしょう。それがまた国民の基本的なコンセンサスだ、と私は思っています。たとえば、預金や生命保険を金融機関や保険会社が破綻しても1000万円までは保護するペイオフ制度はそのひとつでしょう。このようなマインドがあることを理由に、官僚機構は制限や規制を撤廃しないようにしたがっていますが、それは間違っています。日本はあらゆる分野の自由化をしなければならないのです。自由化をした上でどのようなセーフティ・ネットを設けるかを考えていかなければならないのです。一見似ているようにみえるかもしれませんが、それは現在の制限や規制とは性格が全然違うことなのです。ここのところを私たちはキッチリと見分けなければなりません。

強大な官僚組織の制限や規制あるいは日本的な慣習や因襲で守られてきたわが国の秩序は、自由化によってある程度の混乱やフリクッションを避けてとおることはできないでしょう。またこのことを見こしたり想定して、左右の全体主義者などとはいいませんが非自由主義者たちは、自由化に反対するでしょう。国民はこうした人たちと戦わざるをえないでしょう。しかし、あらやる分野で果敢に自由化を進める以外に、厚い壁に突当っているわが国の諸問題を解決する方法はないのだということを、私たちは心に銘じておかなければなりません。

第二次世界大戦に敗れ、すべてのものを失ってしまったわが国が奇跡の復興を成し遂げたのは、新しい憲法によってそれまでより大幅な自由を国民が手にしたからだと私は考えています。自由を手にした国民は、あらゆる分野で自由闊達に行動し、新しいものを作ってきました。21世紀においてわが国がひきつづき発展するためには、国民の能力や活力や智慧を信頼するしかないのです。自由主義者が自由化を主張するのは、国家・国民を愛するからです。自由主義者はアナーキストでもなければ、無責任な政治家ではないのです。人類の歴史が明らかにしている自由主義の原理原則に揺るぎない信念をもつ政治家なのです。国民の能力と活力と智慧を信頼している政治家が、リベラルな政治家なのです。

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7 リベラルの政治的行動

すべての国民がリベラルな政治意識をもっているなどという気は毛頭ありません。いろんな政治的考えがあることを否定もしませんし、あってもいいと思っています。しかし、6〜7割の国民の政治的意識・価値観はリベラルなものである、というのが私の考えです。仮に、多くの国民にその意識がなかったとしても、その人たちのいっていることや行動を分析すれば、これは否定できない事実だと私は思っています。リベラルな政治理念・政治的価値観をもつ人たちが、どのような政治行動をとっているのか、みてみたいと思います。

<自民党がリベラルの支持を失った二つのこと>

自由主義を支持するほとんどの人たちが55年体制のもとで自民党を支持してきたことは、否定しがたい厳然たる事実だと思います。なぜなら、自民党以外の政党は、自由主義以外のものを指導理念としてきたからです。しかし、自民党が自由主義に忠実な党であったかどうかは別問題です。まったくゼロなどという気はありませんが、他に自由主義を主張する政党がなかったために、自民党があまり自由主義に忠実でなかったとしても、リベラルな人を含めて自民党を支持するしか選択肢がなかったことは確かだったと思います。

冷戦構造が崩壊して事情は一変しました。これと相前後して起こった自民党の分裂が、これに拍車をかけました。そして現在の国民の政治意識・価値観と支持政党の関係はかなり複雑です。ミスマッチもかなりあります。まず、自民党からみていきます。これまでの長い歴史からいって、この党のなかにリベラルな潮流はまだ厳然とありました。それゆえに自民党を支持する人たちがかなりいたことは事実です。これは自民党のひとつの遺産といっていいと思います。しかし、わずかの間に大きな変化が生じました。

そのひとつが、自民党が公明党と連立を組んだことです。公明党との連立によって、自民党はこれまで自民党を支持してきた宗教団体の票を失ったということはよくいわれています。このことは事実ですが、それだけではないのです。公明党との連立によって、自民党はリベラルでないという馬脚を現してしまったために、これまで自民党にリベラルなものを求め期待していた人たちの支持を失ってしまったのです。

