私のWebサイトの"書き込み交流広場(BBS)に、多くの方々が政教分離についての考えを述べておられます。これに関連してこれまで述べてきたことに若干の新しい見解を付け加えて私の考えを述べてみたいを思います。
1 政教分離とは何と何を分離することか
政教分離とは、いったい何と何とを分離せよということなのでしょうか。政教分離の「政」とは、政治権力のことであります。政治という意味ではありません。政治権力とは、具体的にいえば国家権力と地方公共団体の権力です。政教分離の「教」とは、宗教団体のことです。教団といってもいいでしょう。宗教一般という意味ではありません。まず、このことをハッキリさせないと単なる言葉の遊びになってしまいます。
そして、政教分離を論ずるとき、いま一番問題になっている条文は、いうまでもなく憲法20条1項の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」です。ここにいう「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」とは、だれに対しどういうことを禁止しているのかということです。信教の自由を大切に考える立場にたつ者は、これを厳格に解釈することになるし、そうでない立場にたつ者は比較的ルーズに解釈することになります。私は、憲法20条は憲法19条とならんで国民の自由権を保障する最も根元的な規定であると考えますから、当然のこととして厳格に解釈する立場に立ちます。ちなみに、憲法19条とは「思想及び良心の自由は、これをおかしてはならない」という規定です。
「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」の主語は、宗教団体であることはいうまでもありません。創価学会や公明党は、憲法は権力を規制するものであって宗教団体を含めてそれ以外のものを規制するものではないと主張しています。ですから、この条文も「国家権力が宗教団体に政治上の権力を行使させてはならないことを定めているのだ」と主張していますが、そのように解釈しなければならない根拠は特段ないと思います。憲法は現に国家権力以外の者に対してもいろいろな規制をしています。一例をあげれば、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う」(憲法30条)。従って、この条文は宗教団体が政治上の権力を行使することを禁じている解すべきです。
2 宗教団体の政治活動の制約ないし限界
それでは、「宗教団体が政治上の権力を行使する」とはどういうことをいうのか。この条文の解釈のいちばん肝心なところです。
まず、創価学会や公明党の考えをみてみましょう。創価学会や公明党は、「宗教団体が国や地方公共団体から委託を受け、裁判権や徴税権や警察権を行使すること」が、宗教団体が政治上の権力を行使することであり、これは憲法違反になるが、それ以外のことは何の制限はないといっています。しかし、現行憲法のもとでは、宗教団体が国から委託を受け裁判所や徴税権や警察権などを行使すること自体が違憲といわざるを得ません。そして、事実上も想定することすらできません。例えば、創価学会が国から委託を受け裁判権を行使するというケースを考えてみましょう。誰がいったい裁判官をやるのでしょうか。誰が検察官になるのでしょうか。そのような暗黒裁判の被告人の弁護人はどういう資格をもった人がなるのでしょうか。想像することさえできません。私の見解に対する執拗なくどくどとした創価学会や公明党の反論を要約して裏返すと以上のようになります。
国民の信教の自由を真剣に考える立場にたてば、創価学会や公明党のこのような解釈をとりえないことは明らかです。この条文の解釈は、信教の自由を守るという理念にたって解釈しなければなりません。まず最初に、憲法がなぜ宗教団体と権力との関係を問題とする規定を設けたのか考える必要があります。それは、立派な宗教者は世俗の権力などには無関心かもしれませんが、一般の人々にとっては世俗の権力というのは大きな意味をもった存在だということです。ある宗教団体が権力と特別の関係をもったとき、その宗教団体は他の宗教団体や無宗教の人々に対して優越的地位を得ることになり、他の宗教団体や無宗教の人々の信教の自由を守るという見地からみて好ましくない、こう考えたからだと思います。ある宗教団体がその信じるところを布教するに際し、世俗の権力を使ったり利用してはならないということを定めた規定であると私は考えます。
このような立場にたって、「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」を解釈すると、これはかなり広範囲に宗教団体の活動を規制していると考えます。確かにいかなる宗教団体も、ひとつの結社として政治活動をすることは憲法で保障されています。しかし、一方ではいかなる宗教団体も政治上の権力を行使することを憲法は明確に禁止しています。問題は、宗教団体の政治活動の憲法上の制約もしくは限界は何かということです。ひとつの結社である宗教団体に政治活動の制限を加えることは、憲法21条に定める集会・結社・表現の自由などの規定から許されないのではないかとの考えもあります。しかし、信教の自由を守るというより高次元の目的のため宗教団体に一定の制限を憲法自らが設けることはありえることであり、憲法は何ら矛盾していないと考えます。
3 「政治上の権力の行使」とはなにか
私は、ある宗教団体が実質的に支配する政党(以下、宗教政党といいます)を組織し、国政選挙に候補者をたてて選挙に臨むことは憲法上禁止されていると考えます。なぜでしょうか。それは、いかなる政党も国政選挙に出る以上権力獲得を目指すからです。宗教団体が直接であれ、間接であれ、権力を獲得しようという行為こそ、「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」として憲法がまさに禁止していることなのです。その宗教政党から何人当選者が出たということは本来関係ありません。ある宗教政党が、政権を単独で獲得するためには、衆議院で過半数以上をとらなければなりません。しかし、連立政権の場合ならば、なにも過半数をとる必要はありません。この場合でも、その宗教政党は国家権力に大きな影響力を行使できます。
