終戦記念日の思い出
07年08月15日
No.519
今日は終戦記念日である。東京の武道館で天皇皇后両陛下御臨席のもと、全国戦没者慰霊祭が行われる。この慰霊祭は、先の大戦で亡くなられたすべての戦没者が対象である。靖国神社に祭られるのは、軍人軍属だけである。国が行う慰霊祭であるから、政教分離の関係で特定の宗教形式では行われない。今年もまた靖国神社問題が議論されるであろうが、国は戦争で犠牲になられた方々をこのように追悼・慰霊していることをこの際ちゃんと押さえておかなければならない。
終戦記念日というと私には忘れられない思い出がある。ひとつは1988年(昭和63年)の終戦記念日である。当時癌のために相当衰弱されておられ、那須の御用邸で静養されておられた昭和天皇が病をおして全国戦没者慰霊祭に御臨席された。当時私は郵政政務次官だったのでその慰霊祭に出席していた。昭和天皇が文字通り死力を尽くしてその慰霊祭に御臨席されたことに深い感慨を抱いた。これが昭和天皇の全国戦没者慰霊祭への最後の御臨席となった。昭和天皇の戦争に対する想いは、非常のものがあったと推察する。この時期になると元気づく右翼反動の先の戦争に対する思いと昭和天皇のそれはまったく別のものであることだけは確かである。
もうひとつは、1995年(平成7年)の終戦記念日である。その年の7月に行われた参議院選挙の後、村山富市首相が河野洋平外務大臣(自民党総裁)に対して「自社さ連立政権の首相を諸般の事情で私が務めることになったが、これはやはり不自然である。第一党の総裁であるあなたがやはり首相を務めるべきである」といった。これに対して河野外務大臣は、「党に帰って協議したい」と答え、この席に同席していた武村正大蔵大臣が、「それはちょっと話が違う」と口を挟んだという。いずれにせよ、河野首相の話は沙汰止みになった。
平成7年の参議院選挙も実は大きな意味をもっていた。小選挙区比例代表並立制の衆議院選挙制度はすでに確定していた。自社さ政権の野党は共産党を除きこの選挙制度を睨み、平成6年12月に新進党を結成していた。その新進党が比例区で18議席獲得したのに対して、自民党は15議席しか獲れなかった。これは自民党にとっては衝撃的な結果だった。2年以内にこの新進党と戦わなければならないのである。この選挙に臨むにあたり、自民党が政権党の一員であることは大事だが、もし自民党総裁が首相であればそれにこしたことはない。多くの党員もそのことを望んでいた。
私は河野洋平氏と同じ宏池会に属していた。平成5年の宮沢喜一首相の退陣後、自民党の大勢は渡辺美智雄氏を総裁にする流れだった。私は「野党になった自民党の葬儀委員長を選ぼうというのならばそれでも構いませんが、もう一度自民党を建て直そうというのならば私は反対です」といって、他派閥の若手と一緒になって自民党が敗北した衆議院選挙のとき「これからはサンフレッチェでいく」といわれた河野洋平・橋本龍太郎・石原慎太郎の中から選ぶべきだと主張した。
宏池会の若手は橋本氏を担ぐから他派の若手は河野氏か石原氏を担いでくれと私は主張した。宏池会の若手は橋本氏を担ぐ動きを現に行ったが、河野氏や石原氏を担ごうという他派閥の若手の動きは結局起きなかった。河野氏も石原氏も、私が思っていたより若手に人気がなかったのである。そのままいったら橋本氏と渡辺氏の戦いになったであろう。そうなるとその結果は分からなかった。癌のためにどう考えても総裁の職責を果たすことが無理な渡辺氏をその職に付かせることには無理があった。こうなると大勢も変わり、各派の幹部も渡辺氏という訳に行かなくなった。河野洋平氏を担いだのは若手ではなく、実は派閥の親分衆なのである。河野氏が渡辺氏を破り総裁に就任した。
私は派閥も違うし、大先輩であるので橋本氏とは付き合いもなかった。しかし、橋本擁立の先頭にたったのは、戦略的意図からであった。新聞記者に橋本氏の住所を聞いて川崎二郎代議士と橋本氏とあって、私たちは勝手に擁立するので総裁選に立候補して欲しいと話し込んだ。私たち宏池会の若手は橋本擁立のために何度も会合をもった。河野氏が立候補することになり、橋本氏は立候補を辞退することになったが、わざわざ私たちにそれでいいかと了承を求める会合をもったほどだ。橋本氏は意外に生真面目なところがあるのである。
私は河野氏が総裁になったことは良かったと思っている。同じ派閥だし、リベラル肌の政治家だから何の恨みもなかった。自社さ政権ができたのも河野氏が総裁だったからできたと思っている。しかし、村山首相から「河野さん、やはりあなたが首相をやりなさい」といわれたのに、逡巡を示したことは残念で仕方なかった。私たちは、2年以内に生きるか死ぬかの選挙を控えているのである。総裁はそのシンボルであり、総指揮官である。戦いに勝つためには、何よりも気迫が必要である。私は、この一事で河野氏にはこの気迫が欠如していると感じたのである。
亀井静香代議士から電話がかかってきた。「白川、あの河野で選挙は戦えるか」という。「あれではダメだな。党の総裁というのは、野球でいえば4番バッターである。4番バッターだからといっていつもホームランを打てとはいわないが、ど真ん中にストライクのボールがきているのにバットを振らないような4番バッターでは話にならない」と私は答えた。「橋本は、総裁選に出る気はあるだろうか」「私はあると思うよ。俺が話してみる」と電話を切った。
偉そうな話だが、亀井氏は2年前の総裁選で私たちが橋本氏を担いだことを知っていた。また当時私は商工委員長で橋本通産大臣とは仕事柄しゅっちゅう一緒だった。私は通産大臣室で橋本氏に単刀直入に話した。「ど真ん中にストライクの球が来ているのに、バットを振らない総裁では今度の選挙は戦えません。ぜひ総裁選に立候補してくれませんか。私たちは全力で応援します」 橋本氏も例の一件には危惧を抱いていたようである。橋本氏の表情が変わった。
「真剣に考えます。白川さん、少し時間を下さい」
私はこれで決まったと思った。後は私たちが勝手に動けばいい。亀井氏と会って、各派の影響力のある若手を集めることにした。その最初の会合を夏休み中ではあるが、政治家が集まる終戦記念日にしたのである。各派の戦闘力のある若手10人くらいが、慰霊祭が行われた後に集まった。そこで「橋本総裁を実現する会」が結成され、10日足らずで100名くらいの若手を結集した。橋本氏が立候補声明をするのにあまり時間や労力は要らなかった。河野氏は立候補をしないことになり、小泉氏が立候補することになった。
河野氏が犯したミスは、今回の安倍首相の失態に比べれば問題にならない小さいものである。それでも、戦う政党にとっては見過されることではなかったのである。自民党はもう戦う気がない政党になったのだろうか? 反省すべき点を反省すれば、国民の怒りは収まるとでも思っているのだろうか? いくら党・内閣の改造をしてみたところで、腐ったひん曲がった柱を取り替えないで、国民の支持が得られると本気で思っているのだろうか? 政治は一瞬の内に動くときは動くのである。志をもった政治家が集まれば、そういうことが起こるのである。いまの自民党や公明党の政治家は、一山幾らのバナナみたいなものである。こんな政治家集団に“改革”などできる筈がない。
それでは、また明日。