もうひとつは、最近の加藤騒動です。加藤氏は、本人が意識するかどうかは別にして、自民党リベラル派の頭目であり代表とみられていました。そして、それはそんなに大きな間違いではなかったと私は思っています。加藤氏の決起は、自民党リベラル派の決起でした。その加藤氏の決起をみるも無残に鎮圧した自民党を、リベラルなものを求め期待してこれまで自民党を支持してきた人たちは完全に見放してしまいました。 この変化が最初に現れるのは平成13年夏の参議院選挙です。それは、自民党の多くの人が考えるよりかなり大きいものだと私は予想しています。そのかわり、リベラルのものを求める人たちと自民党とのミスマッチはかなりなくなったと思います。

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<自由党や民主党とリベラル>

自由党ですが、自由主義的な人たちの支持を受けていることは、小沢党首の経歴や主張や党名から明らかです。しかし、リベラル志向の人たちの支持を受けてきたかというと、これまた小沢氏の経歴や言動がわざわいして、そのような人たちがいないとはいいいませんがあまり多くはないような気が私にはします。創価学会=公明党と最初に政治的な連携をやったのが小沢氏であったということは、率直にいってリベラル派にはかなり受け入れがたいものがあり、これがかなり大きな原因となっていると私はみています。

民主党は、新党さきがけの鳩山由紀夫氏と菅直人氏が中心になって旗揚げした政党です。少なくとも鳩山氏や菅氏が掲げる理念には、リベラルなものがかなりあります。現にこのため、リベラル志向の人たちのかなりの層が、自民党支持から民主党支持に移ったことは事実です。しかし、旧民主党結成のときにかなり多くの旧社会党の人たちが入ったこと、現在の民主党になるときには旧新進党の人たちがかなり多数参加したことが、この党の性格をいまひとつハッキリしないものにしています。リベラル志向の人たちが大挙してこの党に向かわなかった原因も、こうしたことにあると私は思っています。

最近になって、鳩山代表と横路副代表との間に集団的自衛権をめぐって論争・確執がありました。このことは集団的自衛権をめぐっての論争の是非というより、この党が旧社会党的なものを根強く引きずっていることを、改めて強く国民に印象付けたと思っています。この党に、リベラルな考えをする人たちとそうでない人たちが混在していることは確かです。現在はリベラル派がこの党の主流派を形成していますが、実際の選挙となると労働組合に大きく依存せざるを得ないために、自由主義政党さらにはリベラルな党に純化していくには大きな障害があります。これがこの党の最大の問題であり、課題でしょう。

リベラル志向の人たちが公明党を支持することは、ほとんどネグジェブル(negligible=無視できる) と考えていいのではないでしょうか。共産党には、若干のリベラル派の票が流れていると私は思います。自民党がリベラルでないと考える人たちが、批判票を投じる意味で共産党に投票しているからです。社会民主党にも、同じような意味での批判票が入っていることも事実でしょう。人権闘争などを通じて、リベラル派の支持がこの両党にあることは否定しがたい事実でしょう。

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<無党派と無関心層の違い>

世論調査で支持政党なしと答える人たちが、50パーセント前後になっています。この人たちのことを、ふつう、無党派もしくは無党派層と呼んでいます。またこの人たちも、自らを無党派もしくは無党派層とよくいいます。無党派もしくは無党派層という言葉は、実はそんなに古い言葉ではなく、10年くらい前から使われだしたいい方です。それ以前は、政治に対して関心がないという意味で、無関心層と呼ぶことが多かったと思います。また、この人たちの票を浮動票と呼んだりしていました。