宗教団体は、宗教政党を介在させることにより、国家権力を直接掌握することもできれば、国家権力に対して大きな影響力を行使することもできます。
憲法は、宗教団体がこのようにして政治上の権力を事実上支配すること、また支配しようとすることを「政治上の権力を行使する」こととして禁止しているのです。特定の宗教団体が国家権力を事実上支配した場合、その宗教団体は他の宗教団体と比べ権力との関係で優越的地位を得ます。特定の宗教団体がこのような優越的地位を得ることを防止するために、憲法は政教分離の原則を定めたのです。
創価学会や公明党は、両者は法律的には別個の存在であると盛んに主張していますが、法律的に別個の存在であることは当然です。そんなことが問題なのではなくて、創価学会と公明党との関係が支配ー被支配の関係にあるのかどうかが問題なのです。創価学会に実質的に支配されている政党であるかどうかなのです。創価学会と公明党は、両者が政教分離していることを世間に印象付けるためにいろいろな努力をしていることは確かです。しかし、公明党という政党は、創価学会という宗教団体を抜きにして存在し得るのでしょうか。私は存在することはできないと考えています。その存在自体を創価学会に依存している以上、公明党は創価学会に実質的に支配されている政党といわざるを得ません。
また、創価学会や公明党は、公明党が国会に進出してから信教の自由を脅かすようなことをただの一度でもしたことがあるかといいます。公明党は、信教の自由をどの政党より大切に考える政党だとも主張しています。しかし、もし公明党が信教の自由を脅かすようなことをしたとすれば、それ自体が大問題です。公明党が国会に進出すること、そして現在のようにわずかな議席とはいえ現に自公保連立政権の一角を占めていることが問題なのです。公明党の連立政権への参加は、公明党を実質的に支配している創価学会が政治上の権力を行使しているといえると考えられるからです。これこそまさに、「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」という憲法の規定に真正面から違反していることではないでしょうか。
4 国会議員の責務と政治家の使命
このような事態を目の当たりにしてこれに目を背けることは、国会議員として、また政治家として許されることでしょうか。憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と定めています。これは憲法遵守義務と呼ばれています。たとえ私と同じ考え方にたたないとしても、憲法に「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」とある以上、日本語を普通に理解する者ならば自公連立は憲法上疑義があると考えるのは極く自然なことではないでしょうか。自公連立を積極的に推進した政治家はいずれ歴史の断罪を受けることでしょう。多くの国民は自由民主党と公明党の連立に反対してきました。このような状況があるにもかかわらず、自らの政治的利益を優先し自公連立を消極的であれ容認してしまった政治家も、その責任を歴史に問われることになるでしょう。自由民主党の国会議員としてその渦中にいてこれを阻止し得なかった私は、自らの非力を不甲斐なく思います。そして、創価学会=公明党の攻撃を受け現在の境遇にあることはその贖罪と思っています。
政治家の使命とは一体なんでしょうか。いうまでもなく国家の独立を守り、社会の安全を確保し、国民の政治的・経済的・社会的自由を増進することであります。昭和20年戦争に負けたわが国を廃墟の中から今日の繁栄する国にしたものはいったい何だったのでしょうか。廃墟の中とはいえわが国には、高い教育を受けた国民がいました。高い技術力もありました。そして、民族的団結心もありました。しかし、新しく制定された日本国憲法が国民に自由を保障したことにより、国民の能力が各分野にわたって引き出され、これが結実した結果であることはだれも否定できないのではないでしょうか。このようにして発展してきたわが国もあらゆる分野で閉塞状況に陥り、政治的・経済的・社会的発展が停滞しています。いま、わが国に必要なものは、いま一歩高次の自由です。あらゆる分野での自由化を進め、国民の自由闊達な行動を確保することです。これ以外に、わが国が今日の閉塞状況を打ち破ることは決してできません。
21世紀を目前にしたこのときに、また日本の自由をいま一歩推し進めなければならない現在、自自公連立そして自公保連立政権が誕生したことは、わが国の政治家が考えている自由のレベルを十分に物語るものです。公明党が参加している政権は憲法20条に違反する政権であり、それ自体が「思想・良心・信教の自由」を脅かすものです。このような政権のもとでは、国民の自由闊達な活動がなされそれらが結実していくことを期待することはとうていできません。政治的自由のないところには、経済的自由も社会的自由も決して期待できません。そればかりではなく、公明党の政権参加は社会のいろいろな場面で亀裂をもたらしています。宗教は魂の救済をもとめるものです。従って宗教的パッションに基づく自公連立反対は、政治を非常にギスギスしたものにしています。政治に和解できない対立を生んでいます。また自由を基調とする先進諸国から、わが国は早晩侮蔑と失笑をかうことになるでしょう。
自由があるからといって、幸せになる保障はありません。しかし、自由のないものは、決して幸せになることができません。魂の自由がない国に、真の勇者は生まれません。真の勇者がいない国が発展するはずがありません。自公保連立政権がつづく限り、わが国はこの命題から逃れることはないでしょう。だから、私は自公連立に反対してきたし、いまも反対なのです。自公連立と戦うことを止めるときは、私が政治を止めるときです。
この小論はこれまで私が述べてきたことをコンパクトにまとめたものです。創価学会=公明党の私の見解に対する反論に若干の附言しました。この問題をより深く理解するためには、私の次の論文とインタビューをお読みいただければ幸いです。
[平成12年9月20日 記す] |