永田町徒然草No.827の補足
08年06月04日
No.828
昨日の永田町徒然草No.827「ガソリン170円の責任者!?」で、「自由主義社会や市場経済社会は、原理原則を共通な準則とすることにより秩序を作ろうとする体制だからである」と書いた。ここのところがちょっと分からないというメールをいただいた。確かにちょっと分かり難い表現だった。少し補足する。
自由主義社会や市場経済社会は、政府が秩序に関するすべての規制を設けて国民にこれを強制する社会ではない。自由主義社会――経済の運営を市場原理に基づいて行う社会(以下、両者を含めて自由主義社会という)にも、秩序に関する規制がない訳ではない。否、いっぱいある。刑法はそれに違反した場合には刑罰をもって規制することを定めたものである。民法は経済活動の準則を定めている。これに従わないと経済的利益が受けられないことになる。
自由主義社会とそれ以外の政治体制のいちばんの違いは、自由主義社会は政府が秩序を作るためだからといって全てのことができるとしていない点である。誤解を恐れないで敢えていうと、規制や準則(規則や規定)に反しないことは原則として自由とする体制である。誤解を恐れないで逆の言い方をすると、秩序について政府が全責任を負わないとしている点がそれ以外の体制と著しく異なっている。
これを物価に関していうと、物価は市場原理によって決まるものであって、政府が強権で定めるものではないとする。だから物価が上がったからといって、政府は直ちに責任を負うものではない。無責任と言えば無責任だ。しかし、商売人がその売値を政府から強制されることも原則としてない。自由主義社会の経済は、そのような原理や原則を政府や経済人や国民が準則として共有し、それをお互いに遵守することにより理想の秩序を作ろうとしている。それは比喩的に、「神の見えざる手に委ねる」と表現される。
原油価格が高騰した。ほとんどの原油を輸入に頼っているわが国では、ガソリン価格は市場原理によって上下し、政府はそのことに、直ちには責任を負わないということになる。ガソリン価格が上がることは国民にとって決して好ましいことではない。できればガソリン価格は安ければ安いほど良い。だからといって政府ができもしないのに無理して抑制しようとすれば、そのリアクションは大きな弊害を招く。本来自由な市場によって形成されなければならない価格に政府が介入することを招くことである。価格の形成の原理原則がおかしくなってしまうのである。
自由主義社会の経済の原理原則が乱れると経済の秩序が壊れてくる。自律的に動いている秩序を破壊し、再び自律的に動く経済秩序を取り戻すことは容易ではない。“神の見えざる手によって形成される秩序”を破壊しこれを失うことの代償は大きい。秩序にはそれ自体に大きな経済的価値がある。ガソリン価格を市場原理以外の要因で政府が上昇させた罪は大きい。自公“合体”政権が再可決によりガソリン税の暫定税率を復活させた罪は、実に大きいのである。
これからわが国の物価は上昇するであろう。それは政府を悩ますことになろう。しかし、自公“合体”政権は物価上昇の責任から逃れることはできない。それは政治的理由でガソリン価格を上昇させたからである。道路特定財源の暫定税率の復活を主張した国土交通省や財務省や道路族や知事たちは、以上のようなことをまったく理解できないのである。自由主義社会において政府は経済に全責任をもっている訳ではない。しかし、政府は政治について全責任を負っている。国土交通省や財務省や道路族や知事たちの我侭(わがまま)を許した福田首相には全責任がある。国民は福田首相の責任を追及しなければならない。
それでは、また。