ふつう、無党派層と呼ばれる50パーセント前後の「支持政党なし」と答える人たちを、ひとくくりに無党派層ということに、私は前から異論をもっています。支持政党なしとする人たちのなかには、政治にほとんど関心がないため特に支持政党もなく、また選挙のときほとんど投票に行かない人たちは、昔と同じようにいまだってかなりいるということです。一方ではその人たちと違い、政治に関心もあるし (特定政党を支持する人たち以上に深い関心をもっている人も相当います) 選挙のときには実際に投票するにもかかわらず、特に決まった支持政党をもたない人たちも、世論調査上は同じ「支持政党なし」となるわけです。歴史的には、こうした人たちを「無党派」と呼びだしたのです。

政治にほとんど関心もなく、実際に投票にもほとんど行かない人たちのことは、「無関心層」といっていいのではないでしょうか。これと無党派もしくは無党派層 (以下、無党派といいます) と呼ばれる人たちは、やはり分けて考えなければなりません。それでは、世論調査で支持政党なしと答える人たちのどのくらいが無関心層で、無党派の割合はいったい何パーセントくらいなのでしょうか。

専門家にいわせればいろいろと説はあるとは思いますが、無関心層といわれる人たちも政治状況や選挙情勢によって投票に行くこともけっこうあり、絶対的なものではありません。ですから、その割合・比率を厳格に論ずることにあまり意味はないと考えます。私の経験からいえば、無党派と呼ばれる人たちは支持政党なしと答える人の半分よりちょっと多め、と考えてそう大きな間違いはないと思っています。

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<無党派の政治的傾向>

無党派の政治的意識 ・価値観は、リベラルなものだということは先にのべたとおりです。そして、その政治的行動は非常に反自民的だということも先にのべました。無党派の多くは、すでに自民党にリベラル的なものを感じていないということです。しかし、民主党にも自由党にも自分たちの政治意識・価値観にマッチするものを感じることができないため、あえて無党派として存在しているのだと考えます。

ただ、無党派の実際の投票行動は、民主党や自由党などに投票する傾向が強くあります。民主党の候補者が獲得する票は、世論調査上の民主党の政党支持率の2.5倍〜3倍と私がいつもみているのも、こうした理由があるからです。これは、何が何でも民主党ということではないのです。その選挙において自民党以外の有力な候補者がいれば、民主党候補ではなくとも、無党派の票はその有力候補者に向かいます。無党派は民主党に縛られてはいないのです。だから、無党派なのです。 無党派は、いっさいの政党支持を拒んでいるわけではないと私は考えています。ですから、無党派がアイデンティティーを感じることができる政党が出現したら、その政党は非常に短期間のうちに大きな勢力になることができるでしょう。政界再編成ということがいわれていますが、要は国民の多くがアイデンティティーを感じることができる政党をつくる試みだと私は思っています。無党派のアイデンティティーを掴むことに成功するということは、いまある政党を支持している人たちの多くも巻き込むこともできるでしょう。そういった意味で、無党派の政治行動を今後とも注意深くみていく必要があると、私は考えています。

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8 おぞましい政治的虚空と21世紀の課題

<政権の受け皿論>

保守党Webサイト(サイトへリンク)1月7日に放映されたNHKの「日曜討論」で、保守党党首の扇千景さんが、「野党は自公保連立政権打倒というけれど受け皿がないじゃないですか。私たちには、自公保という受け皿がちゃんとあります」といっていました。私は扇千景さんが自民党にいたときからよく知っています。扇さんは、自民党が野党になった平成5年にはまだ自民党にいました。党の政治改革本部の会合などで、こんな自民党ではもうダメだというようなことをさんざんいっていました。自社さ政権ができる少し前に、自民党を離党していったと記憶しています。

