“ねじれ”論(その3)
08年07月01日
No.856
<永田町徒然草No.855からつづく>政治を考えるとき、私たちは具体的状況を具体的に分析しなければならない。現在わが国の現状は、衆議院と参議院の多数派が異なることは事実である。しかし、冒頭に触れたようにそんなことはこれまでもあったし、これからもあるであろう。正直いって大した問題ではないのだ。二院制をとっている国で両院の多数派が異なる例など珍しくない。
こと選挙について、私は極端な超現実主義者である。私は選挙に関して一切の見込みなど当てにしない。次の総選挙で野党が過半数を確保することは既定の事実ではない、と私は思っている。解散総選挙後も衆議院と参議院の多数派が異なることは十分あり得ると考えている。そのとき多くの論者は、また“ねじれ国会”といって国士風に慨嘆するのだろう。
国家が重要なことを大根を切るように次々と簡単に決めることは、果たしてそんなに良いことなのだろうか。いま騒がれている後期高齢者医療制度は、自公“合体”政権が衆参両院で圧倒的多数をもっていた時に強行採決によって決められた。ねじれ現象を憂える論者は、大事なことが決められないことを嘆いている。国家などそんなに信用できるものなのだろうか。自公“合体”政権など信用できるのだろうか。そもそもそれが問題なのではないか。
「興一利不若除一害(一利を興すは、一害を除くに若かず)」だ。中国の名宰相――耶律楚材の言である。私は現在においても政治の要諦だと思っている。特に自由主義の政治においては重要な要諦であると考える。自公“合体”政権が良かれといって行ったことなど、その大半は“害”以外の何物でもなかったではないか。
同じ“ねじれ”でも、自公“合体”政権が衆議院の3分の2を超える化け物のような議席をもっている現状は特別なのである。政治的には“特別なねじれ”なのである。だから私は注意を喚起する意味で、できるだけ“衆議院の3分の2を超える化け物のような議席”と表現するようにしているのだ。国民が両院の議員を選挙で選出するようになった戦後の歴史で、政権与党が憲法59条2項の再可決を行えるような議席をもったことはこれまでなかった。
現在の衆議院の任期満了まで、まだ1年余ある。自公“合体”政権は、衆議院で化け物のような議席をもっている間に重要なことをすべて決めておこうと決断したのではないか。福田首相のあの頼りない優柔不断なビヘイビアをみていると、誰もが“愚図なダメ首相”と感ずるであろう。自らの選挙ことを考えれば、多くの自民党議員はイライラしているであろう。早く何とかしなければならないと考えていると思うのだが、なぜ更迭の動きが出てこないのだろうか。
だが、騙されてはいけない。薄笑いを浮かべてエヘラエヘラしながら、重要なことをすべて決めておこうとしている福田首相を自公“合体”政権は支持しているのだ。いまわが国の権力を握っている勢力は、国会が本当に“ねじれ”ていない間に、重要なことをすべて決めておくことを狙っているのだ。そのど真ん中に己の利益を第一とする政治家・官僚たちががいる。創価学会・公明党がいる。自公“合体”体制の走狗となったマスコミがいる。野党は問責決議などで茶を濁している場合ではないのだ。解散総選挙に追い込んでいく使命と責任がある。<おわり>