この人は宝塚出身だけに演説はたいへん上手く、いろいろの会で自民党の宣伝をしていましたが、要するに自民党だけが政権担当能力がありますという類の演説をしていたことを憶えています。旧福田派に属し、いわゆる自民党保守派の宣伝政治家といっていいと思います。扇さんの冒頭の言い草を聞いて、もう少し若かったころの彼女の雄姿を改めて思い出し、それと二重写しなものを感じました。人間というのは変らないというのか、進歩しないといえばよいのか、まあそういうものです。

扇さんのことはいいとして、各種の世論調査などで自民党がいちばん評価されているところは、政権担当能力があるということです。自民党のいいところは、現に政権党であるということと政権担当能力がいちばんあると見られていることといってよいと思います。しかし、多くの国民は自民党の政治を支持していません。矛盾といえば、これほどの矛盾はありません。これはもう笑えないジョークです。どうしてこんなことになるんでしょうか。

細川内閣私にいわせればこういうことです。ある程度の数のある政党なら、またどんな連立の組み合わせだって政権を担当することはできるということです。また、いま現に政権を担当している自公保連立にも真の政権担当能力なんてないということです。現に細川連立内閣だって存続しえたし、自社さ連立政権だってけっこう長く続きました。いわゆる革新自治体だってけっこう持ちました。日本の官僚機構はそれほど優秀だし、したたかだし、また尊大だということです。政党や政治家をちゃんと立てることをしながら、自分たちのやってきたことを少しも改めようともしなければ、譲りもしないということです。

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<真の政権担当能力とは>

ある政党に政権担当能力が本当にあるかどうかは、その政党が掲げる政治的理念にしたがって官僚組織をちゃんとコントロールして、実際の行政のやり方を変えさせる力があるかどうかということです。そんな能力など自民党にだって全然ないとはいいませんが、ほんのわずかであってほとんどない、といった方がいいでしょう。長年この党にいる、そして大臣もしたこともある私がいうのですから間違いありません。政策通といわれる政治家のほとんどは、課長補佐や係長が持っている知識を知っているというという程度の話であって、官僚の論理のどこが間違っていてそれをどう変えさせるかという能力ではないのです。本当に政治家に求められている能力とは、そういうものだと私は考えます。

いま、みんなが政治は変らなければならないといっています。国民は政治を変える力を持っています。しかし、実際の政治を変えるためには、官僚組織をちゃんとコントロールして行政のやり方を改めなければ、国民が願っている政治を変えることにはならないでしょう。そのためには、本当に優秀な能力のある政治家や政党が必要なのです。ある程度の政党は、官僚組織に対抗する知識と能力のあるシンクタンクを作るくらいのことをしなければならないと思います。

しかし、こんなことは一朝一夕にできることではありませんから、役職についた政治家が修羅となってやらなければならないことだと考えます。自治大臣になったとき、私は自治行政にそんなに知識があったわけではありません。それでもいくつかのことをやりました。まず、地方自治体が外国人を採用するかどうかは、その地方自治体の自由にするということでした。それまでは、自治省は事実上何の法律的根拠がないのに「当然の法理」としてこれを制限していました。

橋本内閣・白川自治大臣自治省は、都道府県や大きな地方自治体に多くの自治省職員を出向させています。そのことはいいとしても、私は同じポストに連続して出向することを止めさせました。そうすれば、その自治体の特定のポストが自治省枠として固定することを防げると考えたからです。私がこの構想を発表したところ、同じ内閣で厚生大臣をしていた小泉純一郎氏と建設大臣をしていた亀井静香氏も、「わが省もそうする」と賛同してくれました。しかし、ふたを開けてみると実際は全然変っていませんでした。私はひとつの例外もなく実行しました。こんなことは、大臣が頑として厳命すればできるのです。

このほかにも、投票時間の延長・不在者投票の条件緩和を徹底的にやるように支持しました。その結果、現在のようになったのです。自民党からはずいぶんと恨まれていますが、民主主義のためにはいたしかたないと思っています。また、新幹線の建設に交付税措置を行い、新幹線建設費を50パーセントUPしました。これなどは、財政局長と3日間徹底的に議論して決めました。それまでにも問題になったことはあるのですが、官僚の抵抗にあって決められなかったのです。

私は自治行政にそんなに深い知識や経験もありませんでしたが、わずか10ヶ月の在任期間でもやる気になればこのくらいのことはできるのです。大臣にはそれだけの権限があるのです。ですから、政党や政治家が本気に行政を勉強して、いま国民の視点にたって改革しなければならないのは何かを真剣に考えれば、政治はいくらでも行政を変えることができるのです。そういった能力のある政党や政治家が、本当に政権担当能力のある政党であり政治家だと私は考えています。またこのようなことが実際にできるようになったとき、政治指導の政治(行政)が行われたということができるのだと考えています。

最後にもうひとつ、この際いっておきたいことがあります。それは、官僚の堕落ということです。明治以来のわが国の官僚は、「我は、国家なり」という気概と気迫をもって仕事をしてきました。日本に本当の政治家がいなかったのですから、彼らがそうした気概と使命感をもってこの日本の設計をしてきたのです。明治・大正の高級官僚は、官僚であるとともに政治家でもあったのです。戦後の復興をリードした官僚にもそのような気概と気迫がありました。私が国会にでた1979(昭和54)年のころは、少しはそのようなものを感じさせる官僚もいましたが、最近ではそのような官僚は本当に少なくなってしまいました。優秀な官僚がそういうんですから、このことはまず間違いないと思います。官僚自身も自己改革をしなければならないとこの際ハッキリといっておきます。

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<藤原弘達氏が「ファッショ」と予言した自公連立>

1970(昭和45)年に起こった言論出版妨害事件であまりにも有名なamazon.co.jpへのリンク『創価学会を斬る』の中で、藤原弘達氏はこういっています。

1文字アキ「(公明党が)自民党と連立政権を組んだ時、ちょうどナチス・ヒットラーが出た時の形態と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における狂信的要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁を安定化する機能を果たしながら、同時にこれをファッショ的傾向にもっていく起爆剤的役割として働く可能性を非常に多く持っている。そうなった時には日本の議会政治、民主政治もまさにアウトになる。そうなってからでは遅い、ということを私は現在の段階において敢えていう。」慧眼というのは、恐ろしいものです。30年後のいま、まさに自民党は公明党連立を組んでいます。そして中曽根元首相・石原都知事・野中弘務・亀井静香などといった政治家が、異常に張り切り権勢を誇っています。自民党は選挙で負けながらも、なぜか自公保連立政権は安定しています。そして、長年の懸案事項があまり本格的な議論もない中で、トコロテンのように次から次と国会を通過しています。まさに藤原氏が危惧していた事態が現に起こっています。だから、国民は自公保連立政権に強い危惧をもち、一貫して不支持の表明をしているのだと私は思います。

しかし、政治の世界で公明党の政権参加を問題にし、批判する人はほんのわずかとなっています。マスコミも労働組合もほとんど問題にしたり、批判していません。本当は心のなかではおかしいと思いながらも…。なぜなんでしょうか。率直にいって創価学会=公明党が怖いからだと思います。事実、創価学会=公明党は敵対者や批判者に対して容赦ない攻撃を仕掛けています。私自身がそのことをこの数年間しっかりと経験しています。その一方で、創価学会=公明党は、いろいろな懐柔策を膨大な組織と豊富な資金を使って行っています。その結果なのです。私は、ここに一種のファシズム的なものを感じ、深い危惧もっているのです。

三党党首国民は自由を求めているにもかかわらず、藤原氏がファッショと呼ぶ自公保連立などというものが、これに対峙しています。日本の政治を考えるとき、これがもっとも大きな本質的な問題だと私は考えています。しかし、自由を求める大河の流れにも似たこの流れを堰きとめることなど、誰もできるはずがありません。このことをシッカリと認識し果敢に行動することが、自由を愛する政治家がいまなすべきことです。

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<政治家は、自らを束縛する政党から自由たれ>

私は、信濃川をみて育ちました。いま自分が見ている河が日本一の河であるということは、私の人間形成にかなり大きな意味をもったことは事実です。いま、私たち政治家がいちばん真剣に考えなければならないことは、国民は何を考え何を求めているのかということです。 1億2700万の日本人のものの考え方や意見は、それこそ無数にあります。しかし、それらを貫き大勢としてどこに向かっているのか、また向かうべきなのかをみる眼力がなければ、政治家ではないと思います。

現在の政治的・経済的・社会的現象を貫くいちばん基本的なコンセプトは、自由です。この流れは大河の流れのように誰もおしどどめることはでしません。そして、それは評価すべきことだと私は考えます。私は、自由を求める国民がアナーキーな無責任な動きをしているとは思っていません。自分の自由を求める国民は、他人の自由を尊重することをちゃんと心得ているとみています。このことさえシッカリしていれば、自由主義の原理でこの国を運営していくことは大丈夫なのです。多少の例外がないわけではありません。しかし、いま私たちがみなければならないのは、大勢なのです。目の前の大河の流れなのです。

この日本を自由主義の原理で運営していくことは、いまや国民的合意があります。しかし、これをちゃんとわきまえた政党があるかというと、先にみたとおり、自民党にも民主党にも自由党にもそういう人もいれば、残念ながら自由主義者とはいえない人もけっこういます。すべての問題はここにある、と私は考えます。本来ならばそれぞれの党がこのことについて真剣に議論して、本当に国民の期待に添う党になったならば、その党は多くの国民の支持を得ることができるでしょう。

政党にはそれぞれ歴史もあり、経緯もあります。そう純粋な理論や原理だけでひとつの政党を作れるものでもありません。それはある程度やむを得ないことだとは思います。しかし、これだけ政党離れが進んでいることを、政治家は真剣に受け止めなければならないと思います。いまいちばん国民の支持を多く受けている自民党も、公明党との連立と今回の加藤騒動で、自由を愛する人たちの支持を大きく失ってしまいました。自由を愛する国民からみたら、自公保連立政権は特殊な人々が作っている政権との思いがあるのだと私は考えています。それが極端に低い内閣支持率となって表れているのです。

自民党についていえば、リフォームによって自由民主党という名にふさわしい党となることは、もう不可能なのではないかと私は考えています。加藤騒動がこのことをハッキリさせてしまいました。他党のことを私はここでどうこういうつもりはありませんが、似たような事情がそれぞれにあるように感じます。少なくともリフォームをする程度で、自由を求める国民の大多数の支持やアイデンティティーを得ることができるような政党はないように見受けられます。国民の政治に対する深い不信や絶望はここにあるのだと私は思っています。本当は政党こそ、自らに対してまず深い危機感をもたなければならないのです。

国会議事堂正面写真現在の状況は、ちょうど幕末に似ていると思います。政治家はみなそれぞれ政党や派閥に所属しています。しかし、21世紀の政治や国民の政治意識からみたら、それはあまりにも古くものであり硬直化しています。その政党や派閥を少々リフォームしたくらいでは、新しい世紀の課題に応えることもできませんし、国民の政治的意識にマッチしたものとなることはできません。賢明な政治家はもうこのことに気がついているはずです。幕末の志士たちが、それぞれの藩を離れて日本という国を考えたとき、明治維新が始まりました。これと同じようなことをいま政治家は考えなければなりません。それが、現在の政治を閉塞状況から解き放つ唯一の道だと私は考えます。

自由を愛する政治家は、己を束縛している政党から自由であること。これが21世紀初頭の政治の最初の課題です。リベラルという政治理念に忠実に政治家が命を賭けて新しい行動を起こすことが、21世紀の希望の政治をつくる唯一の道であると私は考えます。

(了) 目次へ戻る

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跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)
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